雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

7万台への挑戦、7,8月スズカなど

2008-04-29 04:04:14 | 7万台の挑戦の時代
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89年後半に入って全てが順調に回りだした。
移動値で45000台であった台数は8月には50000台を記録した。

ゼファーがバックオーダーで、造るだけ売れた。生産が追いつかずずっとバックオーダーが続いたのである。
ジェットスキーも快調に売れて5000台を記録している。



それにも増して、チームグリーンを中心にサテライトチームを含めて絶好調であった。

重本、野村体制でスポーツ推進部を組織し、KSSという専門会社の中での取り組みの成果が成績という形ではっきりと現われてきた。
レースの底辺を拡充するという目的で多くのサテライトチームを援助して、ライダーの育成強化とレースそのものの発展を目指したのである。

7月23日、6Hジュニア耐久では北川、鶴田組が期待通りの優勝を飾り、藤坂、林組も頑張って2位に入り、1,2フィニッシュを決めたのである。

今はスズキで世界チャンピオンとなった北川の多分始めての優勝だと思う。
1週間後の4H耐久ではビートの高橋、和泉組が優勝、6Hとあわせてジュニア以下のチームグリーン関係は最高の出来であった。

ファクトリーの8耐はロブフィル、アーロン組も宗和、多田組も転倒でダメだったが、塚本、前田組が健闘して4位に入ったので、この年の8耐ウイークは大成功であった。


8月4日には舞子ビラで6耐、4耐の祝勝会をやっている。
チームグリーンの関係者はじめ、ビートの冨松さんやKHIのレース関係者岩崎茂樹君なども参加して賑やかであった。
ライダーは北川、鶴田、高橋、和泉、林、藤坂など、レース対策1年目の成果であった。

翌8月5日には、全国安全運転大会でまたスズカである。
カワサキの安全運転本部長も兼務していて、各社の本部長とのお付き合いもこの頃からずっと続いた。
二輪業界は特にホンダさんなど安全運転には熱心で、警察の本庁の幹部も多数出席されるこの大会は8耐の翌週大規模に行なわれるのが通例であった。



この頃のスズカ8耐ウイークは最高だったと思う。
20万人と言われた観客の到来で鈴鹿の町は畑を急遽駐車場で対応するほどの混雑で、町中が駐車場と化していた。
サーキットは夜もいっぱいであった。

そんな鈴鹿に7月末は、4耐から始まる8耐ウイーク更にこの大会と、3週続けてのスズカ詣が私の例年の夏の定例行事であった。

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7万台への挑戦、89年前半

2008-04-22 05:20:33 | 7万台の挑戦の時代
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目標だけは大きく掲げ、いろんな基本対策や将来の準備に忙しかったが、
89年前半は大した実績の伸びは見られなかった。

この時期、直入のサーキットを着工した。
約1年の順備期間を経て、2月に本社の決済も通り、4月14日に起工式をやっている。
カワサキにとっては規模は小さいが、一般のライダーを視野に入れた日本でも初めてのコンセプトのサーキット建設であった。

兵庫県では中町にセントラルサーキットの認可が下りて平井さんが担当、関東にも幾つもの候補が上がっている。
益子町やいわき市などであった。
サーキット建設はこの頃から経験したが、みんないろんな思惑があって、なかなか一筋縄ではいかない。
認可も難しいことが解ってきた時期である。

話は幾らでも沸いてきた。


88年10月、レースOB会で盛り上がったレースは、
ルマン24H耐久で、カワサキは優勝こそ逃がしたが、フランスチームが2位、日本から参加した宗和、多田、塚本組が3位に入る健闘を見せた。

レースに力を入れると宣言してのスタートを幸先よく飾った実績であった。
4月24日のことである。



事業部のほうもいろいろと多事多難ではあったが、以前のような危機的状況は脱して一段落であった。
上のほうの人事も微妙な時期で、田崎さんにニューヨーク事務所の話があり6月に事業部を離れたりしている。

4月末にZEPHYRが発表されたが、当初はそんなに期待もしていなかったのに順調に数を伸ばした。
5月になってやっと前年対比を上回ったのである。
5月末実績M/C 41398、J/S 3940、合計45338台。
まだまだ、7万台には程遠い数字であった。



