雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

神武会の会合

2017-08-31 07:08:39 | 発想$感想

 

★ 昨日は垂水の増田屋本店で、神武会の 明石地区の久しぶりの会合だった。

 

     

 

  昭和32年、川崎航空機工業に入社した人たちの同期会である。

 昭和32年、1957年は、それまでの不景気・就職難が一気に吹き飛んで、『神武景気』と言われた年だったので、それに因んで『神武会』と名付けられた。

 昭和27年に、戦後の中断から事業再開された川崎航空機工業が、初めて大量の定期採用を取ったそんな年である。

大学卒だけで明石・岐阜・本社を合わせて30人ぐらいの採用ではなかったかと思う。

それから丁度60年も経つとメンバーも半減して、今回集まったのは明石地区では5人だったが、出てくる人たちは結構元気なのである

 

  こんなメンバーが集まった。

 

    

  

  回転寿司ではない寿司を、久しぶりに食ったがやはり それなりに旨かった。

 

  

 

  

  

 

 山邊 昂 さん、 オランダの部品会社や国内の西日本販売などの経営もやられてたので、ご存じの方も多いだろう。

 旧制高校にも行かれてたので、私よりは2つほど年配なのだが、お元気である。

趣味で書かれている絵の年季も60年も経っているので、山邉画伯といっても大丈夫なほどのレベルなのである。

私は入社試験でたまたま隣の席だったので、私の書けない回答をいっぱい書いておられたので、 山邊さんには、私はずっと一目置いているのである

 

その左、鈴木啓司さん、当時は珍しかった早稲田の文系と理科系を一緒にしたような学部を出て、入社後の配属も私の隣の管理部にいたので、その頃から親しく付き合った仲間である。

浜脇洋二さんが、二輪のアメリカ市場開拓されてたスタート時点では、同じ部門だったのでそのキャッチャー的な役割をしていた。

最近は絵も描いている才人である。

 

  

   

 

左手にいるのは、藤川哲二さん、個性が強くて部下にもビックリするような怒り方をする技術屋さんだが、私は結構ウマが合って、藤川さんに一番ズケズケ言ってるのは、私かも知れない。

カワサキのジェットスキーや、スノーモービルは、彼の作だと言っていい。

稲村暁一さんや大前太さんなどと言うカワサキ二輪の有名人たちが藤川さんの府大の後輩なので、藤川さんに掛るとボロカスに言われたりする。

私は、ジェットスキーをカワサキ本来の事業にすべく、ジェットスキーを明石工場で唯一乗ることができた福井昇くんを発動機から貰い受けに行ったのだが、たまたま藤川さんの部下だったので、気分よく出してくれたのである。そういう意味では、ジェットスキーの産みと育ての親だと言ってもいい藤川さんなのである

Facebook も登録だけはしているので、このように書いておくと読むだけは読んでくれるので、私のホンネのお礼と思って欲しい

 

一番奥に座っているのが安川美樹さん、今回の会合の監事役である。 

安川さんが、こんなにマメだとは思わなかった。 化繊機械部門の技術屋さんなので仕事の上では殆ど関係がなかったのだが、入社してすぐ、スイスのどこかの社海外出向して、びっくりした。

いまと違って、海外に日本人が出掛けるなど考えられない頃である。

多分優秀だったのだろうと思っていたが、同期で一番の成績だったとか、山邉か鈴木が言っていた。 さもありなんと思うような出来事だったのである。

 

★ 昔話はなかなか楽しい

 当時の川崎航空機工業の社風が自由闊達で最高だったのである。

 歴史のある川崎重工業の『重たさ』とは一風変わった良さなのである。

 そんな社風から生まれた二輪車・ジェットスキー・ロボットなどが、結構今の川崎重工業を支えているのである

 

 こんな動画に纏めてみた。

            https://www.youtube.com/watch?v=I8zwLKsDrw0

 

  

 

  その動画の中から切り取った画面である。

 

  

 

 

   

 

  最後の『神武会』などにならぬように、皆さんまだまだ頑張って欲しいと思っている。

 

 ちょっと余分の話だが、

 三木から車で行ったのだが、大体の場所は解ってはいたのだが、『カーナビ』を使ったのがイケなかった。

 知らない道を走ってて、『右折』というので右折したら、方向はあっていたのだが、淡路大橋に行く高速道路に入ってしまって降りられないのである。 淡路大橋を往復したのだが、高速道路は流石に速くて、12時の集合に3分遅れただけで、到着した。

 『カーナビ』も注意しないといけない。

 

  

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コメントの返信   楠見幸信

2017-08-30 08:52:20 | 発想$感想

★ ちょっと旧い話だが、2008年に 『楠見幸信』というこんなブログを書いている。

   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/b372b94c90a1dd7ba72d31a1d471f5ae

 

 そんなブログにこんなコメントを昨日頂いた。

  初めまして (末兼友美)2017-08-29 23:50:30こんにちは。楠見幸信を検索していたら、ヒットしたので飛んで来ました。私は楠見幸信さんの、奥さんの末の妹の娘になります。母は昔「金太郎」というあだ名で呼ばれており、叔母の渋谷の家によく行っていた様な事を聞いたことがあるので、もしかしたらご存知かもしれませんね。
幸信さんの2人の娘さんと私は従姉妹になります。今でも会う事があります。
…突然のコメント失礼いたしました。ついついネットで見つけた繋がりに、嬉しくなってしまいました。
私からするとかなりの大先輩とお見受けしますが、ブログをやられていて、ネットを使いこなしていらっしゃる。凄いですねー。

 

 最近のネットの世界の『検索』は素晴らしい。いろんなことが解るのである。

 

    

 

 これは貴重な写真だが、真ん中が父、抱かれているのが私、一番右が楠見幸信でその横が先妻さんである。

 私の祖母も写っている。明石市細工町の伯父(一番左廊下で立っている)宅での写真である。

 

上にあげたブログ「楠見幸信」は、母の兄で私の伯父に当たるのだが、子供の頃の朝鮮京城にいたころは先妻を亡くして独身だったので、我が家に一緒に住んでいた時期もある。

終戦間際に再婚したのだが、コメントを頂いた末兼友美さんは、その奥さん楠見満利子さん(字が違っているかも)の妹さんの子供さんのようである。その奥さんの実家も終戦直後は京城にあったので何回か遊びに行ったりした。

 

楠見幸信には私はいろいろお世話になった。高校3年の時に父を亡くし私の大学時代は母が独りで5人の子供の家庭を支えたのだが、当時いろいろと面倒を見てくれたのが楠見幸信なのである。

結構な有名人なのだが、ネットのない時代に亡くなってしまったので、私は世話にもなったし、何か足跡みたいなものを残しておこうとブログにアップしたのである。

楠見幸信、岡山の出身で岡山一中から甲子園にも出場している。

当時の東京六大学の慶応野球部に入部し、宮武・山下時代の黄金時代のセンターとして活躍し、当時のアメリカチームとの全日本のメンバーにも選ばれている。

戦後プロ野球が再開して国鉄スワローズ(今のヤクルトの前身)が出来た時には、初代の国鉄スワローズの総監督に就任しているのである。

息子や娘、孫たちがスポーツが得意なのは、こんな楠見幸信のDNAを幾らかでも受け継いでいるのだと思っている。

 

当時の6大学のことを綴ったこんな記事も見つけたので、ブログにアップしたりした。

 

六大学野球の黄金時代
 昭和6年と9年の米大リーグ選抜チームの招待は、日本中の野球ファンを熱狂させました。
昭和6年の日本選抜チームは全国のファン投票により38人が選ばれ、11人の選考委員によって35人が選考されました。全選手が東京六大学の現役、OB選手でした。

この6年組の選手のなかで後にプロ野球選手、または監督、コーチとなる人をここに記せば、昭和初期の野球が一目瞭然となりますのでご覧にいれましょう。
 
○投 手 宮武三郎(高松中ー慶大OBー阪急)、 若林忠志(本牧中ー法大ー阪神)、渡辺大陸(神戸二中ー明大OBー大洋)
 ○捕 手 小川年安(広陵中ー慶大ー阪神)、井野川利春(関西中ー明大ー阪急)
 ○一塁手 山下実(神港商ー慶大ー阪急)、松木謙次郎(敦賀中ー明大ー阪神)
 ○二塁手 三原修(高松中ー早大ー巨人)、横沢三郎(荏原中ー明大OBーセネタース)
 ○三塁手 水原茂(高松商ー慶大ー巨人)
 ○遊撃手 苅田久徳(本牧中ー法大ー巨人)
 ○左翼手 井川喜代一(高松中ー慶大ー東急)
 ○中堅手 桝嘉一(同志社中ー明大ー名古屋)、田部武雄(広陵中ー明大ー巨人)楠見幸信(岡山一中ー慶大ー国鉄)
 ○右翼手 杉田屋守(柳井中ー早大ーイーグルス)、永井武雄(神港中ー慶大OBー巨人)
 ○ピンチヒッター 森茂雄(松山商ー早大OBー阪神)
 
