雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

抜けるような青空、もう春!

2023-02-28 06:53:34 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

めちゃいい陽気だったので、ジムでの筋トレの後、
 三木山総合公園を1時間ほどスロージョッギングしてきた。

 周辺の景色もよかったが、何よりも「抜けるような青空
 ホントに気持ちがよかった。
 いっぱい写真を撮ってきたが、どの写真にも雲一つない青空である。


  

 
 こんな綺麗な空だった。




 この周辺は、かっては所謂「三木山」で
 何の施設もなかった山だったのだが、
 今はいろんな施設などが創られて
 「三木山総合公園」と名付けられている。

 この「頂き」がかっての「三木山の山頂」なのだろう。





 その「頂き」からの眺めである。
 この一帯がかっては丘陵地帯だったのだが、
 こうしてみると、この辺りで一番高い位置にある。





 四方が開けてこんな眺め。




 
 スポーツ公園なのだが、
 




 
 こんな周回路もあるし、公園らしい休憩所もある。





 三木市の管理だが、いつもきれいに整備されている。






 朝、もう少し早いと散歩される方も多いのだが、
 10時ごろになると殆ど人影は観られない。

 8時半に体育館の前に車を止めて
 10時半まで約2時間、体を動かしてきた。

 


 明日からは3月、もう春だなと実感する陽気だった。



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大谷と藤浪対決

2023-02-27 06:40:33 | スポーツ

★WBCも面白そうだが、
 「大谷と藤浪・9年ぶりの対決」というニュースも流れて、
 これもなかなか面白そうである。

 藤浪は高校時代の活躍が頂点で、
 その後のプロ入り以来は、期待はされながらも、
 阪神時代はもう一つだった。

 私はなぜか「藤浪が好き」である。
 いかにもピッチャーらしいというか姿・形がピッチャーになっている。
 今回、アメリカ大リーグという新天地での活躍を大いに期待しているのである。





2人の初対戦は大谷が花巻東、藤浪が大阪桐蔭だった12年センバツ1回戦で、
ともに先発のマウンドに上がり、2回の1打席目に大谷がスライダーを捉えて右翼席へソロ本塁打を放ったが、
投手・大谷は9回途中9失点(自責5)で大阪桐蔭が逆転勝ち。
プロ入り以降は、2014年3月8日のオープン戦で「藤浪ー大谷」は9年ぶりの対決だという。

★高校時代は藤浪のほうがスター性もあったのかと思うが、
 今は、大谷は「世界一の野球選手」と言ってもいい大スターである。
 アメリカでの初登板がエンゼルス戦で、「大谷との投げ合い」になるとは、
 藤浪もツイている。


 大谷選手との対戦を聞かれて、
全部敬遠します」などと言ってたが、
 まさかその初対面が投手としての投げ合いになるとは、この時には想ってもいなかったのだと思う。

 アスレチックスのコッツェイ監督は「スプリングトレーニングの試合とはいえ、エキサイティングだね」と話し、
最初のオープン戦登板であるため、藤浪は35球ほどをめどに投げさせる予定だそうである。
  



「藤浪の“覚醒”にメジャーのスカウトが太鼓判「こちらには日本にはない長身投手の育成ノウハウがある」などと言っている。
藤浪、化けないかな?

 面白そうだが、日本でテレビ放映はあるのだろうか?



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なぜ新開地は衰退したのかな?

2023-02-26 05:54:01 | 発想$感想

今の神戸の中心地は「三の宮」だろう。
 私が子どものころは神戸の繁華街は新開地だったし、
 「いいとこいいとこ聚楽館」と言われていた聚楽館はスケートリンクもあって、
 学生時代までは神戸に行くというと「新開地」だったのである。
 かっての中心街の一つの「元町通り」も三越がある神戸駅のほうが賑やかだったのだが、
 いつの間にか東の元町・大丸になり、
 更に元町よりは「センター街」が中心になって
 今は間違いなく神戸の中心は神戸駅よりは三の宮駅なのである。
 
 なぜ、このように極端に東の方に移って行ったのだろう?

