雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

一番印象に残っているロードレース

2009-06-30 04:20:13 | M/Cレース
昨日BSの滋野選手の記事を書いていて、こんな記録を見つけた。
1966年度日本選手権ジュニアロードレースの記録である。

モトクロスと掛け持ちの懐かしいライダーたちの名前が多い中で、金谷などロード専門の選手がまだ珍しかった時代である。


この年、日本グランプリは富士で初めて行われることになった。
ホンダは第1コーナーの須走り落としが危険という理由で出場しなかった年である。MFJの運営委員会でいろいろ検討されたが最後までホンダは「YES]とは言わなかった。今思えばホンダの見識かも知れない。


この年はレース担当最後の年であったがいろいろあった。
モトクロスはF21Mがデビューして圧倒的に強かった。
山本、歳森、岡部、梅津、星野とライダーをそろえて連戦連勝であった。

ロードレースは不運続きであった。
カワサキは、藤井敏雄をマン島のプラクテイスで亡くし、1ヶ月後の富士では練習中にデグナーが転倒入院し出場不可能になった。
カワサキの初めてのGP参戦だったのだが、ライダーを2人欠いて、急遽谷口、安良岡などで対応したのである。


このロードレースの中で、ジュニア250はA1のエンジンを使ってまずまずの仕上がりであった。ほぼ勝てると内心思っていたのだが、ヤマハが直前になってアメリカからGニクソンを呼んだのである。
後、カワサキに移籍して活躍したあのGニクソンである。

当時、日本人のライダーはみんな真っ黒のツナギであった。
そんな中に赤い異様なイデタチでGニクソンが現れたのである。
練習タイムから早かった。



結果的に金谷と文字通りの一騎打ちになった本番は凄まじかった。
タイムをご覧になれば解るが、他をぶっちぎって二人だけの戦いとなったのである。
最後は、ニクソンに敗れはしたが、まだ新人とも言える金谷はよくやったと思う。
和田正広君はまだホンダのライダーであった。

最高ラップ 2.14.27 をGニクソン、金谷秀夫の二人で記録しているのである。こんなことも珍しい。

私が見たロードレースの中で、もっとも印象に残ったレースだった。
そして、このレースがレース担当最後の公式戦となったのである。

三橋、村上、歳森も出場したのだがリタイアだった。
歳森は転倒で鎖骨骨折だったのだが、
藤井、デグナーと大事故が続いた後だったので、歳森にかけた言葉が、『鎖骨でよかったな』だった。

レースが終わって、『ほっとした』のをよく覚えている。
このレースが終わって10月末からモーターショー。
12月には仙台への異動を告げられたのである。

レースと広告宣伝最後の年であった。

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公式練習 レース
順位 ライダー名 タイム     順位 車番 ライダー名 マシン クラブ名 タイム Km/H
1 G・ニクソン 2.16.31      1   76 G・ニクソン  ヤマハ スポーツライダース 34.08.34 158.176
2 金谷秀夫 2.18.05       2   23 金谷秀夫  カワサキ 神戸木の実 34.19.73 157.302
3 三室恵義 2.18.11       3   20 三室恵義  ヤマハ スポーツライダース 34.56.14 154.569
3 村上 力 2.20.95       4   75 和田正宏  ホンダ テクニカルスポーツ 35.33.13 151.889
5 歳森康師 2.21.17       5   51 長谷見昌弘  スズキ 城北ライダース 36.09.26 149.359
6 三橋 実 2.21.61       6   70 増田 武  ヤマハ . 1周おくれ
7 和田正宏 2.25.87       7   63 松本潤郎 . . 2周おくれ
8 長谷見昌弘 2.27.14      8   71 S・バーグスマ .  西多摩スピード
    
.
最高ラップ ― ニクソン・金谷 ― ― 2.14.27 155.957



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BS滋野靖穂選手

2009-06-29 04:26:46 | M/Cレース
60おじさんの日記、最新版はトライアルのことなのだが、いっぱいコメントが寄せられている。

そんな中に、こんなのを見つけた。

『はじめまして。
何気なく叔父の名前を検索してましたら、こちらのページに行き当たりました。
叔父は滋野靖穂と言います。
おそらく、ブログを拝見した様子では叔父と一緒にレースに出られていたのでしょうか?私は滋野靖穂の長兄の娘で(と言ってももうかなりのおばさんですが…)子供の頃、よく叔父のレースを見に行っていた記憶がかすかにあります。
なんだか、突然このようなメールをしまして失礼します。何か叔父のエピソードなどお聞きできたら…
| あいまま | 2009/06/05 4:45 PM |

もうずっと昔の話だが、まだブリジストンが二輪業界にいて、50,90ccの分野のレースに活躍していた時代、滋野選手はBSのエースライダーであった。
年間の最優秀選手に選ばれて、ご褒美にヨーロッパに派遣されている。
この記録の中には、当時の懐かしいライダーの名前もいっぱいである。


60おじさんはこんな風に、コメントで返している。

『あいままさん初めまして、いやービックリです!ようこそです。

滋野靖穂選手とは随分ライバルバトルを展開いたしました、中でも私が一番印象に残っているのは、第1回鈴鹿ジュニアーロードレースです。
スタートより終始雨の中のレースでした、ホンダの佐藤実・鈴木義治選手に続いてブリジストンの滋野選手が3番手を走っていました、しかしそのスリップストリームにピッタリとカワサキ山本が終始付いていたのです!

