雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私の日記から   1958(昭和33年)

2023-10-22 17:54:16 | 自分史

★ 社会人生活2年目である。
 川崎航空機に入社したのは伯父の友人でもあった当時の川航副社長の砂野仁さんのコネだったからである。
 伯父との接点は旧く戦前になるのだが、明石で伯父が片手間にやっていた錦江ホテルが当時の川航に来ていた軍人の宿舎に接収されるのだが、
 砂野仁さんは、その時の川崎航空機の総務部長でその売買契約書は二人の名前で結ばれているのである。


  




 本当に偶然なのだが私は財産課に配属されたので、
 旧い書類の中からその契約書を見たのである。
 戦前の金だが、80万円の売買価格だった。給料が100円にもならない時代だったから相当な額ではある。


  

 会社ではそんなこともあり、入社2年目も結構ちゃんと仕事をしたはずだが、
 日記の多くの部分が家内との交際のことで埋まっている。
 私は何事にも熱中するタイプだが、
 人生でこの年は恋愛に熱中した1年であったと言っていい。
 
 そういう意味では、記念すべき日記帳である。

  
    


  
★ 隣の給与係にいた家内には、配属後すぐに関心もあって
  日記にもその記述があるのだが、その後も特に何事もなく過ぎている。

  この年の5月28日のことだが、
  三ノ宮で同じ電車から降りて声を掛けたのが始まりである。
  その時のことを日記にこのように書いている。

    




  こんなやり取りがあって、映画に誘ったらついてきた。
  記念すべき初デートである。
  これが5月28日だが、翌週の6月7日には新世紀に踊りに行っている。
  そして6月24日にも新世紀に踊りに行っている。

  1ヶ月も経っていないのに、会社の誰かに見つかってしまっていて、
  その頃にはみんなに知られているのだが、全然、気にすることはなかったのである。

  そして7月9日には、彼女の方から誘われた
  7月10日が誕生日で、誕生日を一緒に過ごしたいと思ったのだと思う。
  私が26歳の時だから、家内は22歳の誕生日だったのである。

  
  


  神戸の摩耶山に登ったのだが、
  帰りは真っ暗な山道を歩いて降りてきている。

  その後も毎週のようにデートは続いたが、
  7月22日に布引の滝ではじめて『好きだ』と言っている。
  人生で女性に対して、はじめて言った言葉で、
  家内以外に『好きだ』と言った女性はいないのである。

  彼女の自宅が神戸の灘区であったこともあって、
  その後のデートも、神戸や大阪まで足を延ばしているし、
  夏には淡路島の洲本まで泳ぎに行っている。


  その当時の家内の写真で、送って来てくれたものである。
  当時、私はカメラなど持っていなかったので、
  彼女の写真などはこのほかにはないのである。

  


★ 会社の仕事の話は日記には少ないのだが、
  会社で2年目結構ちゃんとやった筈で、
  これは日記ではなく私に記憶なのだが、
  財産課に配属されて工具器具備品を担当するのだが、
  当時、その財産台帳もないしその物件は償却計算された紙に件数だけが解る状況だったのである。
 
  この財産台帳を創ると言ったら、周囲の先輩たちはみんな、それは不可能だからやめておけと仰るのである。
  そんな言葉にも反発して、財産プレートなるものを創って、各課の物件にそれを貼って、1件ずつ財産台帳を創っていったのである。
  これはある意味大変な作業だった。現場の事務所を周って例えば机などにも、財産プレートを打ち付けていったのである。
  そんなことばかりしてたから『古谷はいつ見ても金槌を持って社内を歩き回っている』と言われたりしたのだが、
  この年1年掛って、ほぼ全体の財産物件がどの課に幾つあるかも解り、
  財産物件台帳が完成したのである。

 入社したばかりの新人の頃から、
 自分で仕事を創っていったので、振り返ってみると、
 上司の指示で仕事をした経験がないのである。

 入社2年目は、仕事もしたが『家内との交際が始まった』そんな記念すべき1年だったのである。

    
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私の日記から   1957(昭和32年)

2023-10-21 13:25:29 | 自分史

1957年(昭和32年)は大学を卒業し川崎航空機に入社した会人1年生の年である。

この年は1月19日に大学野球部主催のダンスパーテイー開催からその幕が開いたと言っていい。
人生でいろんなイベントを主催してきたが、これが私の初めてのイベントだったのである。
 
パーテイー券もデザイナーに頼んで、結構立派なモノだった。

  


ダンスパーティーをやった目的は単純で、
後援して頂いている運動具店への借金返済が目的だったのである。

 


ダンスパーテーでの収入目標額は10万円で、
初任給が1万円ぐらいの時代だから、現在に直したら200万円ぐらいになるのだろう。
200万円は売上高ではなくて『利益目標額』だから、
その規模の大きさはお解り頂けると思う。
当時の学生が主催するダンスパーティーは大体200名ぐらいだったのだが、最初からその10倍ぐらいの規模での開催だったのである。
新しくスタートしたばかりの神戸国際会館の大会議場を借り切って、2000枚のパーテイー券を販売することで部員一同頑張ったのである。

 これがその収支だが、
 目標の10万円の収入を達成して、話題にもなったし、大成功の催しだった。


 


  
当時、私は結構ダンスにも凝っていて、明石のダンスレッスン場で教師の真似事などやってたので、
私個人で300枚近く販売しているのである。

今思い返してみると、結構な大仕事だったと思うのだが、
よくやり切ったものだと思うし、当時の部員たちの協力・努力も相当なモノだった。

お陰様で野球部の運動具店への借金も綺麗にして卒業出来たのである。


★ この年は『神武以来の』というのが流行語になった神武景気の年で、
 川崎航空機工業の明石工場だけでも30名ほどの新入社員を採用したのである。
 そんなことで我々の同期会の名称は『神武会』なのである。

 工場付近もまだこんな時代で

 


 いまの西明石駅は、山陽本線ではなくて川崎航空機の明石工場に行くために、 
 戦前に作られた支線の時代だったのである。
 戦前の明石工場は10万人もの従業員がいたというので、
 大変な規模だったのである。





 
 勿論、飛行機を作っていたのだが、
 川崎航空機があったために明石は大空襲にあったのである。





★ 私は明石の生まれで、本籍も今でも明石だし、高校も明石だが、
 川崎航空機にはいろいろとご縁がって、入社することになるのだが、
 その最初の配属先は業務部財産課だった。
 まだ大学卒は少ない時代で、そんな課に初の大学卒として配属されたのである。
 どちらかというと地味な課で、そんな課に大卒が配属されたこと自体が注目された様だった。
 先輩たちの言は一様に『地味な課でオモシロくない』と仰るのである。
 
 財産課とは財産物件の管理をするところで、
 当時の金で1万円以上のものが通常財産物件になるのである。
 財産物件の項目には土地・建物・機械装置・車両運搬具・工具器具備品などの項目があるのだが、
 私は入社早々車両運搬具工具器具備品の担当となったのである。
 車両運搬具とは4輪・2輪は勿論、自転車なども入るのだが、
 当時は4輪・2輪などは少なくて、自転車が台数的には主体だったし、
 工具器具備品というのは文字通り工具だとか、棚などを言うのだが、
 当時新設したばかりのジェットエンジン工場は新規事業ということで、
 特別に300円以上が財産物件になるので、机も椅子も300円以上のものはすべてが財産物件に計上されていたのである。
 当時の会社は再スタートしたばかりで、財産台帳など皆無というような状況で、
 極端に言うと『会社の体を成していない』ような状態だったと言っていい。

私の担当した車両運搬具は、自転車が結構大量にあってそのパンク修理が毎日発生するし、
椅子も当時は木製の回転椅子で、壊れて修理に出すのがトラックに満載されるほどで、信じられないかも知れぬが、そんな修理作業が毎日あって大変な時代だったのである。
 そんな仕事が最初は大半だったが『オモシロくない』などと思ったことは一度もなく、結構楽しんでやっていた。

