雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

脱携帯電話

2013-05-21 17:31:00 | 発想$感想

 

Yahoo の意識調査でこんなのがあった

「携帯電話がない方が豊かな生活を送れると思う?」

 

 

どのような回答になったのだろうか?

今は、殆ど全ての人が携帯を持っている。

答えは当然と思っていたら、意外な答えで驚いた。

 

この場合の「思う」は、携帯を持っていない方が豊かな生活が送れる と言っているのですよね。

携帯を持っていない人は、2.8%だから

携帯を持っている人は97%もいるのに、その人たちの半分以上が「携帯はない方が豊かな生活が送れる」と言っているのである。

 

 

 

★ 携帯電話など持たない方が、「豊かな生活が送れる」と思っているのに、

それなら、なぜみんな競ったように、携帯を持つのだろうか?

 

実は、私は「携帯を持っていない」の2.8%の中に入っているようなものである

より正確に言うと、家には1台携帯電話はあるが、そこに登録されている電話番号は、息子と娘の家とその携帯番号だけで、その他の人には電話番号も言っていないし、私自身もこの携帯電話の番号はよく解っていない。

最近は公衆電話が少ないので、こちらから息子のところに電話することも難しいので、東京に行ったときなどに、まさに携帯しているだけの話なのである。

 

携帯を持っていると、 「自分の自由を束縛される」  これが携帯を持たない最大の理由である。

電話と言うのは、相手の都合で勝手に掛けてくる。そんなのにいちいち対応スいるのはたまったものではない。

現役のころも、会社で携帯を用意するので、持つように頼まれたが、最後まで持たずに押しとおした。

大体、世の中に一刻を争うようなことは殆どないはずである。携帯で話している内容を聞いていたら、その殆どが不要不急の内容なのである。

 

そんなことで、今も持っていない。

「豊かな生活が出来ているかどうか?」は、疑問もあるが、

持たずに不便を感じたことなど一度もない。

 

 

 

 上地雄輔 脱携帯電話生活を宣言 とある。

 

 

私にとっては極く普通のことである。

勿論、携帯電話などなくても、十分豊かな生活をしている実感がある。

ただ、私がやっても、ニュースにも、ならぬが、

上地雄輔がやるとこんなニュースになって流れる。 それくらいの違いはある。

 

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カワサキ単車物語50年  その10  小型車市場開発プロジェクトー1

2013-05-21 06:04:06 | カワサキ単車の昔話

★カワサキが単車事業に本格的に乗りだしてから、昨年はちょうど50年の節目の年であった。

50年の年月のなかで、カワサキは大型スポーツ車で確固たる『独特のイメージとブランド』を築き上げてきたのだが、

今現在、事業の中枢を占めているのは、先進国の大型車ではなくて、開発途上国のKD ビジネスなのである

1976年(昭和51年)はその開発途上国市場に対する活動が開始された年だったと言っていい。

 

 当時の事業本部では将来の方向としてCMCプロジェクト(コンパクトな二輪車を主として画期的な生産構造をベースに展開しようと言うプロジェクト)が当時の最高責任者吉田専務の下で進められていたそんな時期だった。

1975年10月に販売会社への10年間の出向を終えて事業部の企画室企画グループにに復職し、その年の年末までは『長期計画の策定』に没頭していた。

年末に承認されたその長期計画のベースには『小型車』が主流の年間50万台販売という大量生産販売計画がその骨子とし纏められていたのである。

 

私自身、その企画案をまとめた企画グループの責任者でもあったのだが、その方向にはリスクが多すぎると思っていた。

然し事業部の中で、既に一つの流れになっているCMCをアタマから否定してかかることは非常に難しかったのも事実なのであった。

そんな状況の中で、1976年の年明け早々に起案したのが、

同じ『小型車』ではあるが、東南アジア市場の小型車戦略の展開を企図し纏めたのが以下の資料で、まず副本部長までの承認を取り、事業部各責任者にも配布して、そのけり出しを個人的に画策したのである。

 

 

 

 

結論から言うとこの年の11月には、

市場開発プロジェクト室 が高橋鉄郎技術本部長が室長兼務されて、新しい職制が発足すると言う新しい展開が実現するのである。

 

★事業本部としても、中枢のプロジェクトとしての位置付けで進められたこのプロジェクトだが、

このように順調に推移したのは、従来の主力市場のアメリカに陰りが見え、新しく進出を推進中のヨーロッパも確たる実績もなく、単車事業の将来の巾を広げるためにも、新しいプロジェクトが欲しかったそんな環境だったのだと思う。

時系列に追っかけてみるとこのようなことで、非常に迅速な展開であることがお解り頂けると思う。

 

●1月 上記『東南アジア市場に関する当面の基本方針』の 副本部長までの承認

●3月 『小型車に関する考察』を塚本本部長に報告、 小型車問題に関する意見具申を行った。

●4月 東南アジア調査団派遣が決定、塚本本部長自らが高橋技術本部長をその団長に指名、調査団メンバーの決定。

●5月、6月 約1ヶ月  台湾、インドネシア、タイ 、イラン、マレーシア の現地調査を実施。

●7月  その調査報告 と 今後の対処方針策定

●8月 『市場開発プロジェクト室』を高橋技術本部長兼任が決定

●9月 その具体的内容や陣容などの検討

●11月 新職制『市場開発プロジェクト室発足』 高橋鉄郎技術本部長が室長兼務、私も企画室より異動して参加決定

 

 

★このプロジェクトが非常にスムースに進んだのは、塚本本部長が非常に前向きに対処されたことが一番で、堀川企画室長の後押しも大きかったと思っている。

普通このような調査団の団長などは、下が決めて本部長は承認が普通なのだが、この団長の人選は本部長自らが推薦決定されたのである。

塚本さんがなぜそんなに積極的になられたのか?

