雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

アメリカと私  いろいろ   私の運転歴

2023-05-31 06:49:27 | 私の運転歴

★日本もアメリカとはいろいろと関係があるが、
 何故か私もアメリカとはいろんなことで繋がって生きてきた。

 日本以外の国で一番多く車の運転をしたのもアメリカだろう。
 現役時代1983年頃の話だが、
 別にアメリカ市場の営業担当でもなかったのだが、
 当時のアメリカの子会社KMCがいろいろとあって、
 企画担当だったのだが、その経営改革などに関係して、
 年に5回以上もアメリカに出張していた。

 当時のKMCは本社がまだサンタナにあった時代なのだが、
 事務所が手狭になって4,5か所に分散していた時代なのである。
 日本でのHY戦争がアメリカ市場まで飛び火して、その影響に巻き込まれたこともあって、
 KMCが毎年100億円の赤字を出すという大変な時代だったのである。
 
★経営改善対策として、サンタナの本社事務所を売ったら
 当時はまだ開拓中のアーヴァインに大きな土地が買えて、
 立派な新社屋を建てることが経営改善に繋がったという不思議な対策が出来たのである。 

 アーヴァインはサンタナよりはちょっと南で
 5号線と405が繋がる辺りなのだが、
 そこに土地を購入し新事務所を建てたのである。

 
 

  これは当時土地を買うことを川重本社に説得するため
 川重大西副社長に現地をお見せした時の写真である。

  

 そこにこんな立派な本社ビルが建ったのである。

  

  
★そんなこともあって、この地域はレンタカーを運転して走り回ったので、
 いろんな道も知っている。
 
 こんな典型的なアメ車時代で、
 左ハンドルの大型車の運転が楽しかった時代である。

 


 当時、日本では私は四輪車アコードに乗ってた時代で、 アメ車はよく壊れるなどとの日本での評価ではあったが、
 実際に乗ってみると「アメリカの大型車」はそれなりに乗り心地が良かったのを覚えている。

★そんな現役時代のアメリカなのだが、
 娘婿がアメリカ勤務になり、そのままアメリカの現地会社に勤めるようになって、その住まいがアーヴァインなのである。

 そんなことになって家内は10年近くアメリカの娘のところに、
 毎年遊びに行ってたし、
 4,5年前には私も久しぶりにアメリカに行って
 昔の懐かしい地域を車で走り回ることが出来たのである。

 娘のほうの孫たちはアメリカでサッカーをやってるし、
 日本には遊びには来るが、日本には戻っては来ないだろう。
 
  ごく最近の写真だが、アメリカの生活を楽しんでいるようだ。
  
  


 私はアメリカのこんなところに行ってはいるが、
 回数ではカリフォルニアが圧倒的である。




 もう一度ぐらい行ってみたいとは思うが、多分無理だろう。
 ひょっとして、孫が結婚でもして結婚式でもあれば行けそうだが、
 どうも「結婚する気配」は残念ながら感じられないのである。


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SPA直入への道   私の運転歴

2023-05-12 06:31:43 | 私の運転歴

★世界国中いろんなところを走っているのだが、
 「通勤以外で一番よく走った道は?」と言われたら、
 ひょっとすると「SPA 直入への道」かも知れない。
 
 大分県直入町にある「SPA直入」は間違いなく私と岩崎茂樹とで造ったサーキットである。
 大分県直入町に新機種開発用の周回コースを創るべく広大な土地を購入したのは、カワサキが中大型の二輪開発に集中することになったころだが、
 たまたま二輪事業の経営が危機的になり、とてもコースなど作る余裕など無くなってしまったのである。
 直入町は土地を売却する条件として、コースの従業員など地元町民の就職なども期待していて、
 「いつ造るのか」と毎年交渉に来ていて、会社としては困り果てていたのである。

 そんな時に、
 ● 一般二輪ユーザーが走れる小さなサーキットを創ろう
 と私と岩崎茂樹が提言してそれが受け入れられたのである。

 当時は日本にはサーキットはあったが、「一般ユーザー」が走れるサーキットはなかったのである。
 鈴鹿サーキットや、船橋などサーキットはあったが、「一般ユーザー」には「危ない」と思ったのか、解放されていなかったのである。

★そんなことからこんな直入町の山奥に、
 日本で初めて「一般ユーザーの走れるサーキット」が出来たのである。
 最初に直入の現地を岩崎と訪れた時に走ったルートは、
 当時の福岡営業所から営業所のクルマで熊本周りで行ったのだが、
 まさに「山奥」と言うイメージだったのである。





★ただ、このルートはこの時の1回だけで
 以降は大分空港からレンタカーと言うルートが多かった。

 大分港にフェリーでということもあったが、
 一番多く走ったのは大分空港ー由布院経由ー直入のルートで
 コースの造成・開発の時代から
 完成してからの管理・運営も担当したので、本当によく通った道なのである。