最終周にスリップから抜けた山本は鈴鹿サーキットの表彰台に初のカワサキマシンを歴史的に上らせたのです。
カワサキにとっても、山本にとってもこのロードレースが初出場でした。

たぶん滋野氏は一番苦い思い出だと思います。
また滋野氏の僚友だった、的野氏もとても速い選手でしたが、その後カワサキの技術部に来られてからは仲良くさせてもらってます。

ブリジストンレーシングチームの事は最近別冊モーターサイクリストで毎号特集を組まれていますのでとても懐かしんで見ております。
乱筆で失礼しましたが、滋野叔父さんにくれぐれもよろしくお伝えください。

| 60おじさん! | 2009/06/05 11:22 PM | 』

山本が書いている、この鈴鹿のレースは私は現場にはいなかったが、若しこのレースで山本が入賞していなかったら、カワサキのロードレースへの展開もまた違ったものになっただろう。
何度もご紹介した『カワサキがはじめて鈴鹿を走った日』なのである。

滋野選手はモトクロスにも出場していたが、ロードレースの50,90はめっちゃ早かった。『天敵』とも言える存在であった。
BSのマシンもよかったのだが、何人も居るBSのライダーの中でも彼の記録が飛び抜けていた。
FISCOでカワサキもヤマハもみんな滋野にやられて、エンジンが彼のマシンだけ大きいのではないか?
金を積んだらエンジンを開けさせられる規定があって、一度あけさせるかと、本気でそんなことを考える人も出てきたりした。

それくらい早かった。
今、MFJのモトクロス委員長をしている田中隆造さんなどもBSのチームメイトであった。
そんな滋野に山本が勝てたのは、当日の鈴鹿が雨だったのが最大の理由だと、
私は思っている。

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総選挙と橋下徹

2009-06-28 04:45:50 | 大阪維新の会、橋下徹氏
大阪府$橋下徹というカテゴリーでブログをアップしてきたが、
『総選挙と橋下徹』といってもいいほど橋下さんは全国区になった。

解散も大詰めになって、東国原さんの話も出たし、麻生さんが解散に触れたとかで、政治問題は一挙に騒がしくなった。
あちこちでいろんな人がいろんなことを言う。

どれが正しいのかもよく解らぬし、それを判断するだけの知識もない。



非常に大雑把で、理論的でなくて単なる感触イメージで申し訳ないのだが、
従来の自民党の実力者や領袖といった人たちの持っている雰囲気や話し方や発想など、すべてがもう一つしっくり来ないのである。

橋下徹さんの持っている雰囲気や話し方や発想とは、やはり180度違うと思うのである。
経験がないと難しいかも知れぬ。
霞ヶ浦の官僚たちもなかなか扱い難いかも知れぬ。

しかし、今回は政治の構造や体質を変えるべき時代に直面していると思う。

終戦のとき、世の中は一変した。
それでも大丈夫だったのである、
新しい体制になって60年経って、いっぱいおかしな膿がたまってしまったのである。
決して自民党の体制が悪かったわけではない。
今の日本の繁栄は、自民党の、官僚の、経済界の護送船団方式で勝ち得たものであると思う。

でも、今の時代にそれは合わなくなったのではと思う。
別に、橋下さんや東国原さんでなければならぬことはない。
日本には優秀な人はいっぱいいるだろう。

でも、『橋下さんや東国原さん的な政治』を一般の人は求めているのではないだろうか?

一言で言えば、それは『解り易い』のである。
従来の政治は、幾ら説明してもらっても、『ホントか?裏に何かあるのでは?』と思ってしまうのである。
そんな説明の仕方だし、話し方だし、極端に言えば『そんな顔つき』なのである。

もっと若々しく、政治語でなくて一般の言葉で話が出来る人がいい。
みんな『橋下徹みたいな人』を求めているのだと思う。

自民党にもそんな人はいっぱいいると思う。
この際旧い人はみんな遠慮して、『そんな人たちでやればいいのだ』と思う。
橋下さんや東国原さんなら入閣できて、1,2年生の自民党議員は、資質があっても、なぜそんなお声すら掛からないのか?
橋下さんや東国原さんを閣僚に据えて、自民党の体質を変えようということではなく、『その人気に便乗』して、『自分たちが議員に残っていたい』というような思惑がミエミエなのである。

だから、話は前に進まない。
そんな風に、何となく思っている。

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ネット通販の伸びで いろいろ思うこと

2009-06-27 04:41:24 | 発想$感想
昨日の朝、テレビでネット通販の話題を取り上げていた。
通販と言うか、ネット通販の伸びがグラフで表示されていたが、一直線に伸びている。

トータル8兆円の市場規模とか言っていた。
検索でその市場規模を調べてみたら、2008年は4.5兆となっている。

この記事では、2010年も4兆円台だが、現実はもっと伸びが急なのだろうか。
その伸びの中心になっているのが、ネット通販で、以下のように述べている。

『これまで通販市場の主力はカタログ通販であったが、インターネット利用者の増加や携帯電話の普及によりオンライン通販が拡大している。
主にカタログ/テレビ通販を展開していた企業もコスト削減目的でネット通販への移行に取り組んだ影響もあり、ネット通販が2006年にカタログ通販を抜いてトップになった。 』

その理由に『コスト削減』を上げているが、ほんとにこれは大きいと思う。
もう、紙などの時代は終わりに近づいているのではなかろうか?


