雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

京城(いまのソウル)の想い出

2016-08-16 07:41:58 | 発想$感想

 ★ 8月15日、終戦記念日である。

1945年8月15日、私は中学校1年生だった。

当時の朝鮮、京畿道京城府城東区新堂町桜ケ丘と言うところにいたのだが、8月15日は夏休みの最中で城東中学校のプールで泳いでいたのだが、正午に天皇陛下の玉音放送があって、炎天下の校庭で直立不動の姿勢で聞いたのを覚えている。

 

    

 

 ネットの中で探していたら、こんな城東中学校の写真が出てきた。

 ついでに当時の京城の写真を幾つか・・

こちらは京城駅である。 当時夏、冬の休みには明石に来ていたのだが、駅も汽車も朝鮮のほうが立派だなと子供心に思っていた。

学徒動員で出征する先輩をこの駅まで何回か送りに来た思い出もある。

 

   

 

  昌慶園の桜は立派だった。 冬は大きな池がスケート場になったりした。

 

  

 

  朝鮮神宮である。

何度か行ったことがあるが、立派な神宮であった。

今はどうなってしまったのだろう?

 

 

 

  朝鮮神宮も日本になってから創られたものだろうし、昌慶園の桜も、元の宮廷にあとで桜が植えられたようである。

 奨忠壇公園は、家から歩いていけるところにあって、冬は毎日と言っていいほどこの池でスケートをして遊んでいたので懐かしい想い出いっぱいである。

 

   

 

 戦時中のソウル(京城)の生活は、食糧難も空襲もなく平和な普通の生活で、何の問題もなかった。

戦争は新聞やニュースで聞くだけで、特に戦時中という感じはしなかったのである。ただ、母方の伯父は南方で亡くなったし。明石も岡山も空襲で家は焼けたし、明石の空襲では叔父、叔母が亡くなったのである。

 

 

★ 小学校の6年間と中学の1年生までソウルにいたので、戦前のソウル(京城)についてはちゃんと覚えているし、海外でも一番行ってみたかったところなのだが、なかなかその機会がなかったのである。

ところが、1988年9月、ソウルオリンピックの開会式の日に、オリンピック会場のすぐ前のハンガン(漢江)で、ジェットスキーのデモンストレーションをやって欲しいとオリンピック委員会からの依頼があって、私はその団長として懐かしいソウル(京城)に行くことが出来たのである。

 

その時頂いた額である。 

 

 

  

その時のスナップの1枚である。

オリンピックだから世界からトップレベルを集めようと、アメリカ、欧州、オーストラリア日本ジェットスキーチャンピオンを集めたチームをつくっての参加となり、日本からも、JJSBAの苧野豊明会長など選手諸君も大勢参加したのである。

 

    

 

オリンピック競技場のすぐ前に、ハンガン(漢江)はある。子供の頃も何度か行ったことがある。かってはハンガンの南側は何もなかったのだが、今は立派なまちになっていてオリンピック競技場もそこに創られていた。

 

 そのオリンピック村の施設に泊めて頂いて、オリンピックも観れたのだと思うが、真面目に練習ばかりしていて、私は競技場には行っていないのである。

 開会式の当日も、午前中に無事演技は済ませたので、そのあとオリンピックも観れたのだと思うが、私は当時のJJSBAの苧野豊明会長と一緒に、ひょっとしたら戦前住んでいた家が残っているかもと、タクシーをチャーターして当時の城東区を探し回ったのである。

 

日本と同じようにソウルも新しい道がいっぱいできてなかなか難しかったのだが、まず『奨忠壇公園』に行きそれから家を探したのだがなかなか難しくて、通っていた『桜ケ丘小学校』を探し当て、そこから家を見つけることが出来たのである

中学校はほんの数ヶ月だけだからもう一つ記憶にないのだが、小学校ははっきりと覚えていて、これは手前の建物のところは、かっては体育館だったのが新しくなっていたが、本校舎は昔の儘に残っていた

 

 

 

小学校の裏門から、道を辿ってゆくと懐かしい家が残っていた

何故か塀や門は新しく作られていたが、昔はもっと開放的はつくりだったのに、塀と門になってしまっている。

ただ、屋根は全く昔の儘の形状で、瓦のヨコの銅板もとゆもそのままで懐かしかった。

 

 

 

 

 苧野豊明さんとのツーショットである。

苧野さんは、ずっと上司だったのだが、後半はいろんな形で援けて頂いて、国内にジェットスキーを導入する際にも、JJSBAの初代会長として、手伝って頂いたのである。

 

★どうも昨今は、韓国との関係がもう一つなのだが、私個人は韓国は私の故郷であることは間違いなく、もう少し『いい関係』にならないものかとずっと思っているのである

 

 

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公園の木

2016-08-15 06:17:40 | 発想$感想

★毎朝、走りに行っている近くの公園

  

 

 先週あたりから、周囲の大きな木を切りだした。

  その切り方の思い切りの良さに少々驚いて、Facebook に動画でこんな風にアップしたのである。

 

 

  

 

   根元から、こんなにバッサリと思い切りがいい。

 

   

 

 間にあった樹を何本も切ってしまったので、見通しよくなったが、気持ちとしては、この根元から新しい芽が出たらいいなとホントにそんな気分なのである。

 

  

 

 すっきりしたと云えば、その通りで、今まで鬱蒼と枝を伸ばしていたので、見通しも悪かったのだが・・

 

 上のFacebook には何人かの方からコメントを頂いたのだが、10年も町内会長をいたという山本隆さんから、こんなコメントを頂いて、なかなかムツカシイものだなと思っている次第である。

 

 

山本 隆
 
公園内の樹木ですが、何年かに一度大きく伐採をする必要があります!
理由は沢山あります。
*秋になると落ち葉が遠くまで飛び、市民から苦情が入ります!
*風通しが悪くなり大量の害虫が発生します!
*害虫だけでなく、周辺からの見通しが悪く成れば、中高生などの不純異性交遊の温床になります!
私は10年間町内会長を務めましたので、市民のそれぞれの意見や苦情を聞いてきました。
イチョウの紅葉を楽しみにしていた遠くにお住いのお方が、その直前に伐採されたので憤慨していましたが、その周辺にお住まいの方からの苦情で役所は動きました!
皆さん自分だけのお考えでは公共性が失われます。"(-""-)"
 
 
 住宅のど真ん中にある公園だから、周辺にお住まいの方たちの意見が優先されるのだろう。
 確かに街路樹の落ち葉なども秋になると、掃除が大変なのはよく解る。
 
 今年はともかく、来年には確りとした枝が伸びるのを期待したい。

 

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『10年ひと昔』 世の中 どんどん変わるね

2016-08-14 06:41:09 | 発想$感想

 

★ 世の中どんどん『変わる』というのか、『進歩する』のか?

つい先日は、栗林公園に淡路周りで行ってきた。

昔は、栗林公園には、岡山経由が常識だったのだが、明石海峡にも鳴門海峡にも橋が出来て、その通行料はとてつもなく高かったので、仮に行けたとしても、そのルートは考えられなかったのに、

今は淡路ルートが常識で、それが一番早く、一番安いようである

それは、ともかく栗林公園の帰りに、淡路のパーキングに寄ってこんな氷を食ったのである。

 

   

 

 『旨い、不味い』は別にして、これは氷ではない。 ソフトクリームみたいである。

 氷独特の『シャリシャリ感が皆無なのである。

 

私が、そんなことを言うものだから、 『西神の風月堂の宇治金時を食べに行こう』と昨日はわざわざ西神まで出かけたのである。

 

まず、本屋に寄って、昼前なので飯を食おうということになった。

お盆の土曜日ということで、いっぱいの人である。

 

 

 

 

 

 

 昔、贔屓ににしてよく行ってた東天閣に行くことにした。

 

 

 

 明石の菊水人丸花壇など名店が並んでいるのだが、店の中に広い待合室があるのは、 東天閣だけである。

店の中で少々待たされたが、こんなランチを食ってきた。

1500円也である。ウイークデイは、1250円でサービスランチがあるのだが、『本日はやっていません』とテープが貼ってあった。

 

  

 

