雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私の住んだ町いろいろ 朝鮮京城

2023-11-15 06:04:25 | 発想$感想

★私は兵庫県明石で生まれたが、直ぐ朝鮮に渡ったようで、
 人生で初めての記憶は朝鮮の太田市の川の中なのだが、
 そこではそんな川の中で魚をとってたという記憶しかない。
 小学校に入るちょっと前からは朝鮮京城、今のソウルに移った。
 まだ朝鮮が日本だった頃で、日本人もいっぱいいたし、
 小学校も中学校も日本人ばかりだったし、日本語ばかりだったから、
 朝鮮にいたが朝鮮語は全く解っていない。
 覚える必要が無くて、朝鮮の人たちも日本語を話していた。

中学1年生の夏・8月が終戦だから、京城のことはよく覚えている。
 その年の12月に日本に引き揚げてきたのだが、
 ソウルオリンピックの時に韓国に行く機会があって
 小学校やら元住んでいた家の写真など撮ってきた。

 これが通っていた桜が丘国民学校で、
 当時の内地の小学校は木造だったが、
 立派な鉄筋コンクリートで、暖房にはスチームが設置されていた。


 


 家は塀が変わっていたが、そのまま残っていたので懐かしく、
 門の前で写真を撮ってきた。

  


 城東区新堂町桜が丘という住所だった。




 なぜソウルに行ったのかというと
 ソウルオリンピックの時に開会式の当日漢江でジェットスキーのデモンストレーションをソウルオリンピック委員会から正式に依頼されて、
 その団長として行ったときにかっての住所まで行ってきたのである。

 


 

 戦前のソウルの町も結構ちゃんと覚えていて、
 タクシーで行ったのだが、道も間違えることなくちゃんと行けたのである。


★いまのソウルは戦前の2倍以上に大きくなっている。
 かっての京城時代は大体赤い線の中ぐらいが街だったと思う。
 いまは漢江の南側も大都会になっているのだが、
 戦前は漢江の南は野原だったし北側も山が多くて家などは建っていなかったが、
 そこがみんな住宅街になっていてびっくりした。





 かって住んでいたところと小学校である。
 奨忠壇公園の池に冬はスケートに行ってたので、
 そこから辿ったら直ぐ家は解ったのである。




 かっての朝鮮総督府


 


  京城駅

  



 南大門
  

  
  そのまま残っていた。
  戦前の市電は当時の神戸の市電より綺麗だったし、
  三越デパートもあって結構な大都会だった。
  戦争がひどくなる前の小学生の4年生ごろまでは
  夏冬の休みには明石に帰省していたので、当時の日本も神戸の町なども知っているのだが、
  内地の家はなぜこんなに小さいのかと思ったのを覚えている。
  当時の京城は日本人が開拓して日本人街を造ったのだと思うが、
  住んでいた桜が丘の家の一帯は東洋拓殖の社宅もあったが、
  社宅と言っても300坪ぐらいはあったし、
  周りの家もみんな300~500坪の土地の上に建っていた。
  高級住宅地ではなく、中級住宅地だったと思うが、高級住宅地はもっと立派な家も建っていたように思う。

  戦時中も空襲もなかったし、食糧事情もよくて、その点は内地と違って、平時と全く変わらない生活を送ってきたので、
  戦争中の苦労などは全くなくて、小学生の5年生の頃から、
  兵隊さんによる軍事訓練を受けたりしていた。
  中学校の夏休み中の宿題が『軍人勅諭の暗唱』で、
 
「我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屢なりき・・」
 
 これはまだ出だしの部分で延々と続くのだが、
 ぼちぼち覚えねばと思っていたところに終戦だったので、
 全く覚えていないのである。


★そんなこともあったが、終戦でそんな家もすべてそのままに日本に引き揚げてきたのだが、
  そんな家や土地をどのようにして分配したのかな?
  と今でも思うのである。
  引き上げ時は、一人1000円の現金持てる荷物だけだったから、
  みんなそのまま現地に置いてきたのである。
  私は中学生だったので大した苦労もなかったのだが、
  両親は生活が様変わりでほんとに大変だったと思う。
  