私のすぐ近くで、『カバン屋』さんがおやりになっている商売が、ネット通販である。
それも、世界を相手に仕入れて、『たった一人で』結構のんびりと商売をなさっている。先週も、何日かzosan とタイに遊びに行っていた。
この不景気といわれる世の中で、勝手に『売れて売れて』笑いが止まらぬようである。

カバンとバイクを売っておられるのである。商売道具はこのホームページだけである。
従業員はいない、カバン屋さん一人である。
お店はあるが、自宅である。

もう一つ、商売道具があった。 それがパソコンである。
パソコンとホームページ、それを運用する『仕組み』と『頭脳』

これで、十分商売が出来る世の中になった。
運搬などそれを補完するシステムも完備している。

パソコンの普及がそのベースにあるのだろうが、その伸びもこんな状況である。


傾向はこれでも分るが、数字までご覧になりたい方はどうぞこちらを。


カバン屋さんは、今回のNPOの事務局長さんである。
事務所もカバン屋さん宅だが、事務所の借り賃は無料である。
今回のNPO The Good Times も少なからず参考にさせて頂いた。

ソフト企画法人だから、かかるコストは少なく経費はほとんど発生しない。人件費はNPOの特徴でゼロである。
『特定非営利活動法人』というのがアタマに付いた法人だが、NPOといえども法人である限り赤字では続かない。
損益分岐点は間違いなく存在するのだが、これは限りなくゼロに近い。


そんな『仕組み』なのである。
今の世の中、先行する便利な仕組みを上手に使う人は、悠々と過ごせるいい世の中だと思う。
企業経営も行政運営も、世の中のいい仕組みを『上手に利用する』ことが、勝利するためのMUST条件だと思う。
仕組みを利用されている方は多いのだが、アタマを使って『上手に利用』している方は意外に少ないのである。


今回は、そんな『仕組みの一つ』をNPOで造ってみたのである。
それを『上手に利用』されるのは、参加される会員の方の『知恵』である。
参加される方々と一緒にアタマを使ってみたいと思っている。

昨日、法人登記も完了してカバン屋さんと一緒に、法人の口座を解説してきた。
いよいよスタートだが、設立の初期投資に見合う収入は既に確保できている。
今後、どんな展開になるのだろうか?



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どうでもいいようで大事なこと

2009-06-26 04:35:39 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
どうも大まかな性格なので、細かいことやあまり正確を期したことを言われるとどうも苦手である。

ただ、世の中はそんなことばかり言っていたのでは通用しないのである。
そんなつまらぬこと言うなでは、前に進まないことだってある。


今年の2月から、NPOの設立申請をやりかけて、その大変さを思い知ったのである。
会社などでは、そのような具体的な細かいことは専門担当がいてみんなやってくれるのだが、今回はほとんど自分でやったのでそのしんどさがよく分った。

まず通常使っている住所が、そのままでは通らないのである。
番地の表示が通常使っているものと全然違うのである。
例えば、緑ヶ丘町2丁目3-15 では全然ダメで、
    緑が丘町2丁目3番地の15 でなくてはならないのである。

これは住民票に記載された通りでなくてはならない。、
更に名前なども住民票記載の通りで、12名の理事のうち3名の名前が、パソコンの文字とは違っていて、その文字だけ手書きをせざるを得なかった。
「隆」という字の「生」の上に「一」があったりして、そんな活字がないのでる。

そういう意味では、住民票がベースでその通りでないとダメなのである。
そして、会社のベースは『定款』である。
定款に書かれた事が基本で、それにすべて、合わさなければならない。


ところが不思議なもので、
普通お役所の申請書などの番地や氏名はこんなに厳しくはない。
住所なども少しくらいの表示の違いはOKなのである。
例えば、
登記完了して後、兵庫県に登記完了届出書を提出するのだが、これは3番地の15ではなしに3番15号の表示になっているのだが、これ自体は大丈夫なのである。


法務局となると、そのチェックは厳しくて一言一句違っていてはダメなのである。
3番15号では勿論ダメだし、例えば『更に』が『さらに』ではダメなのである。


今回の法務局の登記でも、チェックされたのはそんなところばかり、3箇所だけであった。
それでもわざわざ電話があって
『細かいところですが、直しますが、「よろしいでしょうか」』と仰るのである。

ダメだと言ったら多分通らないのだろうが、勝手に直さずに電話で問い合わせがあるところが面白い。


なぜ、こんな間違いが起こるのか?
多分パソコンが原因であろう。パソコンはコピーが出来て便利なのだが、ちょっと直したたところが、前の記録を修正せずに残ってしまうのだと思う。
今回、県のNPO係の方もこんなテニオハや、漢字平かなの使用などのチェックは、手馴れていてめちゃめちゃ早いのだが、なかなかすべてを直した通りに修正するのは難しいのであろう。

基本的な事柄は、何かほとんど問題なく修正なしで通ったような気がする。


今後、理事の追加や定款の変更なども、それは自由に出来るのだが、その手続きはこれと同じことが同じレベルで要るに違いない。

こんなのと比べると市役所などは大まかなものである、
それでも固い、融通が利かないというイメージがあるのだが。
後何日かでこんな仕事からも解放される。

でも、よく考えてみると結構上手に付き合えた。きっちりもやれば出来る。

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東国原総理?