 


 こんな立地の山奥の直入町に造った「SPA直入」だが
 日本で初めて「一般ユーザー」が自分の車で走れるサーキットと言うことで
 開場当日は4000人近いユーザーが集まり
 直入町長は「有史以来一番大勢の人が直入町 を訪れた」と挨拶されたのである。

 


 ほんとに当時は直入町などは長湯温泉があるだけの小さな温泉町で、
 いつも長湯温泉の大丸旅館に泊まっていた。

 たまたまだが「SPA直入」を創っていたころに「オートポリス」も建設されていたのだが、
 ご縁があってその後何年か後に葉「オートポリス」もカワサキの運営となったのである。




 
今では地図に載っている「宿坊翡翠之庄」は当時泊まっていた大丸旅館の息子さんが、SPA直入がスタートして以降、山地を開拓されて、
あんな立派な宿坊に育てられたのである。

 そう言う意味では、直入町の発展に関しても「SPA直入」はそれなりの貢献が出来たのかなと思っている。

 そんな直入町への大分空港からの道が、私の運転歴の中でも一番回数の多かった道なのかも知れない。



 


 機会があれば「もういちど走ってみたい
 大分空港からSPA直入への道である。



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私の運転歴 北海道

2023-05-10 06:06:18 | 私の運転歴

★ 現役生活の最後の2年間は北海道勤務だった。
 北海道川重建機と言う非常にいい自己資本の会社の経営を任されたのである。
 赴任したその日に「車に運転手を付けましょうか?」と言われたのだが、
 お断りしたら「4駆のクラウン」の新車を調達して頂いたのである。
 「4駆のクラウン」など初めての経験だったが、夏は兎も角冬場の雪道走行には抜群の性能を発揮して、
 北海道勤務の2年間、チェンを付けることなしに過ごせたのである。

 北海道各所に支店・営業所が10か所以上あったので、
 その支店廻りをするだけでも北海道の道をいろいろ走れたのである。


 こんな道ばかりではなかったが、
 これに近いイメージの道は各所にあって、
 
  
 
 
 内地に比べると圧倒的に「走り易かった」と言うのが実感である。
 北海道の道で、走ったことのある道を言うと
 こんなことになるので、殆どの道を走ったと言っていい。

 


 こんなことだったので、北海道は北海道にお住いの方よりはいろんな道を知っているかも知れない。

 2年目の5月のゴールデンウイークに家内が遊びに来たので、
 4日間かけてこんなルートを1周した。
 1日目は札幌から日本海側を通って稚内まで、
 2日目は東側の海岸線を網走まで、網走で食った寿司が旨かった。
 3日目は網走から知床半島を横断して摩周湖周辺を走り廻って、
  川湯温泉に泊まり
 4日目は阿寒湖から道東自動車道を通って札幌に戻ってきた。

  
  

★ そんな北海道の2年間だったので、
 私の運転歴の中でも北海道は特別のような気がする。

 北海道の勤務中は殆ど車ばかりでJRに乗ることも少なかったので、
 2年間の北海道勤務を終わって、三木に戻ってきたときは、
 家内と二人札幌から大阪まで日本海側を通って延々とJRの列車を楽しんだ。
 これも今となってはいい想い出なのである。


 
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私の運転歴 オーストラリア旅行

2023-05-05 06:50:59 | 私の運転歴

★1992年11月13日から8日間ほど結婚30周年を記念して、オーストラリア旅行を楽しんだ。
 オーストラリアの代表的な観光地ケアンズ・ブリスベーン・シドニーと回遊したのだが、
 ケアンズシドニーではレンタカーを借りて、その周辺のドライブを楽しんだのである。




 会社の海外出張でもレンタカーを借りての移動が殆どで、オーストラリアも何度も来てるのだが、
 社用なのでこんな観光地ではなく砂漠の一本道を延々と走ることが多かったのだが、
 この時はまさに観光地なので緑豊かなオーストラリアを楽しんだのである。

★11月13日はたまたま金曜日で「13日の金曜日」と言うことだったからだと思うが伊丹からブリスベーンの飛行機はガラガラで、
 横になって眠って行ける結構な旅だったのである。
 ケアンズには夜中の3時半着、ケアンズ・ヒルトンに宿泊、
 翌日はGreen島の観光旅行を楽しんでいる。 