当時の都市対抗野球の人気のほどがわかります。
 なお、準決勝で東京倶楽部に4-3で敗れた全大宮(東京鉄道局)の監督は翌年巨人軍監督となる藤本定義(松山商ー早大)、エースは藤本と共に巨人入りする前川八郎(神港中ー国学院大)、1番中堅は後に国鉄スワローズの土台を作る楠見幸信(岡山一中ー慶応ー東鉄)でした。

★ここに名前が載っている人で、私が何らかの関係があったのは、山下実さん、神戸一中時代に何度かコーチに来られて指導を受けた。中学2年の頃である。大きな人だと思った。
前川八郎さんは兵庫県立工業の監督をされていて、私の明石高校時代しょっちゅう試合などや練習でもお会いした。楠見のことをよく言ってっておられたのだが、その時はなぜご存じなのかもよく解らなかったのである。

国鉄時代、金田正一と根来のバッテリーは特に伯父が面倒を見たようで、渋谷の伯父宅にもしょっちゅう遊びに来ていたようである。

私が高校時代、阪神との試合を観に行ったとき、甲子園の入り口まで、伯父に頼まれて家族優待券を持ってきてくれたのは、入団したばかりの新人の金田正一だったのである。私より1年上なのだが、めちゃ背が高いなとその時思ったのを覚えている。

 根来は会ったことはないが、根来の奥さんとはお会いしたことがある。楠見幸信は次男だが末弟の楠見昭三は昭和3年生まれで叔父だが私とあまり年も違わない。

その楠見昭三の奥さんは、あの細川護煕さん夫人細川 佳代子さんの3人姉妹の長女で、もう一人が根来の奥さんなのである。多分伯父の渋谷宅でも出会ったのではないかと思っている。

楠見昭三夫妻が母を訪ねてこられた時の神戸で会食をしたのだが、その時確かオリックスの二軍の監督かコーチを根来さんがされてたので、お見えになったのだと思う。

名前は忘れてしまったが、楠見幸信の娘さんお二人には、東京モーターショーの時に何度もアルバイトで手伝って貰ったりした。当時は東京出張時、渋谷の伯父宅に泊めて貰っていたので、よく知っているのだが、名前を忘れてしまうのはダメだなと思っている。

このブログ、昨日コメントを頂いた 末兼友美さんへの返信のコメントの積りで書いている。

 

 

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川崎航空機時代

2017-08-30 06:17:29 | カワサキワールド

★ 田崎さんが昨日こんな写真を送ってくれた。

 

古い写真です。 皆で仲良くゴルフを楽しんでいました。(常務から平社員まで一緒です。)

柿沢さん、 中村治道さん、土井さん、清水屋さん、壱岐さん、田中 誠さん、谷岡さん、岩城さん、山田エンメイさん、塚本さん、井出さん、などの顔もあります。

ちょっとピントが悪い写真ですが、拡大して、知り合いを探して見て下さい。

 

 こんなコメントが添えられているのだが、

 

    

 

   

 

   

 

  常務から平社員まで一緒です。

  とコメントされているが、田崎さんも未だ多分平社員の頃かも知れない。

 当時の川崎航空機は、上から下までそんなにムツカシイ関係ではなく、非常に自由な雰囲気があった。

 私は、昭和32年田崎さんは昭和33年(1958)の入社なのだが、まだその頃はアメリカ空軍の東洋で唯一のジェットエンジンオーバーホール工場があって、そんな時代に事務所にカフテリアがあったり、IBM室があったりしたし、IBM室はエアコン完備だったのである。

当時そんなことは日本では考えられなかった時代なのである。IBMという会社はまだ日本にはなかったし、IBMが日本に入ってきたのは東京オリンピック前後のことだから、その10年も前の時代である。

 

 川崎航空機工業は 戦前からある企業だが、軍事産業ということで戦後長い中断があり、それぞれの部門が高槻や、播州や岐阜などそれぞれで分散してやっていたものが、昭和27年に再開されて、いろんなところに分散していた人たちが集まって川崎航空機工業となったのである。

 昭和32年当時は、神戸に本社があり、岐阜と明石に工場があって、元々明石はエンジン工場、岐阜は機体工場だったことから、明石工場ではジェットエンジンや、発動機のエンジン、歯車ミッションなどの生産が主体で、いまのロボットなども基礎研究課でやったりしていたのである。岐阜はバスボデーなどやっていた。

 旧い会社だが、みんなが集まって新しく発足したので、会社自体の雰囲気も非常に新しかったし、特にジェット部門はアメリカ流の生産管理システムや、IBMシステムがあって非常に進んでいたし、アメリカ軍人もいたので、何となくアメリカ的な自由な雰囲気もあったのだろうと思う。

 私が入社した昭和32年ごろは、財産課に配属されたのだが、財産管理台帳も碌に揃っていなかったし、会社も未だ苦しかったのだろう。ジェットエンジン工場の財産物件は、普通は1万円以上が財産物件なのだが、新設工場ということで300円以上のものをすべて財産物件に計上したものだから、すだれやバケツの類まで財産物件に計上されていて、私はその『工具器具備品』の担当をしたものだから、償却計算をする量は圧倒的に多く、1年中、手まわしのタイガー計算機を回して償却計算をしていたのである。

 そんな償却計算の機械化が出来ないかと、入社2年目IBMでの償却計算システムを検討し、岐阜も本社も巻き込んでの機械化をやったのだが、新入社員がそんことができる自由な雰囲気があって、まだ岐阜と明石でいろんなことが統一されてない時期に、償却計算だけが『全社統一』で完成したのである。多分日本で初めての『IBMによる償却計算』だったはずである。

 1年以上掛ったが、償却計算の機械化が出来ると財産課で償却計算する人員が要らなくなって、私は昭和36年に初めてできた単車営業部門に異動することになったのである。

 

★写真に写っている時期は、多分 1970年初頭だろう。

その頃、日本にもゴルフブームが始まって、一斉にゴルフをする人ができて、常務から平社員まで一斉にゴルフを始めたと言ってもいい。 みんなが新人だから、先輩・後輩なく一緒に楽しんでいたのだと思う。

このころは、私はまだ営業の第1線にいて、ゴルフなど始めていない。現場で一生懸命動いてるのに、明石では『ゴルフなどしやがって』と文句を言ってた頃である。今は、Z1会のゴルフ会の会長をされている大槻幸雄さんや、技術部長をされてた高橋鐵郎さんなども、文句を言われる立場で『ゴルフのクラブ狩り』をやらねばならないなどと言ってた時代だった。

そんなことで、私がゴルフを始めたのは40代半ばだし、高橋さんや大槻さんは50代になってからだと思う。

 

★それにしても、ここに写っているメンバーは懐かしい。

 カワサキの二輪事業の創世期を支えた人たちばかりである。

 私が二輪営業にきたころの直接の上司が壱岐敏さんだし、田崎さんの仰る中村治道さんが、あの『青野ヶ原のモトクロス』の旗を振られたのである。

 田崎さんも、Jet から単車にやってきて、桑畑さんの下で、JET流の最先端の生産管理システムや、部品在庫管理システムなど、日本の最先端のノウハウを駆使して、カワサキの単車事業のシステム構築に尽くされているのである。このメンバーではJETの総大将とも言える苧野豊秋さんもいるし、KMCの初代社長の岩城良三さんもおられる。当時の技術部長で創成期のレースを一緒にやった山田熙明さんもおられる。

 

私のカワサキの二輪事業ではいろんな部署を経験しているがその異動の指示はみんなこの写真に写っている方の指示なのである。

 ● 初めての営業仙台事務所を創れと指示されたのは 岩城良三さん。 (1966)

 ● その東北から、大阪に異動した指示は、田中誠さん (1970)

 ● その後カワ販本社に戻ったのは、田中誠社長と当時の苧野専務の指示 (1973)

 ● その後、川重に戻り、アメリカのダンピング対策でカワ販常務に動いた時の事業本部長が塚本碽春さん (1978)

 ● 単車事業本部の危機と言われた時期、企画部長に戻れと指示されたのが当時の山田熙明専務 (1981)