それは3月に纏めて本部長に報告した『小型車に関する考察』によることがが大きかったのではと思っている。

これは本文25ページ、数値資料25ページで本文は私、数値資料は武本一郎さんの二人で纏めた自分で言うのもおかしいが『労作』なのである。

私自身入社以来初めて、塚本さんに対する報告書であったと思う。そういう意味で塚本本部長も新鮮であったに違いない。

 

ちょっと横道にそれるが、私の川崎航空機の入社試験時塚本さんは人事課長で、面接の時の第1声が塚本さんで、『君は成績わるいねえ』から始まったのである。

大学時代野球ばかりで教室には殆ど出ていない。そんなことで成績は最低だったのである。『会社の仕事ぐらいなら、人に負けずにちゃんとやれると思います。』とずうずうしく応えたのを覚えている。

塚本さんはそれを覚えておられたかどうかはよく解らぬが、私は面接の時自分で言った言葉は、退職するまでよく覚えていて、『ちゃんとやれた』と思っているのである。そんな塚本さんへの初めての私自身の想いの籠った書類だったので、意識して『ちゃんと創った』のである。

 

その項目は以下のようなものなのだが、

その内容はそなに大したものではなく、もしホンダさんなど他メーカーなら全然必要のない内容も多いのだが、当時のトップも殆ど二輪のことをご存じないので、まず初歩的な説明から入っているのである。

これは本部長に説明したものだが、同時に企画グループの私の部下たちへの説明にもなっているのである。

事実塚本さんにも『非常によく纏っていて、よく解った』とお褒めを頂いたのだが、同時に企画グループの部下たちにも非常に好評だったのである。

後段では、方針について述べているのだが、前段は全くの初歩的教科書的な内容なのである。

そんなことを書かねば前に進まなかったところが、当時のカワサキの事業部の状況で、技術、生産分野はともかく、マーケッテング分野については、極端に言えば素人の集まりだったのが、カワサキの特色だったのかも知れない。一課長が提案すれば、半年後に新しい職制が出来あがったりしたところが、またカワサキらしいのである

 

 

 

この中で、特に[Ⅰ、Ⅱ項] は、全く基本的は説明なのだが、小型車の世界は、カワサキが従来走ってきた中、大型スポーツ車とは、全然異なる範疇のものであることを、徹底して述べている。

特にホンダのロードパルコンセプトや意匠登録など、そのあたりが、上の方にも下の人にも新鮮に映ったに違いないのである。

単に、10年間マーケットの第1線でマーケッテングの世界に浸かっていた経験だけで書いたものだが、その時期そんな経験をした人は、少なくともカワサキの明石工場にはいなかったのである。

 

 

 

 

 

 ★兎に角、この『小型車に関する考察』は本部長に報告承認、了解を受けて前に進むことになるのだが、

この答申書の中の最初をこんな書き出しでスタートしているのは、上記のような当時の環境では仕方がなかったのである。

 

 

 

そして、事業部での当時のCMCプロジェクトの視点からは、完全に末端市場が抜け落ちており、当時の直販会社の状況など、殆ど加味されず単に、生産構造上の技術的な問題や、台数ばかりが先行していて、個人的には『危険極まりない』と思ってはいたのだが、

事業本部の長期計画の方向の中で、それを担当している企画グループ長としては、そんなにあからさまに私見を述べることまでは、許されておらず、

このプロジェクトは、『からめ手からの戦略』であったことは間違いなかったのである。

 

そのようなことを下記のような『総論』から、間接的に述べているのである。

 

メモは私の資料なので、勝手に本音を書いている。

 

 

★こんな本部長への報告があって、本部長自らが乗り気で、調査団団長を選ばれたのだが、塚本さんが最初に指名されたのは、大槻幸雄さん、あのZ1の開発責任者だったのだが、そのオファーを大槻さんは断られているのである。

多分、『Mr ホースパワー』とあだ名されていた大槻さんは、1300ccの大型車には興味、関心があったのだが、小型車など全然関心外だったのだと思う。本部長に言われても断られるところが、また大槻さんらしいのである。

そんな経緯もあって、団長にはさらに一段格上の技術本部長高橋鉄郎さん に決まったのである。

  

 

 

このプロジェクトの具体的な中味は改めて書くことにしたい。

 

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母の日と・・・・・・

2013-05-20 19:09:11 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★これは5月12日、母の日にFacebook にアップしたものである。

みなさんから沢山の「いいね」を頂いた。

母を訪ねたのに、突如インフルエンザ発生で、面会できなかったのである。

 

 

 

古谷冨子

明治42年生まれ、今103歳である。

6月28日になれば、104歳になる。

この写真は、特養の部屋に飾ってあった。昨年の11月ぐらいの写真だそうである。

 

 

 非常に元気そうなので、その写真を写真に撮ってきた。

 

 今は、そんなに元気ではないのである。

インフルエンザに罹って、一度に弱ってしまった。 つい4,5日前主治医の先生からは、50:50と言われた。

そして一昨日は、今夜がやまと言われて、妹二人を呼んで、一晩特養に泊まったりした。

今日は、もう二人の高槻にいる妹たちにも見舞いに来るように言ったら、やってきた。

今日は至極元気だったという。

ちゃんと解ったようだし、喋ったし、明石の分大のもなかも食べたという。

 

そんなことだから、このブログも書く気になった。

103歳まで生きれたら天寿は全うしたと言っていい。

 

 

これは2年ほど前、東京の伯父夫婦が訪ねてくれたころである。

まだまだ確りしていたころである。旧い写真を見て喜んでいた。

男3人、女3人、母は長女である。

兄二人は既に亡くなっているが叔母も未だ元気だし、写真の末弟の叔父は私とは5つ違い。あまり離れていない。

 

 

 

 

