雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

お知らせ

2023-03-24 10:38:40 | 発想$感想
パソコンが突然壊れました。
雑感日記をしばらくお休みするかも知れません。





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早春の三木総合防災公園

2023-03-23 05:54:27 | 発想$感想

★2日続けてWBCの実況中継を見ていたので、
 外に出なかったので昨日の午後は「早春の三木総合防災公園」を歩きながら写真を撮ってきた。

 丹生山も春らしい雰囲気である。
 桜はまだだが、早咲きの桜が咲いている。

 


 こちらが遠くに見えてた桜だが、しだれ桜のようで、






 こちらは梅のように見えるが、 別の種類の早咲きの桜である。





 例年よりは早く咲きそうだが、
 桜並木はまだこんな状態だが、



  

その芽は確実に膨らんでいるから、3月中には咲くのではなかろうか。





こぶし咲くあの丘北国の」と歌に唄われる「こぶし」はいま満開である。


 
  

 「ゆきやなぎ」はあちこちに咲いてたが、綺麗だった。

  



 こんな早春の公園を1万歩になるまで歩いてたら、
 1時間40分ほど掛ったし、
 こんな写真が撮れたのである。

 もうほんとに春が来たなと言う感じの公園だった。


 

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孫・門野真也のこと

2023-03-22 06:43:21 | スポーツ

★私には男の子ばかり4人の孫がいるのだが。
 娘のほうの孫の次男・門野真也はアメリカのプロ・サッカー選手である。

 アメリカでのニュースだが、こんな写真入りのニュースが流れた。
 今シーズンに新しいチームに移籍したらしい。
 ニュースは英文だが

  



 こんな日本語訳である。

速報!!
アルビオンサンディエゴが2023シーズンにミッドフィルダー@shinyakadonoと契約しました!
日本の神戸生まれカリフォルニア州アーバイン育ちの真也は7歳でサッカーを始め、
米国サッカー開発アカデミーリーグでチームキャプテン、2013年と2014年と得点王 
U.C.バークレーでサッカーをプレーすることにコミットし、3年目、4年目、チームでもリーグでもトップゴール記録を続けた。
 彼のプロのキャリアは2019年にD.C.ユナイテッドラウドウン・ユナイテドで始まり、
その後カリフォルニア・ユナイ テッド・ストライカーズFCへ 。
現在、彼はアルビオン・サンディエゴと一緒に#RUNASONEへのキャリアを続けています。 Shinyaチームへようこそ!! 
#ALBIONSanDiego


 サッカーを始めた小学生の頃はこんなかわいいデブだったのだが、
 

   


 アメリカの個人を育てるいいシステムのお陰で、
 どんどん成長して記事にあるように、
 名門バークレーでは日本人ながらキャプテンを務めたし、
 2年続けての得点王になり、念願のプロ入りを果たしたのである。

 これはその時、神戸新聞に載った記事である。

   


  プロ入りしてどうかなと思っていたが、
 なんとかプロの世界でも通用しているようで、
 今ではこんなに逞しくなっている。

  


 昨年末から日本に遊びに来ていて
 我が家に1か月余り滞在してたのだが、

 その時もトレーニングは欠かさなかった、
 三木総合防災公園での私と末弟・門野哲也とのスリーショットである。


  


 シーズンはいつ始まるのかな?
 新天地で心機一転また今年も頑張って欲しい。


  
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人間90歳になりましたが・・・・

2023-03-21 04:33:27 | 私の生き方、考え方&意見

 この3月に誕生日を迎えて90歳になりました。
 「人間90歳になると」どんなことになるとお思いですか?
 
 私は結構元気で、毎日2時間は外で動いていて、
 これが昨日の記録ですが、15000歩ほど歩いていますし、
 この1か月の「平均消費カロリー」は2477カロリー
 多分、一般の働き盛りの方と変わらないような値を示しています。


  



ことほど左様に、体のほうは至って元気なのですが、
アタマのほうは「物忘れ」などひどすぎて自分でも嫌になることも多いのですが、これは仕方がないと思います。

具体的に言うと庭にはいっぱい植物が植わっているのですが、
その名前が出てこないのです。

 