 末端の現場の人と話をする機会が多く、
 つまらぬ修理のことだが、当方は『頼まれる』ほうだから、
 ちゃんと早くやると喜んでくれるのである。

 当時は野球やソフトボールが盛んで、社内大会もしょっちゅうあって、
 そこでは中心の人気選手だったから、新人ながらすぐに『顔は売れ』のである。
 
  
★ 財産物件の償却計算というのが毎期あるのだが、
 その計算はタイガー計算機を使っての手動計算なのである。


  

 
  この計算は当たり前の話だが、
  財産物件の金額ではなくて、件数のほうが手間が掛かるので、
  そう言う意味では件数の多い『工具器具備品』が圧倒的に作業量が多くて、
  決算期には大変だったのである。

  そんな新入社員時代の半年ぐらいだったが、
  私は1年目からこれらの問題の解決諸対策に当たって、
  財産課には3年ほどいたのだが、その間にすべての問題の対策をしてしまったと言えるほど積極的に動いたのである。

  例を一つ上げるなら、例えば椅子は壊れない金属製の『ネコスの椅子の採用』を提言し、翌年の2月にその採用が決まっている。
  この椅子を一斉に換えるわけにはいかないのだが、
  配布の順番の決定権は入社早々の新人の私にあって、
  なかなか面白かったのである。

    


 そういう意味では、めちゃオモシロかった3年間だったのである。

★ 入社が4月1日で、配属されたのが4月15日で、
  財産課の隣が勤労の給与計算係で女子社員がいっぱいいたのだが、
   4月19日の日記には勤労の女の子の記述があるのだが、それが今の家内なのである。
  その時点では見てただけで、それ以外は何もなかったのだが、
  6月5日の日記に、私の大学時代の親友の小野田からの電話が勤労の電話に掛って、
 「小野田さんという方から電話です」とわざわざ伝えに来てくれたのが家内なのである。
 その時は、ただそれだけのことだが、日記に書いているということは、
 それなりの関心があったのだろうと思う。

 家内と付き合いだしたのは翌年のことなので、この年にはそれ以上のことにはならないのだが、
 神戸高校(神戸1中)出身だということが、この年の11月にはじめて、言葉を交わして解ったのである。

★入社1年目は、ざっとこんなことなのだが、
 野球部に入ってすぐにキャプテンなど仰せつかったものだから、
 結構、社内では名も売れて、自分で言うのもおかしいが、
 人気だけは悪くなかったように思うのである。
 
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私の日記から   1955・1956年(昭和30・31年)

2023-10-17 07:14:23 | 自分史

★ 1955年大学3回生である。
  この年あたりは振り返ってみると大変な年だったように思う。
  この年の4月に伯父が脳溢血で倒れている

★ 3年前の1月2日に長年寝ていた父が亡くなって
  それまでは私は高校卒業したら就職するつもりだったのだが、
  伯父が『父の治療費が要らなくなったから大学を受けろ』というのである。
  父は私を大学にやるために1月2日に死んでしまったのかも知れない。
  それより遅かったら大学入試を受ける機会がなかったのである。


  父と伯父は本当に仲のいい兄弟で、父が病気で寝ていたころは多分今の保険もなかったのだろう。
  治療に要るマイシンの注射が1本2000円もしたのだが、
  その費用を伯父は上ノ丸の土地を売ってずっと治療代に充ててくれていたのである。
  まだ土地ブームなどは起こっていない時代で、
  後には1坪100万円もした上ノ丸の土地一坪2000円の頃で、
  かっては2000坪もあった上ノ丸の土地が半分になってしまっていたのである。

★ 伯父は戦前は祖父が創った朝鮮の電力会社を引き継いで、
  確か当時は日本で一番大きかった南鮮合同電力の副社長をしていた財界人だったのだが、
  戦後は朝鮮の資産はすべて失って、
  我が家も朝鮮から引き揚げてきたし、大変だったのだと思う。

  これはまだ戦前の頃の写真だが、
  当時にこんな服装をしていたのである。
  左が伯父で右が父である。

    


  そんな伯父が脳溢血で倒れて
  5月には他界してしまうのである。

  私自身は肺浸潤を患っていたし、
  いま思い返しても大変な環境だったと思うのだが、
  私は病気の体で野球は続けているのだが、とうとう空洞も出来てしまって、
  翌年の4回生の時には、伯父の葬儀の時に来て頂いて
  『卒業してほかに行くところがなかったら、うちにいらっしゃい』と言って頂いていた、
  川崎航空機の当時の副社長の砂野仁さんも、
  今年は不景気で人も取らないから、もう1年卒業を延ばしたらと
  仰るし、
  私も体調がもう一つなので1年卒業延ばすことにしたのである。

★ 1年卒業を延ばしたのだが、
  すでに単位だけは取れていて、新たに単位を取る必要もなく
  この年の4月に野球部の部長だった田中教授から『野球部の監督』を依頼されて、それを引き受けることになったのである。

  振り返って考えてみると、呑気なものである。
  ちょっと自分の体調もおかしいから卒業を延ばしたのに
  野球部の監督を引き受けて、結構ちゃんとやっている。
  お陰で秋のリーグには近大に次い2位になったし、
  小山修身投手は当時の学生野球記録53イニング連続無失点を記録している。

  どうも私は人に頼まれたら断れなくて、
  自分のことよりそれを優先してしまうのである。
  そんなことはその後も一生続いている。

★ ただ人には運があると思うのだが、
  『私はホントにツイている』と思っている。

  前年までは極度の就職難の時代だったが、
  この年は一転「神武景気」になって、各社とも大量な人を取ったのである。

  川崎航空機工業も多くの新入社員を採ったし、
  私も砂野さんコネだったから問題なく入社出来たのである。

  これが入社試験の一つ、英語で
  ちゃんと訳せたのかどうかはよく覚えていないが、


  
  


 すぐに 『合格』という電報が届いたし、



  


  こんな正式の採用通知書が届いている。


  
  
 
 こんなものがあったとはすっか忘れいたのだが、
 今回、日記を読み返していたら出てきたのである。

 こんなことで私の学生生活は終わるのだが、
 振り返ってみると、
 小学生時代は卒業時に知事賞に当たる『京城府伊賞』を頂いたし、
 名門・神戸一中でも2年生まではずっと10番以内にいた。
 それが3年生の時に、男女共学になって県一女と一緒になるのだが、
 英語や数学が1年以上逆戻りして、
 勉強する必要がなくなってしまったし、
 高校は学区制で明石高校に転校したら、ここでもまた戻ってしまって
 それ以来は学生時代に『勉強した』記憶はなく
 野球一筋の学生生活だったのである。


★ そんなこともあって、川崎航空機の入社試験の面接では
 『君は成績悪いね』という一言から始まるのだが、
  何の物怖じもせずに「会社の仕事なら人に負けずにやれると思います」
 堂々と言ってのけたのだが、何となくそんな自信はあったのだと思う。
 神戸一中には実は砂野仁さんの勧めで入学していて、
 砂野さんは当時の私の成績はご存じなので、
此奴はアタマは悪くない』と思っておられたのだと思う。
 面接時にも『ところで君は野球をやってたな』と話題を切り替えて頂いたのである。
 
 まあいろいろあったのだが
 一言で言うと『ツイていた』と言える2年間だったと思う。 

 若し、無理して卒業していたら、
 カワサキ以外の会社に勤めることになっていたのである。
 どちらがよかったかは解らぬが、
 カワサキの40年間も、普通のサラリーマンとは全く異なり
 ホントに面白かったのである。
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私の日記   1954(昭和29年)

2023-10-14 05:09:14 | 自分史

★ 私の日記・1954(昭和30年)大学3回生である。
 前年の11月に突然肺浸潤の宣告を受け、そんなことから日記を書くようにもなったのだが、
この年からは当然だが日記帳に書いている。

 
  



  世は吉田茂内閣時代で、不景気で就職難の時代である。
  学生たちは勉強して優の数を一つでも多く取ろうとするのだが、
  これはひとえに就職に有利になるようにということなのである。
  どうもそんなことがイヤで、私は逆に勉強はしなくなってしまった。