 その翌日はレンタカーを借りて、
 国立公園のある山間部を1周し、Atherton からKuranda
 これで約340kmのドライブだったが、レンタカーでないとこんな行程は無理である。
 山岳地帯のオーストラリアの風景を楽しんだのである。
 更に北のポーとグラスへ60km、高級レストランに夕食を食いに行って、
 「ロブスターとマッドクラブを食った」と日記にある。
 マッドクラブとはオーストラリア名物のこんな蟹なのでる。
 なかなか豪華な晩餐なのだが、
 道のことは覚えているが「食った話」は記憶に残っていない。


 
 

 オーストラリアは日本と同じ左側通行だから車は右ハンドル、
 道は日本と違って「ガラ空き」だから一般道でも100kmで走れるので、
 なかなかいいドライブだったのである。
 海外の道ももいろいろ走ったが、この1日が一番印象に残っている。




 
★ブリスべーでは一般の観光客と同じような旅程で、コアラを抱いたり海辺の観光地を散策したりして、
 最終の目的地シドニーには16日の昼前に入った。
 ホテル日航に泊まったようで、日記にこんなカードが挟んであった。

 



★シドニーでの1日、昼はシドニー湾のクルーズ、
 夜は「市村夫妻のご招待」で、「日本料理・武蔵」でご馳走になると日記にあるのだが覚えていないのである。
 人間の記憶はホントに頼りないものである。

 シドニー2日目はここでもレンタカーを借りて、
 昼は有名な世界遺産ブルーマウンテインへのドライブを楽しんでいる。
 壮大な山岳地帯だが、そこまでの道はそんなに曲がりくねったものでもなくて、
 爽快なドライブが楽しめたのである。

 
 



 こんな壮大な景色はオーストラリアならではである。





 この旅行最終日の夜はヤマハさんからの特別のご招待で、
 シドニー湾にあるヤマハマリーナでの高級レストランでの夕食だった。




 これは私の人生で一番豪華な雰囲気の晩餐であったと思う。
 現地の方ばかりで日本人はひとりいないし、
 そのレストランでも最高の海側の席にセットして頂いて、
 シドニー湾の夜景を存分に楽しんだのである。

★ なぜこんなヤマハさんの招待があったのか、すっかり忘れてしまっていて 
 日記を読み返していると、
 10月19日にPWCAの理事会が浜松であって、
 PWCAとはパーソナルウオータークラフトの略だが、
 ジェットスキー関連でヤマハさんとこんな組織があって私が会長をしていたものだから、
 多分その時にオーストラリア旅行の話をしたのだろう。
 副会長されていた三浦さんが手配をして頂いたのは間違いないのである。

 現役時代、二輪とジェットスキー関連を担当したが、
 ホンダ・ヤマハ・スズキの業界各社の方とは非常に仲がよくて、
 カワサキのためと言うより当時まだ新しかった業界のためにと言う想いも強かったし、
 当時乗ってた車は「ホンダアコード」、ゴルフのクラブは「ヤマハ
 娘にかってやったモペットは「スズ」で
 そんなことでも業界他社さんとの繋がりが密接だったのである。

 私の運転歴の中でも、想い出に残るオーストラリア旅行だった。

 
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私の海外での運転歴

2023-04-27 07:04:02 | 私の運転歴

★現役時代はカワサキの二輪事業の創成を担当したので、
 国際免許を取って世界の各国の道を走ることが出来たのである。
 1980年代当時のことだが年に5,6回の海外出張があって、
 現地ではレンタカーを借りて走り回っていたので、世界各国の「ろんな道」を知っている。
 そんな中でも1986年9月26日から10月9日までのヨーロッパ各国のジェットスキーの市場調査が一番で、なかなかこんな経験をされた方は少ないと思う。
 日本ードイツースイスーフランスースペインーイギリス―フランスー日本という行程で、
 ドイツではボーデン湖の近くであったボートショーにジェットスキーを展示し、ボーデン湖で実地体験試乗会などやったし、
 スペインのジブラルタル海峡からの海岸線の避暑地を車を運転して走っている。

★ドイツでの販社のあったフランクフルトからボーデン湖まで
 アウトバーンをレンタカーだがBMWで180kmの高速運転だったから、
 200kmちょっとあったボーデン湖までも1時間半ほどで着いてしまった。

 


 そのあとボーデン湖を船で渡ってスイスに入り、
 チューリッヒでレンタカーを返したのだが、
 この運転が海外の運転で一番印象に残っているし、
 私自身の高速運転はすべてドイツのアウトバーンでのものである。
 アウトバーンではホントに200km以上で走る車がいるのだが、
 走行レーンの守り方などは徹底していて、そんなに不安感などは感じなかった。

 ドイツからベルギー、ベルギーからフランスなど、
 レンタカーで2国間を往来など何度かしたが、ヨーロッパの国境はそんなに難しくもなく往来できるのである。
 
★この時はチューリッヒからパリまでは列車で移動したのだが、
 パリからスペインのマドリッド、さらにジブラルタル海峡までは飛行機だが、
そこからは夏の行楽地帯の海岸線をまたレンタカーで走ったのである。