 
★ 衆楽館はこんな建物だった。
 そのすぐ横を通っていたのが「新開地通り」だったのである。


  



 当時は、映画を観に行くのは新開地だったし、
 その先の衆楽館は新開地の象徴のような建物で、
 いつも賑わっていたのである。



  
 

 そんなことで新開地の変遷などちょっと調べてみたら、
 こんな風に書かれていた。
 
 神戸・新開地は、1905年(明治38年)旧湊川を埋め立てた跡地に自然発生的に生まれ、
 瞬く間に芝居小屋や活動写真小屋が立ち並び、一大歓楽街となった。
 その繁栄ぶりは、「東の浅草、西の新開地」と謳われた。
 1945(昭和20)年の神戸大空襲で地区は全焼したが、戦後、映画館を中心に次々と娯楽施設が復活。
 1km弱の新開地本通りに20以上の映画館が軒を連ねる有数の「映画のまち」 として大いに賑わったのだという。

★確かに私の大学時代は神戸に行くというと、三の宮よりは新開地だったのである。
 私が就職したのが昭和32年なのだが、
 その1957(昭和32)年に新開地のすぐ北にあった神戸市役所三宮地区に移転してから衰退がはじまったという。
 娯楽の多様化により、映画館への来客数に陰りが見えはじめ、まちを支えてきた名物映画館や演芸場が次々と閉鎖され、
 市電の廃止などでターミナル機能を失い、集客の勢いが失われたという。

 更に、こんな記述があってびっくりした。

 1970年代(昭和50年代)には、毎日大量の来街者を得ていた沿岸部の川崎重工の工場が移転・縮小し、新開地の衰退は決定的になったという
 新開地の衰退に「川崎重工業」の名前が出てくるとは思わなかった。
 確かに当時は本社も造船工場の中にあったし、造船一筋だったのだが、
 3社合併があり、事業の多角化で工場が分散したのは間違いない。

 


 川重の神戸工場新開地は繋がっていて、
 衆楽館は川重からは1km先なのである。

街の中心は時代とともに変わって行くようなところがある。
 かっては銀座が中心だったが、
 最近は「渋谷の話題」が取り上げられることが多い。
 かって渋谷には親戚があって、出張したらいつも泊めて貰っていたのだが、
 その頃の渋谷は今のような華やかさはなかったように思う。

 いろんなことで街も変遷するものである。

 
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雨の日のジョッギング

2023-02-25 06:25:39 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 昨日は久しぶりに朝から小雨だった。
 朝のスロージョッギング、どうしようかなと思ったのだが、
 三木総合防災公園の陸上競技場はこんな本格的な競技場なのだが、

  

 
 その周りは何とか雨が掛からないようになっているので
 その周りをぐるぐる約2時間走ってきた。
 
 こんなところである。



 

 
 外はこんな雨模様なのだが
 


 
 競技場の周りはこんな感じになっていて、
 雨は掛からないようになっている。




 1周に約10分ほど掛かるから、結構1周の距離はある。


★ このところ毎日の消費カロリーを2500cc以上と目標をたてたので、
 午前中の運動で1500カロリーぐらいのなると、大体達成できると解ってきたので、
 それくらいになるまで頑張っている。

 時間にすると約2時間、距離は8km。歩数は13000歩ぐらいにはなる。
 もうすぐ90歳になる高齢者としては非常に高い目標なのだが、
 毎日やってるとそれが出来るようになるから不思議である。
 88歳辺りは6000歩ぐらいだったが、
 昨年というか89歳の頃は8000歩
 今年になって1万歩を目指したが、最近は13000歩ぐらいの実績になっている。
 
歳をとっていても毎日やってると、「出来るようになる」のが不思議である。
これもFitbitのお陰で、そんな記録が腕に付けてるだけで
自然に出てくるので励みになっている。
 多分高齢者ではなく、一般男性の目標値だと思うが、
 それを越えると「緑色」になるのだが、
 その一般の目標値は
 歩数6000歩・距離8km・アクテイブな時間40分・消費カロリー2323カロリー なのだが、それらはみんな達成なので「緑色」なのである。

 未達成の場合は「柿色」なのである。
 いま夕方の4時だから、消費カロリーは未達成で2083カロリーだが、
 この時間にここまで行ってると、たぶん2500カロリーはクリアできるだろう。


 


 こんな表になって現れるので、励みになっている。



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天皇誕生日   雑感

2023-02-24 06:35:41 | 発想$感想

★2月23日は「何の祝日かな」と思ったら天皇誕生日だった。
 長く生きたものだから3人の天皇陛下の御代に生きている。


  

  
 私のコドモの頃は「天長節」(4月29日)と呼ばれていて、
 明治天皇の誕生日の「明治節」(11月3日)と並んで4大節の一つだった。
 天皇誕生日と呼ばれだしたのは昭和24年からだというから戦後のことなのである。