2009-06-25 04:34:15 | 政治
自民党の古賀さんが東国原宮崎県知事に総選挙での出馬要請をしたのに対して、
その答え方が面白いとニュースである。

『知事会の申し入れ』も一言一句の修正もないこと。
『自分を総理候補として戦うのなら』 
と言ったとか。

思い切って言ったとは思うが、『ホンネだろう』と思う。

宮崎県知事に、『そのまんま東』で立候補した頃と比べて、どちらのほうが突拍子もない事柄なのか?
少なくとも今回は、自民党の総選挙対策の責任者の古賀さんが足を運んで要請したのである。
知事と違って、中央では一兵卒では何の面白みもないだろう。

実現性はともかくとして、発想としては理解できる。
自民党の中で、冷ややかな反応があるが、総理大臣というトップの座はリーダーとしての素質さえあれば、議員経験などそんなに必要ないと思う。

あまりにもリーダーとしての素質皆無の総理大臣が続いている。
「そのまんま東」は麻生さんに比べて劣るところ、足りない点も多いとは思うが、どちらか一人と『本当に言われたら』多分私は『そのまんま東』を推すだろう。


今の自民党の領袖と言われる人たちの顔はみんな同じに見える。
もう飽き飽きした。誰が出ても知れている、
面白みも意外性もない。

確かに民主党も実績がなくて頼りない。
でも今なら、民主党に1票を投じるだろう。

若し、橋本さんや、東国原さんを自民党が担ぐなら、気が変わるかも知れない。
経験などなくても、資質さえあればその地位に着けばチャンとやれると思う。
『知事は出来るが国は出来ない』と言いたいのだろう。
そんなことはないと思う。
自分たちの頭の上に素人が座るのが面白くないだけの話である。

幾ら長く議員を務めても、想いもなく、リーダーの資質のない人には期待できないのである。
この数年の自民党の実績が如実に物語っていると思う。

さて、どんなことになるのだろうか?




とここまで、昨日の朝か書いてFC2にアップした。
夕方のテレビで、東国原さんテレビのインタビューで本気だと語っていた。

「思い切って言ったとは思うが、『ホンネだろう』と思う。
宮崎県知事に、『そのまんま東』で立候補した頃と比べて、どちらのほうが突拍子もない事柄なのか? 」

と書いたが、ご本人も同じようなことを答えておられた。



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NPO 認証頂いて法務局に登記申請をしました

2009-06-24 04:34:27 | NPO The Good Times
昨日、兵庫県の認証を頂き、午後明石の法務局に登記申請をしてきました。
問題なく受け付けて頂いたので、今月中にはスタートが切れる状況になりました。

2月の設立手続きを始めてから5ヶ月、あっという間の出来事でした。


NPO The Good Times は、
『みんな繋いで楽しくいいときを過ごそう』
『異種、異質、異地域の人々を繋いでいくトータルシステム造りを目指す』
そんなNPO法人です。

価値観の多様化が進み、個人の生活だけでなく、いろんな団体やグループの活動も、それぞれが好きなことだけを断片的に行う傾向が強くなってきています。

『SNS には、知らない人をつなぐだけではなく、交流を通してつながった人同士の関係性を強化するという特徴があります。SNSを上手に使ってネット上の空間と実際の地域社会とが連動する仕組みを構築できれば、いま地域から消えゆこうとしている「人の絆」を再生・強化することができるのではないかと考えました。』
と兵庫県の地域SNSひょこむは述べています。

私たちは更に一歩進めて、「どこでも」「誰でも」「簡単に」「小さなリスク」で参加できる『仕組みの構築』を夢見ています。


でも、現実に動き出すまでは、なかなか説明が難しいと思っています。
あまり説明しすぎると余計に迷路にはまってしまいます。

いよいよ7月からは具体的に動きが出てくるかも知れません。

あわてずにのんびりといけるのは、NPOなるが故に、人件費が発生しない最低の経費がベースの経営だからです。
ソフト企画法人ですから『共感していただく仲間』と共にまっすぐに歩いてゆきたいと思っています。

柔軟な発想でユニークな活動を展開されるのは、会員の皆様です。
使い易い、いい仕組みを造り上げるのが、NPOの仕事です。
両者が協働して出来る世界が『Good Time』だと思っています。

直接の入会ご希望の方は、
法人登記が完了し、銀行や郵便局の口座が開設され、ホームページに表示が出来る日まで、もう数日お待ち下さい。

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武雄市 いのしし

2009-06-23 04:50:04 | 樋渡啓祐さんのこと
昨日の武雄市のブログ。

タケタクさんのブログも

武雄市民物語も

武雄市長物語も

みんないのししの肉を食ったお話である。
武雄人さんのブログの中に紹介されているブログたちはどれもこれもいっせいに、
『いのししの肉』の話題である。
この情報発信力は素晴らしい。

ブロガーが30人も集まって、その呼びかけは市民なのにその輪の中に樋渡さんも混じって、更に輪が広がるような感じなのである。

武雄市 いのしし』で検索してみた

こんなにいっぱいいろいろ出てきた。知事室も応援しているのである。

『武雄市いのしし課』で検索してみると、
こんな投書が現れた。

やはり意見はいろいろあって、賛成する人ばかりではないのである。
この回答の中のこんな文章で、私がずっとなぜかなと思っていた疑問が解けたのである。

『武雄市は、本来イノシシを食べる食文化がなく、有害鳥獣駆除期間(7月~10月)に獲れたイノシシをと殺後、埋設処分していた物を地域の資源として活用し地域の活性化に繋げようとする計画です。』