 ● それ以降の私の人事は、それまでずっと一緒に動いてきた高橋鐵郎さんの人事なのである。 (1987~)

 

★ こうしてみると、カワサキの二輪事業は、かっての川崎航空機のメンバーたちが創り上げた事業だなとつくづくそう思う。

そして、結構早い時期から、田崎さんとは『コンビを組んで』といってもいいほど長くいろんなことをやってきたなと思っている。 別に、そんなに『気が合った』かどうかは別にして、二輪事業では間違いなくお互いが『認めあいながら』やってきたなと思っている。

 そして、田崎さん、4年間ほど体調悪くて臥せてたのに、今年の1月『奇跡的に復活して』私とのネットでのコンビもまた『復活した』そんな感じなのである。

 田崎さんとはもう50年以上のお付き合いで、川崎重工業の社長までされた田崎さんだが、幸いにして年次は私の方が1年先輩なので、田崎さんもそのように接してくださっているのである。

 そういう意味では、独特の「ご縁がある」のだと思う。

 川崎航空機時代、お互いその頃のままの関係が今でも続いている。

 

 

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ホンダが航空機産業の文化を変える

2017-08-29 07:47:50 | 発想$感想

★つい先日、『ホンダ小型ジェット機』に関連して、私自身の感想を書いたら、Facebook もツイッターでも大反響だった。

     http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4f0388727f57c47b35f451b213a6aa81

 

そのブログに関して、田崎さんからも、こんなメールを頂いたのだが、二輪事業については特別の想いも持っておられるようである。

ホンダ小型ジェット機』についてもよくご存じだし、量販事業につきものの『シェア競争』についても独自の意見をお持ちなのである。二輪事業をあまりご存じないトップが『頑張れと鞭をあてるのは無知に通じる』とその弊害を言っておられるのは、『なかなかの見識』だなと思っている。

受注産業ではない二輪事業は、TOPに『頑張れ』と言われて実力以上に『頑張り過ぎると』即『大赤字』になるのだが、何度そんな『人災』による経営危機を経験したことか。

二輪事業は、浜松出身の独特の企業が競っている業界で、川崎重工業の主体である受注産業とは、全く異なる一種独特のものなのである

田崎さんはこのようなメールを私に送ってくれたのである。

 

古谷さん

貴方のブログで、ホンダジェットについてのコメントを拝見しました。

私の「大地の会」の仲間、ホンダの元社長 吉野さんが推進したプロジェクトで、いろいろ話を聞いています。他のホンダ社長は人型ロボット、アシモを推進、社長自らがプロジェクトのリーダーを務める、ホンダイズムの面目躍如といったところです。我々はこんな企業と闘っている事を肝に銘じる必要があります。シェアーでホンダを抜こうなどと計画するのは無謀です。

たまたまラッキーで、シェアーが取れても、必ず取り返されます。シェアーを目標にしてはならない!これも私の信念です。(ゼファー、もZ-1 も 相手がいなかったラッキー商品でした。) 後輩に昔こうだったから、このぐらいのシェアーを取れ!とけしかけるのは破滅への道を進めという事になります。これ位のシェアーがとれました、という報告に、それは良かったな、と軽く応じるくらいの懐がいります。「鞭は無知に通じる」と批判したら、後継者(子供)は寄り付かなくなりました。

ホンダジェットは画期的な小型機で、ジェットエンジンも同時に開発し、上昇率、速度、燃費、は圧倒的な性能のようです。航空機メーカーで、エンジンまでも開発製造するメーカーは他に無いでしょう。

短時間で30,000~40,000フィートまで上昇し、空いているゾーンを高速、低燃費で飛行する、従来の小型機とは、まったく違う航空機で、現在の他の小型機の所有者が、早く乗り換えたいと注文が殺到し、懸命に生産能力の向上を図っているが、バックオーダー解消には3年かかると言っています。・・・・

 

       

 もう一度、この小型機のことを取り上げようと思ったのは、

東洋経済の『ホンダが航空機産業の文化を変える』というホンダエアクラフトカンパニーの藤野社長のインタビュー記事があって、その中で『ほかと同じような飛行機を造って単にシェアを奪い合うのでは成長が見込めない

 と 田崎さんと同じようなことを語っておられるからである。

 

    

     

   

  詳しくお読みになりたい方は、こちらをクリックして下さい。

 

   http://toyokeizai.net/articles/-/68952

 

 

★戦後、本田宗一郎さんは、50ccのカブという全く差別化された商品を世に出し、エンジン付きのバイクなのに技術力も、資金力もない何万店もの自転車屋さんをネットワーク化し『委託販売』という仕組みを持ち込んで、日本の二輪事業に新しい風を吹かせたのである

そんな本田技研の伝統みたいなものが、この航空機事業には受け継がれているのである。

浜松の一中小企業が『世界のホンダ』になったように、日本の航空機業界でも三菱重工や川崎重工の航空機部門をしり目に、ホントに『ひょっとしたら』航空機産業で日本のトップを走る可能性もあるのではと思ったりするのである。

 

 この長いインタビュー記事の中で、私が注目した部分を列記してみる。

● ホンダが航空機の研究開発を始めたのは1986年。実に29年をかけて、市場参入というスタートラインに立とうとしている。ホンダジェットの”生みの親”とされるの藤野道格社長(54)入社3年目以来、一貫して航空分野に取り組み、困難な道を切り開いてきた。

● 同じような飛行機を造って単にシェアを奪い合うのでは成長が見込めない。新しいジェットのコンセプトでいろんな人が使い始めれば、市場のパイ自体が広がると思う。そして新しい産業をつくっていく。もっとパイロットが必要になり、部品メーカーも広がるだろうし、大きなビジョンの中の一つにホンダジェットがあればいい。

● 必ずしも受注数が多いから成功するわけでもない。当初の予定より何倍も多い受注を頂いているが、受注を1000機、2000機にする必要はまったくないと思っている。確実に立ち上げて、一定数を毎年きちんと売っていけば、次につながるだろう。

● 実際、われわれのように、飛行機を納入する前にサービスセンターを立ち上げた例はあまりない。北米全体にディーラーネットワークを張り巡らせて、1時間半以内に必ずサービスを受けられる体制にしているのは、他の新規参入メーカーとはまったく違う。短期間に強いディーラーネットワークを構築したのは、ほかのメーカーから見ると脅威だろう。

●航空機産業は成熟産業で、新しい技術を生み出すためには、各技術分野での高い専門性、深い知識と経験が必要になる。また、安全や信頼性、認定など、他の産業と比べても最も高い基準が要求される産業分野でもあり、世界で結果を出すことは容易ではない。しかし、”高度な頭脳”が要求されるこの産業こそ日本人が究めていかなければならない分野だと思う。現在はプロスポーツの分野でも多くの日本人が海外に出ていくようになった。航空機産業でも若い有能な方たちが日本の枠にとどまることなく、世界に挑戦し、世界の一流の人たちと競い合い、活躍していくことを願っています。

  

創成期のホンダが、市場のパイを大きくすべく、モペット全盛期に世界GPに参入、鈴鹿サーキットを創った壮大な夢の流れと同じコンセプトである。ものを開発し、単に作るというメーカーの枠を超えて、末端のユーザーを見据えたマーケッテングマインドがここにも見える。

差別化戦略が明確で、視野が広く、基本コンセプトが確りしているのは、『サラリーマン経営者の枠』を超えている。

航空機事業が官からの『受注事業』だと考えている 所謂『大企業の発想』と全然違う次元で捉えられていて、まさに『二輪事業と同じような民需量産部門』として発想されているところに共感する。

デーラーネットワークや、サービスネットワーク構想などは、『二輪事業がベース』にある本田技研の基本的な発想なのである。

4輪と2輪は、同じ自動車工業会の中にいるのだが、その生い立ちも販売の仕組みも、全く違う事業なのである。

4輪の販売は、元々セールスが売り歩いたところからスタートしているし、二輪販売は元来、オートバイ屋さんのネットワークで売る『ネットワークシステム販売』なのである。

 本田技研は、新しい航空機事業を二輪事業のような『ネット販売システム』や『部品サービス・ネットワーク』で展開しようとしているのである。

 

       

 

航空機業界への参入は本田宗一郎さんの夢だった』という。

 そんな夢が、50年経った今、実現しようとしているのである。

 エンジンと機体を同一メーカーで開発生産することは画期的なことである。

 エンジンは機体メーカーへの外販も考えている。

 

    

 

 まさに50年前、日本の二輪業界にホンダさんが入ってきたような当時を思い起こさずにはいられない。

あの時も、三菱重工も、富士重も、トーハツなどの大企業が、浜松出身の二輪事業の競争に付いて行けずに脱落してしまったのだが、当時、米空軍のジェットエンジンなどやっていて、その生産構造システムなど先進的で、会社も若く結構アタマが柔らかかった川崎航空機だけが、何とか残っていったのである。

そう言えば、高橋鐵郎さんも、田崎雅元さんも JET出身だし、私は入社2年目から当時は日本にはなかった米空軍のIBMでの償却システムなどを創ったりしていて、みんなちょっと変わっていたのである。

三菱重工業の子会社・三菱航空機が手がける国産ジェット旅客機「MRJ」は開発が難航している』と言われている。

ホンダが航空機産業の文化を変える!』と言っている。

 

今回も、三菱重工業は、置いて行かれることになるのだろうか?