この東天閣は、個人的にもよく行ったし、会社でも使っていて責任者の王さんとは顔馴染みなのだが、おられないので聞いてみたら、『王さんは、定年でお辞めになりました』と言っていた。

私が定年後も間違いなく居たのだが、やはり定年後16年も経っているので、王さんも定年になるはずである。

お辞めになりましたが、よく遊びに来られますよ』などと言っていた。

 

 

 そして、風月堂の宇治金時を食べるべく、1階まで降りてきたのだが、

 

  

 

  肝心の『風月堂』がなくなってしまっているのである。

  

  確か、この向う側の角がそうだったのだと思うが・・・・

 娘一家は、この駅から一番近いマンションに住んでいたので、一緒に行った孫もよく覚えていて、店が移ったかなと、探してみたがダメだった。

 

 

  ホントに世の中、10年も経つとすっかり変わってしまうのである

 娘一家が、アメリカに行ってから、もう10年以上にはなる。

 

 10年 ひと昔』 昔の人は上手にいうものである。

 

 

 昨日の動画、 ご覧になってみて下さい。

 

 

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カワサキ単車の昔話

2016-08-13 06:50:22 | カワサキ単車の昔話

 

★このブログの中に『カワサキ単車の昔話』と言うカテゴリーがあり186話もアップしている。

昨日それをを見ていたら、高松の宮様や本田宗一郎さんとご一緒に昼食会に同席している貴重な写真が出てきた。

 

ヤマハの菅生であった全日本モトクロス開催時に開催された各メーカ―や業界のトップなど10数名での昼食会である。

高松の宮様のご臨席を頂いて、その昼食会にはカワサキからは青野格本部長と若輩ながら私が出席させて頂いたのである。

  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/a99141f4c124e5cb5d8896a4ed08dbdb

2010年のブログで、『カワサキ単車の昔話』を書いているのだが、写真をブログに取り込めるようになったばかりのころで、残念ながら写真がピンボケなのである。

 

 

    

 

写真と言えば、このごろはパソコンで、写真を見やすく修正なども出来るのである。
この写真の現物はヨコ 17cm, タテ 12cm で非常に鮮明である。ぼんやりしているのは私の技術がダメなだけである。

などとコメントしていて、

 

丁度、いま孫が『来ている』ので、この機会にちゃんとしたものに修正しておこうと やって貰ったのである

間違いなく、写真はちゃんと修整できて、ちゃんとアップすることが出来たのである。

 

 

    

 

 左から、本田宗一郎さん、高松の宮様、業界の桜井専務理事,カワサキの青野格本部長である。

 

    

 

    乾杯。 宮様はお立ちにならないのは、今気が付いた。一番奥、青野さんの隣が私である。

 

    

 

    こちらは、一番手前である。

 

    

    これは逆に一番奥。

 

 

昼食会の席次もお品書きも一緒に送って頂いたのだが・・・


尊敬する本田宗一郎さんとは、直接お話ししたことは一度もないが、同じ会議やパ―テイなど何度かご一緒させていただいたのである。
非常に気さくな、常に場を明るくされるように、あちこちに気を使っておられたのが印象的だった。
一言でもいい。話をさせて頂いておればよかったなと思っているのだが、当時はご挨拶に上がるのことも、とても出来なかったのである。

 

 食事会そのものは、このように非常に明るい雰囲気で、気疲れするようなことは何もなかったのだが・・

 

★高松の宮さまは、ホンダさん、特に本田宗一郎さんと親しいと言っていいご関係で、二輪の全日本モトクロスや鈴鹿サーキットなどにも、何度もお見えになっていたのである。

これよりはずっと以前だが、BPICMの総会が東京であった時も、宮さまは出席されたし、本田宗一郎さんがホストをされたのである。

私が全国カワサキ会の副会長をしていた時で、業界側のメンバーとして夫婦同伴でご招待を受けたことがある。

この時は、会場までの廊下に各メーカーのえらいさん型がみんなホストサイドで、海外からの業界のお客様を並んでお迎えになったのだが、私たち夫婦も一応は業界からの招待客と言う立場だったので、そんなお出迎えの前を通って会場に入ったのである。

このころは、私も未だ40代前半だったと思う。

高松の宮さまもご臨席だというので、非常に緊張して、立食パーテイーだったのだが、そんなに食えないかもと出席する前にラーメンなど食ってから出かけたのだが、全然『いい雰囲気』であとで、『ラーメンなど食っていくのではなかった』と思ったものである。

この時の本田宗一郎さんの『歓迎スピーチ』が見事だったなとそれが一番印象に残っているのである。

 

上の菅生での全日本モトクロスは、それから10数年あとの話なのである。

 

       

 

 

       

 

 

       

 

 

 

       

 

 

 

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カワサキ二輪事業と私 そのー10  田崎雅元さん

2016-08-12 08:31:35 | 自分史

★先日来、高橋鐵郎さん、大庭浩さんのことを書いたので、順序としてはアメリカのKMC社長発動機事業本部長

川崎重工業社長を歴任した田崎雅元さんのことを触れないわけにはいけないだろう。

 

   

ただ、大庭さんや高橋さんは、私の上司としての存在だったのだが、田崎雅元さんは間違いなく一緒に協働した仲間であり、どうしても、彼の話となると長年一緒に協働した『仲間としての話』になってしまうことをお許し頂きたいのである。

 

田崎雅元さん、年は私より二つ下、昭和10年の生まれ、川崎航空機入社の年次で言えば、私の1年後輩なのだが、結構気が合って、本当に長いお付き合いは極々最近まで続いているのである。

私が一つでも先輩であったことは誠に幸いして、彼はホントに社会的には手の届かぬほど偉くなったのだが、彼との関係会話も、ずっと何十年同じように続いている仲間なのである。

生い立ちも似ていて、私は戦前朝鮮京城にいたのだが、彼のお父さんも京城大学の先生で小学校時代は京城にいたこともある。終戦前に満州に行って満州からの引き揚げ者なのである。

どちらも大陸育ちのちょっと変わったところがあって、後輩から『古谷さんと田崎さんは日本人でないところが困る』などと言われたりしたのである。

 

田崎さんは、川崎航空機の昭和33年の入社で、ジェットエンジン部門の生産関係に配属になっていた。田崎さんに言わすと入社時に、設計図面を書かない部門にと希望したからだという。設計図の昔のスミで書くのがどうも苦手だったのだという。兎に角口は達者だったが、字などもそんなに綺麗ではなかった。

曰く、『アタマの回転が速すぎて手がついて行かないからだ』などと仰る。ことほど左様に何か理屈をつけて決して『参った』とは言わないのである。

そんな彼がジェットから単車に移ってくるのは昭和37年だったと思うが、昭和36年当時私は既に単車営業にいて、労働組合関係の職場の常任幹事をしていたころ、彼もジェットの職場の常任幹事で同じ会議などで出会ったのが最初である。組合関係のことなど、どんな話題になっても、めちゃ上手く喋るので、事務屋だとばかり思っていたら技術屋と聞いてびっくりした。

 

★そんな彼が、単車の生産工場に異動して来て、高橋鐵郎さんの下にいたのだが、お二人とも当時のカワサキ創世期のレース委員会のメンバーだったのでそれからはずっと退職後も繋がっているので、もう50年以上のホントに長いお付き合いなのである。

 

田崎さんのことを時系列に並べてみると

● まずは組合の常任幹事時代のお付き合い 1961年。

● これは確か昭和37年だったと思うが『源平芸能合戦』と言う会社単位のテレビ番組があって、三洋電機が相手で私が勧進元だったのだが、田崎さんがその応援団として大いに手伝ってくれたことを覚えていて、いつも二人の間では話題に上がる田崎さんとの協働のスタートなのである。

●『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8356d318b5dc414c15dd1b7488a09f63 

会社に内緒でロードレーサーを創って走らせたのは私と田崎さんなのである。そのカワサキの初代のレースチーム監督が大槻幸雄さん、助監督が田崎雅元さんだったのである。 1965年。

● その後彼はアメリカの異動になるのだが、当時のレース監督大槻幸雄さんもドイツ留学が決まりお二人同じ日にレースの仲間たちで送別会をしたりしている。1965年のことである。

 

 