 
 

 ヨーロッパの夏の行楽地帯であるマラガまでの海岸線はこの時期でもまだ行楽客がいっぱいで、みんな家族や恋人同士ばかりだから、
 男ばかり5人の日本人の一行は異様に思われたのだと思う。
 ホテルでも食事時など周囲から不思議そうに眺められていたのを想い出す。





★ この後ロンドンに行き、さらパリにもう一度戻ったりしたのだが、
 ヨーロッパの人達の休暇の過ごし方は、日本人と違って「ホントに何もしない」のだということがよく解かった。
 海岸でホントに何もせずにただ何時間も過ごしているのである。

 いろいろなことがあった出張だったが
 この出張での海外での運転が一番楽しかった想い出だと言っていい。

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近畿時代の運転歴  私の運転歴

2023-04-15 06:19:47 | 私の運転歴

★免許を取ってすぐに仙台時代の運転歴で長距離も走ったし、冬の雪道も経験したのだが、
 そのまま明石の本社に戻して頂けるのかと思ったら。
 昭和45年(1970)の秋から、近畿・大阪地区に途中下車で、
 高槻に居を構えて、初めて自分で乗用車を買って、大阪まで通勤だし、
 担当地区を車で走り回ることになったのである。

 日記を見ると11月4日に中古車だがカローラ2ドア走行距離19000キロのクルマを195000円で買っている。
 これが私の初めての自分のクルマである。

 担当地区はこんな大阪を中心としているが、兵庫がなくて、北陸があるというオモシロイ地区だったのだが、

   

 
 2年目には、兵庫も名古屋地区も担当となり、
 3年目には、兵庫も東京も管轄下に入ったので、
 大阪を拠点にすることもなかったので、7年ぶりに明石勤務となったのである。

 
 


★ この間も担当地区を車で廻ることも多かったが東京や北陸にはJRを利用してたので、
 仙台時代のような車ばかりと言うこともなかったのである。

 一番印象に残っている車の運転は和歌山の串本町で販売店の会合をやったことがあるのだが、
 皆さん汽車で行ったのだが、どんな道なのか私だけがクルマで行ったのだが、
 これは大変な行程だった。
 まだ高速道路などない時代で、出入りの激しい海岸線の地道で、
 この運転が「私の生涯の運転で最悪」のものだったことは間違いない。

  
 

 いまなら多分高速道路が整備されているのだと思う。
 そんな長距離運転の想い出もあるのだが、
 ちょうどこの時期の最後の頃、三木に家を建てたので、
 この時期以降クルマで40分ほど掛った通勤での車の運転が現役時代はずっと続いたのである。


 

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仙台―札幌    私の運転歴

2023-04-11 07:09:46 | 私の運転歴

★ 仙台時代は北海道と東北6県を担当する文字通り「北日本営業部」の所属だったが、
 最後の1年は東北6県とともに北海道も担当地域になって、その広さが大変だったのである。
 明石の本部からみたら、東北の隣が北海道だから、ついでに担当させてやれと思ったのだと思うが、
 仙台ー明石と仙台-札幌の距離は同じく1000kmもあって、
 当時の電話代は今と違って距離によって通話料が決まっていて、
 仙台-明石も1通話1000円だったが、同じく仙台ー札幌も1000円だったのである。
 因みに、アメリカに電話するとちょっと長話をすると10万円も掛った時代なのである。

 

 
★昭和43年(1968)8月、MFJ第5回モトクロスGP札幌手で開催されて、
 当時はまだ東北6県だけの担当だったが仙台から車で、所員4人で札幌まで観に行ったのである。
 当時の日記を見たら、8月8日の朝7時に仙台を出て、本州の最北端、大間町に着いたのが夕方の6時、
 その日は大間に泊まって

 



 翌日フェリーボートで函館に渡り、
 往路はこんなルートで、余市から小樽経由で札幌入り
 札幌に着いたのは午後4時で札幌泊。

 
 
 
 翌日の8月10日は東北・北海道の合同代理店会議定山渓で開催されて、温泉で1泊。




 翌8月11日のモトクロス日本GP90㏄が星野一義125㏄が山本隆の優勝とカワサキが二つを取ったが、
 250ccヤマハの鈴木忠雄の優勝に終わったのである。

第1回相馬が原は見ていないのだが、
 第2回の名古屋からは、第3回が四国、第4回福島、この第5回札
 直接レースに関わっていたこともあって全部現場で観ることが出来て、いい想い出になっている。
 第4回の福島での開催は、自衛隊の演習場を借りたのだが、
 それはMFJに頼まれて、元陸軍士官学校卒の福島カワサキの社長の尽力で実現したのである。
 これは勿論、仙台の隣だから現地に行ったのは当然である。