4月1日にケイスポーツシステムと言う新会社を設立して、レーススポーツ対策、ユーザー対策を開始した。
特ににKAZE対策は、各営業所に担当者を設置して積極的に対応した。
1月にJCBと提携して新会員証としたのだが、JCBはひどく乗り気で常務さんが対応してくれたりしていたのだが、5月になると副社長さんが出てきて赤坂で食事をご馳走になったりした。

その頃はまだ気づかなかったが、若い層、それもバイクやジェットスキーに興味のある層、カードを初めて作るる人が多いなど。
JCBにとっては我々が思う以上に魅力があったのである。

こんなJCBの対応はその後もずっと続いて、
我々も努力して、2000人の会員からKAZE会員5万人になった頃には、
KMJの社員カードを全てゴールドで対応してくれたりしたのである。

こんな89年前半を過ぎて後半は、ゼファー、ジェットスキーの快調で一気に台数も上がっていくのである。
7万台の準備期間としては順調であったと言えるだろう。
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7万台への挑戦、事業本部方針

2008-04-20 04:25:03 | 7万台の挑戦の時代
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89年2月、この頃の資料を眺めていたら、『こんな時代もあったのだ』としみじみ思ったりする。

2月2日付けで当時のCP事業本部が『平成元年度、生産合理化計画』なるテーマで本社にこんな書類を出している。

何故生産合理化計画に国内の販売ばかりが書かれてあるのか、不思議に思うほどである。


『重点課題』

国内市場を事業部の柱とするよう中期的に育成強化する。
数値目標として、平成3年に7万台、400億円としている。
現状は47000台、270億円である。

『背景及び基本的な考え方』

アメリカ市場中心に展開してきたが、円高時代に突入し円高に有利に働く国内市場の構造的な改革を図り中期的に販売指向型体質を目指す。

『その対策の方向』

国内最重点の車種開発を行なうとともに、販売網の強化のほか。
ユーザー対策としてのソフト会社の設立、直入サーキットなど。

イメージ向上のための『ソフト面の強化の具体策』として、KAZE、ソフト会社、情報システム、レーススポーツ活動を上げている。

推進責任者 高橋本部長、副、小生となっている。
高橋さんも相当の決意だったのが伺える。


時代背景は、今とよく似ている。
国内市場の充実は、円高時代には事業部の経営安定に一番寄与するものである。
こんな時代もあったことも、思い出して国内市場は頑張って欲しい。

レースの第1戦が幸先よく1,2フィニッシュの優勝である。
今年は商品も新しく250など上市されて、期待できそうである。

新しい時代に見合った周辺ソフトの充実こそがいつの時代にも、販社には求められるのだと思う。


当時はその核として4月1日にソフト会社の設立を目論んだ。
別に組織は、なんでもいいのだが、『差別化した仕組みを造る努力』は必要だと思っている。

当時、第1線で活躍した若手諸君が今中枢である。
是非頑張って欲しいと思っている。

環境問題など時代は二輪車に追い風である。
そんな動きに敏感に対応すればと思ったりもしている。

時代を読む目。
遊びの商品を売っているのだから『遊び心』は何にも増してMUSTだろう。






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7万台への挑戦、ジェットスキー

2008-04-15 05:06:21 | 7万台の挑戦の時代
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89年2月に当時の事業部から『カワサキのパーソナルウオータークラフトの事業展開について』という一文が出ている。
多分、鶴谷将俊君(現川重商事社長)が纏めたものだと思う。

そこにはジェットスキーの歴史なども纏められている。抜粋をしてご紹介をしながら当時を振り返ってみたい。




『1973年に開発商品化されて74年よりアメリカ市場でのみ販売されてきた。』

アメリカ以外の市場の開拓を目指したのは、鶴谷君がオーストラリアの社長から復帰して、ジェットスキー担当として専念した85年8月以降のことである。
当時、ジェットスキーを扱う組織も担当者も明石にはいなかったのである。
そういう意味で彼は、アメリカ以外の地区のジェットスキー販売の先駆者である。