 
 天皇誕生日は4月29日だと思っていたら、
 明仁・現上皇の誕生日の12月23日に変わり、
 更に現天皇の誕生日の2月23日に変わったのである。


★ 天皇陛下で想い出に残っているのはやはり昭和天皇である。
 昭和20年8月15日の終戦の日の玉音放送は、まだ中学1年生だったが、
 炎天下のグランドで直立不動で聞いたのだが、よく聞こえなかったが、
 戦争に負けたということだけは解った。

  


 当時は「天皇陛下」という言葉を聞くときには、常に姿勢を正すという時代で、
 そんなことは小学生時代から躾けられていた。
 そんな天皇陛下だが戦後の神戸行幸の時には、
 昨日も触れたが神戸にホテルがなくて、神戸一中の教室の一つを改造して泊まられたのだが、
 その時に私のクラスは「天覧授業」を経験した。
 「天覧授業」は教室の後ろからご覧になるのではなくて、
 教室の前のほうに立たれたので、ホントに直ぐ近くでお姿を見ることが出来た。
 中学2年生の頃の話である。
 



 
 真偽のほどはよく解らぬが、
 その後、聞いた話ではGHQが何故天皇が神戸一中に泊まられたのか調べたら、
 神戸一中は英才教育の学校だということで
 その1年後には男女共学・さらには学区制という新しい制度が敷かれたというのである。

 私がいつも「勉強したのは中学2年生まで」と書くのは
 中学3年生の時、男女共学になったら、授業内容が1年ほど逆戻りしたし、
 高校に入るときに学区制になって明石高校に転校したら、
 ここでもまた1年ほど授業内容が逆戻りして、ホントに勉強する必要がなかったのである。


★それは兎も角、明治天皇・昭和天皇もその後の天皇陛下も「天皇誕生日」は祝日になっているのに、
 大正天皇の場合はなぜ「天皇誕生日がない」のか?と不思議に思っていたのだが、その理由がやっと何となく解ったのである。

 大正天皇の誕生日は8月31日で、大正時代には天長節としてあったようだが、
 盛夏のころに正装で集まるのはやめようということになり、8月31日はお誕生日としてお祝いし、10月31日を「お誕生日祝いする会の日」としてお祝いすることになったのだということで、大正年間は「天長節」に関する休日が2回あったというのである。
 当の陛下が8月には日光の旧御用邸 にいかれていて、皇居におられないのだから、
 祝賀会のやりようがないということだったようである。

★ご生前は、昭和天皇とか平成天皇とは呼ばないそうだが、
 明仁・現上皇は1933年生まれなので、
 私と同い年なので、今年の年末には90歳におなりになる。
 「いつまでもお元気で」と申し上げたい。

 天皇誕生日にいろいろと想った。


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修学旅行とサッカー決勝戦

2023-02-23 06:11:49 | 発想$感想

★ こんなニュースが流れた。
 神戸弘陵のサッカー部が近畿大会の決勝戦と「修学旅行」の日程が重なったので、決勝戦を辞退し履正社が不戦勝で優勝したらしい。

 これを聞いてびっくりした。
 いい悪いではなくて、時代が変わったというか、
 世の中にはいろんな考え方があるものである。





辞退の経緯は注目を集め「部員の総意と思いたい」「本人たちが納得してるなら全然良い決断だと思う」
「この世代は中学の修学旅行がなかっただろうか、生徒が納得してるならこの判断も理解出来る」
とさまざまな声が寄せられたようだが、 
自分がサッカー部だった時のサッカーへの情熱を考えたら絶対試合した。」などとの意見も寄せられている。

 
★ 私は学生時代に修学旅行なるものを経験していない。
 小学生の時は戦時中で「修学旅行」など考えもされなかった。
 中学時代は戦後で世の中にホテルや旅館などなかった時代なのである。
 天皇陛下が神戸行幸をされた時は、神戸にホテルがなくて、神戸一中の教室を改造した部屋にお泊りだった。
 お陰様で私は「天覧授業」を経験したりした。
 高校時代は「修学旅行」は有ったのだが、その期間に野球部で山陰地方を周った遠征試合があって、それに参加したので、修学旅行には参加していない。

 だから「修学旅行の楽しさ」などは知らないのだが、
 近畿大会のそれも決勝戦を棄権して、修学旅行に行くなどは、
 私の年代では考えられないことのように思う。

 神戸弘陵のサッカー部の判断にただただ驚いているばかりである。
 それが「いい悪い」ではなくて、「世の中にはいろんな考え方があるもの」と思った。

 
 