これはその当時の1回目のアメリカ時代の浜脇洋二さんと田崎さん。

最初のシカゴ時代、所謂『7人の侍』の一人なのだが、当時バイクに乗れたのは田崎さんだけで、W1の試乗でハイウエイを走ったのが彼の自慢なのである。社長時代もオートポリスをバイクで走ったりしたらしい。

 ● アメリカから戻ってきて、私も国内の販社出向から単車事業部の企画室に戻った時は、彼も同じ企画部にいて、それからは殆どずっと仕事上でも密接な関係にあったのである。この年が1975年。

● 1978年だったか、アメリカのハーレーダンピング訴訟がありこれを担当したのが田崎さん、その国内販社の構造対策をしたのが私なのである。 

● その後、アメリカ市場がどんどん悪化して、彼は高橋鐵郎さんと一緒にアメリカKMCの社長で出向するのだが、それでも益々大変になり、販社の経営対策のために私は当時の山田専務に企画室に戻るよう言われる話は、高橋鐵郎さんの時にも書いた。

● その時、山田専務に高橋鐵郎会長を企画室に戻すようにお願いした時『田崎でKMCは出来るか?』などと仰るのである。『私と田崎さんは1年違いですから、田崎さんでKMCが出来ないなら、私が企画は務まりません』とお答えしたのである。

● その後のKMCは大変な時期だったのだが、田崎さんの相談相手の高橋さんを私のほうに頂いたものだから、そんなこともあって、大庭本部長時代の3年間の単車再建期間、私はKMCのことについては特に田崎さんを援けて尽力した

●『Ninja 』のネーミングは実はアメリカ発で、明石の技術部サイドは反対だったのだが、大庭さんがKMCの出張時に『Ninjaは黒装束のイメージなどではありません。アメリカではゼロゼロセブンのイメージなのです』と口説き落として、当初のGPZ900は、アメリカ市場のみ『Ninja』のネーミングで上市されたのである。

 あの時、大庭さんを口説き落とさなかったら、カワサキに『Ninja』のネーミングは生まれていなかったのである。その時その場にいたのは大庭さんと田崎さんと私の3人だけだったのである。

 

      

 

●その当時のKMCは、累損もあり日本円で言うと300億円近い借入金もあって、当時の貸付金利が20%に近い高率だったので、その金利だけでも60億円近い金額となり、当時の田崎さんにKMCの経営再建はモノを売ることよりも営業外対策をするほうが速いと、彼に営業外やバランスシートの知恵を教えたのは私なのである。

技術屋さんでバランスシートなど解る人は少ないのだが、一端覚えて勉強しだすとどんどん知識を深めて、私などが追いつけないほどの資金関連の知識を田崎さんはお持ちなのである。

後、川崎重工の社長当時、無配の川重を引き受けたのだが、彼の社長担当時に川重のバランスシートの内容は非常に改善されてその後の川崎重工の経営安定に貢献しているのだが、それを言う人は少ないのである。

 ● 田崎さんがKMC社長時代、私と二人で掲げた目標は『KMCの38百万ドルの累損消去』であり、殆どの人がそんなことできるかと思ったのだろうが、田崎さんの後の百合草三佐雄社長時代に、見事消去されて、日本サイドで元大西副社長など関係者とお祝いのパーテーを一緒にして、田崎さんと私も出席した夜のことよく覚えている。

●川崎重工業社長時代に、彼でないとできなかったことがあるとすれば、それは神戸の『カワサキワールド』を創ったことだろう。その展示の内容は、二輪部門が中心にはなっているのだが、航空機も車両もホントに立派な川崎重工の展示場となり、神戸のメリケンパークの名物となっているのである。

 そのカワサキワールドも10年経って、今秋、特に二輪の展示部門の回収が行われるようである。こんな写真が、Facebook に載っていた。

 

●1986年がカワサキの二輪事業の再建最後の年で、大庭本部長は本社に戻られ7月からは高橋本部長となり、翌年4月に単車と発動機との統合があり、田崎さんも2月には戻ってくることになるのである。あれだけの大騒動であったカワサキの二輪事業の危機も、3年間で成功して大庭さんは翌年6月の川重社長が約束されて本社に凱旋されるのである。

 その1年前の1986年の事業部の動きである。

 

  

 

 

● 87年からは、そんな新しい体制になるのだが、大きな修羅場を経験した田崎さんなども、安定した事業部の企画副室長は勿体ないなと思っていたら、大庭さんが社長になると直ぐ、田崎さんはすぐ本社に引き抜かれて、そのあとすぐ川崎重工業のニューヨーク社長にまた出向することになるのである。

● 田崎さんはニューヨークから戻った後はCP事業本部の副本部長として、そして事業本部長を務められた。その後、川崎重工業の社長に抜擢されるのだが、これは大庭浩さんの最後の人事であったのだろう。

 

★田崎さんとのお付き合いはお互い現役時代も延々と続いたのだが、お互い引退後もずっと続いていて、そんな私との関わりを幾つか・・・・

 

● これは現役を引退して後のNPO The Good Times の平井稔男さんが主宰した『カワサキの想い出、そして未来』の時の幕開けの挨拶をしてくれた田崎雅元さんである。  2011年。

 

 

 

● こちらはひどく赤い顔をしているが、神戸の灘の酒心館の会合で昼から旨い酒を飲んだ時、NPO The Good Times の会員になってくれた時の写真である。

ちなみに、NPO The Good Times の会員NOは、高橋鐵郎さんが昔で言う監督NOのNo.0030 番、田崎さんがNo.0031番なのである。

 

 

 

●さらに、彼が孫文記念館の理事長を引き受けた際は『孫文を語る会』を創って協力もしたのである。ちょうどその頃の写真である。

  

 

● 引退後の田崎さんとの一番大きな協働作業と言えば、もう今はすっかり定着して、『カワサキワールドの定例行事』になっている、神戸メリケンパークでの『ミニ鉄道フェスタ』である。

 http://www.khi.co.jp/cgi-bin/kawasakiworld/topics/index.cgi?mode=detail&select=1458635683

 

       

 

これの起案者の福井昇くんに頼まれて、当時会長だった田崎さんに頼みに行ったのは私なのである。

彼が一緒に神戸市の副市長のところまで一緒に行ってくれてその開催が決まったのだが、第1回は副市長に頼まれて、神戸フルーツフラワーパークでの開催となり、NHKが報道したこともあり大盛況で、その実績から、メリケンパークでも開催することになったのである。

 

そんなことで、田崎さんとのお付き合いは、『源平芸能合戦』に始まり『ミニ鉄道フェスタ』まで、いろいろとあるのだが、二輪関連だけでなく、ジェットスキーのレース活動のJJSBAを立ち上げるにあたっては、当時KMCの社長をしていた田崎さんにアメリカのIJSBA に繋いでもらったりしたのである。   1961年。

 

 

日本でのジェットスキーのレース活動はそこからがスタートである。

ソウル五輪の開会式の当日 韓国のオリンピック委員会の依頼で、ハンガンでジェットスキーのデモンストレーションを世界のジェットスキーのトッププレイヤーを集めて実施した時も、いろいろ援けてくれたのである。 1988年。

 

 

 

 川崎重工業の社長を務めた田崎雅元さんなのだが、彼の中にある「遊び心」の原点は、こんなカワサキの創世期のレース仲間たちとのお付き合いから身に沁み込んでいるのだと思う。

二輪車も、ジェットスキーも『遊び』の道具なのである。

その事業展開に『遊び心』がなかったら、その経営は本物ではない。と私は思っている。

それは業界の大先輩、本田宗一郎さんのおやりになったことを見ながら、学んだ私の信念みたいなものである。

 

   

 

彼の社長時代には川崎重工業を、『川崎柔工業』に体質改善することを本当に目指したのである。川崎重工業と言う企業の中に、大庭浩さん以降『カワサキの二輪の体質』が幾らかでも沁み込んで行ったのは確かなのである。

 この写真、真ん中が兵庫メグロに西海社長、その両脇が川崎重工業の副社長をされた、山田さんと高橋さん、私の隣が田崎さんなのでである。

 

 

●カワサキの二輪事業と私―その1 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

●カワサキの二輪事業と私―その2http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

●カワサキの二輪事業と私-その3   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

●カワサキの二輪事業と私-その4 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7056cbe3357e995cff4b2a38fd7ab149