  そんなこともあって、この年の日記は『野球のこと』ばかり書いている。


★ この時期には兵庫県では高校のOBチームの大会が新年早々甲子園球場で行われている。
 先ずはこの大会で明石高校と芦屋高が優勝を争い、見事明石が優勝を飾っている。
 そんな写真が日記帳に貼ってある。
 残念ながら『肺浸潤』になったところだったので、
 この時期は大人しく寝ていたので、
 現場に行っていないし、チームにも参加していない。


  

 

 2月にはこの頃は巨人が明石球場で練習してたので、よく見に行っている。
 川上・別所・千葉・宇野の時代で、広岡が新人で巨人に入団した年である。
 新人ながら広岡の守備は見事だった。

 この年の前半6月までは『肺浸潤』のこともあって大人しくしていたのだが、
 病状は安定して落ち着いていた。
 7月になって9か月ぶりにユニホームを着て、大学の練習にも参加するようになった。
 加えて、こちらは準硬式のアマチュア野球だが明石高校のOBチーに参加して草野球を楽しんでいる。
 明石高のOBばかりだから当たり前だが強くて、いろんな大会に勝している。

 9月の秋のリーグ戦に備えた合宿にも参加し、
 3回生だったのだが秋からのキャプテンにも選ばれて、
 秋のリーグ戦はベンチでの指揮を任されるのだが、
 10月19日にはショートで復帰している。

 これが秋のリーグ戦の予想だが、春には5位に終わった神商大だが、
 記事には『古谷のカムバックで』内野陣がまとまり、
 打力も上がってと2位を狙う位置にあると書いてもらっている。



 



  結果は3位で終わるのだが、
  リーグ戦が終っても、明石高校のOB野球にはずっと参加していて、
  11月には神戸2中OBとの試合も14-5で圧勝し、この試合では5打数3安打と記録にあった。
  神戸2中も明石高校もその時代の甲子園出場チームで、
  そのOB戦は、そんな甲子園球児がメンバーなので、
  そこそこの野球を展開していたのである。

  明石OBは私と同期の完全試合投手の溝畑が主として投げていたし、
  翌年の兵庫県OB大会の予想も『優勝候補』として
  新聞にこんな記事が載ったりしていたのである。


  


  メンバーは慶応で朝日スポーツ賞を取った山本治投手
 日生の大津・国賀・西村など錚々たるメンバーで、
 このメンバーなら当時の日本の実業団チームでも優勝候補になるかも知れないほどのメンバーが揃っていたのである。

 そんな大学3回生・21歳の私の1年は『後半は野球漬け』だったと言っていい。
 この時期肝心の『肺浸潤』のほうは経緯は良好で落ち着いていたのである。

 そんな1954年だった、
 日記を読み返してみると、
 ほんとに忘れてしまっていることが多いのに驚いた。

★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

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子どもの頃の記憶は結構鮮明

2022-09-10 05:37:06 | 自分史

★ 最近は、何でもすぐ忘れてしまって、
 昨日のこともよく覚えていないことが多いのだが、
 子供の頃覚えたものはいまでも結構ちゃんと覚えている。

 毎朝スロー・ジョッギングを約2時間・1万歩ほどやっているのだが、
 その時「歌を唄っている
 歌と言っても子供の頃唄った軍歌や童謡が多いのだが、
 この歌詞が完全ではないが結構覚えているのである。

 歌を唄いながらジョッギングすると、いつの間にか距離も稼げるし、 
 リズム感もあっていいと思っている。

 どんな歌か? と言われると10曲ぐらいなのだが、
 太平洋戦争最中だったのでこんな軍歌も多い。

 ラバウル小唄・轟沈・轟沈・戦友やら 
 軍歌とは言えないが、満州娘や海ゆかばなどである。


  


 

 
童謡では、夕焼け小焼け・七つの子・お手てつないで などなど

 
    



  


   歌詞がやさしいこともあるが、
   殆ど、100%に近く正確に覚えているのだが、


   現役の頃、カラオケで歌った「演歌」などの歌詞は
   殆ど忘れてしまって歌えないから不思議である。

   記憶と言うのは不思議で、
   軍歌などほかにも沢山あったと思うのだが、
   それは出てこなくて、同じ歌ばかりがアタマに浮かぶのである。

   毎朝、歌いながらやってるので、だんだん正確に覚えるようになってきた。


   それに神戸一中の校歌の1番・2番を唄っている。
   覚えているのは中学校の校歌だけで、小学校も高校もましてや大学の校歌など全く覚えていない。


 

   神戸一中の校歌は、1.2番はよく覚えていて
   自分の結婚式の披露宴で、仲人が「何か唄え」と仰るので、
   歌詞も好きだったし、歌ったのを覚えている。
    

  

 
 
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アメリカの娘のFacebook から・・

2022-05-29 06:37:24 | 自分史

我が家にとっていま娘家族が住んでいるアメリカは世界で一番近い国になっている。
 今朝も孫が家内に電話してきて、いろいろ話してた。
 ネットの世界がアメリカをより近い国にしているように思う。

 そんなこともあって、暇に任せて娘のFacebook でこの10数年を振り返ってみた。
娘一家がアメリカに渡ったのは2004年のことで、もう18年にもなるのだが、
我が家とアメリカの距離はぐっと縮まって、家内など2009年から10年間、ずっと娘家族のいるアメリカに何か月も遊びに行ったりしてたので、
娘のFacebook にはそんな写真がいっぱいなのである。

 ただ、なぜか何度やっても2014年10月以前の記事も写真も出なくなってしまうので、
 それ以前の記事や写真がないのは残念だが、
 折角、時間をかけて写真を眺めていたので、
 それを纏めてこの10数年の想い出を振り返ってみたいと思っている。

 これはある意味「自分のために」整理したものである。

 
★まずは現在、娘のFacebookの写真です。
 これは、今ではアメリカでサッカーのプロになっている孫の門野真也の得点シーンの写真で、その動画も載っています。

 

 
 相手チームのキーパーは、孫の少年時代から大学までのチームメートで、
 元アメリカサッカー代表監督クリンスマンさんの息子さんです。
 私も高校時代からのプレーぶりを観ているので、
 その頃のこともよく解っていて、懐かしい。
 



 今は相手チームなので、ユニフォームの交換などして、
 孫の末弟・門野哲也も記念撮影に入っていた。




 
  みんな立派に成長するものです。


★ これから後は、旧い順に我が家とも関係のある写真を
 この10数年の想い出として抜粋整理してみました。
 これが2009年から10年間、毎年アメリカに遊びに行ってた家内です。
 10回も、それも何か月もアメリカで暮らしたら、
 アメリカ通になるのは当然で、家内にとっても懐かしいいい10年だったと思います。
 



 この時も2か月間のアメリカ滞在でした。

 



 次男・真也の18歳の誕生日、大人の仲間入りです。
 哲也はまだ中学生かな。





 名門バークレー大学のサッカー部に推薦入学で入れて、
 家内はその開幕戦を観に行ったようです。





 もう何度も経験したアメリカ旅行で、旅慣れたものでした。




 翌年2016年は私もアメリカに。
 この頃は、真也も試合に出てたし、
 私はどんな場所でも、どなたでも、あまり「人見知り」などはしないので、
 チームの方とも仲良くなって、Facebook のトモダチで繋がったりしました。




 こんなカリフォルニアの海岸線、
 Irvineはカワサキ・アメリカもあったので、
 現役時代からよく行ってはいたのですが、
 仕事ばかりでこんな観光地は初めてでした。