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今年の春は早いのかな

2023-02-22 06:47:55 | 発想$感想

★ 2月も20日を過ぎてるのだが、
 昨日あたりはまた寒さがぶり返して、
 この辺りでも朝から何度か雪がちらついたりした。

 でも、今年の春は早いのかな?
 我が家の庭の福寿草がもう芽を出している。

 例年芽を出すのは、3月に入ってからだと思ったのだが・・・
 今年の冬の寒さはどうだったのだろう?
 暖冬だったような気もするのだが、もう一つよく解らない。


 



 私の感覚では、庭の福寿草が芽を出せば「春だな」という感じを持っている。


★ そう言えば、公園の梅もこんなに花開いている。


 







  我が家の梅は、まだ蕾なのだが、
  この梅たちは早咲きなのかな。


 あと10日もすれば3月だから、
 「ぽかぽか」とした春の暖かさがやってくるだろう。


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明石と私

2023-02-21 06:19:34 | 発想$感想

★最近になって明石が急に全国区で話題である。
 人口が減少する中で「10年連続人口増」だとか
 「全国戻りたい街第1位」だとかになっている。
 
 

 こんなになったのは
 こんな名物市長さんの功績なのか?


 


 いろいろ言われてはいるけれど、結構なことである。


★私自身は、明石とは結構深いご縁があるから、
 明石が有名になることは結構なことである。

 私と明石はどんな関係があるかというと、
 ●ずっと昔松平家のお殿様と一緒に福井から明石にやって来たらしい
 ●そんなことで松平家の菩提寺・長寿院にお墓がある
 ●生まれ故郷もかっての武家屋敷のあった上ノ丸だが
 ●中学校は神戸だが、高校は明石高校だった
 ●高校時代は野球部で明石公園の球場で練習し
 ●昭和25年の夏には甲子園にも出場した
 ●明石は川崎航空機があったので戦時中にひどい空襲があり
 ●旧い明石は焼けてしまって本家も焼失してしまったが
 ●ご縁があって私はその川崎航空機に入社して40年もお世話になった
 ●川崎航空機に入社したのは伯父が明石でやっていた錦江ホテルが戦時中に軍の宿舎に接収された関係で繋がった
 ●今は三木に移ってきたが、年に何回かは墓参に明石を訪れている

★そんなことで私の本籍は今でも「明石市上ノ丸2丁目720番地」なのだが
 今はそこには20軒以上の家が建っていてそんな番地は現存していない。
 そのほんの一部だが「本家」は今でもそこにいる。

 明石との関りはいろいろあるのだが、
 息子は鎌倉、娘はアメリカにいて明石とは無縁なので、
 明石との関りも「私の代」で終わってしまうのだろう。

 そんなこともあるので想い出いっぱいの明石の写真を並べてみる。
 
 これは私の生まれる前の写真だが、私が産まれた上ノ丸の屋敷である。
 祖父も写っているが私は祖父を知らない。
 この当時はここは別荘で

 
 

 今の魚棚のある細工町に本宅があって、
 これは伯父も父も早稲田の大学時代の写真だが、





 真ん中で母に抱かれているのが私、
 一番右は母の兄で国鉄スワローズの初代総監督・楠見幸信
 ベーブルースと戦った当時の全日本の1番センターだったとか。

 




 これは伯父が経ってた錦江ホテル。
 明石城は錦江城と呼ばれていて「錦江」は明石を表している。
 このホテルが戦時中に軍の宿舎にするということで接収された関係で
 当時の川崎航空機とのご縁が出来た。




 こんな旧い写真を見ると、
 戦前までは、私も「ぼん」で育ったようだが、戦後に生活は一変した。

 明石高校時代、よく練習した明石公園の明石球場である。
 お陰様で昭和25年の夏は甲子園出場もしている。

 

 
 ご縁があって川崎航空機の明石工場に40年間お世話になった。





 今は三木に移ってしまったが、
 年に数回は墓参に明石に行くことになっている。


  


 いつかは私もここに戻って来て
 子午線の通っているこの地で永久に眠ることになるのだろう。
 いろんな意味で、私にとって「明石はなかなかいいまち」なのである。




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めちゃ賑やかだった三木総合防災公園

2023-02-20 06:52:43 | 発想$感想

★ 毎朝のようにお世話になっている三木総合防災公園だが、
 いつもはホントに人は少なくて、公園を借り切っているような感じなのだが、
 この週末には中学生の「駅伝大会」があってこんなに人がいっぱいだった。

  
  



 こんなことは滅多に見られない風景なのである。
 ここ公園は駅伝でもマラソンでも十分にできる広さで、
 街の中の道ではないので交通整理なども全く不要なのである。
 立派な陸上競技場もあるから、そんなトラックも使いながら、
 いろんなコースが取れるようである。