●カワサキの二輪事業と私-その5 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4f03e9a2766e5131ec9c8c0143dacf66

●カワサキの二輪事業と私ーその6  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/bec3beebe6dc31dee51d81777ffda5af             

●カワサキの二輪事業と私ーその7  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/c67c41b1762e6fc0d6d6d121d7153321  

●カワサキの二論事業と私―その8 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/397e5a954f37f1d9189f62e1e4751da4           

●カワサキの二輪事業と私ーその9   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/b9fbe1b5be12e51a7a9e33b1133f4826                                  

      

            

 

 

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体力年齢 雑感

2016-08-11 06:29:56 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★若い頃は運動をしていたので、体を動かすことは嫌いではない

現役時代と言うか50代、60代はゴルフなどはやってはいたが、今思うと体力的には一番衰えていたのではないかと思っている。

毎日が机にばかり座っていて歩くこともゴルフぐらいで、肩は凝るし膝や腰がしょっちゅう痛んで、マッサージ整形外科に通うことが多かったのである。

その頃は、年相応の『体力年齢』だったのだと思う。『体力年齢』という評価があるのが分かったのは6年程前だが、三木市の健康測定に行くとそんなのがあって器械が測定してくれる。

 

会社勤めがなくなった60代後半に、通っていた整形外科の先生に『通っていたら治りますか?』と聞いたら『電気治療などやってても基本的には治りませんね』『時間が出来たんだから、筋肉は何歳になってもつくし、ストレッチなどやるほうが効果があるでしょう』と言われて、私のストレッチは始まったのである

性格的に、『あまりムツカシクないことを続ける』ことには結構自信があって、毎朝40分以上やるストレッチがもう10数年以上続いている。

そんなに柔らかくはなかった身体だが、いまは相撲取りのように『また割』が出来るし、それは3年前の80歳のころよりは今のほうが柔らかくなってる のはその程度を見れば解るのである。

3年前に測定した体力年齢が『44.4歳』と出るのは、柔軟性が20歳と出るので平均値を引き下げてくれるのである。

いまは3年前よりは、もっと柔らかいから、44.4歳の体力年齢は保てていると思うし、最近は『筋力をつける』ように頑張っているので、『瞬発力』あたりが向上しているかも知れない。


最近は毎朝50メートルダッシュを公園でやっている。

先週末から鎌倉から孫が夏休みで遊びに来てるので、どれくらい走れているか、動画を撮って貰ったのがコレである。

 

   

 

 

 

  

 

    間違いなく『筋力』はついて、バタバタせずに走れるのである

 

 

 

  これは孫だが、やはり20代の走りは違うなと思った。

  私も今の体重80キロを75キロぐらいにまで落とせばもう少し、走れるかなと思っている。

 

 

★ 私の『生き方の基本』が『差別化』なので、 どうも一般の発想の『散歩』は、時間がかかる割に筋力はつかないように思うし、太っているので『体重を落とせ』と先生は仰るのだが、『体重を落とせばどんな効果』があるのかがもう一つよく理解できないのである。

体重の数値を見て、ただ『落とせ』と言われているようにしか思えないのである。

体重をもう少し落とせば、より走れますよ』とか 『瞬発力が付きますよ』などと言われるのなら、そんな気にもなるのだが、いま思っているのは『年を取って、痩せてるのは如何にも貧祖』に見えて『大福神』のほうが見た目もいいように思ってしまうのである。

 

  

 

 私のいまの目標は『綺麗に早く歩けること』 背筋をちゃんと伸ばし、大股で歩く。

 腹は出てても、腹筋がないと背筋は伸びないのである。

 『痩せて、前かがみで、トボトボと』だけは嫌だと思っている。

 

 

★ 別に長生きをしたいわけではなくて、生きてる間は元気に居たいだけである。

世の中の、少々衰えたと思われる方も、ストレッチはお勧めである。

朝起きて、布団の上で40分ほどおやりになればいい。別にジムなどに通わなくても、手軽に出来るほうがいい。

1日に1ミリ延ばせば、1年では30㎝以上になるのである。

 

そんなに、ムツカシイことではないので、60代の方には、是非お勧めである。

敢えて60代の方と言ってるのは、勤めのある方はなかなかやる時間がないと思うからである。

 

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栗林公園

2016-08-10 06:11:30 | 発想$感想

 ★昨日は、孫と家内と一緒に栗林公園までドライブした

淡路島経由で160キロ、殆どが高速道路だから、朝7時半に家を出て、淡路のパーキングで朝食をとって、鳴門大橋を初めて亘って徳島経由で10時半には栗林公園に着いた。

久しぶりの快適なドライブだった。

往復とも、淡路のパーキングに寄って朝は朝食を、帰りは久しぶりに氷を食った。

 

 

 

目的地の『栗林公園』は私と家内は二度目なのだが、前回はもう20年以上も前に来ているのだが、その時は『鯉がうじゃうじゃいたな』と言う印象が強すぎて、庭園の美しさはあまり覚えてはいなかったのである。

 

 

    

   

 これは前回行った時に買って来た、ちょっと変わった版画だが、若し売ってたら娘がこの絵を欲しがってたので、買って来ようと思っていたのだが、売っていなかった。

 

 

  

 

 今回は、家内は足を痛めてとても歩けないので、ガーデンカフェで待ってもらって、孫と二人2時間近く殆ど歩き回ってきた。 じっくり観ると素晴らしい庭園である。

木々の手入れが行き届いて素晴らしい。 30人の人たちで管理していてそのうち14人で剪定を受け持っているとか。

松は、ホントに素晴らしくて、大正天皇も、昭和天皇のお手植えの松が立派に育っていた。

 

    

         

  こんなパンフレットの風景と同じ場所から写真を撮ってきた。

 

     

 

   橋の向うに見える岩が有名で春のある1日の時間、金色に光るとか。

  その講釈も、この動画の中で、案内人の方が喋っている、

 

 

 

   この動画をご覧になれば、栗林公園の素晴らしさがお分かり頂けると思うが、

 時間のない方はこの写真でどうぞ。

 

   

 

   

 

   

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

  綺麗で豊かな水は、湧き水と山からの滝からもたらされているとか。

  栗林公園と言えば 鯉だと思っていたが、鯉の数はめっきり減った。

  小さな鯉は、離しても水鳥に食べられてしまうとか。

 

  

★ 私は、こんな静かな自然は好きで、明石公園などもあまり人がいないほうがいい。

孫も、同じようなことを言っていた。

東京の公園などは、人が多すぎてイヤだという。

 

栗林公園などはその点静かでいい。

その3割は 外国の人だという。

 

すごくいい一日が過ごせた。

孫が写真のシャッターを押してあげてるグループも台湾からの観光客だそうである。

 

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イチロー 3000本安打は3塁打

2016-08-09 06:05:06 | スポーツ

★イチローの記念すべき大リーグ3000本目は、あわやホームランかと思わせる3塁打だった。

 テレビだけど、その場を観ていた。

スゴイな』としか言いようのないイチローのプレイである。

 

   

イチローの凄さは『衰えを感じさせない』ところである。

あのスピードで、あの打率で、レギュラーが獲れないところにところに大リーグの凄さもあるのだろうが、その大リーグでの3000本安打である。

 

イチローに関するニュースいっぱいだが、

その中にあった、イチローの記録の数々、こういうのをまさに『前人未踏』と言うのだろう。

 

   

 

 

 でも、私が好きなのは、こんなイチローである。

 

 毎日試合前の1時間半をストレッチに充てる。

 いまは、出番のない日もある。 代打1打席の時もある。

 でも全盛期と同じように、準備だけは欠かさず毎日やる。

 これくらいなら、誰にでも出来るはずのことなのに、それが出来る人は、殆どいない。

 

 

   

 

 

こんな記事があった。

 

イチローのスピードは速くなった

 具体的なタイムの話になると、「ヤンキースにいた頃は4.1秒前後だった。今は3.8秒台であることが多い」と教えてくれた。ナ・リーグのスカウトも同意する。「2011~12年の頃は4秒を超えていた。デビューした頃は3.65~3.75秒だったので、その頃と比べれば0.3秒ぐらい落ちたわけだが、また4秒を切っている」