 アメリカで汽車に乗ったのも、初めての経験。
 サンデイエゴまでの小旅行でした。



 
 この年はサッカーをやってた息子もアメリカまでやって来て、
 真也のリーグ戦を観戦、かっての教え子に今でもいろいろ言ってました。
 





  私と息子は、家内を残して一足先に日本に帰国したのです。
 





  それから、更に1か月、アメリカに滞在してた家内も
 11月15日には帰国の途に就いたようです。





 当時は日本の慶応に留学してた長男の力也も戻って、
 久しぶりに3兄弟揃って、娘も嬉しそう。





 この年家内は80歳、バタフライの動画も載ってたが、
 5年前は家内もめちゃ元気だったように思います。





 最初の写真に出た、かってのチームメートのジュナサン君は
 バークレーで一緒にプレーしてたのだが、
 一足先にドイツのブンデスリーガーと契約してプロ選手に。




 翌年も二人で、アメリカに遊びに行きました。






 アメリカにいると、
 日本違って、こんなラフなスタイルで・・・




 このころは、真也もチームの中心選手として活躍中でした。





 ★2018年の7月に家の風呂の中で意識を失ってたのを
  孫の哲也が引き揚げてくれました。
  なぜ倒れたのかよく解っていません。
  救急車が来たときは意識も戻って、確りと歩いて救急車に乗り、
  一応、病院までは行きましたが、すぐ戻ってきました。





 その時は娘と末弟が日本に遊びに来てたのですが、
 当時、慶応に留学中だった長男の下宿先に行ったようです。




 そして、この年もアメリカに遊びに行きました。





 娘婿が勤めているJAEがエンゼルスのスポンサーをしてたので、
 野球観戦、生で大谷翔平を見ることが出来ました。




  この年末弟の哲也は高校3年生、
  翌年からサンディエゴ大学に入学だとかで、サンディエゴまで。




 これが次男のバークレーでの最後の試合、
 バークレーで初めて日本人でキャプテンを務め、
 リーグの得点王にもなり、来春からはプロを目指す、そんな時期でした。




  3人兄弟が揃っています。




 そして2019年7月、娘と哲也が日本に遊びに来て、
 家内の誕生日祝い、
 鎌倉の孫・古谷仁も顔を見せています。






 この翌年からはコロナ騒動で、
 アメリカにも、日本にも、往来はなかったのですが、
 今年の7月初めに娘が日本にやってくることになっています。

 もうアメリカに行くこともないのかと思いますが、
 非常にいい10年間だったと思っています。



 

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新入社員時代の想い出     その4

2022-02-20 06:53:32 | 自分史

★新入社員時代の仕事の想い出を3回に亘って書いてきたように仕事のほうも熱心に取り組んでいたのだが
この間個人的には家内との出会いがあって、こちらの方も日記の中には数多く登場するのである。

川崎航空機に昭和32年(1957)4月に入社して、新人教育が2週間ほどあって、4月15日に業務部財産課への配属が決まるのだが、
その業務部には庶務課・会計課・財産課・勤労課があって、その職制順に課が並んでいて、財産課の隣が勤労課で、その給与係はすべてが女性なのである。

日記を読み返してみると、配属された4日後の4月19日の日記
勤労課にいる女の子にちょっと惹かれる」という記述があって、それが家内なのである。

そして6月5日には高校・大学での野球部の友人の小野田から電話があるのだが、それがなぜか勤労課に繋がって、
小野田さんと言う方から電話です」とわざわざ私の席まで伝えに来てくれたのが家内なのだが、そのことを日記に記しているのである。

それはそれで終わってしまったのだが、
この年の11月に朝明石駅で一緒になって初めて口をきいたのだが、
当時会社に勤めていた女性は明石より西からくる人が殆どで、
東からの人は珍しかったのだが、彼女は東からやってくるのである。
何となく神戸高校タイプだなと思っていたのだが、聞いてみると神戸高校なのである。
私は旧制神戸一中なので後輩にあたるのだが、その時もそれだけで終わってしまったのである。

★そして年が変わって翌年の5月末にたまたま神戸まで出たら、
同じ電車で三宮で一緒になったので、
映画に誘ったら即OKで、映画を見て御茶を飲んだのだが、これが初めてのデートだったのである。
その時の感触がよかったので、6月7日に改めて誘って、
その時は三宮にあった本格的なダンスホール新世紀に踊りに行ったのである。
私はダンスには大学時代に凝っていて得意分野だったし、
新世紀ではいい時間が過ごせたのである。
この時新世紀には会社の人が来ていたようで、その週のうちに会社では話題になったようなのである。

そんなこともあって、それ以降は逆におおぴらにお付き合いが始まって、
7月10日は彼女の誕生日なのだが、彼女のほうから誘われて、
21歳の誕生日を一緒に過ごすことになったのである。


★交際が始まってから2年間ほど密接なお付き合いが続いたのだが、
昭和35年の9月末に、砂野副社長に呼ばれて、
尼崎の医者の娘さんで・・・」という結婚の紹介話があって、
 その場は「いい加減な返事」でごまかしたのだが、
結婚』ということを考え始めたのはこの時からだと思う。

そして、翌月の10月末には、私が肺結核三田の療養所に入院してしまうのである。
ちょうど1年余りの入院期間だったのだが、その間手紙のやり取りもあったし、見舞いにも来てくれたりしていたのだが、
 その時に手紙と一緒に送ってくれた写真である。





 結構長かったお付き合いなのだが、その期間中にある彼女の写真はこの2枚だけで、ほかには1枚の写真もないのである。

 この1年間の療養期間のお陰で肺結核の空洞も消えたし、
 その後の人生で、健康的な不安がなくなったので、
 積極的に「結婚を考える」ようになれた有意義な1年だったのだと思っている。
 


★ そして、退院後は新しくスタートした『単車営業課』に異動になって、
 新しい二輪事業の最初の営業担当として復職したのである。
 これまでが療養生活を含めての『私の新入社員時代』かなと思っていて、
 ちょうど5年間なのである。

 そして、その1年後の昭和37年12月に結婚することになったのだが、
 この6年間が私の青春時代だったのかなと思っていて、
 今でも『いい出会い』だったなと思っているのである。


 
 
 



  
 
 

 
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新入社員時代の想い出     その3

2022-02-19 07:05:31 | 自分史

★新入社員時代の所属は業務部財産課だったのだが、
 毎年2回、上期と下期に財産物件の減価償却計算という作業がある。
 個々の財産物件に償却率を掛けてその償却額を減価してゆくという単純な計算だが、
 1件1件単純な計算をやるだけだが、当時のタイガー計算機を使っての単純作業の繰り返しで、
 根気と時間が要る単純作業なのである。

 こんな単純作業の繰り返しそのものは私は意外に得意分野で、
 別に嫌いでもなっかたのだが、
 入社2年目の10月に事務機械化の会計機のショーがあって、
 世の中『事務機械化』なるものがスタートしだしたのである。

 それを見て「減価償却の機械化」なるものに興味を持ったのだが、
 当時川崎航空機には米軍のジェットエンジンオーバーホール工場があって、
 IBM室なる組織もあり、IBMの機械があったのである。
 まだ、日本にはIBMなどどこにもなくて、
 日本にIBMが普及するのは東京オリンピックの頃だから、
 それよりは約10年も前の話なのである。

 ジェットエンジン部門以外ではIBMを利用している部門などまだなかった時代なのだが、
 財産物件の減価計算を『IBMによる機械化』でやろうと決めて、
 昭和34年11月から「減価償却のIBM機械化」に取り組んだのである。
 
 IBMの機械そのものはあるので、その機械に償却計算を乗せればいいのだが、
 社内でも初めてのことで、教えてくれる人は誰もいなかったのだが、
 IBM室の久森君が手伝ってくれて、
 それから約1年、その機械化のために没頭したのである。

 IBM と言ってもまだこのようなパンチカードシステムの時代で

 
  

 このようなパンチカードに必要項目をコード化し打ち込むシステムなのである。
 そう言ってしまえば簡単なようだが、
 カードシステムなのでコード化した内容を打ち込むにしても
 その桁数に制限があるため、コード化そのものもなかなかムツカシイのである。
 