武雄では、『いのししを食べる食文化がなかったのである。』
私など、冬になると丹波篠山まで、わざわざいのししの肉を買いに行ったりするのである。
いのししの肉は好きである。
一番の思い出は、戦後の芋ととうもろこしばかり食べさされていて頃、父の友人が丹波から送ってくれたいのししの肉のうまさが忘れられないのである。
食欲旺盛な中学1年生の頃だったが、腹いっぱい飯を食った記憶はない。
そんな時期のいのししの肉だった。


時間があると言うことはいいことである。
あちこち見ていると結構時間は掛かるのだが、新発見もいろいろある。
今朝は、武雄のブログからいろいろと思った。

武雄はおおらかでいい。
そしてみんないろいろ考えている。
今度のNPOに参加頂いたタケタクさんのホームページを初めてゆっくり見せてもらった。
いろいろと考えておられるのである。 流石だと思った。

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ジェットスキーのジャンプ台と潮流発電

2009-06-22 04:40:47 | NPO The Good Times
鈴木清美さん、つい先日からのお付き合いである。
海流発電でNHKの取材を受けて7月にはBSで特集が組まれたりする。

福井昇君はジェットスキーの開発から直接携わって、そのレースで初期の頃だがチャンピオンになったり、アメリカ以外の世界の事業化にも携わって、日本のジェットスキー専門店の実質的な1号店、開拓者と言える。


昨日は、鈴木さんがジェットスキーのジャンプ台を作ったから見に来てくれと頼まれて、二人でお訪ねしたのである。
ひとしきり、ジェットスキーのジャンプ台の話が続いた。
商品の特性を知り尽くしている人の質問や講釈は流石だと横で聞いていた。
何でも新しいものにチャレンジされる鈴木さんも参考になったに違いない。


その後は自然に、潮流発電の話になった
この話は面白い。特に明石海峡大橋に繋いで夜のライトアップの電気を全部まかない、昼作る電機はどこかに売るという話は素人にもよく解る。



昼と夜、ざっとこんなイメージである。こんな風に繋いでおけば、ほぼ永久的に勝手に発電を続けるというのである。
ジェトスキーという世界で初めての海の商品の開発経験のある福井君の質問はいずれも核心を突いていたが、みんな明快に回答できるのは神戸大学や韓国の大学と一緒に研究を重ねた結果があるからだと思う。

開発金額はたいしたことはない。
形状や海に関係があること、発電関係等川重の船やガスタービンの技術はお役に立つかもと福井君は言う。


私に、なぜ関係があるのか?
鈴木さんのノヴァエネルギーも福井君のジェットスキープラザ明石も、
今回のNPOの協賛団体会員として既にホームページにバナーが貼ってある
NPO The Good Times の認証式は明日23日である。

会員企業のこんな面白い話がうまく運んでグッドタイムが転がり続けたらいいと思っている。



人のつながりやご縁は、面白い。タイミングもなかなかいい。
NHKのBS放送は、7月2日(木)か7月9日(木)「今日の世界」夜の11時15分からの放映である。

私自身も今まで人がやらない初めてのモノは沢山手がけてきたが、
これはスケールも大きく、時流にも乗っていてプロジェクトの質とレベルが桁外れである。NPOの仲間としてお手伝いが出来るだけでも幸せである。

どんな展開になるのだろうか?


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ボンデイングよりはブリッジング

2009-06-20 08:56:37 | NPO The Good Times
昨日、「合併よりは連携の時代へ」と言うブログをアップした。

「ひょこむ」の管理者こたつねこさん(和崎宏先生)から
『「ボンディング」から「ブリッジング」へ、時代の要請なんだと思います。
これは社会学のなかの「ソーシャル・キャピタル」論で使われている言葉です。
どっちがどっちということではなく、相互のバランスと補完強化的関係を構築することが、これからの地域づくりの基本であると考えられます。』
というコメントを頂いた。


時代の流れ、時代の要請を敏感につかんで、流れに乗ることが成功の鍵である。
マラソンなどと同じで、先頭グループの中に位置することも、大事だと思っている。
競争の世界では、遅れてしまってから後から追っかけるのは並大抵のことではない。
カワサキのスタート時代、骨身に沁みてその難しさは分っている。


今まで現実の社会での経験から言うなら、
合併や組織の統合には大きな権限や力が要るのだが、
連携は、大した地位がなくても、権限などなくても、何となく実現可能なのである。

20代の頃から、会社での地位などなかったが、仕組みさえ造ればいろんなことが、現実に動いてきたのである。
一番最初の経験は、入社2年目にチャレンジした『償却計算のIBM化』だった。
世も中の一流企業でもIBM等持っていなかった時代である。
カワサキ航空機は米軍がいたのでそれがあったのである。
民需と言うかジェットエンジン以外の仕事で初めて使ったプロジェクトであった。

そんあ、これが仕組みのよさ、ネットワーキングのよさだというのは、もう40年も体験し続けてきたのである。
仕組みを造らずに、物事を進めようとするので、形は整ったように見えるが目的は実現しないのである。
コンセプトを明確に打ち出し、そのコンセプトを実現できる『仕組みを造り』それを『提供すれば』権限などなくても、世の中には『共感してくれる』人は、間違いなく沢山いるのである。