  そんなことなので、韓国は故郷のようなところがあって、
  韓国がほかの国とが試合などすると、韓国を応援するようになっている。
  いまは日韓関係がいいようなのでほっとしているのである。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫県の熊情報

2023-11-14 06:30:39 | 発想$感想

★全国各地で熊の出没情報がいろいろ言われている。
 それは東北や北海道の話だと思っていたが、
 調べてみたら、兵庫県もいろいろ熊情報はあるので驚いた。

  
    



今年4件の目撃情報があるようだ。
こんなに詳細に出ているので間違いないのだろう。
日付順に並べると7月に1件、9月に2件、10月に1件の4件なのである。


●日時:令和5年7月11日 20時30分ごろ 
住所:兵庫県姫路市夢前町山之内甲88-1(付近) 
状況:ツキノワグマ1頭の目撃情報 
※周辺に夢前川、山之内南口バス停、山之内簡易郵便局、立船野公民館、雪彦荘、バディーズランチなどがある  .


●日時:令和5年9月14日 
住所:兵庫県丹波市市島町戸坂 状況:クマの出没痕跡情報 
地内に兵庫県道283号絹山市島線、与戸坂折公民館、風森一ノ宮神社などがある 

●日時:令和5年9月20日  
住所:兵庫県丹波市青垣町遠阪 状況:クマの出没痕跡情報 
地内に遠阪川、北近畿豊岡自動車道遠阪ランプ、国道427号、遠阪峠、二度びっくり峠...

●日時:令和5年10月3日 01時35分ごろ
住所:兵庫県高砂市北浜町473-1
状況:ツキノワグマ2頭の目撃情報 現場:市道 
※セブンイレブン高砂北浜町店沿い(東側)周辺に兵庫県道399号大塩別所線、北脇北バス停、藤乃井公園、高砂警察署北浜交番、北浜小学校、北脇自治会館、ひょうたん池コウノトリ夢公園などがある ...


★地図に入れてみるとこんなところなのだが、
 3件は山の中だが、10月の高砂市は海岸に近い街の中である。





 情報をそのまま地図で探すとこんな場所なので、
 まさに町の中に出現したことになる。





 本当に出たのだろうか?
 と思ったりするがこんなニュースも出ている。
 


★三木市は関係ないなどと思っていたが、
 高砂市のこんなところに出るのなら、三木市に出ても不思議ではないような気もする。

私が知らなかっただけで、さらに調べてみると昨年は三木市でも熊の目撃情報があったようで、こんな記事も出ていたから、熊は増えすぎているのだろう。
「全国でクマによる人への被害が相次ぐ中、兵庫県は隣接する府や県を含む地域でクマの個体数が基準を超えているとして、11月15日からツキノワグマの狩猟を解禁するとともに、注意を呼びかけています。
兵庫県内でもクマの目撃や足跡などを見たという情報は8月末までで247件にのぼっています。県はツキノワグマの生息数が基準となる800頭を超えたことからクマの狩猟を解禁することになりました。
解禁されるのは、豊岡市などを流れる円山川より西側の地域で、11月15日から12月14日までです。
このため、ハイキングなどの際はラジオなど音の鳴るものを携帯するほか、人里でも生ゴミを外に置かないなどの対策を呼びかけています。」

 兵庫県でも800頭もいるとは、ちょっとびっくりである。

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の日記から  昭和37年(1962)

2023-11-13 05:48:07 | 自分史

★ 前の年の12月に肺結核の治療の入院から退院して、新しくスタートした単車営業課に復職したのだが、
 この昭和37年(1962)が実質カワサキの単車事業のスタートした年だと言っていい。
 ただ、当時は発動機営業部の時代で殆どは小型発動機のエンジンで、
 単車はカワサキとしては初めての完成品商品で、その担当部門も初めて出来たのである。
 明石工場で生産していたバイクは125B750ccモペットM5、それに井関のモペットも生産していた。

  
 