 ちょっと説明すると下のカードの「所属」から始まっている項目を
 すべてコード化して、『数字』で打ち込めばいいのだが、
 一番難しかったのは『物件名』で、5ケタの数字すべての財産物件を表示できることがMUSTなのである。
 そのための分類をやるのだが、機械化と言ってもカードシステムだから、
 コード番号を効率的につけないと、カードの分類に時間が掛かってしまうので、
 最も分析頻度の多い順番にしなければ、効率が悪いのである。
 例えば人を分類するときに「年齢別・住所別・男女別」などいろいろあるが、
 一番利用頻度の多い順にコード化しないといけないのである。
 


 これがその当時作ったIBMに乗せるための基本カード
 たまたま日記帳に挟んであった。

  
 
 
 このカード1枚に財産物件一つを記入するのだが、
 この減価償却のIBM化を明石工場だけでなく、岐阜工場も本社も巻き込んでの『全社統一』を図ったので、
 本社や岐阜工場を巻き込んで入社2年目の私がその旗を振ったのである。

 「IBMによる事務の機械化」などは初めてのことで、経験者もいなかったので、
 新人ながら旗を振ることが出来て、
 ちょうど1年掛ったのだが、この「減価償却のIBM機械化」は実現したのである。

★ もうずっとのち、IBMも日本でも一般化した時代に、IBM社の講習を受けたことがあるのだが、
 その時の講習の冒頭に「何かIBMと関係のあったこと」を喋れと言われるので、
 『昭和35年に減価償却の機械化』をやったと言ったら、
 IBMの方から「10年間違っていませんか? 日本にIBMが入ってきたのは昭和40年代からです」と言われたりしたのである。

 このIBM化が私が入社してはじめてやった大仕事で、
 この機械化をやったために、財産課では減価償却という大作業がなくなって、
 10人近くいた人員がほんの数人になってしまったし、
 私自身も財産課から新しく出来た単車営業部への異動になるのである。


★ それ以降、退職するまでずっと「二輪事業一筋」だったので、
 私の現役時代、単車以外の経験はこの財産課の4年間だけと言ってもいいし、
 その4年間が『新入社員時代』と言えるのだが、
 『新入社員らしからぬ4年間』であったことは間違いなくて
 その間「新しいこと」ばかりをやったものだから、
 その後も『新しいこと』は『あいつに任せば何とかする』と思われたのかも知れぬが、
 その後もこのように全く引き継ぎのない『新しい仕事』ばかりが、
 最後まで続いたのである。

 ●1961 新単車営業課
 ●1962 新広告宣伝課
 ●1963 カワサキで初めてのファクトリーレースチーム
 ●1967 新仙台事務所設立
 ●1972 業界初二輪専門店制・特約店制度
 ●1977 CKD市場開発室・東南アジア市場開拓
 ●1979 新カワサキオートバイ販売設立(アメリカダンピング対策)
 ●1984 ジェットスキーJJSBA設立
 ●1985 JSビジネスの国内を含めた世界展開
 ●1987 一般ユーザーが走れるサーキットSPA直入
 ●1988 国内ユーザークラブKAZE設立
 ●1991 新しいカワサキのイメージ戦略
 ●1994 新国内自動車学校設立
 
 現役時代、殆ど4年単位で異動したと言ってもいいし、
 職場を変わったのだが、時代が変わったり、新しい仕事ばかりだったので、 
 前任者からの引継ぎは全くなかったサラリーマン生活だったのだが、
 そのスタートがこの新入社員時代の4年間だったのである。

★新入社員時代、こんな4年間だったのだが、
 この間に『家内との出会い』があり、結構熱烈な『恋愛時代』なのである。
 次回はその私の青春時代をご紹介してみたい。


 
 
 
 
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新入社員時代の想い出     その2

2022-02-18 07:34:06 | 自分史

★当時の川崎航空機は戦後再開したばかりで、そんなに業績がよかったわけでもないのだが、
私自身は実力で入社出来た訳ではなくて、当時の副社長の砂野仁さんのコネでの入社だったのである。
 大学時代は野球一筋で単位は取れていたが可ばかりで、入社試験の面接でも、
 「君は成績悪いね」から始まったのだが、
 「会社の仕事では絶対に負けないでやれます」と言い切ったのである。

そんなことだったので、多分人事課も企画・経理・勤労などの部門には配属しにくかったのか、業務部財産課への配属だったのである。
その財産課の評判は大学の先輩たちもみんな「地味で面白くないところ」というのである。
 確かに、どの部門も大学での社員が何人かはいるのだが、
 財産課は課長以外は大学出の人はいないのである。
 配属してすぐの課長面接でも、部長面接でも「地味な部門だが、確りやってく」と仰るのである。

 財産課とは文字通り「会社の財産管理」をやるところで、
 土地・建物・機械などから工具器具備品・車両運搬具など取得価格が当時の金で1万円以上のものの管理なのだが、
 まだ再開されて5年の新しい会社で、その管理もお世辞にもきっちりできてはいない状態で、
 管理台帳も揃っていないそんな状況であった。
 その現物管理とともに1年に2回、財産物件の減価償却計算をしなければならなくて、その計算事務を当時の「タイガー計算機」を使ってやるのだが、
 それが結構時間と手間が掛かるので、極端に言えばその計算要員として、人が要るのである。


   


 配属されて私が担当になったのは
 一番簡単な車輛運搬具工具・器具・備品
 車両運搬具は車などは殆どなくて構内用の自転車
 工具・器具・備品とは工具や机や椅子などで、確かにそんなにムツカシクはないのだが、
 本来なら自転車は兎も角、机や椅子などは取得価格が1万円以下なので、財産物件にはならないのだが、
 当時ジェットエンジン工場が新設されたばかりで、
 「新設工場は1件300円以上」を財産物件に出来ることから、机や椅子まで300円以上のものががすべて「財産物件」になっているのである。

 そんなことから、償却計算する手間は5000円の机10万円の機械も同じ手間なので、工具器具備品の償却件数はべらぼうに多くて決算期の計算は大変なのである。
 さらに、自転車も回転いすなどはよく壊れて、その修理などの手続きなどに結構時間が掛かるのである。

 そんなことで新入社員ながら、私の下には女子の社員がいたし、
 2年目からは高卒の男子の部下などもいたのである。

★ 机や椅子だから、工場内のすべての課にそれはあるのだが、
 その台帳はないし、現物把握は出来ていないし、ただ償却計算だけをやていて「財産管理」などは全然できてはいない状態だったのである。

 それをちゃんとした管理台帳を作って、管理できる状況にしようとしたのだが、
 課の先輩たちは皆さん、それまでは放置していたものだから、
それはムツカシイ・不可能だ」などと仰るのである。
 ただ、私はそんな状態で放置するのはどうも気に入らなくて、
 すべて現物を把握して『固定資産台帳』を創ろうとしたのである。
 これは確かに「言うは易い」のだが、各課の現物把握が必要で、
 現実には各課の机でも財産物件になっているものと、経費で購入されたものと2種類存在していて、どれが財産物件かという特定が必要なのである。

 そんなことで私がやり始めたのは小さな「財産番号プレート」を造って、
 それを釘と金槌を使って机や椅子に打ち付けて工場の全課を回り始めたのである。
 これは大変な労力は要ったのだが、各課を実際に回っての作業だから、
 各課の人たちとも顔なじみになれたし、 
古谷はいつ見ても釘と金槌を持って歩いている」と言われたりしたのである。
 
全課を回るのに半年以上も掛ったのだが、
その財産物件を管理するために「財産管理担当者」を組織したりしたものだから、
そんな「管理担当者」を入社1年目の私が統括するようなことになって、
全工場に私の顔は売れたし「財産課は変わった」となかなかの評価だったのである。
 
 

★ 当時の回転いすは木製だったのだがよく壊れて、
 1週間に一度、トラックに満載するほどの修理件数が出るのである。

 


   
 

 そんな時、発売になったのが「ネコスの椅子」で
 こんな金属製の椅子だったので、それに変えようと提案したら、
 それは認可されて、順次木製から金属製へと変更することになったのである。


 

        