戦前は、朝鮮京城、今のソウルにいた。

私は中学1年生で、一番下の妹は終戦の年に、京城で生まれた。

だから、いつも京城は、いい思い出がいっぱいなのだろう。 母も未だ30代だった時代である。

懐かしんでいろいろ言っていた。

 

そんなことで、私も何となくふるさとは京城、韓国のような気がするのである。

そのソウルに、ソウルオリンピックの開会式に、ジェットスキーのデモンストレーションをと、オリンピック委員会から、正規に招待を受けて、戦後初めてソウルを訪ねたのである。

 

    

 

 日本、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアからそれぞれチャンピオンを集めてのデモンストレーションで、私はその団長を務めさせて頂いた。

オリンピック村に宿舎があって、オリンピックも見れたのだが、開会式の翌日は、私は子どものころ過ごした家や、小学校が見たくてそちらの方で1日をつぶしたのである。

 

 

 

これが戦前の桜が丘国民学校である。 校舎はそのまま残っていた。

家は学校から300メートルほどのそれこそ名前の通りの「桜が丘町」だったので、学校を見つけたら直ぐわかった。

 

 

門の造りは少し変わったが、家の形も屋根もそのまま残っていた。

 

一緒に付き合って頂いた、苧野豊秋大先輩と記念写真を写してきたりした。

家の向こうの山は、何もないただの山だったのだが、頂上に大きな建物が出来ていた。

    

 

 こちらは家の近くにあった奨忠壇公園である。

冬はずっとここでスケートをして遊んでいた。

 

これは絵葉書だが、今もちゃんと残っているようである。

 

 

 

この写真は、勿論母にも見せたのだが、今から思うとちゃんと見せたかどうかは、よく解らない。

気持ちだけでも、こんなブログにアップして、明日でも見せれたらいいのだが、最近の視力ではとてもかなわない。

多分未だ、明日は大丈夫だろう。

 

1週間遅れの母の日、みたいな感じである。

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何となく繋がってるブログたち

2013-05-20 05:41:31 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

 

★ブログだとかネットの世界は何となく繋がってるものである。

 

今朝、こんなブログに、紹介された。

 

 

ちょっとクリックして、ご覧になればいい。

 私のブログの写真などとはちょっとレベルの違う綺麗な写真がいっぱいのブログである。

 

そんなブログに今日は、こんなことが書かれている。

 

 

 

ここで話されているのは、

山本隆くんが持ってるこのカウリングの話なのである。

ブログの主がこのカウリングのゼッケンナンバーを『手造り』でつくったのだとか・・

 

そして、ブログの主は、和田将宏が鈴鹿を走ったその現場にいたようで、こんなその時の写真がアップされている。

 

確かに、ぜっけん26番のマシンも写っているし和田もいる。

ブログの中で、このように説明されている。

 

 

 

★このブログの主は、カワサキのレースチームのメカニック和田さんなのだが、私はよく知ってるわけではない。

このブログを私に紹介してくれたのは、山本隆くんなのである

 もう何年か前のことだが、

 大津信さんが、そのブログ『野々池周辺散策』 を書きだしたころである。

 

『大津さんがブログやりだしたよ。綺麗なブログを書いてる和田の影響を受けて・・・』と私に教えてくれたのは山本隆くんなのである。

 

それ以来、私の『お気に入り』に並んでいて、毎朝見せて頂いている。

 

時代は違うが、同じカワサキのファクトリーチームの空気を吸った仲間なので、何となくいい繋がりなのである。

 

 

『一度確かめに行きますかね』と書かれているが、

和田さん、ぜひ確かめにいらしてください

でも、今このカウリングは三木のGood Times Plazaにあります

出来たら、次の土曜日25日にいらしたら、10時からNPO The Good Times の総会ですから、山本隆くんも来ています。

総会でも大丈夫です。

直ぐすみますから、あとはまた楽しい雑談会が続くはずです。

 

 

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5月19日  日曜日の朝の薔薇

2013-05-19 09:55:59 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 『5月19日  日曜日の朝の薔薇』 と題してFacebook にアップしました。

 

 

その薔薇たち、1枚 1枚の写真です。

 

ピエール・ド・ロンサール  人気のつる薔薇で4本あるが、これは刺し木から育てたものです。

 

薔薇の名前はカッコいいけどムツカシイ。

最近は覚えるのをギブアップしてしまったが、解る範囲でご紹介してみます。

 

 

 

ディスタントドラムス  難しいでしょう

 

 

これはもう何年も前の最初からあるパパメイアン。素晴らしい香りです。

 

 

ストローベリーアイス、  4本ぐらいあります。

 

 

前庭にここだけでも10本以上あると思います。

 

 

もうすぐ咲きだします。

アンジェラ、 冬近くまで咲き続けます。 2本植わっていますがいずれも刺し木から育てたもので、親木は枯れてしまいました。

 

 

庭の一番奥、

ストローベリーアイス、プリンセスミチコ、エバーゴールド、アブラハムダービー。カクテルなどなど

一面バラで埋まるはずですが・・・・

 

 

 

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昨日は理事会でした

2013-05-19 06:23:26 | NPO The Good Times

 

★昨日は、NPO The Good Times の理事会でした。

年に一度の総会前の理事会で、総会に提出する議案に基づいた内容の検討など行いました。

全て特に問題なく1時間ほどで理事会は済んだのですが、

いつものことで昨日もそれから4時過ぎまで延々と尽きぬ話の連続でした。

 

午後からは戎さんもZ2に乗って来られましたし、飛び入りのお客さんなどもあったのですが、

みんなの一番の話題は、山本隆くんが持ってきた、和田将宏さんが鈴鹿の記録を出したというマシンに装着されていたカウリングのことでした。

 

Facebook にもいろいろ取り上げられていますが、

これは私のアップです。 いっぱい『いいね』を頂きました。

 

 

こちらは戎さんですが、

蜂の巣はバッチリ写っています。

保管状態は、まさに『適当』です。

 

 

 

これは同じニュースですが、カバン屋さんこと登山道夫さんは、   、

 

 

このカウリング一つで、1時間以上話が繋がったのですが、

ちょっと聞き洩らしたのですが、

モトクロスライダ―の山本隆くんのところになんでこんなのがあったのか????