昨年度、球場内に設置された特殊なビデオカメラから選手の動きを数値化する「Statcast」のデータによれば、イチローの一塁平均到達時間は3.98秒でリーグ5位だった。ところが今年はさらに速くなって3.8秒台となっているのではないか――。ナ・リーグのスカウトは一方でこう指摘する。「体形も変わらないし、この年齢でスピードを上げられるとは驚きだ

スピードの変化はイチロー自身、実感しているところ。先日、セントルイスで3安打をマークした日の試合後にこう話した。去年より速いことは感触的にわかっている。去年というか、多分5年前と比べても速いと思いますね。少なくともヤンキースにいるころより絶対速いんでね。なんでかといわれてもよくわからないですがね

タイムはイチローの感触通りだが、その理由の一つが、昨年から履いている新しいスパイクである可能性はある。

 

 兎に角、スゴイと思う。

 『イチロー、メジャー3000安打の歩み 写真で振り返る』 と言う記事があった。

  http://www.nikkei.com/article/DGXZZO76384800Q4A830C1000004/

 

 

● こちらは朝日新聞の 『イチロー特集』

これも スゴイ!

  http://www.asahi.com/special/ichiro/3000/?iref=comtop_8_08

 

 

 

貴重な写真がいっぱいである。

 時間のある方は、是非、クリックしてみて下さい。

 

 

 

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フジヤマのトビウオ 古橋広之進さんと 橋爪四郎 さん

2016-08-08 06:43:43 | 発想$感想

★ リオ五輪が始まった。

競泳萩野が日本新で金、瀬戸は銅 リオ五輪

と言うニュースが流れたので、

旧い旧い話だが、フジヤマのトビウオ 古橋広之進さんと 橋爪四郎さんのことを思いだした。

1948年と言うから、昭和23年のことである。

私は、中学3年生だから、よく覚えているが、間違いなく圧倒的に世界の1番・2番だったのである。 泳ぐたびに世界新記録で、それも圧倒的に早くて、日本中が湧いたのを覚えている。

そんな記事を見つけたので、そのままご紹介してみたい。

 

 

 

   

 

 

 

 

伝説の「トビウオ」橋爪四郎氏が、日本競泳陣に64年ぶりのロンドン五輪への「リベンジ」を託した。故古橋広之進氏(享年80)との金、銀メダルが確実視された48年(昭和23年)ロンドン五輪は敗戦国を理由に出場がかなわず。五輪と同じ日程で行われた日本選手権1500メートル自由形で盟友とともに驚異的な世界記録を出した橋爪氏は、思いの詰まったロンドンで複数の日の丸が揚がることを願った。

 橋爪氏は64年前のことを鮮明に覚えている。日大の同期だった古橋氏とともに記録を伸ばし、ロンドン五輪でのワンツーフィニッシュにも自信があった。ところが、48年の4月に届いた英国の決定は「日本の参加は認めない」だった。

 橋爪 悔しかった。日本水連の幹部は、僕らにメダルを取らせるために頑張ってくれた。手を尽くしてくれたけど、敗戦国だからダメだと。「プリンス・オブ・ウェールズ(マレー沖海戦で日本軍に撃沈された英国戦艦)を忘れるな」なんて、冗談じゃないよね。

 目標を失った2人に、日本水連は仰天プランを用意した。日本選手権を五輪と同日、同時刻に開催。記録で世界と勝負しようというのだ。橋爪氏らは記録更新を目指し、さらに厳しい練習を続けて大会に臨んだ。

 橋爪 僕は4人兄弟の末っ子。戦争から帰った父と兄たちが元気なくて、見てられないわけですよ。だから、自分はスポーツで外国に勝とうと誓った。古橋をライバルだと思ったことはないですね。2人で外国の選手に勝ちたかった。

 48年8月6日、神宮プールは超満員だった。ふんどしが認められなかったために日本水連から支給された競泳パンツで、2人は五輪優勝記録をはるかに上回る世界新をマークした。

 橋爪 食べるものはサツマイモばかり。パンツは水を吸って重くなり、泳ぎにくかった。それでも、タイムは出た。古橋がインタビューで「オリンピックの優勝タイムは、ずいぶん遅いなあ」と言った。そのくらい、強かったんですよ。

 翌49年、全米選手権に招待され、ここでも古橋氏とともに世界新を連発。敗戦で落ち込む日本国民に勇気を与えた。「フジヤマのトビウオ」古橋氏は国民的なヒーローとなったが、52年ヘルシンキ五輪では体調を崩して8位。橋爪氏も金メダルを逃して銀だった。

 橋爪 本当に48年は出たかった。今でも思いますね。自分が出られなかったからこそ、今回に期待しています。金メダルのチャンスはある。できればワンツー。(男子平泳ぎの)北島と立石に取ってほしい。

 五輪で泳ぐことを拒絶された悔しさは64年間、忘れたことはない。橋爪氏は3年前に急逝した古橋氏の思いも胸に、ロンドンでの水泳ニッポンの活躍を待ち望んだ。【荻島弘一】

 

◆48年全日本水上選手権 東京の神宮プールで8月5日から4日間「ロンドン五輪に挑戦」と銘打って行われた。「選手、役員、観客が打倒五輪で1つになった」(橋爪氏)異様な雰囲気の中、2日目の男子1500メートル自由形決勝で古橋と橋爪が大激戦を展開。古橋が18分37秒0と世界記録(18分58秒8=天野富勝)を20秒以上更新して優勝し、橋爪も18分37秒8で世界記録を上回った。ロンドン五輪の優勝タイムは19分18秒5(マクレーン=米国)。古橋は最終日の400メートルでも世界新。連日の快記録に日本は沸き返った。

 [2012年5月31日1時13分 紙面から]

 

 戦後、まだ食糧難の時代、よく頑張ったなと思う。

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ノートパソコンに挑戦

2016-08-07 18:11:44 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★今年の春にノートパソコンを買った。

特に通常は使わないのだが、アメリカにでも行ったときに、向こうで使おうと思っているのである。

同じパソコンだが、新しいものを使うのは、初めてなので苦労する。

毎日、パソコンの前には10時間近くもいるのだが、やっていることは同じことの繰り返しで、それ以外はほとんど何もしないので、今やってることさえできればそれでいいのである。

● まず、ブログを書く

● ツイッターをやる

● Facebook を見る

● 写真や動画を写して取り込む

● パンダ碁を打つ

● ツイッターのフォロワーの削除をする

ぐらいのことなのだが、それをこのノートパソコンに取り込むことができないのである

 

★実は昨日から、ネットに関してはムチャクチャ詳しい娘のほうの孫の長男が遊びに来ていて、お盆まで滞在するというので、一念発起その期間は、ノートパソコンで対応しようとしているのである。

昨日はその取り込み作業をやって貰って、その練習にこのブログをアップしている。

文章は何とか大丈夫のようなので、写真を使おうとすると写真を縮小しないと取り込めない。その縮小アプリを張り付けてもらったり、それの使い方が大きなパソコンとはまた異なって分からない。そんなことをすべて手伝ってもらって、何とか写真も張り付けられそうである。

 

 

もう少し小さいサイズに縮小もできた。

 

  

 

Snipping Tool も使えなかったが、使えるようになった。

 

    

 

 

一番下の行に「アイコン」を入れてくれたからである

 

   

出来てしまえば簡単だが、こんなのはとても自分でやるのは無理である。

やり方さえ覚えてしまえば、あとはその繰り返しだから何とかなるのである。

 

 

今はいろいろやって貰って、こんな画面になっている。

一番上の写真の画面との違いがお分かり頂けるだろうか?