 山本隆・歳森康師・岡部能夫・梅津次郎・星野一義の時代で、
 カワサキの全盛期と言ってもいい時代であった。

 


 札幌からの帰りは、支笏湖周り洞爺湖温泉の大混浴風呂にも入ったりしながらの観光旅行で、大間には夜中の1時に着いたのだが、
 それから仙台まで夜中の道を走って仙台には朝戻ってきたのである。

 いまになって思うと大変な行程だったが、
 やはり若かったのだなと思ったりする。
 いい想い出として残っている。

 


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仙台時代の運転歴   私の運転歴   

2023-04-08 06:49:12 | 私の運転歴

★東北6県を担当した仙台時代は4年間ほどであったが、
 その東北6県に主要代理店6店のほか小さな代理店を含めると10数店もあって、
 そこを訪問すると同時に当時は2000店以上もあった各県の販売店にも訪問することが多かったので、
 私の運転歴のうちこの4年間が走行距離では圧倒しているのである。

 兎に角、東北は広い。仙台ー盛岡は200kmだし、その隣の青森がまた200kmなのである。
 昭和42年(1967)からの4年間だが、4号線や13号線の主要道路は当時でも舗装道路だったが、
 仙台-山形や、盛岡-秋田の峠道各県での田舎の道はみんな砂利道と言う時代なのである。

 


  当時でもイギリスの舗装率は90%を超えていると聞いて、
 いつになったら日本はそうなるのか? 
 とホントにそんなこを思いながらの運転だった。

 峠で舗装がされていたのは福島県の福島ー米沢
 郡山ー会津若松間だけで、
 その他の山道はみんな砂利道だったのである。


 



★確か、こんなトヨタパブリカのライトバンに、
 当時はクルマの運転に凝ってた時代で、当然ミッション付きだが、
 回転計を付けて、タイヤは当時福島オートが日本で初めて扱った、
 ミシュランのラジアルタイヤを付けての走行で、
 むしろカーブの多い峠道を走るのが楽しみだった時代なのである。

 ラジアルタイヤなどはまだなかった時代なのだが、
 このミシュランのラジアルタイヤはすごく高性能で、
 雪道もスノータイヤを履かずに走れたのである。
 確かに当時の日本のタイヤメーカーの技術はまだまだの時代で、
 東北に行くまでのロードレースでは、みんな英国ダンロップなどの外国製を使っていて、
 当時は二輪のロードレースに出場していたブリジストンも名前は消してあったが、海外メーカーのタイヤを履いていたのである。




 当時の東北6県は日本で一番モトクロスレースが盛んで、
 カワサキのファクトリーライダーだった、山本隆や星野一義がよくレースにやって来たのだが、
 彼らも東北の峠道の走行を結構楽しんでいた時代なのである。

 その時代は、峠道などは殆ど車は走っていなくて、蔵王のスカイラインなどはサーキットのような感じの道だったのである。
 スローイン・ファーストアウト、アウトインアウト、ヒールアンドトウなどのレーステクニックを使った走行が楽しめたいい環境だったと言ってもいい。

 ホントかと思われるかも知れぬが、峠越えの砂利道は、
 冬雪が積もった方が、「雪の舗装」で夏場よりもスムースに走れるような感じもあったのである。

★ 当時の白バイメグロとW1などのカワサキが殆どで、
 やっとホンダさんが350ccだったか、小さな白バイを入れ始めた頃で、
 どの県でもカワサキは白バイ隊員と仲良くて、
 山本隆クンが各県の白バイ隊員の運転指導なども行っていた時代で、
 仮に違反などがあったとしても、よほどのことがない限り許してもらえる
 「いい時代」だったのである。

 お陰様でこの4年間、事故もなく違反もなくて、大いに東北6県での「ルマの運転」を楽しんだ時代なのである。
 主要都市にある代理店を訪問するだけではなくて、
 そのサブ店を訪問することも多くて東北6県の道は東北の方より詳しくなったと言っていい。
 今と違って「メーカーの人」を一種独特の尊敬の念で迎えてくれるようなところがあって、
 まだ30歳代の若手であった私も間違いなく「メーカーの人」と言うことで、代理店の社長さんは大いに利用されたのである。

 そう言う意味では、まさに東北は「まだまだ田舎」だったのかも知れない。

 そんなことで「長距離走行」には慣れてしまっていて、
 盆や正月の休みには仙台から明石まで家族を乗せて車で往復したこともあったのである。

 
 