 営業に異動して上司に最初に言われたのは、
 『物品税を研究してくれ』だったのである。
 当時は世の中の贅沢品と思われるものには物品税が掛けられていて
 単車の場合は125cc以上には物品税が掛けられていたのである。
 基本的には工場出荷の時に掛けられるので、出荷台数分を申告し支払えばいいので、そんなにムツカシクはないのだが、
 車が返品されると支払った物品税を申請すれば戻してくれるのである。
 ただその『戻入手続き』はなかなかムツカシクて、戻してもらうためには工場出荷時と同じ状態でなければだめで、
仮にメーターが回っていればダメなのである。

ただ、カワサキが最初に造った125B7は大変な車で、
エンジンは兎も角、フレームに欠陥があってどんどん返却されるのである。
この年の1月の生産台数はマイナス17台になったのだが、
それは生産出荷した台数より返却台数のほうが多かったということなのである。
そんなことで業務の大半が物品税対策だった。

当時の川崎航空機の明石工場はもともと航空機のエンジン工場だったので、
エンジンの専門家はいるのだが、単車などの経験は全くなくて、多分設計にも車体の解る人などいなかったのだと思うのである。
私も勿論、単車に乘ったこともない人ばかりで、全くの素人集団だったのである。
そんなことで営業とは単車を出荷・販売するところかと思ったら
返却された単車の物品税納入業務が主だという大変な時代だったのである。

★単車営業課というのも出来たばかりで、係長はいたのだがその下は私であと5人ほどはいたのだが、所謂事務屋はそれだけで、今でいうと企画販売広告宣伝サービスも、すべてその5人でやっていたので大変だったのである。
 当時はまだカワサキ自動車販売というメイハツ工業からスタートした販売会社が神田にあって、
 地方の代理店への販売はこの『カワ自』が担当していたので何とかなったのだが、
 それでも私を含め素人集団だからホントに大変な時代だったのである。

★川崎航空機の中には、経験者も皆無だし仕事のことを聞く人もいなかったのだが、
 当時カワサキ自販には総務広告宣伝を担当されていた小野田滋郎さんがおられて、
 殆どの仕事のすべてをこの小野田滋郎さんに教わったと言っていい。
 小野田さんは陸軍士官学校卒の元軍人で、
 あのフィリッピンから戻られた小野田寛郎さんの弟サンなのである。

 私の現役時代、この人には敵わないと思ったただ一人の先輩だと言っていい。
当時の写真はないのだが、こんなご兄弟の写真はある。
この左側の方で、陸士出だから位はお兄さんより上だった。


 

 
 戦略・戦術・戦闘など陸士仕込みの知識の運用展開の実際を教えて頂いて、
 私の生涯で本当に小野田滋郎さんにお会いできたのはよかったと思っている。
 当時のカワサキ自販の本社を独りで切りまわしていたと言っていい。
 兎に角、素晴らしい方だった。

★この年は発動機の営業部の中の単車ではあったのだが、
 発動機営業全体の纏めや会議事務局なども担当していて、
 めちゃくちゃ忙しかったのである。
 家内との付き合いも続いていたしこの年の年末12月21日に結婚式を挙げたのだが、
 なぜ年末のこんな押し詰まった日になったのかというと、
 忙し過ぎて新婚旅行など行ってたのでは会社が回らないので、
 12月も殆ど終わりのこの時期になってしまったのである。
 お陰さまで正月休みまで続いた長い結婚休暇ではあったのである。
 昭和37年は生涯で一番大変だった1年だったと言えるのだが、
 最後が結婚式と新婚旅行で印象に残っている1年でもあった。

  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第7回蕪会に出席してきた

2023-11-12 05:34:11 | カワサキワールド

★ 昨日は西明石のホテキャッスルプラザでの蕪会があって出席してきた。


 

 
蕪会」とは川重の明石工場に勤めていた単車と発動機のメンバーのうち
 課長と部長の集まりで『かぶら会』と名付けられた会である。



  
 