 かっては殆どの植物の名前が解ったのですが、
 昨今は覚えている時も、思い出さない時もあって様々ですが、
 もう「気にしない」ことにしています。

 70歳代にも当然「物忘れ」はあったのですが、
 現在はそんな時期とはそのレベルが違うのですが、
 「まあ、90歳だからいいか」と気にしないことにしています。

★私自身の性格は至って太平楽で、何でも「大丈夫」と言うのが口癖になっています。
 今週末には神戸ベンチャー研究会NPO The Good  Times の事業継承」というテーマで発表をするのですが、
 別に原稿を創るでもなく、その場の雰囲気に合わせての話になると思います。
話と言うのは相手がいるわけですから、その場になって、その場の雰囲気に合わせての話が一番いいのだと思っていて、
これは現役時代からそうなのですが、話の原稿などを創ったりはしないのです。
 
★4月24日には、大阪で藤本喜子さん主催の「ゴキゲンカーニバル 」という催しに出席することになっていて、
 それがどんな催しかもよく解っていないのですが、
 そんなことは全然気にせず出席することにしていたら、
 その会の司会をなさる方から昨日連絡があって、

古谷さんがゴキゲンカーニバルで どのような発表をされるのか、
 電話でお話を 聞きたいのですがいかがでしょうか?
 と心配されたのかメールを頂いて、
 今日11時に30分ほど電話で聞きたいと仰っているのです。
 
 私自身としては、その場に行ってみて、その場のメンバーや雰囲気を感じたら、「ぶっつけ本番でも大丈夫」と思っていたのですが、
 司会をされる方は「90歳のおじんが大丈夫かな」とお思いなのかも知れません。

 そんなことで、藤本さんの「しもじも日記」を見てみたら、
 「藤本喜子イノベーション研究所」これにする
 とあったので、彼女こんな会社でも作る気なのでしょうか?


  
 

いずれにしても、この件は今日の11時に電話を頂くことになってるので、何とかなるのでしょう。
 
★ 藤本喜子さんは NPO法人The Good Times を引き継いでくれることになっていて、
今週末の神戸ベンチャー研究会では、二人でその事業継承について話をすることになっているのです。

こんなことで、90歳になりましたが結構忙しく過ごしていて、
物忘れはひどく」なりましたが、
 なんとか若い方に伍して、同じような動きが出来てるのは「イイか」と思っています。
 
 こんな感じの「90歳の私の人生」は、世の中の90歳の方とは一寸違った感じで、
 私の生き方の目標「差別化」そのものが、今もなお続いていることに満足している昨今なのです。

 


 
 
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明石から弘前まで

2023-03-20 06:23:56 | 私の運転歴

★多分これが人生で一番の長距離運転だったかも知れない。
 明石から弘前まで「2泊三日の走行」だったのである。
 高速道路は西宮から小牧までの「名神高速」が出来たばかりの頃だから、
 あとは全部、一般道を走ったので、その距離は1400kmぐらいになったのだと思う。

  


 昭和41年(1966)7月24日、青森県弘前市の岩木山で行われた、
MCFAJの全日本モトクロスレースに出場のためのマシンを運ぶために、
安藤監督以下メカニック一同がクリッパーやワスプなど5台編成での大移動だったのである。

 朝7時に明石を出発し1日目は御殿場まで、
 2日目は都内を抜けて4号線を走って仙台で2泊目、
 3日目は仙台から盛岡・八戸・青森を経てやっと弘前に到着。

 私も安藤さんと二人でワスプを運転しての走行だった。
 それも道中クリッパーの調子が悪くて何度も止まったりしながらの走行で、
 1日目は明石を7時に出ながら、昼飯は大津で食っているというような、
 大変な走行だったのである。
 
★このレースは「F21Mのデビュー戦」だった。
 当時のモトクロスは、マシンは市販車の改造が多かったのだが、
 スズキが前年から本格的なモトクロッサー「RH」を2台出して、久保和夫と小島松久の二人だけがこれに乗っていて、
 1965年にはスズキワークスライダーとして、日本人として初めてトクロス世界選手権にも出場 したのである。
 カワサキも新しいマシンをと開発したのが「F21M」なのである。

 エンジンは238ccで市販車からのボアアップの新エンジン、
 車体はヘリコプターに使うクロモリのパイプの
 こんなニューマシンだった。


  この写真のクルマは後、技術部が正規に設計開発した市販レーサーだと思うが、
  ファクトリー・マシンはホントに手作りだったのである。

 
 