 女子が11時からだそうで、まだ始まってはいなかったが、
 コースを試走したりしていた。



 


★このほかにも週末には沢山あるコートでサッカーの試合や練習があるのだが、
それはサッカーコートの中だから、少々人が集まっても目立たないのである。


 
 

これは高校生だと思うが、沢山集まって体操をしていた。
こんなことも滅多にない風景である。

  


この週末はこんなに人の目立つところもあったが、
それはごく一部で、少し離れるといつものようにこんな感じなのである。

広い」ということは、いいことだと思う。

 

 
 こんなに広い公園があちこちに沢山あるのは三木だけのように思う。
 ホントに三木は、アメリカのように広い公園がいっぱいなのである。
 それも、近年というか山が開拓されて、幾つもの公園になっているので、
 昔からあった訳ではない。

 いま私が住んでいる緑ヶ丘も、かっては山か丘だった地域で、
 この三木総合公園とは地続きなのだが、
 そこまではクルマで来るなど、隣と言ってもホントに広大なのである。



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実力・体力、それよりも運かな?

2023-02-19 06:38:30 | 私の生き方、考え方&意見

★世の中の大学でも会社でも試験があり、成績により合・不合格がある。
 学生時代は神戸一中の2年生まではよく勉強したが、それ以降は勉強した記憶がなくて、学生時代は野球漬けで卒業した。
 でも人生で受けた試験で落ちたことはないのは「運がよかった」と思うし、
 何を持って「実力」というのかは解らぬが、
 自分では何となく「実力はある」と思っている。

★日本の社会は「学歴社会」と言われていて、
「どこの大学を卒業したかを重要視する」慣習を「学校歴社会」と呼んだりもする。



 
 
アメリカの社会は、Microsoftのビル・ゲイツ、Appleのスティーブ・ジョブズ、Facebookのマーク・ザッカーバーグななどみんな「大学中退起業家」で、
アメリカは実力一本で勝負する世界だ」と思っていたが、
アメリカは日本以上に就職には大学での成績が重要視されたりするらしい。


孫の次男はアメリカのバークレーを出ていて、
バークレーは世界の大学でも常に上位で、東大よりはずっと上位にいる。
そんな大学に推薦されたのだから高校での成績もよかったのだろうか?

ただ彼はそんないい大学を卒業しているのだが、
会社に就職などするのではなく、今はサッカーのプロ選手なのである。


 


サッカーのプロなどは学歴などは要らないと思うのだが、
若いころは兎も角、サッカーが出来なくなったら、どうするのだろう?
とは思う。

 ただ彼はこんな絵も描ける才能もあるし

 
  

 料理もめちゃ得意だというから、
 サッカー選手を止めても何とかなるのだろう。
 人の人生いろいろだが、「学歴や実力」も大事だが、
 「最後はそれよりも運かな」と思ったりもする。


★ 私自身はもう90歳だから、ほぼ人生も終わりだが
    現役時代も「自分のやりたいこと」ばかりが出来て、不満は全くない
 これからの人生は「体力次第かな」と思っているが、
 その「体力」には今のところ相当の自信があって「TOPレベル」にあると言い切れるし、毎朝動いて頑張っている。

 でも、これから先「どんな人生」になるのだろうか?
 家内が元気なうちは大丈夫で「家内次第かな」とも思っている。
 そう言う意味では「家内と巡り会えた」のが人生で一番の幸運だったのかも知れない。

 ホントに今は「自分のやりたいことだけやって」生きている人生なのである。
 若し家内がいなければ、こんなことにはならないのである。
 90年も生きられたのも「運がよかった」のだと思うが、
 やはり「人生、その人にツイている運かな」と思ったりもしている。

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NPO The Good Times の今後の方向

2023-02-18 07:07:13 | NPO The Good Times

★ 今日は神戸でNPO法人The Good Times の今後の方向について
 こんなメンバーでいろんな議論をした。

 この4月以降理事長就任が予定されている藤本喜子さん、
 NPO The Good Times のホームページを担当されてる松嶋裕さん、
 今回「二輪文化を伝える会」会長を松嶋裕さんに譲られる村島邦彦さん
 それにこのNPO法人の立ち上げ以来何かと関わってきた
 4人のメンバーで結構長時間にわたって本音の議論が展開されたのである。

 
  


 NPO法人The Good Times は2009年6月に
 KawasakiのGood Times コンセプトを受け継いで
 「異種・異質・異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう」という
 基本コンセプトで14年間活動してきたのだが、
 各理事さんも高齢化して、今期を最後に
 藤本喜子さんに理事長を引き継いでいこうということになっている。