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明石から仙台まで     私の運転歴

2023-04-05 06:35:34 | 私の運転歴
★昭和42年(1967)1月、私は仙台への異動となった。
 まだ若干34歳だったが、名前だけは「仙台事務所長」としての異動だった。
 カワサキの二輪事業がスタートしたばかりの頃で「実用車のカワサキ」の時代で、
 東北6県が最大の市場であったころ東北の代理店から、「仙台に事務所を」と言う希望が出されて、
 その会議に出席されていた岩城良三常務が「直ぐ創る」と即答されたという話は聞いたのだが、
 まさかそれが私になるとは思ってもいなかった。

ただ「仙台に事務所を創れ」と言う会社の指示で、ホントに何にもない白紙の状態で、具体的なことは何一つ決まっていなかったのである。
 

★私にとっては初めての転勤だったが、
 会社にしてもこんな指示をするのは初めてのことで、
 誰も「具体的にこう」と言う指示などしてくれないのである。
 仙台異動が決まってから、岩城常務がわざわざ私の席まで来られて、
 「ご苦労だが頼むな」と言われただけなのである。

 仙台には土地があるわけでもないし、
 仙台のどこに、どの程度の事務所を創るのかも決まっていないのである。

 仕方がないので、仙台の代理店、宮城カワサキに机を一つ置かして貰ってのスタートだった。
 住む家だけは12月に出張で来て決めていたので、あったと言えば家だけである。それも勝手に探したので、庭付の一戸建ての平屋に決めたが、誰も文句は言わなかった。

  
★1月5日に餞別にと会社がくれたコロナのトラックで単身、明石を朝5時に出発し東京まで、
 カワサキのカラーに塗ってあったがこんなトラックだった。


  


6,7日は東京事務所で東北販売課の会議があり、
8日の朝9時東京を出発して夜8時に仙台に到着、
明石-仙台1000キロの走行だったが、これが私の最初の単身長距離走行だった。

  
 
 
★担当地区は福島から青森までの「東北6県」
 これはなかなか広大で仙台から隣の岩手の盛岡までが200km、
 盛岡から青森が同じく200kmもある。

 東北各地に大小の代理店があって、そこをクルマで走り回った営業だった。




 関西で言うと「明石ー名古屋」が200kmだから、
 兵庫・大阪・京都・滋賀・愛知の各県がある。

 そんな広大な東北で約4年間クルマで走り回った営業だった。

 そんなことで、私は免許を取ってから、ずっと「長距離走行」にご縁があったのである。

 東北6県での運転歴は次回に。
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明石から弘前まで

2023-03-20 06:23:56 | 私の運転歴

★多分これが人生で一番の長距離運転だったかも知れない。
 明石から弘前まで「2泊三日の走行」だったのである。
 高速道路は西宮から小牧までの「名神高速」が出来たばかりの頃だから、
 あとは全部、一般道を走ったので、その距離は1400kmぐらいになったのだと思う。

  


 昭和41年(1966)7月24日、青森県弘前市の岩木山で行われた、
MCFAJの全日本モトクロスレースに出場のためのマシンを運ぶために、
安藤監督以下メカニック一同がクリッパーやワスプなど5台編成での大移動だったのである。

 朝7時に明石を出発し1日目は御殿場まで、
 2日目は都内を抜けて4号線を走って仙台で2泊目、
 3日目は仙台から盛岡・八戸・青森を経てやっと弘前に到着。

 私も安藤さんと二人でワスプを運転しての走行だった。
 それも道中クリッパーの調子が悪くて何度も止まったりしながらの走行で、
 1日目は明石を7時に出ながら、昼飯は大津で食っているというような、
 大変な走行だったのである。
 
★このレースは「F21Mのデビュー戦」だった。
 当時のモトクロスは、マシンは市販車の改造が多かったのだが、
 スズキが前年から本格的なモトクロッサー「RH」を2台出して、久保和夫と小島松久の二人だけがこれに乗っていて、
 1965年にはスズキワークスライダーとして、日本人として初めてトクロス世界選手権にも出場 したのである。
 カワサキも新しいマシンをと開発したのが「F21M」なのである。

 エンジンは238ccで市販車からのボアアップの新エンジン、
 車体はヘリコプターに使うクロモリのパイプの
 こんなニューマシンだった。


  この写真のクルマは後、技術部が正規に設計開発した市販レーサーだと思うが、
  ファクトリー・マシンはホントに手作りだったのである。

 
 

 
 ファクトリーマシンのエンジンは技術部だが、
 車体はレース職場の松尾勇さんが設計図もなくベニヤ板に釘を打ってそれに合わせて創った、まさに手作りなのである。
 私は技術には疎いがこのマシンの制作時には、レース職場に密接に関係していて、
 クロモリのパイプに詰める砂を海岸に取りに行ったりしたのでよく覚えている。
 21インチのフロントタイヤやセリアーニタイプのフロントフォーク も世に出たのは初めてだったかも知れない。
 確か重量は180kg以下に収まったはずである。