 
 蕪会が出来たのはそんなに旧くはなくて、今回の会合が第7回なのである。
 現在の蕪会会長は3代目で三原修二さんなのだが、
 三原さんとは現役時代いろんな関係で私と繋がっていたのである。
 今日の会長挨拶の中でもちょっと触れられたが、
 カワサキモータースという現在の名前が産まれたの1993年のことで
 その名付け親は私で、それを承認してくれたのは当時事業部の企画課長だった三原修二さんなのである。

1993年当時は私は国内のカワサキオートバイ販売の専務だった。
国内で7万台も売れていた最盛期だったのだが、
その内訳は二輪が6万台ジェットスキーが1万台にもなったので、
カワサキオートバイ販売という名前は変えねばならないということになったのである。
幾つかの案の中から『カワサキ・モータース・ジャパン』に決定し、
 1993年からKMJはスタートしたのである。

 そんな「カワサキ・モータース」という名前が今回の事業本部の新会社の名前となって、
 いま世界のカワサキの販は「カワサキ・モータース」の傘下に入っているのである。

★そんな懐かしい昔話を楽しく語り合いながらのいい会合だった。
 50名ほどのメンバーが集まったのだが、
 集まったメンバーには90歳以上の方が4名おられたのだが、
 私は4番目で、最高齢は94歳だと言われていた。
 そんな高齢でもこのような会に出席される方はみんなお元気で、
 旧い昔の想い出を懐かしんだいい時間が過ごせたのである。


★今年はカワサキの単車事業スタートから70周年なのだが、
 12月にはKX50周年の記念祭もあるし、Z1会の忘年会もある。

 そんな会合に出席できるということは、元気で生きているということで、
 本当に嬉しいことなのである。
 そんな会に出てこられる方はみんな本当にお元気で素晴らしいことだと思っている。
 
 今月中旬には大学の野球部のOB会もある。
 この会合にも出席するし、できれば昼のソフトボール試合にも出場したいなと思っている。
 兎に角、健康で元気だということはこの歳になると一番の宝物である。
 これから1ヶ月半、大いに楽しんで生きたいと思っている。
 そんな幕開けの蕪会だった。

 
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

差別化された人生   (私の生き方、考え方)

2023-11-11 05:31:05 | 私の生き方、考え方&意見
★ 昨日のブログの最後のほうにこんなことを書いている。
「私の生き方のベースは『差別化』でちょっと変わった生き方なのである。 」
 私がこんな『差別化』という言葉に出会ったのは、
 ずっと旧い昔のことで昭和の年次で言うと、昭和40年頃(1965)のことなので、
 よく言われるマイケル・ポーターの差別化論がまだ出ていない頃だったような気がする。

 ちょうどその頃、広告宣伝を担当するようになって、
 電通・博報堂・大広などの広告宣伝会社の本社スタッフと付き合うようになった頃に、この『差別化』という言葉に出会ったのである。
 広告宣伝戦略は他社との『差別化』がなどとよく言われて、
 『区別ではダメ』ちょっとだけでも他社より優位性が無くてはと言われていたのである。

 図示するとこんなことになるのだろうが、

  

  
 この『差別化』という言葉を気に入ってよく使っていたのだが、
 当時は同和問題で『差別』が言われていた時代でもあったので、
 事業本部長から『区別ではダメなのか?』という指摘も頂いたりしたのだが、区別ではダメなのである。


★ あなたのキャリアを「他者と差別化」する人生戦略という
 こんな論文も出ていて、読んでみると



 


 他者との差別化を図る際に強く意識しなければならぬのは、
 営業、マーケティング、経理などすでに存在する単発のキャリアで一番を目指さないことで、
 「キャリアを組み合わせること」だとある。

 確かにその通りで、私自身は一つ一つはそんなに上手くは出来ていないのだが、
 その組み合わせは結構上手く出来たと思っている。
 現役時代の会社の仕事でも、
 退職後のネットの使い方でも、
 その組み合わせは私なりにユニークでまさに『差別化』されているのである。


★ Google で『古谷錬太郎』と検索すると、
 別に有名人でもないのにこんなページがいっぱい現れるし、

  
 