どこかにあったのをダマッテ???貰ってきたのか?

これが私の疑問です。

 

他愛のない話ですが、なかなかオモシロイ話いっぱいでした。

 

 

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O'sの初イベント発表されました

2013-05-18 07:16:02 | NPO The Good Times

 

★  O's   Organizational Synergy  ちょっとムツカシイ名前ですが、

『相乗効果組織』と直訳しています

 

何となく難しそうですが、そんなことはありません。

楽しいイベントをいろんなモノを取り込んで、その『相乗効果』を目指そうと言うのです。

 

NPO The Good Times の特別プロジェクトです。

 

 

 その第1回のイベントの発表がありました。

8月4日  スポーツランド生駒です。

 

題して、  Run デBooooo!!! 2013

 

新しい形のレースを音楽イベントと同時開催することで、その相乗効果を狙っています。

 

 

主催者はO's ですが、

O's の代表は 月木康人さん  月木レーシング 月木博康さんの息子さんです。

 

 

 

こんな企業が後押しします。

 

 

 

 

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貴公子ベッカム引退

2013-05-17 18:45:59 | スポーツ

 

★サッカーのスーパースター  デビット・ベッカムの引退のニュースが流れた。

世界的にサッカーの名選手はいっぱいいる。

そんな中でベッカムは貴公子と言われ、奥さんともどもスーパースター、

サッカーだけでなく、ベッカムヘアーでも、有名であった。

サッカーにあまり興味のない人でも何となく知っていたのではなかろうか?

ブラジルのマラドーナなどとは、ちょっと違ったスターである。

 

産経フォトでもいっぱい写真を用意して大きく取り扱ったいる。

 

 

 

髪型だけでも、こんなにいっぱいである。

 

 

このような記事になっている。

 

 

そして、イギリス首相も引退をねぎらったという。

 

 

日本で言うなら、間違いなく国民栄誉賞だが、 世界的にその評価は高いのだろう。

最後はどこだったのか?

アメリカにもついこの間までいたようで、末っ子の孫も一緒に写真に収まっている。

ひと際大きいのが孫である。

 

 

 

 

これは真ん中の孫も、いい記念になるだろう。

 

 

 

旦那との写真では、こんな笑顔にはなりません。

 

4つの写真は娘のブログ、Danthree in California からですが、

ベッカム  Danthree 』で 画像検索すると、 こんな写真がいっぱい並びました

 

ベッカムも写っていますが、現アメリカ代表監督や代表選手達も出てきます。

孫たち、そんな環境の中で、サッカー楽しんでいます。

 

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山本隆くんのブログから

2013-05-17 08:36:21 | NPO The Good Times

 

★山本隆くん、カワサキの現役の時代からずっとお付き合いがあります。

最近では、NPO The Good Times の理事さんでいろいろと手伝ってもらっています。

NPO The Good Times は ネットをベースにした情報発信を主体のNPOですが、

60おじさんこと 山本隆くんもブログをやっています。

Facebook もやっています。

 

 

これは今朝のFacebook からですが、

そこに紹介されているブログがコレです。

http://blogs.yahoo.co.jp/motoyrs_spl/archive/2013/05/16

 

 

 

 

 

 

★このようにブログにアップしています。

ブログにリンクを貼るだけなら、なかなかそれを開けてみてもらえないのですが、

このようにご紹介すればみんな見て貰えます。

 

これはつい先日覚えた  Snipping Tool を使えば簡単です

何でも切り取って貼り付けられます。

非常に重宝して毎日使っています。

 

山本隆くん、もう今年は70歳になるはずですが、

モトクロスも、トライアルも現役です。

ネットの世界でも、そんなに更新回数は多くはないのですが、全国にファンがいて人気です。

モトクロスはチャンピオンでしたが、トライアルもMFJのトライアル委員長を長く務めました。

 

 

最近はGARRRRにこんな特集も出ました。

 

明日はNPO法人の理事会ですから、またお会いできるのが楽しみです。

 

 

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カワサキ単車物語50年  その9  昭和50年当時のメンバー達

2013-05-16 20:19:59 | カワサキ単車の昔話

★1975年、私が企画に復職したころのカワサキの単車事業部は、岩城良三常務時代が単車再建を宣言した昭和40年(1965)から10年の歳月が流れていたのだが、この10年間の間にホントに第1線の現場を経験した川崎重工籍のメンバーはごくごく僅かだったのである。

これは国内に於いては、メイハツ、メグロのメンバーが第1線の主力であったし、海外に於いても日常活動をを担当してくれたのは現地のアメリカ人であったので、メーカー籍の人はホントに少なかったのである。

 

明石工場内での技術や生産部門の人たちもそれなりにいろいろな経験を積んでは行くのだが、将来のこの事業を考えるとき、単なる輸出産業ではなくて現地に販売網を創設し事業展開を行うことになるので、現地を経験し、そんなカンみたいなものが体質的に理解できないと、今後の事業展開の発想などなかなか難しい面もあるのである。

私自身の経験で言っても、広告宣伝、ファクトリーレース、代理店営業、直販会社担当、特約店制度など販売網創設、などの業務は川重そのものにとっても、全く初めてのことばかりで、そこで得た経験は明石工場の中では得られない貴重なモノだったのである。