川崎重工の航空機事業本部は、どんな感想をお持ちなのだろうか?

 

 

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隔世遺伝?

2017-08-28 06:34:46 | 発想$感想

★『遺伝』というのは間違いなくあって、みんなな何となく親に似ているところがあるものだが、男の子は母親に似るなどと言うが、確かに息子と娘がいるのだが、性格的には間違いなく息子は家内に似て、娘は私に似ているような気がする。

 

自分自身の性格を改めて、自分自身で振り返ってみると

● 何事にも、あまりくよくよしない。性格はいい加減で楽天的である。

● 自分のやりたいことしかやらないが、やりたいことには結構熱中する。

● やりたいことはあるが、地位などに拘って『何かになりたい』とは思わない。

 

  

★男ばかりだが、息子の方に1人。娘の方に3人の孫がいるのだが、隔世遺伝などと言うが、『私に似ているところ』があるかどうかは、息子の時よりも、結構気になるから不思議である。

息子の方の孫も、娘の方の孫もそれぞれ一番上は、大学を卒業したり、来春卒業予定なのでもう成人なのだが、何となく『私に似ている』ところがあってオモシロい。

二人とも『自分のやりたいこと』が結構はっきりしていて、それをやるのに夢中なのである

 

息子の方の孫 古谷仁は、大学を5年掛かって卒業したのに、いまは就職もせずに『SEASIDE JACK』というこんなグループを主宰している。

       https://twitter.com/seaside_jack

 

  

 

慶応大学のダンス部のOBたちや現役と一緒にいろいろとダンスイベントをやってるらしい。

昨年夏に立ち上げて、今度の9月8日がその3回目らしい。

劇場を借り切って入場料3500円、時間は23時~5時半となってるから、夜中中踊っているのだろうか?

これは、ツイッターの情報発信だが、残り21枚、当日売りはないというので満席になるということだろうか?

 

 

   

 

  こんな仲間たちらしい。

 

   

 

 

 

  こんなダンスを踊っている。

  よく解らぬが、『好きこそものの上手なれ』ということで結構なレベルではあるようだ。

 

       https://www.youtube.com/watch?v=CgmfoQ-aQGc

         

 

 

 これが昨年暮れ前回やった時の『感謝の言葉』

   http://jin012611960.wixsite.com/landanscape/single-post/2017/02/14/SEASIDE-JACK-vol2-%E6%84%9F%E8%AC%9D%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%80%81%E3%81%A8%E3%80%82

   

 その『感謝の言葉』からの抜粋である。

・・・今回、「湘南らしいFRESHさがあって、気持ち良かった」というお言葉をたくさんいただきました◎

都内にはない空気感らしいのですが、僕にはあまりわからないんですよね。僕の周りの大好きな人たちに来ていただいた「のみ」なのですもの。

ここからわかるのは、なにか都内というメジャーシーン(というより日本ブランドの強いカナメ的な領域)では作ることができないものの、だけど僕ら人には大切なものが湘南シーンでは作ることができたのかもしれません。

そういう意味では、湘南のアンダーグラウンド感は堅実に存在する可能性があるな、と。

勝手に、湘南にあって都内にはないような、人々に大切なものを、僕は、「潮風のグルーブ」「シーサイドの自由さ」「時計の存在しない湘南」というキーファクターで語っています。(といいつつ、それらは具体的な言葉でも語れないですし、なんなら湘南ってどこ?ってなったらまた、いろいろとあれですが)

ただただ、その言葉をいただいけてうれしくてたまらんでした。

 湘南、とりわけ湘南台は、僕の唯一の地元。   皆に来てもらうだけでウレシい

 

 何を言ってるのか、よく解らないところもあるのだが、『これが若さかな』とも思う。

 私たちの時代と違って、食うぐらいの職なら何となくあるようだ。

 そんなことをしながら、自分のやりたいことをやる。

 

      

 

こんな石川初先生の卒論を1年掛かって世界中を歩いて、纏めたようだが、卒業した今も石川初先生の仕事を手伝ったりもしてるとか言っていた。

 その卒論に使った『世界中のまちで踊ってきた』動画である。

 

 こんなに『やりたいこと』を思い通りにやって生きてる人生はいいなと思う。

 そんなことのできる時代に生きているのである。

 

娘の方の孫の長男、門野力也も、いま慶応の4回生で来年は普通なら卒業なのだが、卒業するのかどうか?

夏休みに遊びに来ていたのだが、何かまだやりたいことが『いっぱいある』とか言っていた。

若い奴はいいな

 

孫たちは、『隔世遺伝で私に似てるだけ??』なのかも知れないのである。

私も、結構『自分のやりたいことをやりたいようにやって生きてこれた』ので幸せだったと思っている。

 

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朝日・毎日の報道の姿勢への疑問

2017-08-27 07:23:23 | 発想$感想

★「ホントだろうか?」と思うような産経新聞の記事である。

我が家では子供の頃からずっと朝日新聞をとっていて、今更変えるつもりもないが、政治関連記事は、極端に偏向していてダメだと思っているし、読んでも全然信用していない。 

かっては、日本一の新聞だったのに、こんなことだから読売に抜かれてしまうのだと思う

 

「とにかく安倍をたたけ」の大号令 新聞業界の「不都合な真実」 

いま、社内は安倍を叩くためなら、どんなことでもするという空気になっている」。作家の門田隆将さんは最近、知り合いの毎日新聞記者からこう聞いたと、26日発売の月刊誌『Hanada』で明かしている。朝日新聞記者にも同様のことを言われたという。

 ▼学校法人「加計学園」の獣医学部新設問題をめぐり、内閣支持率が下落した安倍内閣を、この機に打倒しようと盛り上がっているということか。門田さんはそうした新聞を「倒閣運動のビラ」と呼んでいた。

 ▼実は小欄もかつて知人の東京新聞記者から、こんな打ち明け話を聞いたことがある。「上司に『安倍なんか取材しなくていいから、とにかくたたけ』と号令された」。同僚記者も、別の東京新聞記者から同趣旨のことを聞いている。

 ▼悲しいかな、これらのエピソードは新聞業界の「不都合な真実」を示す。事実をありのままに伝えることよりも、自分たちの主義・主張や好みを広めることに熱心な習性があるのは否めない。「権力の監視」を隠れみのにしつつ、時に暴走を始める。

 ▼マスコミは、行政・立法・司法の三権と並ぶ「第四の権力」とも呼ばれる。政治家からは、真顔で「本当は第一の権力だろう」と指摘されることも多い。ならば、自制心と自浄作用を失ったマスコミ権力は誰が監視するのか。国民の常識と良識が働き、一定の歯止めとなることを期待するしかない。

 

同業者の産経新聞にこんなことを言われてはダメである。

 

★昨今の新聞やテレビ報道は、『ちょっと行きすぎかな』と思う。特に朝日と毎日がひどすぎると思う。 どうしてこうなってしまったのか?だから、こんな『視聴者の会』もできるし、

 

 

  

結構、安倍さん支持の保守層がネットの世界では頑張っているのである。リツイート』が4191 や1183件 もなされているので、これは新聞報道と同等以上拡散する

 

  

 

仮に私が『リツイート』すると読む読まぬは別にして、それだけでも60万人に向かて発信されるのである。

 新聞も現在のネットの力を『見落とさない』ほうがいい。

 

 

★『ニコニコ ニュース』がどんなものか解っていないのだが、8月25日の内閣支持率が、こんな数値になっていて、これはコレでちょっとびっくりした。

  

 

 