 そんなことで神戸のボランタリープラザや、
 県庁のNPO担当部門で具体的な引継ぎ事項などを確認した後に、
 東京からやて来た、村島さんと松嶋さんを加えて新神戸駅のすぐ横の
 ANAプラザホテルで打ち合わせを行っていたのである。

★これを機会に、NPO The Good Times のホームぺーも現在の状況の最新の内容に修正すると同時に、今後の方向に合うものにしていこうと思っている。

 藤本さんが写してくれた写真だが、
 私もいろいろとこのNPO法人には想い入れがあるので、そのあたりを喋っている。


 
 

  なかなか理解していただくのはムツカシイかも知れぬが、
 そのあたりのNPO法人とは完全に「差別化」出来ていて
 ネットがベースだから、費用は掛からないし、世界展開も自由だし、
 「いいシステム」に出来上がっていると自負している。

 今後、藤本・松島コンビでの展開になると思うが、
 20年は大丈夫だと思うし30年も可能かも知れない。
 このシステムは現在の世界に展開する1万人の個人会員は増えることはあっても、
 減ることはないし、スタート以来ホームページを訪れた方の数は13万人にも上るのだが、
 これもカウンターを付けているので増えていくのが毎日解るので、
 ぜひ新コンビで00万人を目指して欲しいと思っている。

 こんなホームページなのである。


  

 
 これを4月以降新藤本理事長に引き継ぐまでに
 出来る限りの修正を松島さんにはお願いしたいと思っている。
 
 3月25日には神戸ベンチャー研究会では、
 「NPO The Good Times の事業継承」について藤本さんと私が発表することになっているのだが、
 それまでにホームページの第1次修正をやりたいと思っている。

★このブログは一般の方がお読みになっても、
 もう一つお解り難いと思うのだが、
 私にとってはこのプロジェクトは「今年の一大テーマ」なので
 今日、お会いした4人のメンバーとの間の確認事項としても
 ブログにアップし残しておきたいと思っているのである。

 これから約2か月、藤本喜子新理事長が実現するまで、
 14年前にこのNPO法人を立ち上げる時のような情熱をこめて、
 私の「90歳代の初仕事」として頑張ってみたいと思っているのである。


 
 
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私の一番の大仕事? SPA直入

2023-02-17 06:56:56 | 私の生き方、考え方&意見

★ 現役時代は「世の中でもはじめて」という種類の大きなことを結構いろいろとやって来たのだが、
 日本で初めて一般のライダーが走れたサーキット「SPA直入」を創ったことが、私の1番の大仕事だったかも知れない。 

 それは1988年時代のことだが、
 当時も日本には鈴鹿FISICOもその他いろいろサーキットは有ったのだが、
 それはどこも「レースライダー」以外は走れなかったのである。
 世はまさに「レーサーレプリカ全盛期」で街にはそんなスポーツ車が溢れていたのだが、
 そのユーザーたちはサーキットは勿論は走れないし、
 走るところがないので、峠にたむろして「峠族」などと呼ばれていた。
 各メーカーとも「レーサーレプリカ」を開発しておきながら走る場所は「ユーザーまかせ」というのは無責任だなと思ったりもしていたのである。
  

★当時カワサキは大分県直入町に広大な土地を持っていて、それはテストコーを創るべく購入したのだが、
 当時のHY戦争などのあおりで、カワサキの二輪事業は危機に瀕していて
 テストコース建設などとてもではなかったのである。
 土地を購入しテストコースを創ることで、地元の直入町には人も雇用するなど約束していたので、
 直入町はいつまで経っても実現しないテストコースがいつできるのかと
 年に何度も明石工場までやって来て督促するので困り果てていたのである。

 そんなことで費用の掛からない「モトクロス場」でも造ってお茶を濁そうかという話になっていたのを私が聞きつけて、
 「小規模なサーキット」を創ってはと提言したのである。
 ちょうど営業にいて「峠族」は問題だと思ったし、
 「小さなサーキット」で一般ユーザーを走らせたらいいと思ったのである。
 

★「一般のライダーを走らせる」のは当時の常識では「危険」ということだったが、 
 二輪車とはそんなに危ない乗り物なのか?
 一方通行で、信号もないし、カーブには転倒時の安全地帯もある。
 「出来る限り安全に徹したサーキットを創ればいい
 ということで、当時の高橋鐵郎本部長の承認を取って踏み切ったのである。