『昨年度(88年)はアメリカを中心に5万台の販売に達したものと推定される。
日本、豪州、欧州では対前年比150~250%の増加率となっている。
この間、78年にはアメリカにIJSBAのレース協会が設立され、日本でも84年にはJJSBAが設立された。
昨年のアメリカの最終戦レークハバスでは世界各地域からチャンピオンが派遣され文字通り国際レースが展開された。
また、9月に開催されたソウルオリンピックに際しては、組織委員会の要請によりオリンピックスタジアムのすぐ前の漢江において、開会式と並行して世界4カ国の代表ライダーによるデモンストレーションが行なわれた。』

とジェットスキーが世界的に認められ新しい水上スポーツとして広がりつつある兆候と分析している。
85年8月から僅か3年ほどであったが、世界の事情は様変わりしていた。

前述したように、新しく世界市場に臨もうとしたときは、事業部にその担当部門もなく企画室企画部で担当をした。
ジェットスキーに乗れる人もいなくて、たまたまジェとスキーのレースをやっていた福井昇君を発動機から移籍してもらって始めたプロジェクトであった。

当時の鶴谷君以下藤田、宇田川、福井君その上司であった故武本君たちの努力の賜物であったし、JJSBAをはじめカワサキ以外の西部自動車や大南君などなど社外の先駆者たちのご尽力も大きかったと思っている。

そんなジェットスキーも事業部の主力商品の一つに成長して、今後更に積極的な展開を図るとしている、

その第一は
商品開発の幅広い展開である。

そして第二は
この水上モタースポーツが社会に定着するよう安全操縦の推進、ゲレンデの確保など積極的な環境対策である。

第三は
『遊びの開発』ならびに多様化の推進であった。
レースの展開とともにジャンボリーの開催などイベント展開も計画展開することとし、遊びに必要なアクセサリーの開発なども積極的に行なう。

そして最後に
販売網の整備強化を上げている。



こんな事業部の基本方針に呼応して、JJSBAのレース協会の強化育成、
遊びの開発のための専門会社KSSの設立、販売網強化のためのジェットスキー専門の販売会社、当時これを担当していた。
ジェットスキーはカワサキにとって珍しく業界トップメーカーであったのである。

ヤマハさんと一緒に設立したウォータークラフトの安全協会もカワサキが会長役を引き受けたのである。



7万台の販売を目指した国内市場の於いて、その内訳は
M/C 63000台、 J/S 7000台だったのである。

この文書が出た時期の実績は3000台であった。倍増以上を目指す目標であった。
この丁度2年後、ジェットスキーの売上はピークの9270台を記録した。
M/Cとあわせて7万台を達成したのである。

いい時代の幕開けであった。
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7万台への挑戦、ソフト会社

2008-04-10 04:41:26 | 7万台の挑戦の時代
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89年2月ごろ、『遊びやスポーツの事業化するソフト会社』の設立に熱心に取り組んでいた。

カワサキのバイクは通勤や通学など単なる移動手段にも使うが、大型スポーツ車が主体なので,ツーリングやレース活動など遊びの要素は大きかった。
ジェットスキーに到っては遊び100%の商品である。

単にハードを売るだけでなく、それをどのように使って遊ぶのか、そのノウハウの提供や遊ぶ場所の提供などソフトの分野が重要な部分であった。

そんなソフトを専門に考えそれを事業化する会社の創立を目論んだのである。
川崎重工業と言うお堅い会社の中での発想であるから、そんな子会社の設立は普通では難しいのだが、
当時は単車事業本部長をされた大庭さんが社長の頃で、ちゃんと説明すれば理解してもらえるという自信みたいなのはあったのである。
この年の4月1日付けで新会社はスタートした。



丁度、大分県直入町に一般のライダーたちに開放しようというコンセプトでSPA直入の建設を計画中であったし、
その運営や新しいKAZEに運営を中心に、ユーザーとのダイレクトコミユニケーションを試みようとしたのである。

名前はKSS(ケイスポーツシステム)資本金2000万円、売上は初年度2億、3年目5億円ぐらいを見込んで、5,6人でスタートした。

今、手元に数値資料があるが、初年度から2,3億、2年目のは4億、3年目は5,6億4年目は7,3億円と順調に推移している。

ベースになったKAZEの会員も2000人からスタートして、最盛期5万人までになったのである。
この年会費だけでも億の単位になった。
この会社をベースに展開した『チームグリーン』などのレースチームやSPA直入のサーキット運営、JJSBAとタイアップしたジェットスキーのレース活動など、当初思っていた活動のほかに、思わぬプラスアルファが出てきたのである。