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

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リオ五輪 開会式

2016-08-07 06:12:18 | 発想$感想

 

2016年 リオ五輪の開会式 華やかだった。

南米ブラジルのリオで、初めて開催されるオリンピックである。

開会式の写真を集めてみた。

 

    

 

   

 

 

  

 

   オリンピック反対の デモなどもある中で、

   回を重ねるたびに豪華絢爛なオリンピックになる。

   幾らのお金が掛かっているのかなと、思ったりもする。

 

    

   真ん中の 樹は地球温暖化が進む中、「地球に緑を植えて再生しよう」という未来へのメッセージなのだろう。

  入場行進では選手団ごとに計207種類の樹木の種が用意され、選手・役員一人一人が競技場の中で小さな鉢に植えた。  この種は、競技会場の一つであるデオドロ地区で「選手の森」として育てられるという。

   

 

 

   世界から、人たちはブラジルにやってきた。

   船に乗って・・

 

 

 

    日本からも、多くの移民が、海を渡った。

 

 

 

 

 

  サンバのリズムに乗って

 

 

 

 

 

 

 

   選手入場

 

 

 

   日本選手団は、歩きスマホはなしに、  整然と。

 

 

 

 

 

 

 

 

聖火の最終ランナーは、悲運のヒーローとしてブラジルで人気を誇るアテネ五輪男子マラソン銅メダリストのデリマさん

デリマさんはアテネ五輪で先頭を疾走中にコースへ乱入した観客に妨害された。それでも力走して3位に入った。  

そんな悲運のヒーローが、南米初の五輪で、大役を務めて最高の幸福に包まれた。

 

 

     

 

 

 

いよいよ、オリンピック  が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

    

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カワサキの二輪事業と私  そのー9  大庭浩本部長

2016-08-06 06:53:36 | 自分史

★カワサキの二輪事業が 非常に厳しい状況に追い込まれた1980年の前半、二輪事業の特に海外販社の赤字が川崎重工業本体の経営をも揺るがしたとき、その事業再建に単車本部長として赴任されたのが大庭浩さんである。

大庭さんは、単車に来られる前から、いろんな事業部の再建に関わっておられて『再建屋』と言われていた方である。大庭さんが来られるらしいという噂は、春ごろからささやかれていて、大庭さんに関する情報も、いろいろ私のところに届いて、総じて むちゃくちゃ怖いとか、ムツカシイとか大変な噂ばかりで、後輩の田付さんなどは心配して『大庭対策メモ』など親切に送ってくれたりもしたのである。

その最たるものは、大橋忠晴さんから直接、連絡があって『大庭さんが単車に行かれるので是非お話をしておきたい』と仰って、二人きりでお会いしたのである。大橋さんとは大庭浩さんの次の川崎重工業の社長をされた大橋忠晴さんである。

その時のお話が大庭さん大橋さんは今までずっと大庭さんが異動される度に、事業部を一緒に渡り歩かれていて『二輌連結』と言われているというのである。今回、初めて大庭さんがお一人で単車に来られるので、大橋さんとしては心配されたのか『大庭さん』のことをいろいろ教えて頂いたのである。

大庭さんが来られる前の6月に大西副社長のところに高橋鐵郎さんと経営報告に行っているのだが、その時も大西さんから『大庭くんをよろしく』とわざわざそんなお言葉を頂いたのである。 

みなさん大庭さんを単車に送り出されたサイドの方は、相当に心配されたようなのである。当時の単車事業部は、ほかの事業部と違って『なかなか上のいうことも聞かない』というそんなイメージもあったのである。それは『いうことを聞かない』のではなくて、二輪事業の経験のない上の方のご意見が『おかしい』ことが多かったのである。

そんなこんなで、大庭さんが単車に来られる前から周囲がいろいろと気を遣って大変だったのである。

 

そんな大庭浩さんの『番頭役』を丸3年間務めさせて頂いたのだが、大庭さんは、結構ズケズケ本音でモノを言う単車の水が合われたようで、見事再建も成し遂げられて、単車に来られた時は常務だったのだが、社長含みの副社長で戻られたのである。

大庭さんも非常に単車を気に入って頂いたように思うし、その『番頭役』を務めた私にとっても、40年間のサラリーマン生活で、私の意見を一番聞いて頂いた上司大庭さんなのである。

 

 

 

 

 

★大庭さんはこの年の7月に単車に来られるのだが、その年の1年間の動きを書いた『私のメモ』である。

来られる前からいろいろあったのだが、7月に大庭さんは単身単車に乗りこんで来られたのである。

そして最初に出された指示が『単車の意思決定のプロセスを一覧化せよ』ということだったのである。これは『鋭いな』と正直そう思った。

文章で説明したりするのは意外に簡単なのだが、一覧表に纏めるにはちゃんと理解していないとそれは出来ないことなのである。この一覧表を創ってくれたのは、後ドイツの販社の社長などをした 佐藤強くんである。

 

  

 

 昭和58年7月6日とある。 この頃はまだみんな手書きの資料だった。私の手元にあるのでご披露しているのだが、この資料は大庭さんがご覧になっただけで、当時の事業部の誰も観たことのない本邦初公開の資料で、大庭さんが単車に来られての最初の指示に応えた資料なのである。

大庭さんがどんな反応をお見せになるか?  私はある意味『勝負だな』と思っていた。

二輪事業は世界展開で、開発から販売までの、今まで大庭さんが経験されていない分野なのである。大庭さんはじっと資料をご覧になっていたが、殆ど質問もなく満足されたご様子だったのである。

後々解ることなのだが大庭さんは博士号を持つ技術屋さんで、考えや説明が『理路整然』とした説得力のあるものでないと気に入らないのである。逆にちゃんとした理屈で明快な説明さえあれば、殆どすんなりと通るのである。ただ、気に入らない時の表情が無茶苦茶怖いのだが、それを物ともせず中央突破しないとだめで、多分殆どの方はその時点で止めてしまわれるのだと思う。

そういう意味では、佐藤強くんが創ってくれたこの資料は、開発段階から、川重本社経営会議での最終意思決定までのプロセスを非常に明快に説明出来ていて、大庭さんは直接感想は言われなかったが、『単車を見直す』きっかけになったことは間違いないのである。

これをご覧になると、二輪事業が商品開発に始まって、製造段階を経て、販売までの大きな仕組みの上に成り立っていることがお分かり頂けると思う。

 

★佐藤君が創ってくれたこの経営の意思決定のプロセスを表す一覧表は、あの時点での従来の企画部門の仕組みを現わしていて、かってこのような体制で運営されていたのだが、私が企画を担当してからは、この一覧表の中の『企画部門』を本部長のスタッフとして明確に位置づけ、本部長の『すぐヨコ』に付けて、新たに『関連事業部』と言う直販会社を管理統括する部門を設けて、会議形式ではなく日常の仕事の中で企画部門が検討決定して、本部長の決定によりスピ―ディーに即実行に移すような仕組みに変更して行ったのである。

考え方としては、ホンダ・スズキ・ヤマハには『本社部門』が存在するのだが、カワサキだけがその『本社機能』を持たずに動いていたことが問題だったと私は思ったので、そんな『本社機能』を企画部の中に創って、全軍に旗が振れる体制としたのである。若い時からずっと考えていた『中央コントロール機能』が初めてカワサキの二輪事業の中で実現した時代なのである。

本田宗一郎さんがそうであったように、二輪事業は『リーダーの意思』が即実行に移せる『中央コントロール機能』がMUSTだと私は今でもそう思っているのだが、問題は『リーダー』にご自身の想いが明確にあるかどうかの問題なのである。

大庭さんは、ご自身の意思として旗を振る姿勢は大好きで、企画部門の提言に対しても納得されると自分の意思として明確に指示されたのである。

 

 

★ 大庭浩本部長のスタートはこんなことから始まっているのだが、

 

    

 

 大庭浩さんのことを書くにあたって、ネットの中に『いい写真』がないか探しまわったのだが、こんな小さな写真しか現れないのである。

それと言うのも、大庭さんはご自身の写真の選択など、めちゃくちゃうるさいのである。この写真は小さいけど『大庭さんらしく』撮れていて、これなら使っても大丈夫だと思って私はいま使っている。

この写真を、じっと見ていると『モノを言いだすのではないか』と思うほど、大庭さんらしく撮れている

 

大体、会社の中で偉くなると、下からの評価はそんなに「よくなくなる」もので、大庭浩さんにしても、田崎雅元さんについても、『いろいろ仰る』人のほうが多いのだが、私はこのお二人と一緒に仕事をした仲間として、なかなかお二人ともオモシロいのである。

特に大庭さんが単車におられた3年間は、田崎さんはアメリカのKMCの社長をしていたし、大庭さんを副本部長として支えて頂いた高橋鐵郎副本部長などそれぞれの立場で、結構本音トークが出来て、ややこしかったカワサキの二輪事業は完全に立ち直ったのである。