当時の事業本部は吉田俊夫専務がその経営全般を担当、塚本事業本部長、青野副本部長、堀川運平企画室長の4人でグループのトップ陣を形成していた。

吉田さんを除く3人が東大出身という超エリート組で、事業部にはこのほかにも東大出はぞろぞろいて営業の矢野昭典さん、KMCの浜脇洋二さん、同じ企画にいた種子島経さん、私の部下の武本一郎さんと東大だらけで、会議をすると学校別では東大が一番多いなどと言う普通では考えられないメンバーだったのだが、上司の人たちは、アタマはよくても、位は高くても、単車事業については殆ど経験をお持ちではなかったのである。

そんな事業本部の中で、いろんな発想をするとき、この10年間現場やいろんな経験を積んだ若い人たちの発言が、位は低くても結構重みがあったのである

 

吉田専務などは川崎重工業の専務さんで、他の事業などでは課長などは直接口もきけない存在なのだが、単車の事業部では吉田さんの仰ることでも、堂々と反論する不思議な空気があって、そんな経験をお持ちでない吉田さんはそれが結構オモシロく感じられたようなところもあった。

当時の吉田語録で

「他の事業部では俺が怒ったら卒倒したやつがおったのに、単車は素人の専務はだまっとれと言うよな雰囲気だ」とか。

「単車の連中は黒人みたいだ。飛んだり跳ねたりさせたら滅法強いが、ホントにアタマはいいのかな」

などと仰ったりしたのである。

 

★企画のメンバーは勿論いっぱいいたのだが、その中で現場経験者は4人だけだった。

年次の順で言うと、昭和32年入社の私

33年入社でレース、アメリカの創成期7人の侍の一人田崎雅元さん、田崎さんは日本に戻ってからも当時は日本でも珍しい部品の自動収納倉庫を造ったりしていた。

35年組の種子島さんも いたのだが、彼はヨーロッパに出かける直前で待機中で特に担当は持っていなかった。ちょうど本を書いてたのはそのころである。

それに高校卒だが単車に限らず博学極まる岩崎茂樹くん、彼は私の後の広告宣伝、レース、さらには九州事務所で代理店営業、さらには直営所関連などの業務をこなしていて、当時は田崎さんと組んで、アメリカとリンカーン市場を担当していたのである。

そういう意味では年次から言っても、私と田崎さんが単車については若手の中心で二人とも人一倍いろんなことを言うものだから、課長ではあったが発言にはみんな一目置いて頂いて頂いたように思う。

 

そのほかにも後川重や単車を支えた人たちはいっぱいいた。

大庭さん時代の企画部長として支え、アメリカ以外の市場へのジェットスキー導入や、電算室を明石事務所のサービス部門から企画室の中枢に持ってきた武本一郎さん

後ドイツの社長など務めた佐藤強さん、

あと本社の財務に戻ったが田崎社長時代単車の本部長も務めた森田進一さん、関連事業部やKMJ の専務やKLCの社長を務めた繁治登さんなど多士済々だったのである。

前述の岩崎茂樹さんは、私とはそのあとも密接に関係があっていろんなことを一緒にやっている。岩崎茂樹はこの物語にも今後何度も登場するだろう。

そしてこの企画グループを纏めていたのが、高橋宏部長であった。

この時点では、アメリカKMCは、まだ浜脇洋二社長であった時期である。

 

 

★そんななかで、田崎雅元さんとは年次は私が一つ上、年齢は二つ上で、私は昭和一桁だが彼は昭和二桁なのである。

田崎雅元さんとは、川崎重工業の社長を務めた田崎さんである

 

ちょっと彼のことに触れておくと、

なぜかご縁があって、10数年前には、私は単車だったが、彼は未だジェットにいて組合の常任幹事で同じ会議によく出ていた。私も喋る方だが、組合の事項のような解らぬことは発言できないのだが、田崎さんはどんな議題でも発言するし、なかなかいことを仰るのである。てっきり事務屋だと思っていたら、技術屋だと聞いてびっくりした。

その後単車にやってきて一緒にファクトリーレースを支えたレース仲間なのである。

創成期のファクトリ―チームは技術部と製造部と広告宣伝課の3部門の協働体制だった。

元々明石工場はエンジン工場だからエンジン開発は専門家がいっぱいなのだが、車体、特にレーサーの車体については、当時は兵庫メグロからカワサキに転じた松尾勇さん個人のノウハウで持っていたところがあって、松尾さんが製造部の所属だったのでレース職場は製造部管轄で、その担当が田崎さんだったのである。

カワサキが初めて鈴鹿の6時間耐久レースに出場したときの監督は、あのZの開発者の大槻幸雄さんだし、その助監督を務めたのが田崎さんなのである。

彼はその後、アメリカに渡り、創成期のシカゴ事務所を担当したホントにアメリカ市場の先達なのである。

何となくご縁があって、その後も、特に1976年から1986年までの10年間、カワサキの単車事業のど真ん中で、二人協力していろんなことをやることになるのである。

 

★前編で、企画室長の堀川運平さん のことをちょっと書いたが、堀川さんは本社財務の超エリートで、特に大きなウエイトを占めていたアメリカKMCの財務、資金に対してのお目付け役みたいな感じで事業本部に派遣されたのは間違いない。

非常にオモシロイ独特の発想をされる方なのである。

どうせ、今から単車のことを覚えても、解る筈はないから、具体的な案件については「誰か人を決めてその人の発言に乗る」と仰るのである。例えば特に生産のことなど解らぬから、『私は安藤佶朗さんに乗るんです』とよく仰っていた。

その堀川さんには私も田崎さんもそこそこの信用があったように思う。

堀川さんが本社財務に戻られてから、国内販社の問題で、川重全体でもめにもめていた時に、私の立案について、「古谷君が1ヶ月も考えた案ならそれで行きましょう」と言って頂いて、現在のKMJの前身のカワ販改組案が通ったり、さらにその数年後、ホントに単車の存続が危なかったその時に、『何百億円の資金を単車に注いで頂いた』のは、経営会議の判断とはなっているが、実際は当時の財務担当常務であった堀川運平さんの判断によるところが大きかったのである。