 
 ファクトリーマシンのエンジンは技術部だが、
 車体はレース職場の松尾勇さんが設計図もなくベニヤ板に釘を打ってそれに合わせて創った、まさに手作りなのである。
 私は技術には疎いがこのマシンの制作時には、レース職場に密接に関係していて、
 クロモリのパイプに詰める砂を海岸に取りに行ったりしたのでよく覚えている。
 21インチのフロントタイヤやセリアーニタイプのフロントフォーク も世に出たのは初めてだったかも知れない。
 確か重量は180kg以下に収まったはずである。

 このマシンをカワサキの場合は2台などではなくて、 
 契約ライダー全員が乗れるように台数を8台ほど作って、
 これを弘前まで運んだということなのである。

 その時の岩木山を背負ってのライダーやメカニックたち。

  

 その練習風景である。




★ 肝心のレース結果は、250㏄はスズキの小島松久にトップこそ譲ったが2位以下はカワサキが並び、
 オープンでは山本隆が優勝、以下5位までカワサキが独占したのである。
その後のモトクロスレースでは、殆どのレースに「F21M」は優勝を重ね、
カワサキのモトクロス黄金時代を築いたのである。

 
 これは当時のF21Mに乗るカワサキのトップライダー・山本隆。
 

  
 
 
当時はまだグリーンではなく、赤タンクのカワサキ」
国内のレースではすべてが「赤タンク」だったのである。


★こんな「F21Mのデビュー戦」だったから、
 チーム全員やる気満々で、明石ー弘前間1400キロの往復ドライブも、
 運送屋に任さずチーム全員で自ら運んだのだと思う。

 復路も途中2泊して、箱根の山ではまたクリッパーが故障して大変だったのだが、
 レースの結果がよかったこともあって、
 みんな元気に明石まで凱旋したのである。

私の運転歴」3編目はこんな明石ー弘前1400キロの長距離運転なのである。
 その殆どが高速道路ではない信号のある地道なので、今思うとよく行ったものだなと思うのである。


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彼岸の墓参り

2023-03-19 06:03:22 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ お彼岸も近い。ちょっと早いが「彼岸の墓参り」に行ってきた。
 我が家の墓は明石の長寿院なのだが、
 今は三木に住んでいるので車で片道40分もあれば行ける距離なので、
 正月と春秋の彼岸、それにお盆の年4回行くことにしている。

 墓参りに行く時期は別に決まっていなくて、いつ行ってもいいと書かれているが、
 私の行く同じ時期に墓参りをする方は多くて、
 この時期はお墓に花がいっぱいで華やかになるのだが、
 今回はちょっと早すぎて、そんな感じにはなっていなかった。
 
 


 ただ、こんな見慣れぬ幟があったので「何かな」と思ったら、
 新しい形のお墓なのである。
 こんな丸い形が一つのお墓なのだと思う。
 新しく墓を造るには結構な費用だと聞いているのだが、
 こんな風に新しい形で出てきている。

 


 まだどなたも入っていない「新しい墓」もあった。
 だんだんと世の中も変わってくるものだ。




★ 私ももう90歳になったので、遠からずこの長寿院のお世話になるのだが、
 幸い入る墓だけはすでにあるので、その点は気が楽なのである。
 明石のちょうど子午線が通っていて天文科学館もあるし、
 すぐ横は人丸神社で、いいところである。

 


 ただ、年4回も墓参りに来れるのは、
 先ず、私の代で終わるだろうと思っている。
 もし私が先に死んだら、家内はとても墓参りなどには来れないと思う。
 車だから40分で来れるのだが、免許を持っていない家内は、若し来るとしたら電車を乗り継いで神戸周りで、大変なことになる。

 息子は鎌倉だし、娘はアメリカだから、簡単に墓参りなど来られないし、
 ずっと先の話だが、鎌倉の息子は自分の墓をどうするつもりだろう?
 明石の長寿院の墓に入ろうと思えば入れるのだが、
 これは孫たちの墓参りが大変である。
 そんなこと、心配しなくても「なるようになる」とは思うのだが、
 だんだんと、そんなことを考えなくてはならぬ歳になってきた。
 そんなことを想いながらの「彼岸の墓参り」であった。



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私の人生と日記   雑感

2023-03-18 06:23:32 | 私の生き方、考え方&意見

20歳の時、ふとしたことから日記を付けだした。
 90歳になった今までずっと続いているので70年間にもなるから、
 ひょっとしたら、日本でも一番長いのではとネットで調べてみたら、
 「上がいるものである」曰く
 