逆に、上から力や、組織力で造り上げる『やり方』は、組織が出来ても『機能しないことが多いのである。
『組織を作ること』自体が目的になってしまうからである。
『そうだな』と感じられる方は多いはずである。



インターネットは素晴らしい仕組みである。
横一線で、その中心すら存在しない面白い仕組みなのである。
SNSは世の中にいっぱいある。これは『連携』 そのものである。 やりたい人が勝手に参加して繋がっているのである。

どちらも、権限も組織もないけれど、ちゃんと機能しているのである。
だがしかし、こんないい仕組みを、従来のタテ型のピラミッド型の感覚のままで使っている人がほとんどで、折角の宝の使い方が間違っていると、
私は何となく思っている。


もっと上手に使えば、『もっといい仕事が出来る』と言い続けたが、分ってくれる人は少ないので、実験的に「ひょこむ」などで昨年から自分でいろいろやってみた。
『インターネットといい仕組みを造れば動くはずだ』という仮説を立てて動いてきたのである。
いろんなことが、スムースにいっぱい出来た。
ネットとSNSの仕組みの良さなのである。

別に、権限があるわけでもないし、部下もいない。


この2月、NPOを設立することにした。
一言で言うと、『連携の仕組み』 『ブリッジング』である。

いよいよ今週、正式にスタートする。

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合併よりも連携の時代へ

2009-06-20 04:25:26 | 政治
「平成の大合併」終結へ 広域連携重視に転換
首相の諮問機関が「一区切りとすることが適当」という答申をまとめたようである。
今後は、合併で住民の声が行政に届きにくくなったなどという意見を踏まえながら、『広域連携重視の自治体政策』へと転換する。

99年に3232を数えた市町村が来年3月には1760に減ったが、住民の声が行政に届きにくくなる、伝統・文化の継承、発展が危うくなるといった「懸念が現実化している地域もある」ことも指摘している。

今後は、合併をしやすい制度を残しつつも、「広域連携や都道府県による補完」といった「多様な選択肢」を用意して、市町村が選べるようにすべきだという考え方を示した。
と大要、上のように新聞は纏めている。


私の住んでいる三木も、数年前に吉川町と合併した。
吉川の人たちにとってどうだったのかはよく解らぬが、三木全体としては、酒米『山田錦の生産量日本一』や『西日本一のゴルフ場の数』『よかたん温泉』などイメージ的にはよかったのではと思っている。

ここ数年、役所の人たちとお付き合いが出来たのだが、間違いなく吉川出身の職員の方のほうが『世慣れている』と言うか『まとも』というか『話易い』と言うか。
表現は難しいのだが、付き合いやすい良さがある。

『川崎重工業の社員』よりは『販社の人』、更に小さい『地方の代理店出身の人』のほうが、何となく付き合いやすかったのと、よく似ている。


大きい方が、全体の効率がいいのはよく解る。
しかし、小さい良さと言うのも捨てがたいのである。
『広域連携』や『多様な選択肢』と言っているが、どのようにそれを実現するのか?

小さな良さを残しながら、いいところだけを自由に繋いでいける『新しい仕組み』が出来ないものかと、
今回、NPO The Good Times を立ち上げたのである。

政治といった、そんな大それたものではないけれど、小さな町の活性化のお手伝いぐらいは出来るのではと、秘かに思っている。

『異種』『異質』『異地域』がそれぞれの良さを残したままでお互いに連携することにより、何かいいものを、グッドタイムを目指すことは、出来ないものか?
世の中の価値観は多様化している。
上からの押し付けでは、機能しないのである。

みんな『やりたいこと』を束縛されずに、自由に『やりたい』のである。
連携も、『やりたい同士』がやるべきである。

何事もそうだが、やりたい同士がやれば、うまくいく。
昨年やったミニ鉄道フェスタなどはその典型である。

鉄道車両を走らせたい人。
その場所を借りたい人。
場所を貸すことで人を集めたい人。
その鉄道車両に乗りたい人。
それを整理するためにカワサキワールドの入場券を利用する。
その代わり、運営の人を出す。

等、みんなうまく回るのである。
今年は2年目放っておいても、チャンとやれる。

お金も掛からない、いいイベントなのである。
みんな繋いだ連携の効果である。

わが町三木では、連携のブログ『三木おもろいわ』がスタートした

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右脳 左脳

2009-06-19 04:23:25 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
昨日、どこかで右脳と言う言葉に出会った。
右脳、左脳聞いたことはある。しかしそれがどうだと覚える気にはならない。
どちらでもいいことのように思ってしまう。

バランスシートの貸し方、借り方はいまだに解らない。
全然覚える気がないのである。ずっと右、左で通してきた。
それでいて、バランスシートは興味があるし、現実の経営指標としてはPLよりは数段役に立つ。

技術屋の高橋さんや田崎さんにいろいろ講釈したが、よく解ってもらえた。
『お前の説明はよく解る』と褒めてもらった。
中身さえチャンと解っていたら、貸し方でも借り方でもいいのである。