カワサキの単車を支えてきたのは、ベースには極めてユニークなヒット商品があるのは事実なのだだが、カワサキの単車がここまで続いたのは、川崎重工業の『資金力』 金の力が大きかったのである。

そういう意味で、カワサキの単車事業部の現在があるのは、堀川運平さんの判断に負うところも多いのだが、そのあたりの具体的なことはまたの機会にしたいと思っている。

 

 

 

★突然、ゴルフの優勝カップだが、これは『企営会』と言うゴルフコンペがあって、

堀川さんが単車におられた期間続いた企画と営業関係の人たちが参加したコンペだが14回ほど続いて取切り戦で私が優勝したので、私の手元にあるのである。

その第1回の優勝者が田崎雅元さんで、昭和50年12月20日なのである。

実はこの12月20日(土)に長計の検討会を須磨の翆山荘で幹部でやろうと堀川さんのところに吉田専務から電話が掛ったのだが、堀川さんは『その日はゴルフのコンペですから』と断られたようなのである。このあたりが堀川さんらしいのだが、吉田さんからはそれでは企画の若手でもということなので、『私がゴルフは止めて専務のお付き合いをする』ことになったのである。私よりさらに若い未だ係長の森田進一くんなど全くの若手と吉田専務と5人ほどでの会議をやったのである。

吉田専務は至極ご機嫌で、当日は絶好の天気で『雨でも降ればいいのに』などと言われていたが、終始和やかに若手相手にいろんな話をされたのである。

 

このゴルフコンペのことなど、こんなブログに纏めてある

昭和50年から55年まで続いているのだが、当時のこんなメンバーが優勝している。当時の事業のキーパーソンばかりなのである。

 第1回   50-12-20 田崎雅元  (企画部、課長) 
第2回   51-4-24  田中誠   (カワ販社長) 
第3回   51-10-20 橋本賢   (資材、部長) 
第4回   51-12-4  宮田敬三  (IKS社長) 
第5回   52-3-19  那波義治  (営業課長) 
第6回   52-6-18  土井榮三  (資材、課長) 

第7回   52ー9ー17  古谷錬太郎 (市場開発室、課長)
第8回   52-12-3  堀川運平  (企画室長) 
第9回   53-3-18  苧野豊秋  (カワ販専務) 
第10回  53-7-15  野田浩志  (管理、課長) 

第11回  54-3-17  若山禎一郎 (IKS部長) 
第12回  54-7-14  酒井勉    (企画室長) 
第13回  55-5-13  前田佑作  (新カワ販、部長) 
第14回  取り切り戦   古谷錬太郎 (新カワ販、常務) 

 

流石にゴルフの翌日は日曜日だったが青野副本部長以下 幹部の人たちが翆山荘に集まって、終日会議が行われたのである。

前編でご紹介した、堀川さんの自筆の事業計画は、その日付が昭和50年12月19日とあるように、翆山荘会議の前日の金曜日に経営会議が行われていて、その会議のの続きが行われたのである。

 

★1975年10月に企画室企画グループに復職した私だったが、その3カ月間で一応長期計画を形の上では纏めたのだが、

年が明けてからは、開発途上国向けの小型車に関しての具体的な活動展開に入っていくのである。

 

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私の人生川の中で始まった-2

2013-05-16 05:47:13 | 自分史

ずっと以前に自分史で『私の人生川の中で始まった』をアップしたことがる。

その時にも大田電気のことなど検索から見つけて記述しているのだが、

 

最近になってSnippinng Tool

を覚えたのでその部分だけを、具体的に写して記録に残しておきたいと思って纏めている。

 

 

生まれた時にはもうなくなっていた祖父のことや写真が載っているのである。

だから、勿論話したこともないし、銅像はあったのだが、写真で見るのもこの時が初めてだったのである。

 

 

 ★祖父は大正13年に亡くなっているのだから、私が生まれるずっと前である。

古谷修一は伯父なのだが、未だ早稲田の学生だったか、卒業したばかりのころだったとか、父は未だ早稲田の学生だったはずである。

私は昭和8年生まれで、出生地は明石の上の丸なのだが朝鮮大田には、生まれてすぐ行ったのだと思う。伯父は社長はしていたがずっと明石にいて大田にいたわけではない。

大田のころは父も太田電気で何かしていたのだと思う。会社の社宅に住んでいたし、隣りが竹内さん宅だったのである。

川で魚をとってくれたお兄ちゃんは、竹内清次郎さんの息子さんで、後確か阪大の教授になられたとか聞いているがその後お会いしたこともない。

大田での記憶は、そんなにぼんやりしたものだが、なぜか川での魚だけが鮮明に記憶のなかにある。

 

そんなことで『私の人生川の中で始まった』と書いている。

 

 

★太田電気が南鮮合同電気に統合されたのが昭和12年とあるので、私が4歳のころである。

小学校に入る前に、太田から京城(今のソウル)に移ったのである。

多分、南鮮合同電気に統合されたので京城に移ったのだろうが、、京城では父は会社勤めはしていなかった。

 

 

★この記事によると南鮮合同電気の本社は釜山となっているが、 私が覚えている限り南鮮合同電気の本社は京城の半島ホテルのビルの中にあり、副社長をしていた伯父はの年に何回か京城に訪れて、その時は我が家に泊まったりしていた。

 

 

この資料によると伯父は15000株も持っていたようだが、多分父も株は持っていて、その配当などで暮らしていたのかも知れない。

この記録が正しいのかどうかはよく解らないが、大田電気と検索すると、ネットの中にちゃんと現れるのである。

私の記憶では、終戦時南朝鮮の電力会社は一つだったような気がするのだが、戦後に記述のような3社になったのだろうか?