 遠藤三郎・元陸軍中将、戦後は開拓農民へ転じ、そのかたわら日中国交回復に尽力した異色の人物とある。
日記は、11歳から91歳まで80年余、日露戦争勃発の明治37(1904)年から始まり、延々と昭和59(1984)年10月、91歳の天寿をまっとうする1カ月前まで続いたという。
 これを抜くには100歳を越えねばならぬが、生きてる限り頑張ってみたい。


    

     

★ 私は努力さえすればできる「そんなに難しくないこと」を続けることは得意と言っていい。
 日記なども誰でも書けるし、そんなにムツカシイものではない。
 日記は兎も角、2006年の9月にこれもふとしたことからネットでブログなるものをスタートし「雑感日記」と題して毎日休むことなくアップし続けている。
 その第1日目は「美しい」と題してのスタートだが、
 たった4行の短い文章でスタートしている。
 何となく初々しいが、今はもうこれも17年になろうとしている。

  


 今はこの雑感日記Facebookツイッターに転写してるので、
 結構な人数の方にお読み頂いている。

 そのカテゴリーも幾つもあってそれぞれ結構多いのだが、
 3月に入って90歳になったのを機に「私の運転歴」なるカテゴリーを新しく増やしたところである。
 
 その数は結構多いが、こんなカテゴリーとなっている。
 そこに載っている数字は、みんな結構な数だが「私の運転歴」はまだ2回だけである。


    
 

 このカテゴリーは「私の人生そのもの」を表していて、
 「自分史」もあるし、現役時代の「カワサキの二輪関係」も結構多い。

★ このブログ「雑感日記」は76歳からアップしだしているので、
 それ以前のことについては、自分の記憶に頼ったものも多いのだが、
 外部に発表しているので、間違いがないかチェックするには
 70年続いている「日記」は貴重な存在なのである。

 今回、スタートした「私の運転歴」もこの日記があるので、
 結構正確にアップすることが出来るし、
 それは即「私の人生そのもの」であると同時に「カワサキの二輪事業の歴史」にも繋がっている。
 そんな「二輪の歴史」には非常に興味をお持ちの方々と、特にFacebookでは繋がっている。

 この3月、90歳になったのを契機に、
 Facebookのトモダチも350人から一気に1400人も増やして、
 1750人にもなっているのである。
 その殆どの方は、二輪に愛着をお持ちの方ばかりなので、
 二輪関連の記事を多くしようと思ったのだが、
 「雑感日記のカテゴリー」をご覧になればお解りのように、既にカワサキの二輪のことは多く触れているので、同じことの繰り返しもダメだし、
 「私の運転歴」という別の角度から眺めたら、またいろいろオモシロイことも多いと思うので、そんなカテゴリーを新設したのである。
 「運転歴」だから「いつ、どこに行って、何をした」と言ういういうなことを正確に綴るには「日記」は重宝するのである。

  まだ2編しかアップしていないが、
 「いつ何所を何時に」と言うような表現が出来ているのは、「」のお陰なのである。

  最近は毎日同じことの繰り返しで、この「雑感日記」を毎日アップするのも、その材料が大変なのだが、「私の運転歴」も50年続いているので、
 その素材には事欠かないのである。
 
 まあ、そんなことで、90歳になって今までの日記のお世話になるとは思わなかったが、
 今後は日記を読み返しながら「私の運転歴」をアップしていこうと思っているので、ご愛読願えたら幸いである。


 
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マスク   雑感

2023-03-17 06:25:53 | 私の生き方、考え方&意見

★コロナが発生した当初は、世界の人がマスクをしているように思ったのだが、
 だんだんとマスクなどしなくなったのではないだろうか?