 このマシンをカワサキの場合は2台などではなくて、 
 契約ライダー全員が乗れるように台数を8台ほど作って、
 これを弘前まで運んだということなのである。

 その時の岩木山を背負ってのライダーやメカニックたち。

  

 その練習風景である。




★ 肝心のレース結果は、250㏄はスズキの小島松久にトップこそ譲ったが2位以下はカワサキが並び、
 オープンでは山本隆が優勝、以下5位までカワサキが独占したのである。
その後のモトクロスレースでは、殆どのレースに「F21M」は優勝を重ね、
カワサキのモトクロス黄金時代を築いたのである。

 
 これは当時のF21Mに乗るカワサキのトップライダー・山本隆。
 

  
 
 
当時はまだグリーンではなく、赤タンクのカワサキ」
国内のレースではすべてが「赤タンク」だったのである。


★こんな「F21Mのデビュー戦」だったから、
 チーム全員やる気満々で、明石ー弘前間1400キロの往復ドライブも、
 運送屋に任さずチーム全員で自ら運んだのだと思う。

 復路も途中2泊して、箱根の山ではまたクリッパーが故障して大変だったのだが、
 レースの結果がよかったこともあって、
 みんな元気に明石まで凱旋したのである。

私の運転歴」3編目はこんな明石ー弘前1400キロの長距離運転なのである。
 その殆どが高速道路ではない信号のある地道なので、今思うとよく行ったものだなと思うのである。


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免許を取ってからの最初の遠乗りは・・・

2023-03-16 05:13:12 | 私の運転歴

★免許を取ったのは30歳を超えてたのだが、
 一般の方は当時はクルマなどお持ちではなかった時代で、
 当時としては別に遅かった訳ではなく
 会社では、広告宣伝やレース担当であったことから、
 会社の仕事のために免許を取ったので、
 自分のクルマを運転するための「免許取得」ではなかったのである。

 ライダーたちはいいクルマに乗ってたが、彼らは当時は独身で、
 そんな車が買えるほどの契約金を渡していたのである。
 三橋実は初代の「シルビア」に乗っていた。

 

 

 私はまだ車などは買えるような身分ではなくて、
 専ら運転していたのは社用車で、広告のロケ撮影や 日本国中あちこちで開催されるモトクロスの現地に赴いたし、
 鈴鹿サーキットなどにもしょっちゅう行ってたので、
 普通の方などは走らない「長距離走行」が多かったのである。

 免許を取った6月17日の翌月の7月31日には
 鈴鹿サーキットで開催された「24時間耐久レー」にMFJの運営委員として行っているのが最初の長距離走行である。
 
日本で「24時間耐久レース」などあったのか?と思われる方が多いと思うが、その年1回だけの開催で終わってしまったが、
若いカップルが圧倒的に多くて、夜中の風紀上の問題で翌年からは開催されることはなかったのである。


★今回は「レース」のことではなくて「私の運転歴の話」だが、
 免許を取って1か月後にこんな長距離を走っているのである。

 いまでは明石ー鈴鹿サーキット間も高速道路で繋がっているので、
 3時間足らずで行けるようだが、

 


 当時は西宮ー栗東間だけが「名神高速道路」で、
  それ以外には高速ロードなどなかった時代だから、
 高速道路を走ったことのある人は殆どいなかったし、今のようにいっぱい車が走ってはいなくてガラガラだった。
 ちょっと脱線するが、カワサキ250A1はカワサキが最初に開発した本格的なスポーツ車だったのだが、
 その250A1の開発時のテストは、ガラガラの名神高速で行われていて、
 当時は清原明彦はテストライダーだったのだが、レースの契約ライダーの金谷秀夫歳森康師なども名神でのテストに参加していた。

  
 

 赤のカラータンクになったのはA1が最初で、
 それまでのクルマはみんなメッキの側板が付いていたのである。
 これは多分アメリカ人のアイデアでカワサキが流行の先端を走っていて、
 次に出たマッハⅢからはニーグリップとタンクマークがなくなったのである。

  
   
 


★名神高速を栗東で降りてからは1号線を走って、
 最後は難所と言われた「鈴鹿峠」を下っての「鹿サーキット」だから、
 免許取り立ての新人にとっては大変な難コースだったのである。






 その後何年かのちに、堺に抜ける大きな道が出来てからは、
鈴鹿サーキット」へは大阪周りが多くなった。
 

★ 鈴鹿も大変だったのだが、更に1か月後の8月26日には、
 「伊豆丸の山高原」であったMCFAJ 全日本モトクロスに、
 メカニックの水町さんと二人で交替しながらの運転だったが、
 明石ー伊豆丸の山と言う長距離を走っている。