この辺りが、ソフトの面白さなのだが、
ご存知のようにKAZE会員の会員証はJCBと組んだJCBカードである。
この評価が、予想外でJCBやカード業界から見たら、若い人、スポーツ好きの人、初めてカードを作った人など普通マーケッテングのセグメントがはじめから、出来ているような集団と言う高い評価を頂いて、いろんなところからのアプローチもあったし、広告価値としても高く評価をされたりしたのである。

後、二輪の自動車専門学校などの運営にも手を広げたりして面白かったのだが、こんなソフトはハードと違って、運営や担当をする人によって見方や評価も変わるのだろう。

現在は、自動車学校も、SPA直入もKAZEもより本格的なサーキット『オートポリス』も存在してはいるが、ソフト会社は残っていない。
組織に対する考え方はいろいろあるので難しいが、
この会社がなかったら当時の『カワサキのイメージ創造』は出来なかったと思うし、7万台の達成もなかったと思っている。

7万台達成の鍵を握っていた中枢の会社と位置づけし、国内グループ全体を担当していたが、私自身この会社への比重はもっとも大きく関与したと思っている。
そこで得たソフトのノウハウはこれは知識として身についているので、最近遊んでいる『竹とんぼ』にも『ミニSL』にもそのまま通用するのである。




長く販売を担当したが、
販売は無理なく自然に売れる仕組みを造ることが第一で、一生懸命売ろうとしてもダメだと思っている。
遊んでいて自然に売れるそんな仕組みに乗っかっていれば楽しいのである。

今、一番そのようなコンセプトで販売しているのは、ハーレーダビットソンのような気がする。
HDの仕組みの中には当時のKSSのノウハウ、ソフトが散見される。

国内4社がHDの独走を許しているのは、真面目過ぎるのだと思っている。
『遊ぶハード』を売っているのだから、もっと『遊び心』を持って、『ソフト』に力を入れたらと思っているのだが。

ジェットスキーの販売の中に占めるJJSBAの仕組みは大きいだろうと思う。
これも当時の産物である。



勿論、仕組みの中心に位置するのは『商品』である。
今年は、久々に250が期待されている。
いい仕組みを作り直すチャンスだと思っている。
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7万台への挑戦、KAZE20周年

2008-04-05 05:27:35 | 7万台の挑戦の時代
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KAZE20周年である。丁度20年前KAZEはスタートしたのである。

1988年、当時カワサキはKGRC(Kawasaki Good riders Club)というカワサキ親派の特約店のクラブから発展して新たにKAZE(Kawasaki Amusing Zone for Enerybody)という新しい組織をつくりユーザー活動を展開を開始していた。

スーパーバイカ-ズレースやジムカーナーなどのイベントを熱心なカワサキの特約店の協力を得て展開していた。
トータルの会員は2000名足らずで一般には広く公開されていなかったのである。


活動そのものはいいのだが、これでは大きくは発展しないと思った。
『全く新しいコンセプト』で最スタートすべきと思っていた。

今みんなが一生懸命やっていることをひっくり返すことになる。なかなか社内説得が難しかったのである。
然しそれをやらぬとこれ以上の発展は望めないし、連日南君などとの議論が続いた。

その結果を12月はじめに、こんな風に総括している。



89年度KAZE展開基本方針

1.KAZEイベントを積極的に展開しユーザーの満足を与えることによりカワサキユーザーのみならず『二輪需要そのものの拡大』を図る

2.会員組織の規模を競合他社ならびにヤングマーケットを重視する業界が『無視できない規模』にまで拡大させる。
カワサキのシンパ集団として育成し、販促の柱とする。

3.一部の特殊なライダーでなく、『広く二輪ユーザー』を組織化する。

そして、会員目標を89年度1万人、90年度2万人、近い将来5万人と設定した。
このような活動の推進は、現状の組織体では不可能であるので、KAZEの展開を専門とする部門を早急に設置するとしている。




大上段に振りかざした方針ではあったが、その後この方針通りに進行した。

2000人が5万人になり、競合他社もカード業界や、各業界からも注目される規模と内容に発展した。
組織も翌年1月1日には『スポーツ推進部』という組織を立ち上げ、
4月1日にはソフト、スポーツの専門会社として『ケイスポーツシステム』を立ち上げたのである。