 世界でも日本は断トツで、東洋の人たちは多いが、
 欧米は少ない傾向が顕著である。


  

 私自身は今の生活環境もあるのだが、
 この数年間、マスクなど殆どしていない。
 マスクをするのは「医者に行くとき」と「スーパーの中」だけで、
 それ以外は一切しないから、この数年間で使ったマスクは10枚以下だと思う。
 クルマの中にはマスクはいれているのだが、殆ど使わないので、
 何度も同じマスクをしている。

 そう言う意味では「世界水準」の生活と言っていい。


★これまで屋外では、マスク着用は原則不要、屋内では原則着用としていましたが 令和5年3月13日以降、マスクの着用は、個人の主体的な選択を尊重し、個人の判断が基本となりました。 本人の意思に反してマスクの着脱を強いることがないよう、ご配慮をお願いします。

 とあるのだが、
 昨日散髪に行って周辺の状況を見てきたが、殆どと言っていいほどの人が外なのにマスクをしているのである。
 勿論私は家を出て、戻るまで一切マスクはしなかったが、
 
 この状況はちょっと不思議である。

 ただ昨今、大相撲の放送があるので、そのテレビの画面で見る限り
 「マスク」をしていない方も結構多い。






★ コロナ菌などこの世から消え失せることはないのだろうから、
 この調子が続くと「日本はマスクをしている国」になってしまうような気がする。
 こんなことをブログにアップしたら、いっぱい反対意見が来るのだろうか?
 まあ、「90のおじんの戯言」と言うことでお許し願いたいが、
 そんなに間違っているとも思わないのである。


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免許を取ってからの最初の遠乗りは・・・

2023-03-16 05:13:12 | 私の運転歴

★免許を取ったのは30歳を超えてたのだが、
 一般の方は当時はクルマなどお持ちではなかった時代で、
 当時としては別に遅かった訳ではなく
 会社では、広告宣伝やレース担当であったことから、
 会社の仕事のために免許を取ったので、
 自分のクルマを運転するための「免許取得」ではなかったのである。

 ライダーたちはいいクルマに乗ってたが、彼らは当時は独身で、
 そんな車が買えるほどの契約金を渡していたのである。
 三橋実は初代の「シルビア」に乗っていた。

 

 

 私はまだ車などは買えるような身分ではなくて、
 専ら運転していたのは社用車で、広告のロケ撮影や 日本国中あちこちで開催されるモトクロスの現地に赴いたし、
 鈴鹿サーキットなどにもしょっちゅう行ってたので、
 普通の方などは走らない「長距離走行」が多かったのである。

 免許を取った6月17日の翌月の7月31日には
 鈴鹿サーキットで開催された「24時間耐久レー」にMFJの運営委員として行っているのが最初の長距離走行である。
 
日本で「24時間耐久レース」などあったのか?と思われる方が多いと思うが、その年1回だけの開催で終わってしまったが、
若いカップルが圧倒的に多くて、夜中の風紀上の問題で翌年からは開催されることはなかったのである。


★今回は「レース」のことではなくて「私の運転歴の話」だが、
 免許を取って1か月後にこんな長距離を走っているのである。

 いまでは明石ー鈴鹿サーキット間も高速道路で繋がっているので、
 3時間足らずで行けるようだが、

 


 当時は西宮ー栗東間だけが「名神高速道路」で、
  それ以外には高速ロードなどなかった時代だから、
 高速道路を走ったことのある人は殆どいなかったし、今のようにいっぱい車が走ってはいなくてガラガラだった。
 ちょっと脱線するが、カワサキ250A1はカワサキが最初に開発した本格的なスポーツ車だったのだが、
 その250A1の開発時のテストは、ガラガラの名神高速で行われていて、
 当時は清原明彦はテストライダーだったのだが、レースの契約ライダーの金谷秀夫歳森康師なども名神でのテストに参加していた。

  
 

 赤のカラータンクになったのはA1が最初で、
 それまでのクルマはみんなメッキの側板が付いていたのである。
 これは多分アメリカ人のアイデアでカワサキが流行の先端を走っていて、
 次に出たマッハⅢからはニーグリップとタンクマークがなくなったのである。

  
   
 


★名神高速を栗東で降りてからは1号線を走って、
 最後は難所と言われた「鈴鹿峠」を下っての「鹿サーキット」だから、
 免許取り立ての新人にとっては大変な難コースだったのである。






 その後何年かのちに、堺に抜ける大きな道が出来てからは、
鈴鹿サーキット」へは大阪周りが多くなった。
 

★ 鈴鹿も大変だったのだが、更に1か月後の8月26日には、
 「伊豆丸の山高原」であったMCFAJ 全日本モトクロスに、
 メカニックの水町さんと二人で交替しながらの運転だったが、
 明石ー伊豆丸の山と言う長距離を走っている。

  

 
 いすゞワスプの社用車でで、明石を夕方の5時にスタートし、
 西宮から小牧までは「名神高速道路」だが
 そこからは1号線の夜中の地道を走って、三島に朝の5時に着き、
 丸の山のロッジに着いたのは朝の7時半だったのである。