本社が京城だったのはこれは間違いない。それに結構大きな会社だったはずである。伯父が明石から京城に来るときは新聞に人事往来が出たりしていたのである。

 

 

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我が家の薔薇 5月15日

2013-05-15 18:16:38 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

★きのう今日、やっと花が咲きだしました。

三木あたりは、神戸や大阪に比べると、同じ関西ですが季節は1週間ほど遅れます。

 

 まだまだ蕾の方が多いのですが、

 

 イングリッシュローズの方が咲きだしました。

 

 早先のもっこう薔薇も未だ残っています。

 

 

 カクテールは咲きだしています。

 

 

 

これは名前が解りません。

あともう少しです。

 

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慰安婦問題

2013-05-15 08:15:57 | 発想$感想

 

★昨日は慰安婦問題に対する橋下徹さんの発言『慰安婦制度は必要だった』と題してブログを発信した。

 

 この問題は、橋下さんの登庁時の記者会見の中で、

高石さんの『侵略発言』についての意見を聞かれた中で、橋下さんの方から例として語られたものである。

その『ノ―カット版』がこれなのだが、確かに新聞報道で書かれたことを言ってはいるのだが、

その真意は新聞の見出しになっているようなものではナイ

そして退庁時に記者からの『慰安婦問題』の質問があって、その中でもホントに最後の方に『慰安婦制度はいいとは言わないが、当時としては必要だった』と一言話の流れの中で発言したら、それが見出しになってしまったのである

 

 

 

 

その時思った危惧が現実のものになっている。

ブログに取り上げる前に、この問題も橋下さんのノ―カット版のテープを聞いてみた。

二つで10分以上もあるのだが、その発言内容は何等問題はないのだが、マスコミに流れたら、果たしてどんなことになるのか?

非常に問題だなと思って、昨日のブログは書いている

 

 

その通り以上のことになってしまっている。

 取り上げている人たちは、新聞報道がベースだから、その報道が橋下さんの真意と違っていたら、橋下さんの発言が誤解されたままの批判になってしまっている

これは、非常に怖いことである。

 

それがある程度解っているから、政治家は建前しか言わないのだろう

然し、ネットと言う自分で発信出来るシステムも今はあるのだから、

もう少し『本音のトーク』が聞いてみたいのである

 

 

★昨日、今日、橋下さんがツイッターで発信された長文の要約である。

そんなにおかしなことを言っているわけではナイ。

ご一読、頂きたい。

 

 

 第二次世界大戦について侵略と植民地政策の歴史認識は日本国民は敗戦国民としてしっかりと持たなければならない。しかし日本国「だけ」がいわゆる慰安婦制度を持ったレイプ国家だと言う批判についてはきちんと反論しなければならない現在において慰安婦制度を肯定するのではない

 第二次世界大戦当時は、戦場の性の対応策として、いわゆる慰安婦制度なるものが必要とされ、日本国だけでなく世界各国も同じような制度を活用していた。国の関与の仕方は様々であるし、現地の私娼を利用していた国もある。いずれにせよ、戦場に性を切り離すことはできなかった。これが歴史上の事実だ当時意に反してそのような職に就かざるを得なかった方は大変不幸であり、その心身の苦痛は筆舌に尽くし難いものがある。

日本の慰安婦制度を正当化するつもりはないが、僕らの世代以後の多くは日本国だけが慰安婦制度を持っていたと認識している。従軍慰安婦問題の報道等でそのように刷り込まれた。これは誤りだ第二次世界大戦当時、日本国軍だけでなく、世界各国の軍もいわゆる慰安婦制度を活用していた。当時は必要とされ、これが戦場での性の現実だ。今後は同じことは許されないが、当時はそうだった。日本だけが不当に侮辱を受けることには反論しなければならない。

日本国が慰安婦制度を抱えたレイプ国家なら当時の世界各国も全てレイプ国家だ。

侵略の定義が学術上定まっていないのは安倍首相の言われるとおりだが、敗戦の結果として、侵略だったことを受け止めなければならない。戦争で負けるとはそう言うもの。負けは負け。潔く負けを認めなければならない。そして周辺諸国に対しても多大な苦痛と損害を与えたのも事実。反省とお詫びをしなければならない

この大原則を踏まえた上で、それでも重大な事実誤認によって日本国が不当に侮辱を受けることに関しては、きっちりと主張しなければならない

 日本の慰安婦制度が世界的な非難を浴びているのは、国を挙げて暴行脅迫をもって女性を拉致して慰安婦にさせたとされている点。この点については2007年の閣議決定で、それを裏付ける証拠は見当たらないとなっている。ただ国を挙げて韓国女性を拉致して強制的に売春させた事実の証拠がないことも、厳然たる事実。世界が誤解しているなら、日本が不当な侮辱を受けないために言うべきことは言わなければならない。

だいたい、アメリカはずるい。アメリカは一貫して、公娼制度を否定する。建前は禁止でも、軍人の性的欲求が0になるわけがなない。何らかの解消策を真正面から考えないといけない。普天間の司令官に、風俗業の活用を進言したのは、法律違反のことをしろと言っているわけではない。朝日の記事によれば、米軍報道担当は、「法律違反の事はしない。橋下は馬鹿げている」と言ったとのこと。僕は、法律上認められている風俗業を活用しろと言ったんだ。日本国において法律で認められた風俗業を否定することは、それこそ、自由意思でその業を選んだ女性に対する差別だと思う。

 これまでの政府や政治家は、歴史認識になると、反省とお詫びだけで何も言わないか、それとも自己正当化だけで反省とお詫びを全くしないか、どちらかだった。敗戦国として反省とお詫びをしなければならないところはしっかりやる。ただ、不当に侮辱を受けるようなことに関してはしっかりと反論する。これが、本来の政治家の態度振る舞いだと思う

 

 

私は橋下徹さんが、そんなにおかしなことを言っているとは思えない

ただ、現実は、世の中の人たちは、そんなにちゃんと調べてまで、判断はしないのである。

そういう意味で『マスコミの報道』がコワイなと思っている。

全て、信実が伝わっているわけではないが、全てが違っているわけでもない。

ちゃんと解ろうと思う人は、自分で調べたら、いろいろな情報はいっぱいある。そんな時代に生きているのである。

 

 

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ツイッターのフォロワー30万人達成!!