この初期の段階から一貫してこの担当責任者としてやってくれたのが南昌吾君である。
いつも難しい初めての仕事は彼に援けて貰うことが多かった。

特約店制度のスタート時、岡崎で南、五島のコンビでスタートした。
東京の営業所、全国で東京だけが元気であった時代。
グループの電算化をやった時。
彼はKSSのあとはJJSBAの会長などジェットスキーにも関係したが、やはりKSS時代が最高だったと思う。



今後のKAZE活動のコンセプトをこのように決めてスタートしたのだが、そのはじめの仕事がそれまで各特約店中心に展開していた理事会などのKAZEの組織解体であった。
それはカワサキに熱心な特約店の集まりであるから非常に気を遣った。

88年12月15日、有馬の中の坊瑞苑でKAZEの全国会理事会を開催し、この場でこの組織の発展的解消を行なうことにしたのである。

瑞苑は有馬でも最高級、子供連れは泊めないという格式ある旅館である。一人一泊8万円ぐらい掛かったが、解散式と言うことで『はりこんだ』今までの協力に対するせめてもの感謝の気持であった。
中の坊瑞苑は、当時フランスカワサキに出向していたCIの方の実家なので、サービスしても貰ってそんな値段だったのである。

仙台の服部君や大阪の吉永さんなど昔からの付き合いがあった人たちが多かったので、こんな『ぶっ壊しの話』も何の文句もなくスムースに行われたのだと思う。

それにしても瑞苑は立派だった。
翌朝の朝飯を『晩飯みたいな朝飯だ』と一緒に行っていた大前さんが言ったのをよく覚えている。




現在も、業界で唯一つ活動を続けているKAZEは、こんな風に『ぶっ壊し』の中からスタートした。

1989年1月1日の新組織にスポーツ推進部を新設南君が担当、しKAZE活動を専門に西川君、ロードレースモトクロスなどスポーツ推進課を重本君が担当してスタートしている。

レース関係には、現チームグリーン監督の野村君や現マイスターの森田君もいた。
重本君や森田君とはつい先日のZ1会のゴルフでも一緒だった。

あれから、20年が経った。
二輪の現役から離れて10年にもなる。
そんな年月を経た後も、その頃と同じように付き合える仲間たちは素晴らしい。
『同じ想い出を共有する仲間たちである』

そんな思い出話をまた続けたい。

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7万台へ挑戦,価格体系

2008-04-02 04:43:32 | 7万台の挑戦の時代
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販売店との契約や価格体系は約束事である。
然し、なかなか守られないのも当時の業界の常であった。

御願いをするほうが、譲歩してしまうのである。
台数を望むとそれは『値引き』に繋がる。
このままの状況で7万台を望むと、『大値引き』になってしまう。

自然に無理なく売れる仕組みが必要なのである。

本来『台数が売れて実益がある』のは販売店のほうで、それ売るほうの人たちはサラリーマンなのに、台数を望む立場が逆転することが多いのである。

そんなことで、『価格体系の抜本的な見直し』に着手した。



88年11月4日に『89年度価格体系の検討に当たって』と題して次のように問題点を指摘している。

現状の問題点
1.特約店側から見て不明確である
2.契約台数との関連がない
3.多店舗店優位の価格体系になり過ぎている
4.販売政策との関連がない
5.値引きが多すぎる
7.末端価格とマージンとの関連がない
8.当年度の実績が当年度に反映されない
9.部品の価格体系が不明確である

と指摘している。

これらの問題点を 『すべて解決するような価格体系』 を造ることをMUST条件として取り組んだ。
翌年度契約に間に合うように、12月中に策定することが必要であった。

『そんな上手い具合に行くかな』と、
社内のほうがが半信半疑で社内を納得させるための時間が多く掛かったが、
当時の本社スタッフ、井川、冨永、南、森君などと連日徹底的に議論した。

一端納得してからはホントに上手くスムースに仕上がった。
あの頃、本件を担当してくれた井川、南君には大感謝である。



価格体系は契約の一つであるから、
一括契約A、B 拠点契約A、B、Cの5つの価格体系を提示し
、特約店はどれでも自分のリスクで選べるようなものに仕上げた。

当時の価格体系では、最高の出来だったと思う。
ユニークであったし業界のどこにもない画期的なものだった。
これで、幾ら台数を打っても大丈夫という価格の基盤が出来たのである。