 ちょうど1年目の最後のほうの2月なのだが、
 予算があるのでそんなに一挙には変えられないのである。
 そしてこれは係員だけではなくて、係長・課長・部長用にそれぞれあて、
 みなさん「新しい椅子」を欲しがるのである。

 その配分権を新入社員だが私が持っていたので、
 各課の管理担当者からいろいろ申し入れがあったし、
 部長や課長からも電話があったりするのである。
 全部交換するのに3年も掛ったと思うが、こんな件でも結構名前と顔は売れたのである。

そんなこともあって、入社1年目からオモシロイ仕事や、新しい仕事が出来て、私にとっては財産課は「地味でオモシロくない職場」ではなくて、
結構「遣り甲斐のある」職場だったのである。
このように「上司の指示で動く」というようなことは一切なしにスタートが切れたのは幸いだった。

入社1年目からこのような「新しいこと」に取り組めたし、
ちゃんと実績を残すことも出来たので、
2年目以降も「私流のやり方」で仕事を進めれことが出来たのである。


 
 

 

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新入社員時代の想い出     その1

2022-02-17 06:38:04 | 自分史

川崎航空機工業入社したのは昭和32年(1957)4月のことだから、
 63年以上も前のことだし、私もまだ23歳の若さなのである。

 昨日は1日かかって当時の日記を読み返してみた。
 よく覚えていることもあるし、全く忘れてしまっていたこともある。

 いまは川崎重工業の明石工場としてこんなになっているのだが、




 戦時中には軍事工場ということで爆撃を受けて、

 


  工場も骨格だけで、残っていたのは
 ほんの一部の建物と、新しく建てられた工場だけだったのである。

 


 戦後の中断があり、川崎航空機工業として再開されたのは、
 昭和27年(1952)のことだから、
 入社当時は再開5年目のまだ新しい会社で、
 激しい爆撃の跡が随所にまだ残っていたそんな時代なのである。

 明石工場はエンジン工場であった関係から、
 戦後もエンジンや歯車・ミッションなどの製造が主で、
 バイクエンジンは明発に供給はしていたが、
 まだバイクそのものの生産は始まっていない時期なのである。


定期採用も正規に多くとり始めたのが、昭和32年度からで、
大学卒は事務系12人・技術系19人と約30名ほどの時代で、
翌年からは60名あまりも採用しているので、まだまだスタートの時期と言ってもいいのである。

 配属されたのは業務部財産課で、会社の財産管理を行うのだが、
まだ、財産物件の管理台帳すら整っていないような状況で、
工場の中には戦時中の機械が残っていたし、爆撃にあった工場の鉄骨などもあって、
 財産物件を管理するというよりも、そんな中古機械や鉄骨を売ったり、
 いまも明石工場は結構広いのだが、当時は今の倍ほどの22万坪もあって、
 その土地の売り食いなどで会社の経営が成り立っていた
 そんな時代なのである。

 大学卒の初任給が12000円という時代だったが、
 昭和32年という年は日本の戦後もようやく終わって
 朝鮮戦争が昭和25年に始まったこともあって、
 「神武景気」と言われた年なのである。
 
 そんなことで、大学卒の採用も多くなったし、
 われわれの入社同期の会の名称は「神武会」と名付けられていたのである。


★その当時の日記だが、いちおう毎日欠かさず書かれているので、
 読み返してみると、なかなか面白いのである。

  

 
 
 日記を書き出したのは、大学2回生の頃で、
 ちょうどその頃、肺浸潤になってちょっと療養をした時期もあったが、
 半年後からは野球も再開したし、入社当時も空洞があったりしたのだが、
 当時は肺結核は非常に多い時代だったのである。
 日記を書き出した理由の中に「そんなに長くは生きられない」かもと、
 「短い自分の人生」を記録しておきたいということもあったのである。

 入社して4年間は財産課で結構オモシロイ仕事もする傍ら、
 会社の野球部にも所属していたのだが、
 4年目に会社の診療所の先生が代わって「野球は止める」ように言われたのをそのまま続けていたら、ユニフォーム姿を見つかって、
 検査をしたら「菌が出ている」ということで結核療養所に入院させられてしまうのである。

 療養所に入って検査をしたら「菌など出ていなかった」のだが、
 1年間療養所にいたら、空洞も消えてしまったのである。
 そういう意味では、診療所の先生に感謝だし、
 私自身はいろいろ幸運に恵まれていると思ている。

 この4年間の間に、家内とも出会ったし
 オモシロイ仕事も出来たし、
 退院の時期に、たまたまカワサキの二輪の新事業が始まって
 新営業部が出来て、そこに第1号社員として配属されることになったのである。


★ そんな新入社員の頃の5年間が、どんなモノだったのか?
  仕事の内容や、家内との出会いの経緯など、
  何回かに分けて書いてみたいと思っている。
 
  私の青春時代の20代最後の5年間でもある。

 
 
 
 

 
 
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人の運命と自信などいろいろ・・・

2022-02-06 07:03:50 | 自分史

★あと1か月で89歳になる。
 そんなに生きるとは全く思ってもいなかった。
 振り返ってみるとオモシロイ人生だったと思う。


    子供の頃は、朝鮮にいて間違いなく「良家のボン」だった。
 父は何をしてたのかよく解らない。
 家で絵を描いたり、のんびりとしてたが、会社などには行っていなかった。


         


  父と特に話をした記憶などもないのだが、
  何となく、私は父が好きだった。

  祖父が朝鮮で立ち上げた電力会社を伯父が継いだので、
  父は多分その配当などで悠々自適の生活だったのだと思う。
  その南鮮合同電力は今の韓国の地域担当の電力会社で、
  その規模は大きかったのである。

    そんな生活が終戦で一変し、明石に引き揚げてきたのが終戦の年の12月で、
  翌年4月に神戸一中に入学するのだが、私は試験など受けてはいない。
  父に「お前は試験もなしに入学出来たのだから、勉強はちゃんとやれ
  と言われたのである。
  多分、伯父の伝手か何かの裏口入学であったことは間違いない。

  そんなこともあったので中学2年生までは勉強もちゃんとして、
  学年の中で10番以内にいたのだが、
  このことが人生を通しての自信に繋がっているのである。

  「名門神戸一中」と言われて秀才が集まり、その50番までを「」というのだが、
  「」は間違いなく指定席だったのである。
  中学3年生の時に男女共学となって、県一女と一緒になったのだが、
  英語と数学などは1年、授業の内容が逆戻りしたので、
  中学3年生以降は、勉強した記憶が全くないのである。

  神戸一中はほんとに名門だったのだろう、
  昭和天皇の戦後初めての神戸行幸の時には神戸にお泊りになるホテルがなくて、
  神戸一中の教室を改造されてお泊りになり、
  私のクラスは天覧授業の栄に輝いたのである。

  ほんとにまだ戦後で、
  社会などの科目も、歴史の教科書もなかったからそんな科目は習ていないのである。
  その代わり英語・数学・国語などは非常に高いレベルの教育だったのだと思う。


★英語などもスタートは、This is a pen.から始まったのだろうが、
 1年の夏休みの宿題に『「舌きり雀」の物語の英文』があって、
 それはこんな英文から始まるのである。
 
Once upon a time, there lived an old man and his wife. 
They treated the bird tenderly as if it were their child. ・・・・・

as if it were』などのムツカシい表現がある文章で、
そんな宿題だったものだから、今でも覚えているのである。
これは『まるで自分の子供のように可愛がった』ということなのである。

 こんなレベルでの授業に2年間は頑張ばったのだが、
 私はそれ以降は全く勉強などしていないので、「学歴は中学卒」だと言っていいし、それ以降の学校の成績は全くダメだったのだが、
 この神戸一中時代の成績が「そんなにアタマは悪くない」という自信に、
 一生繋がって今に至っているのである。