 土地はすでに所有していたので、建設費は4億円弱でできたのだが、
 こんなコースを創るには本社の承認が要るのだが、
 サーキットを造るなど川重では初めてのことだし、
 その是非など判断ができる人は当時の川重にはいなかったのだが、
 当時は大庭浩社長の頃で、大庭社長が単車事業本部長をされてた時の番頭役を私が務めていたので、絶大の信頼があって、
 「古谷がやると言うのならまあいいか」ということで承認が取れて、
 本社の企画・財産あたりも具体的な建設に大いに手伝ってくれたのである。


★若いころからレースを担当していたので、何となくは解っていたのだが、
 さて、ホントに創るとなると会社でも経験者は皆無なのである。
 それに担当してくれた工事会社もサーキットなど初めてなのである。
 
 それを私と、私の後のレースを担当してくれた岩崎茂樹と二人でスタートしたのである。
 そのためには既にあった地方のサーキットを観に行ったりしながら、
 まさにすべてを二人で「起案」したのである。
 これがSPA直入だが、1周2kmほどの小さなサーキットだが、
 安全のためにコース幅は鈴鹿サーキットと同じだし、
 カーブは登り勾配に配置して、グリーンベルトはめっぽう広くとっている。
 サーキットの建設費はコース舗装費などよりも一番多く掛るのは「土を動かす量」なので、
  出来る限り「動かす土の量」が少なくなるようになコース設計をしている。
 
  


 そんなことを想いだしながら、改めて「SPA直入」を観ているが、
 日本で「一番美しいサーキット」と言えるかもしれない。
 こんな自然環境の中に存在している。
 
 
 


★ なぜ、いま突然 SPA直入のことをアップしてるのかというと、
 極く最近の二輪車新聞の記事に
 「愛車でサーキット体験」それも「レーシングスーツ不要」というのである。


  

 
 「時代も変わるものだな」と思ったのである。

 「SPA直入」は1990年4月15日にオープンし、
 当日は直入町に4000人ものユーザーが集まり、
 直入町長は「有史以来、直入に一番多くの人が集まった」と挨拶されたのを想い出す。
 直入町は自然豊かな環境の中にあって、長湯温泉で有名なのだが、
 SPA直入のSPA は温泉だが、もう一つの意味は
 「スパ・フランコルシャン24時間レース」などで有名なベルギーのサーキットの名前と賭けている。
 その名付け親は、物知りの「岩崎茂樹」なのである。

 いまカワサキは九州にオートポリスSPA直入の二つのサーキットを持っているのだが、
 SPA直入は当初の基本コンセプト通り、今でも結構沢山の方々に愛されているサーキットなのである。

  

 
★ 当時、日本のどこのサーッキットも一般ユーザーは走れなかったのだが、
 先ほどの記事にもあるように、
 今では日本中のサーキットで一般ユーザーが走れるようになったのである。

 これはその当時のSPA直入での写真だが
 左から岩崎茂樹、いろいろと応援してくれた田崎雅元さん、
 それにのスリーショットである。
  

 


 新しい時代を切り拓いていったという意味で、
 小さなサーキットだったが「私の一番の大仕事」だったかも知れぬし、
 こんなことは私以外には、なかなかやる人はいないのである。
 ある意味「無茶」なのだが、
 何となくうまくいくのは「ツイている」のだと思う。



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ガクチカ って何かな?

2023-02-16 05:32:53 | 発想$感想

★ NHKのニュースで「ガクチカが書けない就活生」などというニュースが流れていたが、
 「ガクチカ」の意味が解らない。

 


 日本人は何でも略してしまうのが好きな民族だというが、
 そう言えば世の中には略語が充満していて、
 私なども普通に使っている略語もいっぱいだが、
 ちょっと昨今は行き過ぎかな?とも思ってしまう。
 「正しい日本語が失われてしまう?」などとも言われるが、
 もうこの流れは止まらないようにも思う。



 

 
 ところで「ガクチカ」とは、就職活動においての用語、若者言葉で、
 就職活動中の学生が面接官に答える「学生時代に力を入れたこと」を略したことのようである。
多くの企業が採用時に「ガクチカ」の質問をしているのだが、
コロナ禍によってオンライン授業が増え、サークル活動やアルバイト、留学も制限されるようになった結果、
学生時代に力を入れたことがなかったり、事情によって思うような大学生活が送れなかったりしたことから、
ガクチカ」が書けない学生が増えたということのようである。
なるほどとも思うが、世の中はどんどん変わって行くのである。