 これはツイッターだと思うが、私のフォロワーの全国各県分布図などが現れたりする。
 そして一番フォロワーが多いのは京都府で2番目が山梨県だというのである。

 


  これは私のブログやFacebook ,ツイッターなどの使い方が独特で、
  その組み合わせが『差別化』されているからだと思う。

  そうい意味では、ネットの世界は非常に公平に出来ていて、
  私のことをこのように取り扱ってくれるのは
  その発信量が多いから、単純にそれを評価して頂いているのだと思う。

★ そんなこんなで私の人生は、ちょっと差別化された、
  ちょっとだけ一般の方よりは多彩な人生だったかなと思っている。
  そして、それに大い満足しているのである。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキ単車の昔話   27   7万台への挑戦 3

2023-11-10 06:00:25 | カワサキ単車の昔話

1990年代の初頭のことなのだが、
 7万台販売というとてつもない目標に挑戦した時期がある。

 出来ると思っていた訳ではないのだが、何とか目標達成が見えてきたので、
 当時の二輪事業本部の部課長を集めての講演会が行われて、
 2時間以上に亘って話しているのだが、その集約をご紹介している。
 今回で3回目だがこれで締めくくりたいと思っている。
 カワサキにとっては国内7万台は夢のような目標だったが、
 何とか達成することが出来たのである。

 7万台というのは、
 二輪車は4万台を6万台
 ジェットスキーは3000台を1万台
 という少々粗っぽい目標なのだが、何とか達成できたのである。
 

 



 こんなべらぼーな目標は、普通の販売促進策では実現できないと思ったので、
 『カワサキの新しいイメージ創造』という大きなテーマに取り組んだのである。 

 簡単にそう言ってはいるが、『イメージ創造』とは一般社会というか
 他人がカワサキに抱く発想なので、なかなか口で言うほど簡単ではないのである。
 最初に取り組んだのは、その時点でのカワサキのイメージ調査報堂に頼んで行ったのがこれである。

 これが当時の二輪4社のイメージなのだが、
 カワサキのイメージというと個性的なデザイン玄人受けはするけれども、
 レースに弱く、宣伝のセンスがなく、常にチャレンジしないし、
 そのイメージ総量が小さくて、極端に言うと一般には知られていない。
 このイメージを変えない限り、7万台などは夢のまた夢だと思って
 7万台というよりも『新しいカワサキのイメージ創造』という目標に取り組んだのである。
 

 


  兎に角、1年間
  ● ケイ・スポーツ・システムというソフト会社を創って
  ● ユーザー組織KAZEに本格的に取り組み
  ● レースにも本格的に取り組んだら
 1年後にはカワサキのイメージはこれくらいには膨らんだのである。
 こんな変化にが自信になって、
 
   
 

  それ以降にさらに積極的に頑張ったのは
  ● 遊び会社ケイ・スポーツ・システム
  ● 具体的にはユーザークラブKAZEの本格化
  ● 一般ユーザーが走れる日本で初めてのサーキットSPA直入
  ● レース運営の積極化
  など販売対策などではなくて、

  総合営業活動として
  兎に角、新しいカワサキのイメージ創造に取り組んだのである。 
  
  
 
 
  
 この期間には、不思議なほど具体的な販売対策や販売促進策は行っていない。
 一番台数増に貢献したのはカワサキらしいバイクではなくて
 何の変哲もないZEPHREだったのである。

  
  


 この車が開発当時からこんなに売れるとは誰も思っていなくて、
 生産台数は極小だったからバックオーダーが出たのだが、
 生産台数を増やさずにそのままにしていたら、3年間バックオーダーが続いたのである。
 これは『私がそうした』のだが、
 過去に400FX3か月以上のバックオーダーになったので、生産を増やしたら、たちどころに消えてしまったのである。
 車が足りなくなると、ユーザーはあちこちの販売店に行くので、バックオーダーというのは過大な台数になるのである。
 そんな400FXの経験から、何もせずに放置したのだが、それがよかったのである。
 何の変哲もないZEPHREは、空前のヒット商品となり『7万台達成』に大いに貢献したのである。