 これが私の「はじめての長距離運転」と言ってもいい。





 丸の山高原は伊豆のこんなところにある。
 ここでは2年続けてMCFAJの全日本モトクロスが開催されていていた。


 

 
 

★こんな調子で私の運転歴はスタートしているのだが、
 これからも「運転歴」を記述するが、
 普通一般の方とはちょっと違った「長距離走行」が多いので、
 この何年か後には、仙台赴任となって、広大な東北6県を走り回ったし、
 仙台ー明石・1000kmも、クルマで何回かは往復しているのである。

 そんなことで、クルマの走行に関しては、ちょっと一般の方とは違った感覚になってしまっているのである。

 


 

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協同学苑の梅と・・・・

2023-03-15 07:25:05 | みっきぃふるさとふれあい公園

★梅にも早咲き遅咲きがあるのか、協同学苑の梅は丁度見ごろになった。

 この紅梅は満開で見事である。
 
 
 

 白い梅たちは今からが開花のようである





梅は今が見ごろの季節のようである。




 苔は強いのだろうか?
 もともとは芝生のはずだが、一面苔で覆われている。
 日当たりはいいのに不思議だ。





 山の坂道は両面苔で、





 ずっと下のほうまで続いている。

  


下りきったところの池の雰囲気が好きで癒される。




 最近は特に水が澄んで綺麗になった。




 魚釣り禁止などの看板もあるのだが、魚はいるのだろうか?
 私は子どものころから「魚が好き」なので、気になるのである。


 この1本の山つつじだけが何故か花を付けている。

 
 

 山つつじが咲きだせば、春爛漫と言える時期なのである。



 

 その時期ももうそこまで来ている。


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私の運転歴

2023-03-14 05:36:13 | 私の運転歴

★私がクルマの免許を取ったのは昭和40年(1965)6月のことだから、
 もう60年近くにもなる。
 当時はまだ車の免許など持ってる人は少なかったし、車を持ってる人も少なかった。

 当時私は30歳になったばかりだったが、広告宣伝課を担当し、
 カワサキのファクトリーチームのレースマネージメントもやっていて、
 全国のモトクロス場や鈴鹿サーキットなどでのレース展開にチームはクルマで移動していたという環境にあったので、
 ちょうど娘が産まれて、家内が1か月ほど里帰りをしている間に、自動車学校に入学し免許を取ったのである。

★当時のカワサキのライダーたちは、三橋実・安良岡健・山本隆・歳森康師・梅津次郎・岡部能夫・金谷秀夫・星野一義と錚々たるメンバーだったのだが、
 結構な契約金をはずんでいたので、ホンダS600スカイラインGTBなど、 いいクルマを持ってたし、
 私のクルマの運転の初期の先生は彼らライダーたちだったので、
 最初からいろいろ高度なテクニックを教えてくれたのである。

  
 

当時のクルマは今と違ってみんなマニュアル車だから、なかなかムツカシイのだが、覚えると結構オモシロイのである。
レーステクニックの「ヒール・アンド・トウ」などの足を上手く使わねばならない、そんな高度なテクニックも出来るようになったし、
当時の出来たばかりの鈴鹿サーキットは、1周だけだが誰でもS600でコースを走れたので、何度も鈴鹿を走ったことがある。

 


★そんなことから「クルマの運転」は好きになったし、
 若いころは飛ばしたりもしていたが、結構運もよくて今まで事故は一切ないが、
 最初に運転テクニックを教えてくれたライダーたちの助言は、
 「サーキットを速く走る」だけではなくて「安全に走る」と言う要素もいっぱいあって、
●ブレーキは直線で、
●ブレーキを踏む時はバックミラーを見る
●カーブはスローイン、ファーストアウトで、ブレーキではなくアクセルなのである。
こんな基本が確りと身についていて、一般道路でも非常に有益だと思っている。

 カワサキでの現役時代は二輪事業を担当したこともあって、
 販売店訪問など業務でクルマを運転する機会も多く、
 日本は全県、自分でクルマを運転しているのでいろんな道も知ってるし、
 海外でも「海外免許」で、いろんな国をレンタカーで自分で運転して、
 こんな国々の道を自分で運転して走り回った経験がある。
 