ニコニコ ニュース』なるものを 調べてみた。

ニコニコニュースは「エンタメから政治まで、オリジナル記事他社提供記事を幅広く掲載」したサービスである。・・・読者の半数は高校生以下のようで、・・・・約70の配信元からニュース提供を受ける一方で、オリジナル記事を製作し・・・オリジナルコンテンツはニコニコ動画やニコニコ生放送の番組内容を要約した物が多いようである。

編集長は朝日新聞の元記者だった亀松太郎で・・・日本インターネット報道協会の会員であり、中央官庁の記者会見福島第一原子力発電所の現場取材を行うこともある。

ニコニコニュースが始まったのは2007年10月で・・・ニコニコ動画は2008年9月に発足した麻生内閣の頃から、政治コンテンツを充実し始めた。・・・ニコニコ動画は「ニコ割アンケート」を開発してネット世論調査を行い、結果を番組内やニコニコニュースで発表するようになった。

 

 ざっとこんな感じである。

 編輯長が元朝日新聞記者だという。

ネットの世論調査』だから若い人が多いのかも知れぬが、それにしても支持率は圧倒的で、ホントはこれくらいが『普通ではないか』と思う。

 

 

  

 政党支持率が、いつもこんな感じで、自民党以外は殆ど支持する人がいないと言ってもいいし、私も無党派層だが、その中の大半は自民党や安倍政権を支持するのが『常識的』だと思う。

 幾ら朝日や毎日が、『安倍たたき』をやってみても、安倍内閣に代わるところが今のところ見当たらないし、年内選挙があるかも知れないと言われているが、9月に民進党はどうなるのか?

今のままでもダメだし、離党者や小池新党などともう一度再編があった方がいいような気がする。

 

 朝日新聞も毎日も、もう少し全体の状況を読んで、日本がよくなる方向を目指さないと、単に「安倍叩き」などやっていても決して『大勢になったり』しないことは明らかなのだから、いい加減にしないとどんどんおかしな方向に行ってしまうと思う。

昔と違って、新聞やテレビだけでなく、ネット情報から『自分でいろんな情報が読み取れる時代』なのだから、あまり極端なことはしないほうがいい。

極端なことをするから、その反動でネットの中での『朝日・毎日叩き』は流れになりそうな勢いなのである

 

 

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甲子園大会  雑感

2017-08-26 06:45:45 | 発想$感想

★ Yahooの意識調査でこんな質問をしている。

 

   

 

大体、高校野球のチームのメンバーには女性はいないので『女人禁制』という発想など初めからなかったのだと思うが、今春から女子マネージャーが参加できるようになったが『人工芝の部分まで』などとの規定があるらしい。

グランドは『女人禁制』などと言っているが、開会式のプラカードはずっと女子学生が持って場内を行進しているのだから、『女人禁制』ということ自体がどうも腑にに落ちない感じである。

 

   

 

 結果は、自由にすべきだということだろうが、もう一つよく解らないところがある。

若し、こんな規定を高野連が決めているなら、変更してもう少し自由にすればいい。

 

★それは兎も角、甲子園球児としても抜群の知名度の『桑田真澄』さんが『甲子園の未来へ』と題してこんな提案をしている。

 

   

 

  詳しくはこの記事をお読みになればいいが、

    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170807-00010003-spht-base

  その中に『女人禁制』どころか『女子野球との共催』というのがあった。

  そこにはこのように提案されている。

 

現在、全国高校女子硬式野球連盟の加盟校は全26校。夏の全国大会は兵庫県丹波市で行われたが、女子高校野球にスポットライトを当ててほしいと願う。
「現状の甲子園大会に加え、僕は女子の全国大会も甲子園でやれたらいいと思います。女子は参加校が少ない。男子も2回戦を終えるまでは連戦がないから、3回戦が始まるあたりから男子と女子の試合を交互に開催すれば、投手の連投も自然に防げるんです」
日程が過密になる3回戦以降は女子の試合を挟んでいく―。これなら選手の肉体的負担も緩和され、さらには女子選手にとってもモチベーション増につながる。そして日本球界の未来を考えた時、このやり方は大きな意味をもたらすという。

「現在、野球人口の減少が叫ばれていますが、女子野球を発展させれば、野球人口あるいは野球ファンは間違いなく増えるんです。女子選手たちが将来、結婚して母になった時、彼女たちは子供と気軽にキャッチボールができる。これはすごいことだと思います。そうやって育った子供は野球を観に行くだろうし、野球選手になることが将来の夢になるかもしれません」

「日本のアマチュア野球は『お母さん命』なんです。お母さんがユニホームを洗濯して、お弁当を作って、つらい時も励ましてくれる。お母さんが野球経験者だったら、我が子を全面的にサポートしてくれるじゃないですか。野球の楽しさも苦しさもつらさも、全部分かっているから、最高のコーチになる。だから日本の野球界を今後も発展させるには、女子野球の発展が大きな意味を持つんです」

 

★ 甲子園大会の春も夏も、元々は地域代表なのだが、段々といまは変わってきて、地域には関係のない選手を集めた『野球専門学校』が常連となって、公立校などが出場できるような機会が減ってしまっている。

それはある意味、仕方がないのかも知れないが、部員が100人以上もいる名門校の野球部員=応援団のようにも見えるが、それが『当たり前』になっていて誰も疑問を感じないようになってしまった。

 私たちが野球をしていた60年前のことを言っても仕方がないが、当時の兵庫県は結構、野球のレベルは高かったが、当時甲子園に出場していた高校は、芦屋・鳴尾・神戸・兵庫・明石・県工・三田など公立校の方がむしろ多くて、芦屋などは全国優勝もしていたのである。

そのレベルは断然今の高校野球の方が高いのは勿論だが、高校野球も桑田・清原のPL学園ぐらいから、段々と『野球専門学校化』してしまったなと個人的には思っている。

 

一度、甲子園大会もその根本から考え直して、桑田さんが言うように、8月は甲子園を高校生に開放して、例えば

 ● 県ではなくもう少し大きな地域代表として少し数をしぼった『最高のレベルの高校野球

 ● その県の中学校卒業生でないとメンバーになれない本来の 『地域を代表する県代表の高校野球

 ● そして桑田さんの言う 『女子高校野球

 などを同時に開催するなど、もう少し『仕組みを変えて行かないと』高校野球本来の使命の『スポーツ教育』の範疇を越えて、プロ野球選手養成機関になってしまっているようにも思えてならないのである。

 広陵の中村選手が活躍すると、『その話題はどこのプロ球団に行くのか』などが中心になってしまうのである。

 

 

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薔薇の秋剪定

2017-08-25 16:49:06 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 薔薇を育てている。

 そんなにムツカシイことはないのだが、季節、季節に『やること』を『ちゃんとやらない』と『いい花が咲かない

 それを面倒がってやらないので、『薔薇はムツカシイ』ということになってしまう。

 殆ど、1年中やることがあるので、年中バラと付き合っている感じなのである。

 

 9月1日の前後5日間の間にやる剪定を『秋剪定』という。

 放っておいても、花は咲くが、大きな確りとした花を咲かすには、枝を切って、そこから出た新しい枝にだけ、いい花が咲くということになる。

 

 

★8月25日になったので、そんな季節になったのである。

 剪定をする前の、我が家のバラである。

 もう、シーズンを過ぎているので、花も付いてはいるが、こんな状況だった。

 

 

    

 

  今年は夏場も、ちゃんと水やりなどしたので、葉も落とさずに元気に夏を越してきた。

 

 

    

 

    

 

★  こちらが『秋剪定後』の姿である。

 もう10年以上もやっているのだが、何時まで経っても『完全にウマくできた』という実感がない。

 『これでよかったのかな』と思ったりする。

 『もう少し枝数を少なく』、『もう少し短く』切ったほうがいいようにも思うのだが、なかなかそれが出来ないのである。

 そういう意味では、もっと思い切って切れる2月の冬剪定の方が好きである。

   

 

   

 

 

    

 

    

 

    

 

 多分、9月初旬までに、『もう一度 切る』ことになるのだと思う。

心配しなくても、立派な枝さえ残しておけば、そこから新しい枝は何本も出るので心配は要らないと思うのだが、なかなかそこまで思いきれないのである。

 まあ、第1日、これくらいでいい としておこう。

 

   

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ホンダジェット機 世界一

2017-08-25 06:14:42 | 発想$感想

ホンダの小型ジェット機の生産出荷が『世界一になった』というニュースが流れた。

ホンダはスゴイな』と思う。

現役時代、本田宗一郎さんに憧れた。

カワサキの先輩たちに二輪事業の経験者が皆無であったこともあって、私自身も全く経験のなかった二輪事業は「まさに手探りで」いろんな経験の中から、いろんなことを身に付けていったのだが、二輪営業のシステムでも、レースの展開も、販売網構築も『その師』と仰いでいたのは、個人的には本田宗一郎さんだったのである