★講演の最後に語ったのは私独特の経営のバランスシートである。
 線から上が一般のバランスシートだが、その経営にあたる人材は多様なソフトが蓄積されるほど高質人材が育つのだと思っている。
 そういう意味で特に販売会社の経営は多様なソフトの充実こそが、貸借対照表の内容の充実に繋がるのだと思っている。
 当時のカワ販グループは売上高400億円だが総資産は100億円、実に回転無借金経営自己資本比率35%というちょっと日本ではないような内容だったのである。
 それが出来たのはソフトであり、従業員の高質化だったと思っている。






★この時期ホントに力を入れたのは、
 カワサキの新しいイメージ創造だったから
 この講演会の講師もこんなメンバーだったし、
 話した内容も以下のようなものだったのである。

 

  


  そんな『ソフト対策』が7万台を実現したと言っていい。
  私の現役時代の総仕上げみたいなものだったが、
  私の生き方のベースは『差別化』でちょっと変わった生き方なのである。
  これは90歳になった今もちょっと変わっていて
  世の中には珍しい『90歳の生き方』になっていると思うのである。

 思わぬ大成功に繋がった『カワサキ単車の昔話』である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あおせん情報局

2023-11-09 05:35:16 | 発想$感想



★先月の16日にFMみっきいの『粟生線情報局』の番組に出演したのだが、
 その放送が11月3日にあって、
 初めてラジオ番組で自分の声を聴いたのである。

 


 その番組の案内役『ジーン景虎』さんが
 その放送番組を送って下さった。

 30分の番組だが、クリックすると聞くことが出来ます。




 若し、ご興味がおありなら聞いてみて下さい。

 こんな放送局で、
 


  こんな感じの録音でした。
  



『粟生線の未来を考える市民の会』の発足に色濃く関わったものですから、その当時のお話をしてきました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北見紀生くんも逝ってしまった

2023-11-08 05:34:10 | カワサキワールド

★こればかりは仕方がないのだが、人間歳をとるといつかは亡くなってしまう。
 何となくいろんな繋がりがあった北見紀生くんも逝ってしまわれた。

 
  
 
 メグロからカワサキにやって来て、
 ちょうど私が東京営業所長を兼務した時、当時東京営業所のサービス長をしていた『北見紀生』くんと出会ったのである。
 彼は当時から抜群の技量は持っていたが、ちょっと変わっていて、
 所謂会社側からの評価はそんなに高くはなかったのかも知れない。
 
 私はどうもそのような『規格通りの会社側の評価』はもう一つ納得できなくて『私独自の評価』をするものだから、
 上の方から注意を受けることが度々だった。
 この直営部長時代にも、会社の評価が悪かった人を私なりに見直した人が何人もいるのだが、北見君もその一人かも知れない。

 まあ、人間『会社の評価』などよりは『世の中の評価』のほうが数段大事で、
  彼はカワサキにいた頃よりは、カワサキを去ってからのほうが、
 その実力を認められて有名になり、多くのカワサキファンが彼のところに集まったりしたのである。
 そんな中の一人、Kumiki Shimizuさんから北見さんの訃報の連絡を頂いたのである。
 Shimizuさん曰く、
『生前はメグロからカワサキの話になると、古谷さんには世話になった!と良く言っていました。
 満面の笑みを浮かべて話す北見さんでした。もうお会い出来ないのは残念です。』と連絡を頂いたのである。

ほんとに多くのカワサキファンが彼の元に集まっていたのである。
そう言う意味では、『カワサキのブランドイメージ』を陰ながら高めてくれた、お一人だったし、そんな北見さんにそのように言って頂けるのは嬉しいことである。

★彼が会社を去ってからは、お会いしたのはこの時の1回だけかも知れない。
 平井稔男さんと東京に行ったとき、
 時間があったので午前中に北見さんを訪ねたのだが、


  
 
 
  北見さんの所なら、私もという方が多くて
  こんなに沢山のメンバーで北見さんを訪ねたのである。

        これは私がシャッターを切ったので入っていないが、

  