10月からの3ヶ月間は、翌年度の契約などを控えての順備期間である。
社内の纏めも、社外の対応も結構忙しかったが、当時の本社スタッフがホントによく機能してくれた。

12月末の決算業務などは五百井、原水君らが殆どやってくれた。
私は、企画、広報、レース、各販社との対応に集中していた。


大阪の橋下さんのような心境であった。
ただ、みんながホントによく動いてくれたのである。
会社の雰囲気は1ヶ月で変わったことが実感できていた。

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7万台への挑戦、当時の資料から

2008-03-31 04:33:49 | 7万台の挑戦の時代
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88年からチャレンジした『7万台の挑戦の時代』をアップすることにしたが、
これは日記と当時の資料に基づいている。

私の手元には、1975年KHI企画を担当して以来、コンセプトの次元の資料は殆ど全て揃っている。
時系列に10センチほどのバインダーに纏めたもので、約20冊、特に88年以降のものは1年ごとに月ごとに纏っている。
そういう意味では、事実に正確であることは間違いないのである。

これを整理したのは、当時の仕事のために整理したのでまさかブログの材料になるとは思わなかった。



そんな資料の中から88年10月31日に自筆で纏めて社内に指示した、
『国内市場対策の方向』の中から抜粋してみる。

当時のカワサキの状況である。
ひょっとしたら、覚えておられる方もいるかも知れない。


1.国内市場の動向

台数は軽ニ輪以上30万台で安定している。
各社とも海外が為替環境不安定などもあって最大市場の国内に全力投球体制である。
新機種の投入も激化、レーサーレプリカ全盛の時代となっている。
スポーツ、レース活動、イベントも活況で、ユーザーの組織化、HART,YESSなどに各社とも注力している。
仕組みの中でのソフトの重視、安全運転環境が厳しい時代でもある。

2.基本的な対策の方向

基本的な方向として
(1) 仕組みの再構築〈差別化の再検討)
(2) カワサキのイメージの再構築
(3)それらの核となるものを造る    としている。

3.Kawasakiの現状分析

広域化、特約店制度、部品の直送システム、など過去において差別化されたカワサキの施策も他社の追随によりその特徴が薄れてきた。
過去に比べてクルマでの差別化が難しくなったきた。
今後更にレーサーレプリカへの分野へ進むとより難しくなる。
カワサキのイメージも博報堂の調査の通り決してよくない。
全般的に問題が多い中で、最開したレース活動、今年度よりのKAZE活動は予想以上の効果を挙げている。
と分析している。

4.国内対策 数値目標

目標 ( )内は9月末の実績値
モーターサイクル    63000台 (44635台)
ジェットスキー      7000台 (2920台)
  
  計         70000台 (47555台)

目標7万台を1989年に達成する。


5.基本戦略

(1)時代の流れに添って、ユーザーの拡大とその組織化を可能にする仕組みを造る。

(2)販社ー特約店ーユーザーへの従来の流通組織とともに 『ユーザーへの直接的な働きかけ』 の強化を図る。

(3)これらを通じての周辺ソフト、ノウハウの取得とその事業化を図る。


6.89年度の対策方針

(1) 89年度は7万台体制への通過点と位置づけ台数計画よりもその基礎となる諸施策の実行を第一目標とする。

(2)ユーザー対策、イベント、レーススポーツ対策として、89年1月1日にスポーツ推進部を発足させ、4月1日にそれを専門とする新会社としてスタートさせる。


この基本方針は全グループに流したが、簡単に理解されるとは思わなかった。
まず、身近の本社スタッフ数名との意思統一を図ることを最重点とした。
なかなか、意識の改革などは出来ないのである。まして現状を変えるという作業は非常に難しく高度な仕事である。

一通の指示書や、会議での指達は必要だが殆ど機能しないものである。
ただ、言った通り間違いなくその方向に進むことはMUST条件である。

本社のスタッフ連中の理解と協力を得て、一歩一歩前進を始めた。
社内のムードだけは、違ったものが感じられる、そんな時期であった。





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7万台への挑戦88年10月

2008-03-29 04:32:55 | 7万台の挑戦の時代
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88年10月、新しい任務に就いた。
与えられた目標
『売上台数7万台、売上高400億円』この目標を、
『新しいカワサキのイメージ創造』をベースにやろうとスタートした。