★「ケータイ」「ラジカセ」のように、本来の言い方である「携帯電話」「ジオ・カセットテープレコーダー」の一部を省略した略語なのだが、
略語なしではやっていけない現実がある時代なので、略語に対しても柔軟な姿勢で臨む必要がありそうである。
現在では略語の方に代用物という感じがなくて、「テレビ」「ガム」などは本来の言葉を使う方が不自然である。

 ただ昨今の若者の使う簡略語は単に短くしたものだけではなくて
いろいろあるので、私など半分は意味不明なのである。


 
 

★ 日本語は美しい言葉のようだが、
 考えようでは和歌も俳句も長い言葉での表現を簡略化したような気がする。
 ただ、それはそれなりにルールがあったが、今の若者言葉にはルールがない。

 果たして今後の日本語はどのような変化が起こるのだろう?
 若者だけではなく「ガクチカ」などはNHKのニュースで流れる時代なのである。






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カワサキZの源流と軌跡

2023-02-15 06:32:11 | カワサキワールド

★ カワサキZ1誕生50周年を記念して「カワサキZの源流と軌跡」の記念出版で、確か3回目の発刊である。



 


 当時のカワサキの単車事業を支えた浜脇洋二・大槻幸雄さんを筆頭に
 こんなメンバーたちが執筆をした共著なのである。
 
 私もこの本の最後の章を担当していたのだが、
 今回は記念出版でカワサキモータースの伊藤浩社長
 「名車からのエール そして将来への展望」と題して
 最終編を新たに執筆されている。

  



★こちらが「国内レースとZ2販売」と題した私の最後のページなのだが、
 NPO The Good TImes の話や個人ではFacebookで今でもお付き合いのある
 清水久美樹・北澤秀一さんや登山道夫さんの名前も登場するし、
 カワサキの現役時代結構密接なお付き合いのあった岩城滉一・北見紀生さんなども登場ししたりする。
 



 最後に触れているようにこの本が出版されたのは
 Z40周年だったのだが、それから更に10年の月日が流れて
 カワサキZはますます健在なのである。

 


 私はこの世にはいないが、
 ひょっとしたら「カワサキZ100周年」があるかも知れない。

 こんなカワサキZがどのようにして生まれたのか?
 当時の現役だった諸兄が色んな話を披露している。
 
 カワサキファンの方・二輪愛好者の皆さん
 是非、一度お読みになってみて下さい。


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最近の私の毎日 と 差別化    

2023-02-14 06:21:19 | 私の生き方、考え方&意見

★ 私の生き方、考え方&意見
 私もあと1か月もせぬうちに90歳になるのだが、
 ちょっと普通の高齢者とは違った毎日を過ごしている。

 私の人生の目標は「差別化」なのだが、
 今の私の高齢者としての毎日の生活は間違いなく「差別化」出来ているので
 大満足なのである。

 今日も朝からジムで2時間のトレーニングして
 そのあと1時間ほどランニングなどするものだから、 
 毎日の歩数はこんな感じになっている。

  

 8日間の平均が9325歩だが、
 この週は1万歩を越えることが多かった。
 

★最近では高齢者のインターネットの利用率も結構高いようで
 シニア層においても80歳以上は57.5%となっており、シニア層の半数以上がインターネットを利用しているようだが、
 90歳以上でもネットを利用する人は今後は多くなるだろう。
 私の場合は1日のうち結構長い時間をネットとお付き合いしている。

 gooのブログがベースだが、
 このブログは2006年9月から欠かさず毎日続いているので、
 それをFacebookやTwitterに転記して遊んでいる。

 

 

★ 私のネットの記事は、結構な人がご覧になるようだが、
 一番べースのgooのブログは毎日500人以上の方が訪れて
 1000ページ以上をご覧になっていいるようだ。
 

 



 この1週間の数値を見ても結構な数値が並んでいて
 gooのブログ31万人中の600番目ぐらいにいるから
 結構上位なのである。




 それをFacebook やTwitter に転写しているのだが
 Facebookなどには毎日50人ぐらいの方が来られるが、
 
 Twitter などはちらっと見た人だろうが
 5000人近い人がご覧になっているようである。
 これはTwitterのフォロワーが50万人もいるからで、
 この数はなかなかのもので、間違いなく「差別化」出来ている。

 

★ 現役時代から、ちょっとほかの方とは違った生き方をしたいと
 人生の目標を「差別化」にしたのだが、
 今までの90年間も間違いなく「差別化」出来た人生だったし、
 今後、幾つまで生きれるかは解らぬが
 間違いなく普通の高齢者の方とは「差別化された人生」が送れそうなので
 満足している毎日なのである。

 掲げた目標が達成できて、いい人生だったなと思っている。
 

 
 
 
 


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