★ 人生「」でいろいろと左右されるのだが、
 そういう意味では、私は抜群に「いい運命」に恵まれていたと思ている。

 それはどんなことが続いたのかというと、
 ● 神戸一中に行っていたのだが3年の時に学区制で明石高校転校
 ● 明石高校に変わったので野球一筋、甲子園にも出場できた
 ● 高校時代に父が病気になりそのまま就職のはずだったが、
 ● 高校3年の1月2日に父が亡くなって、急遽大学進学に変更
 ● 父は私を大学にやるために正月に死んだのかなと思ったりする
 ● 受験勉強など全くなしに16.5倍の競争率だった神戸商大に入学
 ● 野球一筋の大学生活、野球部の部長に聞いたら「君は県会議長のコネ」だったとか
 ● 伯父が頼んだのだと思うがそんなことが通用する時代だった
 ● その伯父も私の大学時代に亡くなったのだが
 ● その葬儀に来られた砂野仁さんが川崎航空機でよければと言って頂いて
 ● 川崎航空機に入社したのだが
 ● 新しい事業の単車事業に従事し、広告やレースなどを経験することが出来たし、オモシロイ現役生活だった
 ● 家内と巡り合えたのもラッキーだったと思う 
 ● 突然「くも膜下」になって死にかけたが、その場所が警察本部だったので
 ● 最高の脳外科専門病院に入院、手術もせずに1か月で退院、
 ● 70歳からは健康に留意し、毎日トレーニングを始めた。
 ● 定年後から、娘婿にパソコンを買わされたが、これで人生が変わった
 ● そして現在の生活パターンに繋がっている。 


★ もう一度生まれ変わっても「このままの人生でいい」と思うほど満足している。

 祖父・古谷虎雄は私が生まれた時にはすでに亡くなっていて、
 知らないのだが、誰もが立派だったという。


  


 これは祖父の家族で伯父も父もまだ早稲田の学生時代だが、
 私はこの祖父の別荘だった場所で生まれている。




 
 これはまだ戦時中の写真で、場所は錦江ホテルの庭なのだが、
 このホテルが川崎航空機の軍の人たちの宿舎に接収されて、
 当時の総務部長砂野仁さんと伯父は繋がって戦後も親交が続いたのである。


 


 
 砂野さんはその後、川崎航空機・川崎重工業の社長もされるのだが、
 私が川崎航空機に入れたのは砂野仁さんのお陰なのである。

 神戸一中への入学を勧めてくれたのも砂野さんだったようである。


   




 伯父は当時は南鮮合同電力のオーナー副社長の傍ら、
 明石では錦江ホテルの経営などにも当たっていて、
 当時は私は小学校の低学年の時代だが、伯父には可愛がって貰って育った。
 
 毎年、夏・冬には明石に里帰りして、
 夏などこのホテルから海に泳ぎに行っていたのである。




 
   
大学の成績は悪かったのに、川崎航空機に入れたのは、
 間違いなく「砂野仁さんのコネだった」からで
砂野さんの顔をつぶしてはいけない」と思って、
 頑張った一面は有ったのである。

 人の人生いろいろだが、
 「私の人生」に色濃く影響のあった人
 それは父と伯父と砂野仁さんだったのかなと思っている。


 
 
 

 
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明石公園と明石の想い出    雑感

2022-01-29 06:48:05 | 自分史

★ 明石公園樹木が伐採されているというニュースが流れた。

 1600本以上の大きな樹の伐採を進めているらしい。






  これが伐採前と伐採後の写真だが、






 市民団体が見直しの要望書を出したようだが、
 作業はそのまま進められるようである。

 
私にも沢山の想い出のある明石公園なので、ちょっと惜しい気がする。
 









★突然、明石のことを書いているが、
 私の本籍は「明石市上ノ丸2丁目720番地」で生まれ故郷なのである。
 いまはそんな住所は残っていない。

 これは祖父の別荘時代で伯父も父もまだ学生時代の写真なのだが、
 爆撃で家も焼失してしまったし、
 写真も焼失してしまって、残っているのはこの1枚だけなのである。

  
 

 この明石公園に隣接した右の赤い部分なのだが、
 いまはこんなに沢山の家が建っていて、それぞれの番地になっている。
 
 かってはその一画が文字通り公園に隣接していて、
 いま競輪場になっているところも城の外堀だったのである。
 時代とともにいろいろな変遷はあるのだが、
 思い出だけは変わらずに残っている
 
  
 

     
 公園の外堀を望んだ風景だが、
 この池でよく魚釣りなどしたものである。
   
 





 明石公園の明石球場は、戦前からある歴史のある球場で、
 戦後も王・長嶋の時代までは巨人が春のキャンプをやっていたし、
 私の明石高校時代はこの球場で練習をしていたので、想い出いっぱいなのである。
 当時は結構強くて甲子園にも出たのもいい思い出の一つである。

  
  


 子供の頃の明石公園もよく覚えているが、
 戦時中の空襲でこんな背の高い松はみんななくなってしまっていたのだが、




 それから70年経って、樹もそれなりに大きくなっていたものを、
 また伐採するのは惜しい気もする。

 この写真も、戦前の明石公園で「園公石明」と右から左に書かれている。

 



 これはお城のほうから明石の町を望んでいるのだが、
 昭和25年(1950)の 昭和天皇の行幸の時には
 この場所から下の広場に集まった市民に手を振られたのである。

 私の高校2年生のことだった。

 
 
 

★ そんな明石城主は築城以来いろんなお殿様が変わっているのだが、
 越前福井藩から移って来た松平城主が明治まで10代続いたとか。
 わが祖先も福井からお殿様の家来としてやって来たと、子供の頃にはよく聞かされたものである。 
 
 戦時中のことだが伯父は明石で「錦江ホテル」というこんなホテルも持っていたのだが、
 このホテルが当時の川崎航空機に来る軍の人たちの宿舎に接収されることになって 川崎航空機工業との関係もできたのである。
 
     

  
 そんなご縁から、私は川崎航空機工業明石工場に勤めることになったのである。

 今ではこの三木が一番長く住んだ土地にはなったが、
 いろんな想い出はやはり『生まれ故郷の明石』が一番多いのである。
 
 そんないろんなご縁のあった明石や明石公園なのだが、
 明石公園の樹々は伐採されると消えてなくなってしまうのだが、
 『想い出』だけは確りと残り続けるのだろうと思っている。

 でも、明石のことも何度かブログにもアップしているのだが、
 ひょっとしたら、これが最後になるかも知れないのである。


 
 

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1957年(63年前)の1月19日

2022-01-19 06:58:55 | 自分史

★今から63年前の今日1957年の1月19日は、
 神戸国際会館でのダンスパーテイーの日だったのである。

 神戸商大硬式野球部主催で、当時私は神戸商大5回生だったが、
 チームの監督をやっていたのである。

 生涯いろいろなイベントに関わってきたのだが、
 それはいずれも派手に大規模に行うのが常だったが、
 このダンスパーテイー起案者も実質的なかじ取りも私で、
 人生で初めての大規模イベントの主催だったのだが、
 その結果大成功で、今でもよく覚えている出来事だったのである。

 
 そのパーテイー券がこちらである。
 1枚100円は当時の相場で、今でいえば1000円ほどにあたると思う。






 日記の1月19日のページに挟まれていて、
 表は結構かっこいい、こんなデザインなのである。

 



★ なぜこんなダンスパーテイーを主催することになったのか?