それまでカワサキの国内は、経営的に苦難の時代が長く、
常にその目標は『、経営の安定、利益の確保』の時代が長く続いた。
堅実ではあった、その経営ノウハウが確かに事業部経営に貢献したのは確かである。当時のKMCに冨永、日野君が逆出向したりもしていた。

ただ堅実であるだけで、博報堂の調査によればイメージ総量も小さく、

『玄人受けする個性的なデザインで、海外には強いが』
『レースに弱く、宣伝のセンスがなく、常にチャレンジしない』

と言うものであったのである。

こんなイメージではとても7万台などは 『夢のまた夢』 だったのである。
『カワサキの新しいイメージの創造』 がMUSTであると思った。




一番初めにやったのは、 『カワサキのレース25周年のOB会』 である。
10月15日、芦屋の巨人や中日の定宿で有名な 『竹園ホテル』 で1泊どまりで41名の参加で行なった。

『レースに弱い』 と言うイメージだけは、創生期のレース担当としてはどうしても払拭したかったのである。当時のメンバーの殆どが集まった。


その時の写真が手元のあるが、4列の集合写真は錚々たるメンバーである。

1列目は
西海兵庫メグロ社長を真ん中に山田、高橋さん〈ともに元川重副社長〉苧野、中村、大槻、糠谷さん、名物メカニックの松雄さんが並んでいる。
カワサキのレースを支えた人たちである。
こんな人たちの指示で当時のレースチームは動いていた。

2列目は
私と平井さんとそのヨコに田崎さん〈元川重社長、現会長、大西君これが会社側、
そしてライダー諸君は安良岡健、山本隆、金谷秀夫、和田将宏、岡部能夫、清原明彦君

そして3列目以降は
会社側には北村、岩崎、武本、井上、安井、井川君歴代のレース関係者など
ライダーは歳森康師、梅津次郎、星野一義、当時の現役で宗和や多田君の顔も見える。

星野一義君はまだ現役パリパリの頃で、
エレベーターで一緒になった中日の選手たちに、『うちの星野より有名や』などと言われていた。
星野が来てくれたので業界紙誌からも取材があったりしたが、この会合ではOBライダーの末席は星野と清原だった。



最近も、『もう一度OB会やりましょう』とよく言われる。
だけど、余程思い切らぬとなかなか難しいのである。それ以上に何かのきっかけが必要なのでである。

高橋さんの与えてくれた『7万台の目標達成』のためにという『名目をつけて』会費など一切取らずに盛大に行なったのである。



20年前だからみんな若い、私も田崎さんも55才前後である。
20年経った今も、こんな連中と結構接触がある。

田崎さんにはミニSLで今年も世話になっているし、『ひょこむ』のメンバーには山本、歳森、もいるし平井さんもいる。

4月2日にあるZ1会のゴルフは大槻さんが会長だし北村、井上さんもいるし、ライダーでは金谷、歳森、清原などもいる。



88年10月、『新しいカワサキの幕開け』は25周年記念のレースOB会でスタートしたのである。

いろんな重要事項があったが、『イメージ戦略はレース抜きにはやれない』と思ったのである。

そんな第1ヶ月目のスタートであった。
10月1日就任、10月15日開催、結構詰めて一生懸命やって初めて実現した。
ライダー関係は『清さんがまとめてくれた』と記憶している。

もう二度とやれないかも知れない。


あれから20年、苧野、松尾、白瀬、武本、岩崎。5人の方が亡くなられた。
心からご冥福を祈りたい。




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1988年,kawasaki

2008-03-28 04:33:33 | 7万台の挑戦の時代

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1988年

1982年ごろカワサキの二輪ももう終わりかと思われたような事業の危機的状況から6年が経って、事業はほぼ安定し新しい時代へと移っていった頃である。

私は企画から移り、事業部の営業部門を担当していた。
大分直入町ののテストコース用地にサーキットを造ろうなどと提案して、故岩崎君らと走り回っていた。

レースでは宗和が世界選手権で2位になったり、遠藤さんのフランスチームが3位に入ったりしていた。

ジェットスキーが世界的に好調でアシックスと組んで専用の靴を開発したり、ソウルオリンピックの開会式の当日、世界のジェットスキーチームを組織してハンガンでのデモンストレーションを行なったりしたのもこの年である。