アメリカ・カナダ・タイ・マレーシア・インドネシア・イギリス・ドイツ・オランダ・フランス・スイス・オーストラリアなど。
ヨーロッパでは国をまたいで移動したりもしたし、アフリカのナイジェリアの道も知っている。
 
★夫々の国でのいろんな経験は貴重だし結構面白かったので、
 ブログに「私の運転歴」と言うカテゴリーを新しく創って、いろんな私の「運転歴」を紹介してみようかなと思っている。

 私は20歳から毎日日記を書いているので、
 どこの県、どこの国をいつどのように走ったのかは、日記を読み返すと正確に解るのである。

 最近は毎日が同じことの繰り返しで、私の「雑感日記」もその話題に困ることもあるので、
 そんな時は「私の運転歴」と言うカテゴリーで、いろんなことをご紹介してみようかなと思っている。
 そう言う意味では「クルマの運転」は私の人生の宝物でもある。
 90歳になったが、毎日「クルマの運転」をしない日はない。
 「運転」はまだまだ大丈夫だと思っているが、昨今はまさに「安全運転」なのである。

 いろんなことをご紹介できる思うので、楽しみにしてください。
 先ずは新しいカテゴリー「私の運転歴」の第1号である。
 
 
 

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わが家にも春が来た

2023-03-13 06:29:01 | 発想$感想

★ 毎年のことだが、福寿層が咲いたら「もう春だな」と春を感じ、
 「クリスマス・ローズ」が咲いたら「春が来た」と思う。

 そんな「クリスマス・ローズ」の花が咲いた。


 


我が家の庭全体に春の兆しが見える。






 こちらは梅とサクランボ、サクランボは桜よりはひと足早く花開く。

    
 

 いろんな樹々の芽が動き出したが、
 芽が一番顕著なのは何と言っても薔薇である。 
 そんなつる薔薇の芽も一斉に動き出した。


 


 大相撲「春場所」も始まった。

 我が家にも春がやって来た。


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カワサキ ZEPHRE400 のこと   雑感

2023-03-12 06:07:10 | カワサキ単車の昔話

★1989年と言えばまだレーサーレプリカ全盛期と言ってもいい時代に
 「カワサキZEPHRE400」は登場して何年間も売れ続けたヒット商品なのだが、
 発売までにこれほど期待されていなかったのは珍しいと言ってもいいほど期待されていなかったのである。

 新製品の発売時期は期待された商品はみんな春のシーズン前の2月や3月に発売されるのだが、
ZEPHRE400が発売されたのは、4月の末でそれも生産台数はほんのわずかだったのである。
 

   


 私は1988年10月に「7万台販売目標」と言うとてつもない大きな目標を与えられての3度目の国内市場担当となった。
そんな目標の中では、当時のスポーツ・レプリカなどが中心で、ZEPHRE400などは全然期待されてはいなかったのである。

性能的に何の魅力もなくて「ZEPHRE」と言うのは「西からの風」と言う意味なのだが、
レーサーレプリカ全盛期に、カウルなしの懐古的なスタイルを前面に押して登場したのである。

ZEPHYRの広告も性能などは訴えるものが何もないので、こんなイメージ広告に終始したのである。


 
 
 


これがフルカウル以外の選択肢を求めるユーザーに受け爆発的な売れ行きを見せ、「ネイキッドブーム」の立役者となるのだが、
そんな人気は、ある意味作られたものでそれは「私が創った」とも言えるかも知れない。

誰もこんな車が売れるなどとは思っていなかったので、その生産台数はほんのわずかだったものだから、
発売してちょっと人気が出たらすぐ足りなくなってしまって『バックオーダー』となったのだが、
バックオーダー』になるということは『よく売れてる』という証明だし、「バックオーダーがバックオーダーを産む」と言う現象になるのである。
あまりにもバックオーダーが増えたので少しだけ増産はしたのだが、上手に調整して3年間もZEPHYRのバックオーダーは続いたのである。
そう言う意味では、これはハードというよりも『ソフト』でヒット商品にしたと言えるのかもしれない。

 性能的に訴えるものは何もなかったのだが、
デザインコンセプトも変わっていて、タンクマークはKawasakiではなく、Zephreだし Kawasakiのレタリングは1か所だけと言うのも当時としては初めてで、そんなこともあってZEPHREを買ってくれたお客さんは、従来のカワサキユーザー層ではなかったので、
即台数の上乗せになったのだと思う。