 当時の関西の大学リーグは、関西6大学西宮球場で、
 近畿6大学甲子園球場で行われていたのである。

 神戸商大は近畿6大学だったので、
 大学3回生まではリーグ戦は甲子園球場であり、
 そんなこともあって私が一番多くプレーした球場甲子園球場なのである。

 高校時代の夏の予選も甲子園球場だったし、
 当時正月に行われていた兵庫県のOB戦も甲子園だったから、
 いまと違って甲子園がそんなに特別な球場でもなかったのである。

 当時の神戸商大は結構強くて、リーグに近大がいて常に優勝していたのだが、
 神戸商大も近大に次いでリーグ2,3位の位置にいた時代である。

 ちょっと脱線するが、
 当時の阪神の2軍にはあの小山正明がいたのだが、
 彼は私と同じ年次で、兵庫県の高砂高校出身で、
 明石高とは同じ東播地区なので何回か対戦しているが、
 正直、そんなに印象には残っていないのである。

 当然明石が勝っていたし、印象に残るような投手ではなかったのだが、
 その小山は1953年に(私が大学1年の時)阪神に、
 契約金なしの月給5,000円打撃投手も兼ねたテスト生として入団していたのである。
 小山は阪神の野田球団オーナーの遠縁にあたることから、
 お情け採用だった可能性もあるとかの記事もあったのだが、
 当時は、あんな大投手になるとは夢にも思わなかったのである。
 

★ 私は大学では勉強はしなかったが、
 野球だけは一生懸命で3,4回生で主将を務め、 
 大学を1年延ばして5回生の時には監督をしていたのである。

 そんなこともあって、大学ではよく練習もしたのだが、
 バットやボール代や、明石球場の使用料などが嵩んで、
 運動具店などに結構大きな10万円ほどの借金が残っていたのである。

 10万円かと思われるかも知れぬが、
 当時の大学卒の初任給が1万円の時代だから、
 今でいうと100万円相当の額なのである。

 この借金を何とかしなければと思い立ったのがダンスパーテイーなのである。
 当時は大学主催のパーテイーも数多くあったが、
 それらは2~300名規模のものが普通で、
 そんな規模では10万円の借金などとても返せないのである。

 そんなことで起案したのが、普通のパーテイーの10倍ぐらいの規模
 2000名ぐらいの大規模なものを考えたのである。

 それは普通では無理なので
 その会場は、スタートしたばかりの「神戸国際会館の大ホール」とし、
 当初から部員全員で2000枚を売る目標を立てたのである。

 「神戸国際会館」は1956年に、進駐軍イーストキャンプ跡の遊休地に、
 当時最新鋭の設備をそなえたコンサートホールとして開館し、
 神戸国際会館大ホール、映画館、神戸国際ホテルなどでオープンしたばかりで、
 そのネームバリューだけでも非常に高かったのである。

   
      
     

 
 1995年の阪神・淡路大震災で全壊したので、
 現在はこんな形になっているが、
 旧・神戸国際会館もオープン当時は時代の最先端を行くものだったのである。

 

 

★そんなこともあって、2000枚のパーテイー券はほぼ売り切ったのだが、
 2000名も集めると、大ホールだけでは1坪20名にもなってしまうので、
 隣接する別のホールも借り増ししたりしたのである。

 日記のページにはこんな当日の「収支報告」もあったが、
 収入が204000円、 支出が 103000円
 見事目標通りの 10万円の利益となっているのである。
 


 

 
  そして、ここにあるように各運動具店などの借金
  何とか支払うことが出来て、
  無事、卒業することが出来たのである。


    



★ このことは、その後の私の人生にとって、
 「大きな自信」に繋がっているのである。

 「大きな目標」を達成するするためには、
 努力ももちろん大事なのだが、
 それ以上に、それを可能にする「仕組み」こそが、
 成功のMUST条件なのである。

 この時、新装なった「新神戸国際会館」という舞台がなかったら
 こんなことにはなっていないのである。
 あの時「新国際会館」がオープンしていなかったら、
 野球部の借金は、そのまま後輩たちに引き継いで卒業したかも知れないのである。
 そういう意味では「幸運に恵まれていた」と言っていい。

 
 いずれにしても、「よかったな」と思っている
 私にとってもこの経験が自信に繋がった大きな出来事」だったのである。
 
  
 
 




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私のアーカイブス・定年後  その12

2022-01-17 06:55:12 | 自分史

★ 私のアーカイブス・定年後も12回目になった。
 2012年は79才である。
 70歳代の最後の年なのでこのシリーズも一応ここで区切りをつけて、
 80歳代のことはまた何年かのちに纏めてみることにしたい。


 この年も結構いろいろとやっている。
 ほぼ10年前のことなのだが、そういう意味ではやはり10年若かったし、
 いまのコロナ時代と違って自由に動けた時代なのである。

 2009年に立ち上げたNPO The Good Times の活動も
 一番頑張った時期かも知れない。
 いまも活動を続けている
 「二輪文化を語る会」「粟生線の未来を考える市民の会』や
 「KAWASAKI Z1 FAN CLUB 」などがスタートしたのがこの年なのである。

    これらの活動が、みんなFacebook を舞台に活動を開始したもので、
 個人的にも吉田純一さんを誘ったら5月にFacebook に登場しているのである。


★ いろんなイベントもいろいろやってるが
  特に5月10日、三木綜合防災公園で開催した
  「笑って遊ぼう三木ランド」は盛りだくさんのイベントで、
  大成功だった。

   
  

 
  こんな自転車の曲乗りを披露してるのは 山本隆さんである。

 


 あちこちで開催していた「ミニSL」はここでも大人気だった。

 



★ この年が「Kawasaki Z1発売40周年 Reunion」で

  
 

アメリカのKMCを舞台に、浜脇洋二さん以下当時の従業員たちが集まったのだが、
 そんな会合に私も誘われて久しぶりのアメリカだった。


 



    年末には 「カワサキZの源流と軌跡」という本も発売され、
 当時のカワサキのZに関わった人たちが
 それぞれ、その思い出を語っている。

 私もその販売網構築などについて語っている。


 

 

★ この年、母はまだ元気で103歳を迎えているし、
 私たち夫婦は結婚50周年で、
 アメリカの娘一家のところに遊びに行ってるし、

  


 日本でもこんなお祝を頂いている。

 

 
 
 早いもので、今年の12月には
 「結婚60周年」になるのだが、何とかそこまでは大丈夫かも知れない


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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私のアーカイブス・定年後  その11

2022-01-12 06:12:45 | 自分史
2011年は78才の年である。
 いろんなことがあった年だが、私もまだ元気に社会に出歩いている。

 この年の1月22日にFacebook をスタートしていて、
 やりかけると何でも熱心にやるものだから、
 1月末から2月にかけてはFacebook の話題も日記に多く出てくる。
 まだ、トモダチも少ないが 樋渡さんのこんなサイトも出てくるから、
 すぐ繋がっていたのだろう。


 

 
1月29日には神戸木の実クラブの50周年記念パーテイーに出席していて。
こんな錚々たるメンバーたちとの写真が残っている。

 

 
この会の主役であった片山義美さんも、金谷秀夫も、今はもういない。


★ 3月4日には「カワサキの想い出、そして未来」の会合だった。
平井稔男さんが主宰をしてNPO The Good Times が後援したいい会合で、
全国から100名以上が集まった。

その時の写真がいっぱいである。

 主宰者の平井稔男さん、
  


 私も村島さんと





 カワサキの重鎮たちも揃って顔を見せたし、





  こんなに盛会だった。




 
平井さんを囲んでこんな懐かし顔が並んでいる。

 


カワサキだけでなく、ホンダ・スズキ・ヤマハ・BSのレース関係者
顔を揃えた。
いま私のFacebook に使ってる写真である。





 登山道夫さんもいるし、




 司会はこんなコンビで、
 みんな今もFacebookで繋がっている人たちである。。






★ そんな会合の1週間後、3月11日にあったのが、あの東北大震災
 地震もすごかったが、あの津波にはびっくりした。

 
 

 NPO The Good Times のまだ理事長時代で、
 その団体会員確保などに熱心に活動していて、
 社会のいろんな方たちと繋がっている。

 今も続いている「粟生線の未来を考える市民の会」と繋がったのもこの年だし、
 余川と緑ヶ丘こどもたちを繋いで
 どろんこドッチボールなどに関わっていたのもこの年のことである。

 

 
その時アップした「雑感日記」です。
この活動と、NPO The Good Timesの当時の活動など、
なかなかちゃんとアップしてるので、ぜひご覧になってみて下さい。
 


日記を読み返してみると、
この年、11月にひざを痛めていて、
1か月ほど治るのに掛かっているが、全然覚えていないのである。
今回の「ひざ痛」も、ほぼ10年ぶりだったのである。

2011年、78才はそんな1年だったのである。


 
 

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