8月には高橋鉄郎さんとKMCのデーラーミーテングに出席している。
百合草さんが社長の頃で、懸案であったKMCの累損もその年で消える見通しであった。
その頃から、事業部の組織人事の話がいろいろあって、『国内をやってみないか』と言うような話も出かけていた。

9月には再び高橋さんとヨーロッパを廻っている。
ケルンショーやドイツのデーラーミーテングがあって、立派なお城に泊めてもらったりした至極のんびりした旅であった。
デユッセルからアムスへアウトバーンをBMWのレンタカーを走らせたりしている。

事業も一段落して安定し、82年からの目標もほぼ達成できてのんびりと遊んでいたといってもいい頃であった。



この年の10月、新しい辞令が出た。

国内市場担当である。
当時の社名はまだ『カワサキオートバイ販売(株)』 通称『カワ販』
高橋さんが社長で、その専務を命じられた。

高橋さんとの約束は、
1.国内を事業部の主力市場に育てること
2.販売目標7万台、売上高400億円、事業部への限界利益100億円

実績43000台、250億円の頃だから相当過激な目標ではあった。
3度目の国内担当であったし、前回のような経営再建といった悲壮なものではなかったので、目標は大きかったがそんなに気にもならず、この目標を内外に宣言してスタートしたのである。

その基本対策は『カワサキのイメージの向上』であった。

いい商品に恵まれ、それ以上にいい仲間に恵まれて、この目標は達成できたのである。


このブログで、『7万台への挑戦』という新カテゴりーを造って、1988年10月から時系列で、このプロジェクトに参加頂いた仲間たちを思い出しながら3,4年間を振り返ってみたい。
幸い旧い日記帳があるのでほぼ正確な思い出となるであろうと思っている。
   


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インターナショナルトレーデイング村島

2008-03-26 07:30:39 | 7万台の挑戦の時代
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インターナショナルトレーデイング村島については何度かこのブログでも触れた。

カワサキの部品などを幅広く扱っておられる。
ただの部品屋さんではなくて、インターナショナルの看板通り世界を視野に入れた面白い展開をされている。

このブログで再会をして、最近はひょこむでも『大和屋嘉平』というハンドルネームでお付き合い頂いている。
『大和屋嘉平とは』と思っていたらこれは昔、神戸のみなと関係などで船具屋など手広く事業を展開されていた村島家の屋号のようである。
その末裔の村島さんは今部品の世界で、世界規模での事業展開である。


その村島さんが、今回新しくホームページを刷新されるという話を聞いていた。
そのホームページに『雑感日記』をリンクで載せたいがという話を頂いていた。

その新しいホームページが昨日オープンした。

早速今朝のURL元アクセスでこのページのものが現れた。
折角、リンクしていただいたが、最近はカワサキの二輪話題が少なくなっている。
これを機会にまた何か、連続で取り上げてみたいと思っている。


村島さんのホームページを見ると、この商売を始められたのは1989年とある。
私の旧い日記に『1989年5月11日、RPMの兄弟に会う』と言う記述がある。この弟さんのほうが村島さんだと思う。
RPMは当時ジェットスキーを扱っていたので、知らぬわけではなかったのだが、
村島さんに改めてお会いしたのは、川重本社総務からの依頼であった。
その日から、新しい部品などでのお付き合いが始まることになるのである。


この年は、私の3回目の国内市場担当の1年目で面白い時代のスタートであった。
雑感日記をリンクして頂いたのを機に、この時代の出来事を別途
綴ってみたいと思っている。
服部カワサキ、名西カワサキ、モトボックスセキさんなど、ずっと以前からリンクして頂いて毎日アクセスのある二輪の読者の方に『カワサキのある時代の出来事』を思い出して頂ければと思っている。


新ホームページ完成おめでとう。
『雑感日記』リンク有難う。
そして、新しいカワサキの物語を綴るきっかけを与えてくれたことにも感謝したい。

新しい連載ブログのカテゴリーは『7万台への挑戦の時代』にしたいと思っています。


写真は村島さんが贈ってくれたZ1のダイキャストモデルです。
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