★この『バックオーダー』を3年間も続けることが出来たのは、私が「バックオーダーが消えないように」生産台数を調整し続けたからだと言っていい。
実はずっと以前のFX400の時のことだが、3ヶ月分のバックオーダーが続いたのだが、増産した途端に3ヶ月のバックオーダーは消えてしまったのである。

その時解ったのは、お客はあちこちの店に行くので独りの客が3台ぐらいになってしまっていて、モノが足りたらたちまちバックオーダーは解消されてしまうのである。
そんなFX400の時の経験から、ZEPHYRの時は3ヶ月のバックオーダーなど無視して少量生産を続けていたら『足りない=いい商品』ということで延々とバックオーダーが続いたのである。 
ホントに特徴のない車だったのだが、空前のヒット商品となり、『7万台目標』に大いに貢献したのである。

若し、初期に増産していたら『バックオーダーは一瞬に消えてしまっただろう』と思っている。

「7万台目標」も達成できたし、利益貢献も出来て最後の国内担当は「有終の美」を飾ることが出来てよかったなと思っている。

 






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プロ野球・今昔   雑感

2023-03-10 05:33:22 | スポーツ

★ WBC第1戦は中国戦だった。
 日本代表はその実力を発揮し順当に勝利した。

  
 

昨今はサッカー人気に押された感もあるが、野球人気もまだまだ相当なものである。
 日本のプロ野球のレベルも今回のWBCでどうなるかは解らぬが、
 野球王国アメリカを抜いて世界第1位の地位にいる。
 ホントに日本野球も強くなったものである。

 1949年10月、日本にやって来たアメリカの3Aチーム、
 サンフランシスコ・シールズとの7戦が行われ、日本のチームは全敗。
 日米野球の実力差を見せつけられた形で終わったのを想い出す。
 私は高校1年生で当時は名門明石と言われた明石高校の野球部だったのでよく覚えている。

★ 何が変わったのかと言えば、一言で言うと「体力」かなと思う。
 日本人の体格も大きくなったし、今は単なる野球技術だけではなくて、
 その基礎になる「体力」についても、筋トレなどで徹底的に鍛えている。
 われわれの現役時代は「筋トレ」など雨の日に真似事でやっていただけなのである。
 私と同期はあの金田正一で、長嶋や野村が2年下だし、巨人に王が入ってきた当時は、明石球場で春のキャンプをやってたのでよく知っているのだが、
 当時の明石球場にはラッキーゾーンが設けられていて、巨人の練習でも旧フェンスまで打ち込むバッターはホントに少なかったのである。
 甲子園球場にもラッキーゾーンは設けられていて、王のホームラン記録もそんな時代のものだから、
いまフェンス際まで飛ぶ打球はすべてホームランになっていたのである。

   


★今回のWBC全日本は今までの最強チームと言われているが、

 

 
 大谷を中心にホントにすごいメンバーが集まっていて、
 「世界一」を目指すにふさわしいと思う。
 今日の韓国戦が一つのヤマかなと思うが、大丈夫だろう。


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春ももうすぐそこ

2023-03-09 05:52:41 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 3月に入って俄然暖かくなった。
 毎朝来ている三木総合防災公園の樹々たちも
 遠くから見ると何の変化もないのだが、


 


 近くによると「春の息吹」が感じられる。

 

 
こぶし咲くあの丘北国の春」と唄われる「こぶし」も
 花のつぼみは膨らんでいるし、

 名は解らぬが、こんな小さな花を付けだした樹もある。

 
 
 

 一斉に芽吹くのはまだまだ先だが、

 


 確実に春は近づいている。





三木総合防災公園は、ゴルフ場が三つも入るような広さなのだが、
 
 世界最大の屋内テニスコート「ビーンズ・ドーム」も園内にはある。

 


  屋内はこんなテニスコートが7面もあるが、



 
 阪神大震災を機に支援物資の格納にも困った実績を踏まえて
 災害時には救援物資の保管庫にも早変わりするのである。

★毎朝、約2時間この広い公園のあちこちを歩いているが、
 2時間歩いてもとても全部は回り切れないような広さである。
 2時間歩くと1万歩はちょっと越えて、距離にして約8kmぐらいになる。

 90歳の高齢者の散歩としてはちょっと高度だが、
 本人は散歩ではなく「体力維持」「体力増進」のためだと思っている。

  


今朝も11391歩、8kmちょっとだった。


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