右脳、左脳に戻って検索してみると
こんなのに出くわした。

『自分が左脳型人間か右脳型人間か分からないもんです。よく芸術家は右脳型と言われます。でも、右脳も左脳も発達し、バランスの良い人間が理想です。』とある。

面白半分にやってみた。
その結果は『60点である』

そして、その評は馬鹿みたいに、いいのである。

『素晴らしい!右脳と左脳がうまくかみ合っています。あなたが考えたことを誰にでも納得させる力があります。なぜなら、あなたは右脳で全体を捉えることが出来、しかもこれを誰にでも分かるように理論付けできるからです。
まるで、あのアインシュタイン博士のようだ! 』

60点でアインシュタインであったら、もっと点数がよかったらどうなるのか?
いろいろ試してみたが、45点や55点は出るが、60点以上は出てこない。
50点以上出ると、上記の評が出るから、少々甘いのだが、2項目変わると35点になったりする。


そんなに頭脳明晰ではないが、バランス感覚はあるほうだと思っている。
結構、自己満足して終わった。

『右脳、左脳Wikipedia』もあったが、読む気にもなれない。パスである。
1時間以上いろいろとやっていたが、
結局、右と左の脳、どちらがどうなのか分らずじまいである。

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賃金の伸び続けた時代

2009-06-18 04:54:24 | 発想$感想
『成長望めぬ時代の進路は』と題する、朝日の特集があった。

その中に掲載された1表、『日本経済の歩みと賃金の伸び』その恩恵?をモロに受けたサラリーマン生活を体験した。
確かに、入社以来給料は上がり続けた時代であった。

いい時代であったと言うべきか、苦難の中でよく頑張ったというべきか。


この表も当然見えないので、こちらをご覧下さい。
昨日の二輪車の表もそうだったが、これも私のサラリーマン生活を振り返るために作って頂いたような表である。


『もはや戦後ではない』と経済白書がうたった翌年、神武景気といわれた昭和32年(1957)に川崎航空機に入社した。
給料は12000円、それも15日と月末の2回払いであった。

池田内閣が所得倍増計画をぶち上げたか、『本当かな?』と思った。
なかなか3万円にならなかった。結婚した63年ごろやっと4万円ぐらいだったと思う。そこから1万5千円の家賃を払ったりしていた。
背広は2万円近くしたし、靴も1万円に近かった。時計も高かったし、身につけるものは結構高かった、今とあんまり違わないのではと思う。

ちょっと、給料も上がったなと思い出したのは、オリンピックの後からだろう。
給料が10万の台に乗ったのは、昭和45年、37歳のころである。
このころから、どんどん給料は上がった。

年が15も違う上司の専務が、『君らは俺の今の給料を2年後に貰っている』といみじくも言われた。
ほんとに、大体その通りになった年が何年か続いた。
10万円から30万円位なるのは、何かすぐだったと思う。
クルマや家を建てることが一般的になったころである。

この表にある25.1%の伸びのころ、確か、私は30%以上給料が上がった年である。
ちょうど、この2年前に家を建てたのだが、2年分の返済分を借り増しして借金で返済していた。
自分で返済を開始する年の給料がちょうどこの30%以上上がった年で、若しそれを読んでいたとすると、絵に描いたような見事な計画だったと言えるのだろうが、そんなこと解っているわけがなく、ツキにツイテいただけの話である。

ちょうど2000年まで勤めたのだが、入社以来退職まで給料が下がったことは一度もない。辞めるころには、初任給の100倍にもなっていた。
と言っても、退職して大金が貯まっているわけでもない。
家計はずっと苦しかったと思う。

やっと余裕が出来たのは、退職前の僅かの期間で、考えてみると年金生活の今が一番のんびりしている。
金を使うことがほとんどないのである。
身ににつけるものも買わないし、食費も掛からない。


給料が上がり続けた時代に生きてきたが、
『成長が望めぬ時代に生きる』今の若い人たちの生活は、横で見ていると結構豊かである。
『苦しい』などとは言うが、昔の『苦しさ』とはその質、レベルが違うようにも思う。
自分のやりたいことは『結構やった後、苦しい』のである。

でも、今後、どんな時代が待っているのだろうか?

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国内二輪車販売台数の年別推移

2009-06-17 04:04:17 | カワサキ単車の昔話
ベタータイムスの7月号が送られてきた。
その中の1ページに『国内二輪車販売台数の年別推移』という統計表がある。


こんな一覧表で、これではとても見えないが、
これを更にクイックして頂けるとご覧になれるのである。

こんな表、数字の羅列で何の面白みもないのだが、ここに取り上げたのは私にとっては『宝物』みたいな表なのである。数字でその時代が想い浮かぶのである

この一覧表、なぜか昭和42年からスタートしている。
昭和42年の1月1日から私は仙台で初めて営業を経験するのである。
そんな私のマーケッテング実戦経験のスタートと同じ年からの統計なのである。
私自身のために今日はこのブログを書いている。
私のために纏めていただいたような表なのである。




昭和42年(1967)需要のほとんどはモペットであった。カワサキも実用車の時代で東北と九州が最大の市場だった時代である。中大型車などほんのわずかであった。
昭和45年(70)までが仙台だが、そのころになって急に国内市場も大型スポーツ車が脚光を浴びるようになった。カワサキで言えばA1、マッハ W1、が発売されて、実用車のカワサキからスポーツ、大型のカワサキに変わってゆく。
当然市場も田舎から都会へと変わったのである。