単車に来られる前の大庭さんは、いろんな事業部の再建をおやりにはなったのだが、それは受注事業の事業部の経営再建であり、その対策の中心は技術部門や生産サイドのことが殆どで、管理損益である事業部の期間損益を黒字にさえすれば『経営再建』が成立する単純なことが多かったのだが、単車の場合は歴然とした販売会社の経営資金繰りを含む営業外対策などの比重が大きいのだが、そのあたりの経験はお持ちになっていないのである。

KMCの38百万ドルと言う日本円換算で100億円近い「累損消去」を目標などというと『俺はそんなことは聞いていない』などと仰るのである。『この事業部の再建は、世界各社の、特にその中心であるKMCの累損消去なくして再建などとは言えないのです』と言うと、それはそれですんなりと受け入れて頂ける、そんな大庭さんだったのである。

当時の事業本部には、小川優さんなど本社財務からその道の専門家も数多く派遣されていて、そのあたりのことは企画を中心のスタッフを信頼して任せて貰えたのである。

 

 

 ★あれだけややこしかった単車が、3年で完全に立ち直ったのは、本社部門の絶大な資金援助が大きかったし、大庭さんのリーダーシップもあったのだが、それを高橋鐵郎さんがずっと支えて頂いたからである。

海兵育ちの高橋鐵郎さんは、それまでの職歴では若い頃から、常にリーダーとして動かれていて、と言う『支える立場』の高橋さんを見るのは初めてだったのだが、誠心誠意大庭さんを支えて、3年間を過ごされたのである。

お二人の信頼感は相当なもので、大庭さんが川重の社長になられてからは、高橋さんを川重副社長に指名されたのである。

 

 

   

 

 大庭さんの写真を探していたら、こんな写真が見つかった。

カワサキの写真ではなくて、『二輪車新聞』が記事に使われた写真である。 

  https://www.nirin.co.jp/pickup/20160617/

 クリックするとその記事が現れるし隣にAJの吉田純一さんの写真が並んだりしている、2016年6月17日という今年のバックナンバーの記事なのである。これは大庭さん、高橋さんお二人にも関係の深かった二輪車新聞の衛藤誠さんの記事だと思う。

衛藤さんとは今でも親交があり、二輪車新聞も家まで送って頂いているのだが、この春高橋鐵郎さんがお亡くなりになったことをご存じなくて、6月になって遅ればせながらその追悼記事を書かれたのだが、その際私にもいろいろと電話取材があったのである。多分その時に二輪車新聞の手持ちの写真を使われたのだと思う。

使われた写真は1996年当時だから、既に大庭さんは川崎重工業の社長であり高橋さんも副社長になっておられたかも知れない。

 

カワサキの二輪事業の長い歴史』の中で一番貢献されたと言っていいお二人である。

そして、私の『この1年のメモ』には田崎雅元さんをはじめ、いろんな人たちの名前が挙がっている。そんな人たちの努力もあって、単車に来られて僅か3ヶ月の9月には『単車は思ったよりしっかりしている。将来川重の中で将来性のある事業である』と大庭さんは感想を述べておられるのである。

そのあたりが大庭さんの率直で正直なところで私は好きだった。

そして、この1年前山田専務に『海外の販社の経営』について私見を問われ『大丈夫すぐ黒字になります』とお答えして企画を担当することになるのだが、ちょうど1年経って『販売会社の黒字の目途たつ』と1年で期間損益の黒字化の目途は経っているのである。

 

大庭本部長は3年間単車を担当されて、そのあとを高橋鐵郎本部長に託されて本社に戻られるのだが、83年に企画を引き受ける際、山田専務に無理やりお願いして高橋鐵郎さんに明石に戻って頂いたのだが、その高橋さんも大庭さんを名実ともに引き継がれることになったのは、本当によかったと思っているのである。

この3年間、大庭さんはご自身でも世界展開の二輪事業を大いに楽しまれて、本当に『単車ファンに』になって本社に戻られるのである。そして従来は、単車から川重の社長など生まれなかったのだが、大庭さんの次は、『二輌連結』と言われた大橋忠晴さんに、そしてそのあとには単車から田崎雅元さんが、川崎重工業の社長に就任することになるのである。

重工業然としていた川崎重工業の経営にマーケッテング体質のブランデイングや『柔工業』などと言ったりして、ソフト分野のカワサキワールドなど、従来とは変わった面を取り入れたのは田崎さんだが、そのきっかけを創られたのは大庭さんだと思っている。

 

★私自身は、大庭さんのお蔭で、川崎重工業の最後は『技監』と言う技術屋さんの博士や、官公庁の天下りの方が来られて役員待遇で処遇される『技監』に川重始まって以来初めての『事務屋の技監』にして頂いたのである。

その時、大庭さんが言われたのは『お前はマーケッテング分野は専門家だから』と言って頂いたのは非常に嬉しかったし、お蔭様でオモシロくない取締役会などに出席する必要もなく、自由に最後の勤めが楽しめたのである。 大庭さん独特の何か『理屈』が通れば、少々おかしなことでも通される、独特の人事だったと思う。Zの開発責任者であった大槻幸雄さんなども技監だったのだが、ガスタービン事業も手掛けておられて、大庭さんが技監から常務に登用されたりもしたのである。

ちなみに私は『技術オンチ』なのだが、川重の役員の方たちの工場見学などでは、『ホントの技監』だと思われる方も多くて、技術的な質問されて答えられずに困ることも多かったのだが、『技監』の名刺は、中央官庁では大いに役に立った。 中央のお役人はご自分たちの先輩の方が『技監』になられることが多いので、そんな方と同じレベルでみて頂けるのである。 確かに『警視総監』の『』などと同じ字がいいのかも知れない。

 

 

●カワサキの二輪事業と私―その1 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

●カワサキの二輪事業と私―その2http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

●カワサキの二輪事業と私-その3   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

●カワサキの二輪事業と私-その4 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7056cbe3357e995cff4b2a38fd7ab149

●カワサキの二輪事業と私-その5 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4f03e9a2766e5131ec9c8c0143dacf66

●カワサキの二輪事業と私ーその6  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/bec3beebe6dc31dee51d81777ffda5af             

●カワサキの二輪事業と私ーその7  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/c67c41b1762e6fc0d6d6d121d7153321  

●カワサキの二論事業と私―その8 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/397e5a954f37f1d9189f62e1e4751da4  

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殿界寿子さんと藤本喜子さん

2016-08-05 06:34:26 |  燦々 Sun Sun

★ 昨日は尼崎から藤本喜子さんがやってきて、殿界寿子さんの事務所でいろいろ話をしていた。

 

 

 

これは帰り際に、藤本さんが三木の農協の直売所で買った野菜を冷蔵庫から取りだしてからの動画である。

この時は、まさに主婦に戻って、あれが安い、これが安いと専ら、こんな調子なのだが、それまでの何時間かは、結構まともな地域活性化などの話もしていたのである。

 

        https://www.youtube.com/watch?v=L9JdCPc-tik

 

 

 

お二人とも、ブログも、おやりである。

それも、なかなかの発信回数で、世の中のブログの水準は越えている。

もう1年以上も前に、私がお勧めして始められたブログなのである。

 

 こちらが殿界寿子さんの『とのさま日記なるもの』

   http://blog.goo.ne.jp/mikisanro-do0501

 

こちらは藤本喜子さんの『しもじも日記』 である。

 

    http://blog.goo.ne.jp/hayatakayuhi

 

 

 ツイッターもおやりである。

 こちらは殿界さん。

    https://twitter.com/KotoKing0205

 

 こちらは藤本さん。

    https://twitter.com/nasupink

 

 

『情報発信』や『ツイターのフォロワーの集め方』など共通に関心のある話題もあるし、『地域の活性化』については、みんなの目指す目標ではあるのだが、これはいろいろ問題もあって、なかなかムツカシイ面もある。

イベントなどは、結構簡単には出来るのだが、それが『まちの活性化』になっているかどうかは、また別問題なのである。

そんな状況なのだが、

今月の 神戸ベンチャー研究会では、『まちの活性化』について、パネルデイスカッションがあるし、9月初めには関西国際大学の学生さんの『三木市で地域活性化のサービスラーニング』を予定があって、いずれも松本茂樹先生から、私にも殿界さんにも依頼を頂いているので、それに対応したような雑談でもあったのである。

 

何事もそうだが『喋るだけ』ならいたって簡単なのだが、目指す目標の実現は、なかなか難しいのではある。

ただ、ある意味、今雑談が出来ること自体が、少なくとも3人の間の『活性化』にはなったのかな、などと思って戻ってきた。

三木の農協の野菜のファンが、尼崎から来てくれること自体が『いいのでは』と思ったりもするのである。

ムツカシイ話をしていても、突然『主婦』に戻るところがオモシロい。

 

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世耕 弘成さんに期待、丸川珠代さんに注目!