  
 
 この時が最後になってしまった。






  北見さん、安らかにお眠りください。
  Kumiki Shimizuさん、ご連絡有難うございました。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキ単車の昔話   26   7万台への挑戦 2

2023-11-07 05:35:17 | カワサキ単車の昔話

1988年10月、3度目の国内担当となった。
目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。
私なりのユニークな対策の効果もあって、このムツカシイ目標の達成が見えてきたた91年3月に、
7万台への挑戦』についての話をするように当時の事業本部長高橋鐵郎さんからの指示だった。
そしてその講演を冊子にまとめてくれたのは当時の営業部の販売促進部長の岩崎茂樹くんである。

この冊子の冒頭のご案内で岩崎茂樹は大要このように述べている。
・・・皆様にお汲み取り頂きたいのは、そのユニークな手法ではなく、何故そうしたのか?何を狙っているのか?と言った
 一貫して中を貫いている"哲学”=基本的な考え方であります。
 ハードウエアだけでは最早競争相手との差別化が困難となったこの時代に、
 このソフトウエアを構築の柱としたダイナミックなマーケッテング活動をユーザーの意識の変化に即応して展開していく姿勢をも学んで頂きたいと思います。


  
  

 彼は若い時、私のレース活動を引き継いでくれたレースマネージャーで、2代目の広告宣伝課長なのである。
 そんなことで私自身をよく理解してくれているから言える言葉だと思う。
 

★ 私はこのような講演会でも大綱は纏めるが、原稿などは作ったりはしないのである。
 話は喋り手と聴き手で成り立っている。
 常に聴衆の反応を見ながら話さないと、一方的な講話になってしまうのである。
 そんなことで、高橋鐵郎さんが何を思ってこの講演会を考えられたのか?
 先ず、冒頭に高橋さんの考え方を私から聞いてみたのである。
 即席ではあったが、高橋さんはこのように語られている。


 


本来ですと、直ぐカワ販の講師に喋って貰ったらいいのですが、
ここに並んでいる講師の連中は見かけによらず心臓が弱そうで、
私にキックオフをしてもらわんと、
喋る訳にもいかぬという要請が只今ありましたので、
今日の会合の趣旨について若干私からお話したいと思います。
 いまよい製品を適正な価格で売るということは、必要ではあるけれども、十分条件ではない。
今後の販売は周辺のソフトを固めてグローバルに総合的にモノを顧客に提供していく時代が来た。
我々事業本部の方も今後の販売は総合的な力で最終的な結果が得られるということをよく認識して、
前線で戦っている販売面をよくバックアップしていかなければいけないと思い、
CP事業本部の幹部の方々に集まって頂いた訳です。どうか皆さんご清聴下さい。
 というご挨拶で、この講演会が始まったのである。
  
 
★高橋さんから『7万台への挑戦』の話をするようにと言われて、
 さて、どのように話すべきかと思ったのだが、
 これは私が指揮をとってはいるが、私が一人でやっている訳ではないので、
 部下というか「仲間と一緒に話すべき」だと思って
 喋り手はこんなメンバーにして、こんな構成にしたのである。

 その講師に選んだのは販売促進部などではなくて、
 ●ケイ・スポーツ・システムというソフト会社南常務
 ●レース担当重本部長
 ●広告宣伝小林課長とし、
 打ち合わせなどなしにスタートしたのである。

 打ち合わせなどしなくても、日ごろの業務の中で意思疎通はよくできているから、
 自由に喋らしてもおかしなことにはならないと思ったのと、
 若し、何かあればその場で私が修正すればいいと思ったので、
 先ず私が喋り、そのあと3人が話して
 最後に私が纏めるという方向としたのである。

 目次は綺麗に纏められているが最初にあったのではなく、
 話した内容をあとで岩崎茂樹が纏めてくれたのである。

 