2013-05-14 15:40:28 | NPO The Good Times

★ツイッターのフォロワーを増やそうと思い立ったのは2010年4月のことだから、約3年前のことである。

別に有名人でもないので、勝手にフォロワーが増えたりはしないのである。

増やそうと思えば、毎日コツコツと積み上げることしかないのである。

 

でも、なぜフォロワーを増やそうと思ったのか?

ツイッターには『リツイート』と言う機能がある。

『リツイート』すればフォロワーの数通り、兎に角情報発信出来るのである

仮に1万人になれば1万人の人たちに情報発信出来るので、勿論自分の情報もさることながら、NPO The Good Times の会員さんのツイートをリツイートしたら、その会員さんのフォロワーに関係なく、私のフォロワーの数に向かってその情報は発信されることになる。

NPO法人The Good Times の公式ツイッターとして、その『情報発信力の強化』のために、まず10万人にしようと思ったのである。

 

 

★ところで、どのようにしたら増えるのか? 

以下は、私がやっている方法で、別に難しくはない。毎日コツコツとそれが出来るかどうかである。

細かいところは、省略するが、おおざっぱに言うとこう言うことなのである。

 

● 一般に、フォローするとフォロー返しがある。 その比率は大体50%と思えばいい。 100人フォローすると50人増えると言う理屈である。

●1日にフォロできる人数は制限があって、1000人以上はフォローできない。1000人フォローすると1日に500人増える計算になる。1日に500人増えると1ヶ月には15000人増える計算になる。

●5月に本格的にスタートして10万人には、約7ヶ月で2010年11月に到達したのである。

●同じ10万人を増やすのに、20万人にはちょうど12か月かかったし、30万人には1年半掛っているのである。-ー

 

別に、だんだんとサボったわけではなくて、フォロ-解除する人の%が、多分1%ぐらいは毎日あって、10万人なら1%でも100人、20万人母数になれば200人も減ってしまうので、最初のように増える一方と言う訳にはイカナイのである。

さらに、細かいこともあるのだが、そんなことは省略して、今でも毎日1000人をきっちりと、フォローし続けて来たのである。

 

 

そしてこれが今の状況なのである。

 

 

NPO The Good Times は、ネットをベースにしたこんなNPO法人で、

ツイッターも、会員さんのブログも、tumblrも、 Facebook もいろいろと駆使するトータルシステムそのものである。

それ自体は活動したりはしない。

例えば,

会員さんのこんな活動を支えている。  その一つのツールなのである。

 

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慰安婦制度は必要だった

2013-05-14 05:33:29 | 発想$感想

 

★昨日、あちこちに『慰安婦制度は必要だった』と言う記事が流れた。

 

 

日本維新の会の橋下徹共同代表は13日、第二次大戦中の従軍慰安婦について、「銃弾が飛び交う中で、精神的にも高ぶっている集団に休息をさせてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰でも分かる」と述べ、慰安婦制度は必要だったとの認識を示した

 橋下氏は大阪市役所で記者団に、「日本軍だけじゃなくて、いろんな(国の)軍で慰安婦制度を活用していた。韓国とかいろんなところの宣伝の効果があって、(日本が)レイプ国家だと見られてしまっているところが一番問題」と主張。

謝るところは謝って、いわれなき評価については、言うべきことは言わなきゃいけない」と持論を展開した。

 日本の植民地支配と侵略を謝罪した村山談話については

侵略の定義が学術上ないことは、安倍晋三首相の言われているとおり」とした上で、「敗戦の結果として、侵略だとしっかり受け止めなければいけない」と話した。

 

橋下さんらしいホンネトークだが、また物議を醸すことにならなければいいが、

どんな進展を見せるのだろう。

 

 

★政治家や首長でも、或いは普通の日本人の旧い人たちは何となく、みんなほぼ橋下さんに近い思いを持っているのではないかと思う。

 

●まず、このようにホンネで話されることには、個人的には好感を覚える。

●ただ、政治家として、非常に影響力のある橋下徹さんなのだから、「政治的なヨミ」をどのように考えたのだろう?

●マスコミの反応、その他現在の若い人たちなど、どんな風に感じるのだろうか?

そのあたりがどう動くのか、非常に興味のあるところである。

 

慰安婦と言うが、戦前も戦後も世界のあちこちに公然と遊郭のあった時代のことなのである。

当時は、遊郭で働く女性は、それなりに一つの職業として認められていた時代だったのではなかろうか。

そんな時代に強制的に慰安婦にした、とか無償で働かせたなどと言うのは、何となく信じがたいのである。

 

橋下さんの言ってる方が当たっているとは思うのだが・・・・・

それにしても、思いきっていうものである。

 

これとは直接関係ないが、世の中に売春などは、無くならないのではと思ったりする。

今の日本でも、『風俗』は厳然と存在するし、自ら進んでそんな方向に走る若い女性もあとを絶たない。

さて、マスコミはどんな反応をするのだろう?

正面切って、その通りだと言うようなところはナイトとは思うが・・・・・

 

 

「慰安婦問題」で画像検索したら、こんな画面など現れた。

 

 

 

 

 

 

 

いろんな説があるのだろう。

 

こちらは、橋下さんの記者会見ノーカット版である。

 

 

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