  

 
 いすゞワスプの社用車でで、明石を夕方の5時にスタートし、
 西宮から小牧までは「名神高速道路」だが
 そこからは1号線の夜中の地道を走って、三島に朝の5時に着き、
 丸の山のロッジに着いたのは朝の7時半だったのである。

 これが私の「はじめての長距離運転」と言ってもいい。





 丸の山高原は伊豆のこんなところにある。
 ここでは2年続けてMCFAJの全日本モトクロスが開催されていていた。


 

 
 

★こんな調子で私の運転歴はスタートしているのだが、
 これからも「運転歴」を記述するが、
 普通一般の方とはちょっと違った「長距離走行」が多いので、
 この何年か後には、仙台赴任となって、広大な東北6県を走り回ったし、
 仙台ー明石・1000kmも、クルマで何回かは往復しているのである。

 そんなことで、クルマの走行に関しては、ちょっと一般の方とは違った感覚になってしまっているのである。

 


 

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私の運転歴

2023-03-14 05:36:13 | 私の運転歴

★私がクルマの免許を取ったのは昭和40年(1965)6月のことだから、
 もう60年近くにもなる。
 当時はまだ車の免許など持ってる人は少なかったし、車を持ってる人も少なかった。

 当時私は30歳になったばかりだったが、広告宣伝課を担当し、
 カワサキのファクトリーチームのレースマネージメントもやっていて、
 全国のモトクロス場や鈴鹿サーキットなどでのレース展開にチームはクルマで移動していたという環境にあったので、
 ちょうど娘が産まれて、家内が1か月ほど里帰りをしている間に、自動車学校に入学し免許を取ったのである。

★当時のカワサキのライダーたちは、三橋実・安良岡健・山本隆・歳森康師・梅津次郎・岡部能夫・金谷秀夫・星野一義と錚々たるメンバーだったのだが、
 結構な契約金をはずんでいたので、ホンダS600スカイラインGTBなど、 いいクルマを持ってたし、
 私のクルマの運転の初期の先生は彼らライダーたちだったので、
 最初からいろいろ高度なテクニックを教えてくれたのである。

  
 

当時のクルマは今と違ってみんなマニュアル車だから、なかなかムツカシイのだが、覚えると結構オモシロイのである。
レーステクニックの「ヒール・アンド・トウ」などの足を上手く使わねばならない、そんな高度なテクニックも出来るようになったし、
当時の出来たばかりの鈴鹿サーキットは、1周だけだが誰でもS600でコースを走れたので、何度も鈴鹿を走ったことがある。

 


★そんなことから「クルマの運転」は好きになったし、
 若いころは飛ばしたりもしていたが、結構運もよくて今まで事故は一切ないが、
 最初に運転テクニックを教えてくれたライダーたちの助言は、
 「サーキットを速く走る」だけではなくて「安全に走る」と言う要素もいっぱいあって、
●ブレーキは直線で、
●ブレーキを踏む時はバックミラーを見る
●カーブはスローイン、ファーストアウトで、ブレーキではなくアクセルなのである。
こんな基本が確りと身についていて、一般道路でも非常に有益だと思っている。

 カワサキでの現役時代は二輪事業を担当したこともあって、
 販売店訪問など業務でクルマを運転する機会も多く、
 日本は全県、自分でクルマを運転しているのでいろんな道も知ってるし、
 海外でも「海外免許」で、いろんな国をレンタカーで自分で運転して、
 こんな国々の道を自分で運転して走り回った経験がある。
 
アメリカ・カナダ・タイ・マレーシア・インドネシア・イギリス・ドイツ・オランダ・フランス・スイス・オーストラリアなど。
ヨーロッパでは国をまたいで移動したりもしたし、アフリカのナイジェリアの道も知っている。
 
★夫々の国でのいろんな経験は貴重だし結構面白かったので、
 ブログに「私の運転歴」と言うカテゴリーを新しく創って、いろんな私の「運転歴」を紹介してみようかなと思っている。

 私は20歳から毎日日記を書いているので、
 どこの県、どこの国をいつどのように走ったのかは、日記を読み返すと正確に解るのである。

 最近は毎日が同じことの繰り返しで、私の「雑感日記」もその話題に困ることもあるので、
 そんな時は「私の運転歴」と言うカテゴリーで、いろんなことをご紹介してみようかなと思っている。
 そう言う意味では「クルマの運転」は私の人生の宝物でもある。
 90歳になったが、毎日「クルマの運転」をしない日はない。
 「運転」はまだまだ大丈夫だと思っているが、昨今はまさに「安全運転」なのである。

 いろんなことをご紹介できる思うので、楽しみにしてください。
 先ずは新しいカテゴリー「私の運転歴」の第1号である。
 
 
 

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