業界の活動や会議などには新規参入カワサキは若い私などが出席していて、何度かは、本田宗一郎さんと同席の会議も経験したし、直接その会議などでの本田宗一郎さんの発言を聞いたりしたのである

その当時からホンダの発想は凄かったし、親しくお付き合いをしたホンダの方も何人もおられるのだが、独特のものをみなさんお持ちだったのである。

そういう意味で、『本田技研』は私にとって一種独特の企業だったし、実際にカワサキが初めて外人ライダーのデグナーとの契約をした時には、カワサキの中では教えてもらえる方がいなくて、私は本田の前川さんを鈴鹿まで訪ねて具体的なことを教えてもらったのである

 

そんな本田技研に対しても航空機の分野では一歩も二歩も先を行っている筈の川崎重工業なのだが、航空機の開発生産には及んでいなくて、全くの後発メーカーだと思っていた本田技研が、

こんな小型航空機を自社開発しただけではなく、その生産販売で世界一になったのだという。

 30年の歳月をかけてここまで来た

 ホンダならではと、思う。

 

    

 

記事にはこのように書かれている。  http://www.asahi.com/articles/ASK8S3TJTK8SULFA006.html

ホンダの小型ジェット機「ホンダジェット」の2017年上期の出荷が24機になり、小型ジェット機の分野で初めて世界一になった・・・・納入前から100機以上の受注があったが、当初は月に1~2機の生産にとどまっていた。作業員の習熟度が上がったことなどで現在は月4機まで生産できるようになった。・・・・・今後は、年間の生産量を現在の50機からフル稼働の目安となる80機程度に増やす計画だ。日本メーカーによる航空機では、三菱航空機がジェット旅客機「MRJ」の開発を進めているが、1月には5度目の納入延期を発表。今月22日には米国で飛行試験中の機体にエンジントラブルが起きるなど苦戦している。』

 

本田技研、戦後の小さな企業から、あの50ccの名車カブを開発し、中大型スポーツ車に進み、鈴鹿サーキットを創り、世界のGPレースに参戦し、さらに四輪から航空機へと進んだ『常にチャレンジする社風』がこうさせたのだと思うし、これはホンダ・スズキ・ヤマハの浜松出身の独特の二輪企業体質なのである。

二輪事業は、一種独特なのである。

戦後、三菱重工も、富士重工も、トーハツも、ブリジストンという大企業も 二輪業界にいたのだが、そんな大企業が二輪業界の世界の競争の厳しさには付いて行けずにみんな撤退してしまったのである。

 

当時のカワサキには、そんな浜松企業に伍して頑張ったカワサキ独特の気風』もあったのだが、昨今は何となく大企業然としてしまって、安定はしているのだが、かっての無鉄砲さや がむしゃらさが無くなった ように感じるのは残念なのである。

カワサキに限らず、少し大人しくなり過ぎた二輪業界に感じてる私の本音のツイートである

    

私のツイッターからです。
https://twitter.com/rfuruya1

懸命に販売すれば売れる』は錯覚。逆に市場は縮小して台数は減少。もう一度、二輪業界は 本田宗一郎さん時代の『遊び心』を取り戻してほしい。バイクも、JSも、遊びの道具。 若し、一生懸命やるのならそれは販売ではなくて『安全運転活動』

 

それは兎も角 あの三菱でさえ、なかなかムツカシイ航空機開発・生産をここまで持ってきた本田技研に敬意を払いたい。

 

 

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夏の甲子園大会 号外ネット

2017-08-24 06:34:34 | 発想$感想

 

★ 今年の夏の甲子園、昨日はその決勝戦、朝日デジタルにこんな号外が流れた

  号外:夏の甲子園で花咲徳栄が広陵を14―4で破って初優勝。埼玉勢の優勝は初 (16:38)

 

     http://www.asahi.com/koshien/?iref=com_flash

 

 非常に話題の多い大会で、特に広島広陵の中村選手が準決勝まではその話題を独占したと言ってもいい。

昨日の、デイリースポーツでさえ、清原選手の大会ホームラン記録を塗り替えた広陵中村選手の話題がその一面を飾ったのである。

 

ネットで『広陵 中村』と検索すると、

    

 

    

 

   こんなにいっぱいその話題が並ぶのである。

   まさに、ネット時代、ネット社会だなと思うし、その情報内容も非常に詳細にわたっている。

 

           

 

           新聞や、テレビでは報道されない 中村奨成 選手の話題がいっぱいなのである。

 

 ★ 一方、朝日デジタルの『号外ネット情報』も非常に詳細且つ多面に及んでいる。

 

     今はこんな優勝の表彰式の実況が流れているし、優勝戦の経過の詳細が見ることができる。

 

     

 

     

 

  これらは、その画面を切り取ったものだが、

    http://www.asahi.com/koshien/?iref=com_flash

   このURL をクリックすると、決勝戦の詳細が解るのだが、これは一体いつまで有効なのか?

   明日になっても、見ることができるのだろうか?

 

   やはり、これは号外での特集で、いまは違う夏の大会特集になってしまっていて見ることはできない。

   号外時だけの特別なもので、これを見た人は少ないかも知れない。

 

 

★今回は、『花咲徳栄が広陵を14―4で破って初優勝』したことよりも、夏の甲子園に関する情報の多彩さに感心したというのが、正直な感想なのだが、

野球そのものについて言うなら、今の高校野球の打力はすさまじい。

大会のホームラン記録も塗り替えたし、中村選手も新記録達成である。

 そんな中でも 『花咲徳栄のチーム打力』は一歩抜けていたように思う。

 

   

 

今大会、すべての試合で9点以上をとっていて、失点もそんなに多くはないのは、投手力もよかったので、優勝は順当だったのかも知れない。

  埼玉県では、初めての優勝だという。   何はともあれ 『おめでとうございました

 

 

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カワサキ二輪事業と私  その67 平成8年(1996)

2017-08-23 06:04:08 | 自分史

★延々と67回に亘って綴ってきた自分史『カワサキの二輪事業と私』なのだが、私と二輪事業との直接の関係は、平成8年(1996)6月30日をもって終止符を打ち、7月1日からは川崎重工業CP事業本部に復帰することになったのである。

 

昭和63年(1988)10月1日に カワサキオートバイ販売の専務として就任して以来、約8年間の最後の国内第1線の担当だったのだが、当時はアメリカなど海外市場が一応の水準に達した上に急激な円高で、国内市場の拡充は事業部そのものの『円高対策』という重要な側面も持っていたのである。

そんなこともあってカワ販の社長であり、CP事業本部長でもあった高橋鐵郎さんからは、台数目標7万台 売上高400億円 という厳しい数値目標も与えられて、当時の事業本部の中では国内市場がアメリカ以上に最大の市場だったのである。

 

Jet Ski については、『発動機事業部のエンジンをアメリカのリンカーン工場に送リ、Jet Ski に組み上げアメリカのKMCだけで販売する』という単車事業本部の明石には、全く関係のなかった事業だったのだが、それを単車事業本部本来の事業とすべく、企画室時代に企画室内に『Jet Ski』部門を立ち上げて、鶴谷将俊さんの担当として、ヨーロッパ・国内にも販売する方向を目指したのだが、それがようやく実りかけて、1988年のソウルオリンピック開会式のデモンストレーションに正式招待を受けるまでにはなったのである。

そのあとすぐに、国内赴任の辞令を頂いたのである。 

 

    

 

 

★ 販売台数7万台を目指すとなると、従来のカワ販の健全経営という固いイメージから脱却して『新しいカワサキのイメージ創造』を目指して、ユーザーの組織化のKAZEの展開や、『レースに強いカワサキの復活』など、単純な販売活動だけでは『7万台目標』など掛け声だけに終わってしまうだろうと思ったのである。

就任してまず1番にやったのは、『カワサキファクトリーチーム25周年記念』のOB会の開催で、10月1日に赴任して、10月15日に開催し、真っ先に私自身が手掛けたである。

 

  

その時の写真だが、山田元副社長・苧野豊秋・中村治道さんなどカワサキの創世期のレースや事業を支えた重鎮の方にも集まって頂いて、これからの国内市場を担当する『私の決意表明』でもあったのである。

 ライダーたちは安良岡・山本・岡部・梅津・金谷・和田など錚々たるメンバーが顔を揃えOBたちの末席を務めたのは星野一義と清原明彦で、当時の現役レースチームの諸君もお招きしての会合だったのである。