2016-08-04 06:25:00 | 発想$感想

★ 第3次安倍再改造内閣の閣僚の名簿が発表された。

今後の安倍政権はどのような形で進むのだろうか?

 

第3次安倍再改造内閣の閣僚名簿発表 五輪相に丸川珠代氏、防衛相に稲田朋美氏 初入閣は8人

と産経の見出しにあるように、丸川珠代、稲田朋美の女性閣僚が目玉のようである。

防衛大臣には小池百合子さんに次いで二人目の女性閣僚をあて『女性が輝く時代』の印象を明確に打ちだそうとしているのだろうか?

それはともかく、今回の閣僚人事で、私自身が興味・関心を持った閣僚は、丸川珠代さん世耕弘成さんお二人である。

 

 

★ 丸川珠代さんについては今まで全く知らなかったのだが、

『丸川氏起用は2020年東京五輪・パラリンピックの成功に向け、小池百合子東京都知事と連携を図り、女性の活躍を印象付ける狙い』 などと書かれているので、ちょっと調べてみた。

本当に、上手く連携が図れるのだろうか? と思ったからである。

 

    

 

東京都知事選では、増田寛也さんの応援に熱心だった丸川さんである。小池さんとは同じ兵庫県の出身だが、東京大学の出身で、朝日放送のアナウンサーだったとか。 

Wikipediaで調べてみたら、こんな記述があった。

  • 自身の政治家への道にに影響を与えた人物として安倍晋三テレビ朝日時代の上司。上司はテレ朝内では数少ない保主思考の持ち主であり、安倍が首相になることを熱望していた。安倍が丸川を選挙に誘った際、上司が背中を押してくれたと回顧している。
  • 退職願を提出したのは退社日の2日前だったという。このため、テレビ朝日社長の君和田正夫はその後の定例記者会見で「知らぬは我々ばかりだったのかな」「個人的感想はいっぱいある」「メディアと政治の距離をどう理解するのかを考えるんだ」などと、唐突に退職願を出した丸川の行動を批判を交えてコメントを寄せた。また、丸川が自民党から出馬したことは、テレ朝内部から驚きや困惑の声が上がっていた

 

こんなのを見ると安倍さんに近いしオモシロいのかなとも思うが、増田さんの応援演説を聞く限りでは、アナウンサーだったとは思えない絶叫型の話し方だと思ったのだが、国会では『丸川が発言する野次がたびたびメディアに取り上げられ、伊吹文明から苦言を呈されたことがある』などの記述もあるので、同じメデイァ出身でも、小池さんとはちょっと違うのかも知れない。

 

 

 いずれにしても、そんなにちゃんと解っているわけではないのだが、『五輪相』ということだから今後の小池百合子さんとの連携に注目したいと思っている。

 

 

 

世耕弘成さんは、私がもう10年もずっと注目していた政治家なのである。

 

 

    

 

 

世耕弘成さんを初めて意識したのは、こんなブログなのである。

  http://blog.goo.ne.jp/newseko

 

世耕日記

参議院議員 内閣官房副長官 世耕弘成(せこう ひろしげ)の活動を日記形式と雑感、主張を交えお伝えするブログです!

 

 

 

 

2005年4月と言えば、未だブログなど殆どの人がやっていなかった時代である。 世耕さんのことは2006年に樋渡啓祐さんがブログを始めるときに知ったのである。

世耕さんはアメリカの大学で専門的に情報や広報について学ばれた専門家で、2005年9月当時、自民党広報本部長代理及び自民党幹事長補佐として自民党のメディア戦略を担当して、ネットット選挙を具体的に推進したのも世耕さんなのである。

そんな広報の専門家の方が始めるブログだから自分も『ブログを始めてみよう』と2006年9月にこのブログはスタートしているのである。

 私のブログのタイトルが『雑感日記』となっているのも、世耕日記が『雑感や主張を交えて』と言われていることから名付けたものであり、gooを使ったのも世耕日記に使われたブログがgooだったからである。

 

そういう意味で、直接自分にずっと関心を持って『世耕弘成』さんを見てきたのである。

私の勝手な偏見かも知れぬが、

ホントの意味の『広報』が解っている人が、『社会的な地位』を得るとちゃんとした結果を出す と信じているからである。

樋渡啓祐』さんがそうだったし、『橋下徹』さんがそうだった。『小池百合子』さんも期待できるし、そして今回また『世耕弘成経済相』が実現したのである。

 

今回の安倍内閣でも、最優先課題が『経済対策』としているのだが、その経済相としての表舞台での世耕弘成さんの活躍大いに期待したいのである。是非、『広報が解っている人が社会的地位につけば、ちゃんとした結果を出す』と言う私の持論を証明して欲しいと思っているのである。

然し一般には、権力ばかりを振り回して何の成果も出せないリーダーホントの意味の広報が解っていない人、意外にこの手のリーダーが多いのが現実なのである。 何期やっても結果の出ない行政の長などいっぱいだが、三木の薮本吉秀市長などはその典型なのである。

 

 それはともかく、

世耕 弘成さんに期待、丸川珠代さんに注目! なのである。

 

 

 

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Instagram

2016-08-03 06:38:10 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★『Instagram』と言うのがある。

 何のことか、どんなサイトなのかもよく 解っていない。

 

 小池百合子さんの応援をしていたら、こんなサイトがあったので、そこで初めて出会ったのである。

 

 

 

        https://www.instagram.com/yuriko.koike/

 

   写真のアルバムのような感じだが、フォロワーが3800人もいる。このフォロワーは選挙期間中にどんどん増えたような気がする。逆にフォローしている人は一人もいないのは、選挙広報として使おうといているからだろうか?

 

 

 

訳の分からぬままに、Instagram と検索して、登録らしきことをしたら、

多分、登録だけは出来たのだと思う。

こんなサイトが現れて、写真がどんどん並ぶのである。

 

      https://www.instagram.com/

 

これは間違いなく、私がフォローした人の写真である。

いま、フォローしているのは、安倍晋三さん、小池ゆり子さんと

孫3人、  古谷仁、 門野真也、 門野哲也、 それに登山道夫さんである。

 そんなフォローしている人がアップしている写真が現れるのである。

 

 

これはいまドイツに遊びに行っている? 大学のゼミの調査かな。 古谷仁。

 

   

 

   これはカリフォルニアの UC Berkeley の多分サッカー部のチームメートと一緒の アメリカの孫の次男

   門野真也

 

     

 

 

    こちらは、アイルランドに、世界から集まる大会に遠征中の末弟

    門野哲也

 

    ちなみにこの大会には、日本からは市立舟橋高校がエントリーしていた。

 

     

 

   そして、これは登山道夫さんの写真である。

  

   

  

 

 

    

      

 

こんなサイトが現れるから、 間違いなく登録だけは出来ているのだが、それから先どうやればいいかが、さっぱり解らないのである。

このブログだけ、アップしておいて、いつもの通り 登山さんに聞いてみようと思う。

   https://www.instagram.com/rfuruya1/

 

 ツイッターの時も、Facebook の時も、そうだった。

 登録だけは出来るのだが、それ以降さっぱり解らずに、何ヶ月も放っておいたのである。

 お盆前には、ネットのプロみたいな、アメリカの孫の長男 門野力也が遊びに来るはずなので、その時には具体的にいろいろ教えて貰おうと思っている。

いま、動画など撮って編集したりしているが、これも 力也に教えて貰ったのである。

教えて貰って、それを『反復』するだけなら大丈夫できる、そんなネットのレベルなのである。

 

  

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