大阪万博があった昭和45年の11月から、仙台から大阪に異動した。
この昭和46年から50年までの5年間、大阪、名古屋そして終わりのほうは東京も含めて、東、名、阪の最大市場を担当した。あのZ2の時代である。
この時期は、営業と言うよりも販売網政策の特約店制度、部品の流通システム等トータルの仕組み構築のためにこの地区を担当していたので、ネットワークの構築に一生懸命であった。クルマを売り歩いたという想いではほとんどない。
船場さんや忍者の伊藤さん、名古屋の斉藤さんやYACの杉浦さんに出会ったのもこの時期なのである。
東京は城東、城南、城北、城西に北多摩モータース全盛の時代であった。


昭和51年(76)に10数年ぶりに川重単車の企画に復帰した。
当時の企画部は田崎さんもいたし、種さんもいた。森田、繁治さんもまだ若手であった。
調子のよかったアメリカにもかげりが見えてきて、CKD市場開拓をと起案したらお前がやれと言うことになって高橋鉄郎さんを担ぎ出して『市場開発室』を組織した。
東南アジアやイラン、ナイジェリアなど、当時の感覚では訳の解らぬ国を相手に、『世界にはいろんな考え方もある』『同じ二輪車を売るにも方法は色々ある』ものだということを学んだ時期、現実に世界を意識した時期でもあった。
後半はヨーロッパも担当した営業部になった。


昭和54年(79)突如アメリカのダンピング問題が起きて、国内の長すぎる販売ルートが問題になったのである。国内販売会社の構造的な赤字対策もあって、その基本対策の計画を担当した。ダンピングを担当していたのが田崎さんである。
このときも本社に頼まれて計画を作っただけなに、結局は担当することになって課長の分才で、国内グループ統括販社の常務をやらされたのである。
人生半分はツキだと思っている。この年、発売された400FXは売れに売れて1年ちょっとで販社の赤字も魔法のように消え失せた時期だったのである。

この国内担当の時期の後半に、あの有名なHY戦争が起こって国内だけでなくアメリカにも波及したのである。
アメリカが事業の主要市場であったため、カワサキにとっては大問題であった。
田崎さんも、そのあと高橋さんもアメリカ現地でのKMCを担当されたのだが、在庫過多、20%に近い高金利で大変な痛手を受けて 『単車事業の撤退』 が真剣に本社サイドで検討されたのである。
世界の中でただ一つ、国内だけが悠々としていたのである。

昭和58年(83)に急遽、単車企画に呼び戻された。企画部長をやれと言うのである。KMCにおられた高橋鉄郎さんに企画室長に戻って頂くことで、この危機は何とかなったのである。
大庭本部長、高橋企画室長、そしてKMCは田崎さん。この時代が一番大きな仕事が出来た次代であったと思う。
これを機に、単車事業の構造が変わったと思う。
PLだけでなく、資金、バランス、営業外の感覚が入ったし、組織的には海外販社を管理する関連事業部などができた。
このとき造った大きな仕組みは、今も継続されている。


事業部が安泰になって平成元年から、3度目の国内出向となった。
この時期もツイテいた。
ZERHREが出て、ジェットスキーも売れに売れて、国内7万台の販売が達成された。
サーキットや、自動車学校や、ユーザークラブKAZE、販売と言うよりこんなことばかりやっていた。
今、その続きのNPO The Good Times を立ち上げようとしている。



このデーターのグリーンに塗っているのが、第1線、現場に居た期間である。
そちらのほうが長いのである。販社から川重に出向したような会社生活であった。

大きな仕事のときには、いつも高橋鉄郎さんに助けてもらっている。
そんなことで、今回も相談役をお願いをした。
今までも何とかなったから、今回も何とかなると思っている。

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紙の単車屋さん

2009-06-16 04:09:12 | NPO The Good Times
盛岡の『紙の単車屋さん』、このたびご縁があって The Good Times でお付き合いすることになりそうだ。


この6月に新しくホームページもブログ型で再スタートである。
そんなバナーがNPOのホームページにも貼られている。


そのホームページの経歴を見ていて、こんな昔のサイトがあった。

懐かしい昔の明石のショールームの写真が出て来る。
そこに、こんなコメントが付されていた。



『 個人的に思っていました。
ホンダの次はカワサキと・・・
目標が現実となりカワサキというメーカーの心意気
がとても好きになりました。

「長いお付き合いをしましょう」
担当の方が私にそう言ってくれました。

言葉にならぬくらいありがたいことです・・・   』


この時期から何年が経っているのだろう。
昨年、ひょんなことで『紙の単車屋』さんと繋がったのは、
はっきりとは覚えていないが、
確か、仙台の服部カワサキで服部君も奥さんも岩手の出身だから、色々でた話に中に,私のことやブログのことなどあって、コメントを下さったのだと思う。


何かのご縁があったのだと思う。
当時のカワサキの担当どなただったのだろう。
その想いを引き継いで、The Good Times でも、今後も長いお付き合いになればいいと思っている。


『生きるということはとても大変なことである。
でも、その生きるという旅を楽しくするのも自分次第なのである。
楽しいことにせよ、辛きことにせよ、
想い出が語れるということは良き人生であったということではないだろうか。

夢を目標に変えるスタンスさえあれば、
願いはいつか一生懸命になった分だけ叶えられるものと信じている。
己を信じ、己を好きになり、心から感謝を。

私は一生そんな願いを叶える旅をしたい・・・    』
 
『紙の単車屋の石田さん』はこのように結ばれています。



「思い出を共有する人たち」のことを『仲間』と言うのだと、私は思っています。


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