 

★たまたま、当時はSPA直入を建設中で、翌年その開幕を迎えるためにも、是非ともカワサキのレースを強くすること、そのチームを強力に支えることが必須で、カワ販が担当していたチームグリーンの充実を重本・野村くんなどと共にまず図ったのである。

当時のメンバーとしては、塚本・宗和・多田・鶴田・北川 などが活躍した時代でビートレーシングや 月木レーシングとも協働しての活動だったのである。

長年優勝できなかった、鈴鹿8時間耐久レースにもラッセル・スライトのコンビで優勝できたし、チームグリーンの選手たちも常に好成績を残して、フランスでの24時間耐久にも、塚本・宗和・多田で出場し入賞するなど好成績を残したし、当時の4耐・6耐では、ビートや月木から若手が出場して常にカワサキが席巻していたのである。

 

   

 

★ そして、高橋鉄郎本部長とのお約束の国内市場7万台、400億円の売上 が、3年目の91年の6月に実現したのである。

レースの優勝なども含めて、これらは勿論努力もあったのだが、まさに『周囲の運を引きずり込んだ』感じだったのである。

その最たるものがZEPHYR で、ZEPHYR がなかったら、『7万台の達成』もそんなに容易な目標ではなかったはずである。

発売以前にこの車がこんなに売れるなど、当時はだれも予想などしていないのである。レーサーレプリカ最盛期の時代に、なぜZEPHYRがあれだけ売れたのか、私はいまでもよく解ってはいないのだが、兎に角、3年間も売れ続けたのである。

この8年間は、国内市場でカワサキが光り輝いた時代だと言っていいが、この間、高橋鐵郎さんにはカワ販社長は非常勤の兼務ではあったのだが、末端マーケットやユーザーたちへの理解が深く、高橋さんとのコンビでなければ、実現しなかったと言っていい。

    

 

  このようなことを『ホンネで自分の言葉で語れるトップ』がいて、初めてこんな実績が伴ったのだとは思うが、『運もよかった』ことも事実なのである。

私自身も人生いろいろ『運』には恵まれていると思ってはいるのだが、この8年間コンビを組ませて頂いた高橋鐵郎さんも、若い頃から一緒にいろいろとやった田崎雅元さんも、間違いなく幸運の持ち主で、川崎重工業の社長や副社長になるなど、この10年前には考えも出来なかったことなのである。

 大庭浩社長のお力だとは思うが、その大庭さんも、単車に来られたことが「幸運のきっかけ」かも解らないのである。そんな幸運をお持ちの方々と、結構『本音のお付き合い』が出来た私も幸せだったと思っている。

ホントか?と言われる方が殆どだと思うが、私の現役生活で『私のいうこと』を『一番聞いて頂いた上司』は大庭浩さんなのである。

大庭さんが本部長を務められた時、私は企画室長という番頭役で大庭さんを支えたのだが、殆どの提案をそのまま聞いて頂いたのである。この国内担当期間には、大庭さんは既に川重社長をされていたのだが、『SPA直入』『ケイ・スポーツ・システム』というソフト会社、『松井田サーキットプロジェクト』『二輪車のの自動車専門学校』等々みんな川重では初めての案件だったのだが、経営会議で殆ど無修正で通して頂いたのである。

 

 

   

 

★ そんな中でも特筆できるのは、Kawasaki . Let the good times roll ! という基本コンセプトの復活で、これは、旧く1975年ごろ アメリカのKMCでスタートしたのだが、以降20年間は忘れられて眠っていたものを、1990年代国内市場が7万台を達成し全国に KAWASAI PLAZA網を展開した時に、国内市場で私が復活し、それを高橋本部長が世界展開とされたのである。

その後田崎さんが川重社長の時には、川崎重工業の基本コンセプトにもなったのである

 

新宿の ショール―ム Kawasaki Plaza  のビルの屋上に 掲げられた Kawasaki Good Times コンセプトと、ユーザークラブKAZE の看板は、私にとっても、当時国内を担当した人たちにとっても胸を張れる最高の存在だったのである。

 

       

 

   

そんなカワサキの二輪事業のコンセプトも何故か20年以上も眠り続けていたのである。

ひょっとして、再び眠ってしまっても、世の中の方たちに決して忘れられないようにと、8年前にカワサキの当時の仲間と共に立ち上げたのが、NPO The Good Times なのである。

  http://www.thegoodtimes.jp/

そう言う意味では、私とは1975年以来、40年以上のお付き合いなのである。

 

    

 

そのスタートの時点で、高橋鐵郎さんには趣旨をお話して相談役に入って頂いたし、その会員カードNO.30番台にはカワサキの二輪事業に関係の深かった高橋鐵郎・田崎雅元・大槻幸雄・百合草三佐雄・稲村暁一・大津信・衛藤誠(二輪車新聞記者)などの方々が名を連ねているし、平井稔男・渡部達也・小川優・山本隆・福井昇・吉田俊一さんなどは理事として深く関わってくれているのである。

その他カワサキのかってのライダーたちや、カワサキの二輪事業に深く関わった人たちが多数会員におられるし、二輪のカワサキファンたちもいっぱいなのである。

    

 ★ こんな私の『カワサキの二輪事業と私』だったのだが、この8年間で国内市場で私が創り上げた『新しいカワサキの仕組み』は単に「販売会社」の枠を超えて、こんなトータルシステムで、その目指すところは遊んでいても『自然にモノが売れる』そんなシステムを目指したものだったのである。

 

 

 当時の『カワサキグループの機能』とその関係を明確に表している関係図である。

 単なる「販売活動」ではなく、『遊びやこころの満足』を目指しての活動で、その中核的な役割を果たしたのがユーザークラブKAZEや、JJSBAの活動なのだが、社内の各機能は無くなってしまったが、この二つは20年経った今もなお活動を続けている。

そう言う意味でも、末端の人たちと組んだ組織こそが、本来の活動の原点なのである

  

 

こんな夫々の機能を、それこそSNSのように繋いだ運営だったのだが・・・、『遊んでいてもアレだけ売れる』のなら、『一生懸命売ればもっと売れる』はずだと、単純な営業活動に専念されるようになったのだが、なかなか結果は伴ってはいないのである。

この辺りが末端ユーザーを動かす、民需事業の難しさで、『マーケッテンング・マインド』がベースにないと、難しいのかなと思うのである。

 

   

★『カワサキの二輪事業と私』の最後に、ずっと私を手伝ってくれたのだが、先に逝ってしまった岩崎茂樹をご紹介しておきたい。 頭もいいし、バイクにも詳しく、野球もできて、仕組みシステムが解る、珍しい才人だった のである。

田崎さんとのコンビも長かったし、高橋鐵郎さんの販売関係の師匠役でもあった。彼の最後の仕事は、国内の物流改革を担当して、私を支えてくれたのである。 若い頃、私のあとのファクトリーチームのレースマネージメントを引き継いでくれたのも岩崎茂樹であった。   この写真は、最近田崎さんが私に送ってくれたものである。  

   

 

  カワサキの二輪事業との関係で、『岩崎茂樹』にお世話になった人たちは、私に限らず多いはずである

 

カワサキの二輪事業、それはカワサキの開発した数々のマシンをベースに展開してきたのだが、それをマーケッテングの立場から、末端のユーザーや販売店とも協働して『カワサキ独特の仕組み』や『カワサキ独特のブランドイメージ』の確立に尽力された方たちのお名前はこの最終稿に記述したつもりで、カワサキの二輪事業はこの方たちの長年の努力で、いまがあるとも思っている。

 

 

  注)私の『自分史』は、また違った形で、続けたいと思っています。

  

  

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放送法遵守を求める視聴者の会

2017-08-22 19:17:25 | 発想$感想

★ 『放送法遵守を求める視聴者の会』という団体がこんな広告を出していた。

 確かに、昨今の民法の偏向報道はちょっとひどすぎると思う。

 右・左 意見はいろいろあっていい。

 然し、公共放送のテレビが、こんな状態では、そのまま放置するわけにはいかないと思う。

 

    

 
 
 
こんな挨拶文を出していたが、応援してあげたいと思う。

 

放送法遵守を求める視聴者の会は新体制に移行します

・・・さて、これまで当会は呼びかけ人を中心とした任意団体として、これまでテレビ局に対して放送法を遵守するよう働きかけて参りました。しかし、今回残念ながら歴史上最悪に属すると思われるの偏向報道(加計学園を巡る一連の報道)がなされてしまいました。このような活動に従事しながらテレビの偏向報道を止められなかったことに忸怩たる思いです。

これまでの呼びかけ、情報開示は偏向報道を正すという目的を達成するためには不十分であった言わざるを得ません。このことについて大変遺憾に思います。

そこで、当会はこれまでのような呼びかけ人を中心とした任意団体から一歩進んで体制を整備し、最終的には一般社団法人を目指して活動することにしたいと考えております。その目的は、法人格を有することにより、放送局やスポンサー企業の株主になり、株主総会等で経営者に直接偏向報道の問題点とリスクについて訴えていくということです。

こうすることでしか現行制度において実効性のある提言をすることは不可能ではないでしょうか?

・・・今回の加計学園を巡る一連の偏向報道は余りに酷く、今後の抑止の観点から考えたとき、やはりこの「武器」を持つ以外実効性のあるプランは存在しないという判断に至りました。・・・

                                放送法遵守を求める視聴者の会  事務局長 上念 司

 

新体制に移行して、「放送法遵守を求める視聴者の会」は、作家の百田尚樹氏が新たに新代表に就任したことを発表したようだ。

今後具体的にどのような形で進めるのか、こんな団体が積極的に活動して、もう少しまともな民間放送にならないと、実際に実況放送を見ていない一般国民の皆さんは、政権側がおかしいと思うようになるのは当然だし、その結果が今回の『安倍政権に対する意識調査』に繋がっているのだと思う。

 

 ぜひ、活発な活動を行って欲しいと思っている。

 

   

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川崎神社

2017-08-22 06:23:24 | カワサキワールド

川崎神社のことを Instagram や ツイッターで流してみたら、結構な反響なのである。

 

      https://www.instagram.com/rfuruya2/?hl=ja   

     https://twitter.com/rfuruya1

 

 

 

 

 あまりご存じのない方も多いようで、『姫路カワサキ』さんもご存じがなかったようである。

もともと工場内に小さな神社はあったのだが、これをこんなに立派にされたのは、1990年代の高橋鐵郎本部長時代で、高橋さんが自ら旗を振られたのである。

 

 元の研修センターの裏手にあって目立たないので、気が付かない方も多いのである。

私も特に関心はなかったのだが、熱烈なカワサキファンの登山道夫さんがいろいろと関心を持たれていて、何時だったか一緒に明石工場を訪ねた時にこんな写真を撮ってきたのである。

 それまではよく知らなかったので、その時は『ホンネで驚いた』のをよく覚えている。

 

   

 

   

 

   

 

 

 

   

 

 

   

 

 ご覧になればお解りのように、その雰囲気はとても工場内とは思えぬものなのである。

 カワサキファンのの方は、お参りできるようになればいいなと思っているのである。

 

 

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高齢者の運転 雑感

2017-08-21 06:37:12 | 発想$感想

★ テレビで高齢者の車の運転について取り上げていた。

昨今、いろいろと言われているテーマである。

今後、超高齢者社会になっていくので、大きな問題であることは間違いない。

 

私自身も84歳の高齢者で、20代の後半に運転免許を取ったのでもう50年以上も運転を続けていることになるので他人事とは言っておれないのである。

 

 こんな風に言われている。

 『自分の老いによる衰えを自覚できない点』『まだ若い』と思っているところに原因がある。

 

  

 

 

 確かに、私自身が『まだ若い』とは思っていないが、正直あまり『衰えを感じていない』のも事実だし、一般の84歳に比べたら間違いなく『元気』だと思うのだが、人様に迷惑をかけることなどは避けねばならないのは勿論である。

私自身が二輪車の世界に従事していて、『安全運転本部長』などを10年以上も務めたし、二輪の自動車学校の設置者などもやったので、交通安全については結構ちゃんと認識しているし、『安全に運転するノウハウ』なども一般の方よりは身に付いていると思っている。

50年間運転して、事故は一度もないし、この10年ぐらいは交通違反的な運転も現実にやらないように心がけているので『優良運転者』をずっと続けているのである。

いま住んでいる三木は『車さえあれば結構便利な立地』なので、出来る限り長く運転したいし、『多分それはできるだろう』と思っている。

 

★『自分で車を運転する』ということは=自由ということに通じると思っているし、何よりも『運転が好き』なのである。

北海道の会社に務めた時も『運転手をつけましょうか?』と言って頂いたのだが、断って『自分で運転』していたのである。お蔭様で北海道は殆どのところを自分で走って知っているし、日本の全県、沖縄を除いてすべての県を自分でハンドルを握って走ったことがある。

日本中の道を結構知っているというか『走った経験』があるし、日本だけでなく 東南アジア・ヨーロッパ・アフリカ・アメリカ・カナダ・オーストラリアなども、何百キロもレンタカーで走り回っていたのである。

30代の頃最初の営業が東北6県で、仙台ー盛岡ー青森がそれぞれ200キロという広大な県ばかりだから、長距離運転もそんなに苦にならなくなってしまったのである。

 

  

 こんな『注意事項』が載っていた。

 この中で、『急加速・急ブレーキ』はこの50年間やった記憶がない。

 最近、ずっとBMWに乗っているのも、日本の車と違って、よほど踏み込まないと『急加速』し難い特製のエンジン性能が気に入っていて、特に最近のように街中で乗ることが多いので『急加速』は危ないと思っているし、『急加速する必要』を全く感じていないのである。

 今でも100キロ以上の長距離を走ることもあるのだが、ついこの間のお盆も孫と今年は京都まで行きは名神、帰りは篠山周りで走ってきたし、昨年は淡路経由栗林公園までのドライブを楽しんだりしているのである。

 

★ 要は人それぞれ、自分をよく理解して、『迷惑を掛けない運転』を心がけるべきだと思う。

 運転免許の書き換え時に、いろいろなテストがあるが、確かに年を取ると一度に複数の注意力が無くなることは、検査結果でも解ったので、最近は交差点などホントに注意しているのである。

やはり、よほど注意しないと『事故など起こしたら』それこそ「年寄りのくせに」と言われてしまうのである。

今日何故、こんなことをわざわざ書いてるかと言うと『あんなこと言っていたのに事故を起こした』と言われたりしないように、『自分のために』わざわざ書いて「安全運転に務めたい」と思っているのである。

 車の運転は好きだから、できる限り長く乗っていたいと思っている昨今である。

 

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運転が出来なくなったら、私の人生も終わりかな などと思ったりするのだが果たしてどんなことになるのだろうか?

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七夕・立秋・お盆と蝉とトンボ

2017-08-20 16:40:04 | 発想$感想

★8月もいつの間にか20日になった。

七夕・立秋・お盆 七夕は7日、お盆は15日と解っているのだが『立秋』とはいつなのか調べてみたら、今年は8月7日だそうである。

8月もいろいろと季節の行事が続くのだが、お盆の墓参り以外は最近は「花火」も観に行かなくなってしまった。

 

この暑い盛りに、週に3,4日ほど、近くの公園で、炎天下で30分ほど50メートル・ダッシュをしている。

炎天下で大丈夫かと思われるかと思うが、クーラーで冷えてしまった体には、夏の太陽が結構心地いいい。

それに公園でのダッシュだから、炎天下のグランドを走るのはほんの10数秒で、それを10本ぐらいやるころには体も温まって気持ちよく家に戻っているのである。

 

 

 

その公園には、蝉がいっぱいいて、先週まではやかましいぐらいに鳴いていたのに、昨日は全く静かで鳴き声は全然聞こえないのである。

 

  

 

 こんな風に長い地中の生活を終わって、地上に出てきたのはいつだったのだろう。

 何年間も土の中にいて、1ヶ月もこの世の中では生きてはいない蝉の命。

 

 それから思うと、人間は長生きだと思う。

 最近、こんなことを思うのも、自分が年を取ったからかも知れない。

 そういえば先週は、トンボが群れ飛んでいたのに、昨日はトンボもあまり見かけなかった。

 

 蝉はこの辺りで鳴いて、この辺りで産卵してまた何年か後にこの辺りに現れるのだろうが、トンボは一体どこで生まれたのが、近くには池もないのにどこからやってきて、夜はどこに寝ているのだろうなどと詰まらぬことに関心があるのである。

羽があるから飛んでこれるのは、解るのだがどれくらいの距離を飛ぶのだろう。

そう言えば、スズメもいっぱいいるのだが、縄張りみたいなのがあるのだろうか?

 

 そのうちにトンボもいなくなって冬が来る。

でも、人間はまた来年、多分同じような光景を見ることができるから幸せだなと思ったりしている。

 

 

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