★この講演会のテーマは『7万台への挑戦』なのだが、
 その副題にあるように『新しいカワサキのイメージ戦略』なのである。

 目標が5万台ならともかく『7万台』という途方もない台数は、
 「カワサキの新しいイメージ創造」がキーで、
 それなくして、単なる販売促進策では不可能だと思ったからである。

 1988年10月に国内販売を担当して、
 最初にやったのは『ケイ・スポーツ・システムというソフト会社』を創ることから始めたのである。 
 川崎重工業の中ではじめてのソフト会社は、翌年3月に設立され、
 私が社長を兼務して『7万台への挑戦』の中枢に据えたのである。

 端的に言えば『遊びの会社』なのである。
 二輪車は交通手段でもあるが、カワサキが主とするスポーツ車は
 『遊び道具』なのである。
 販売店などにはできない「本格的な遊び」を末端のユーザーとともに創って、
 『新しいカワサキイメージの創造』が出来ない限り、
7万台の販売達成はない」と思ったのである。

 その新会社の設立に利用したのが、
 当時日本で初めての一般ユーザーが走れるサーキット『SPA直入の管理』という名目で、
 新ソフト会社・ケイ・スポーツ・システムの創立の理由にしたのである。


 

 この時期は丁度SPA直入が建設中だったので、
 
 そんなことにでもしなければ、川崎重工業の役員さん方に『二輪の遊び会』などと言ったら、新会社の設立などは申請が通らないのである。
 この時の川重社長の大庭浩さん単車本部長時代に私が番頭役を務めてたので、
古谷が言うのなら』とあまり中身は解らずに通して頂いたのだと思っている。

 そんなことで出来た『ケイ・スポーツ・システム』だが、
 この会社での最初の仕事は、ユーザークラブKAZEの本格的な導入
だった。


 
 

 当時はホンダはHART ,ヤマハはYESS,スズキはじゃじゃ馬と4社ともあったユーザークラブだが、
 4社の中でKAZEだけが今も存在し、今年35周年を迎えるのである
 その理由は、他社は担当者ぐらいはいたのだろうが
 カワサキは、これを企画管理するソフト会社を創って本格的に対応したからだと思う。
 KAZEとは少々当てつけだが
 Kawasaki Amusing Zone for Everybody の頭文字をとったもので、
 風を切って走る二輪の楽しさを何となく連想させるものになっている。

 これらの話は、今となっては『カワサキ単車の昔話』ではあるのだが、
 この『新しいカワサキのイメージ創造』は私にとっては
 二輪のマーケット分野を担当した集大成 だと言っていい。

 いま思うと、岩崎茂樹がよくこんな冊子にまとめてくれたなと感謝・感謝なのである。
 因みに『SPA直入』は私と岩崎茂樹とで創ったサーキットで
 その『SPA直入』の名付け親は岩崎茂樹なのである。
 その名の由来は、直入町の温泉もあるのだが。
 世界的に有名なベルギーの『スパ・フランコルシャン』から来ているのである。

★こんなコンセプトでの講演会だったのだが、
 当時のCP事業本部の約200名の部課長を前に
 2時間以上に亘って話したのだが、非常に好評だったのである。

 どんな話の内容であったのかは、サワリの部分を次回にご紹介することにする。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 旧い旧い昔の話を想いだした

2023-11-06 05:01:37 | 発想$感想
★今年阪神タイガースが優勝したら『38年ぶりの日本一』と言われてた。
 そんな38年ぶりの夢が実現した。

 ところで、38年前はどんなチームだったのか?

38年前の日本一のチーム』は吉田義男監督時代の阪神タイガースで、
 こんな懐かしいオーダーだったのである。
 
 この38年前のチームはまさに素晴らしいメンバーで、
 間違いなく日本一に値する
 素晴しい実力もさることながら、こんなメンバーが揃った
 そんないい運も吉田義男さんはお持ちだと思っている。


 

 

★ 『吉田義男』さんの名前が出てきたので、
 もっともっと旧い時代のお話をご紹介してみよう。
 吉田義男さんは高校は京都の山城高校だったが、
 昭和25年(1950)の夏の甲子園に出場していて、
 当時2年生だったから、私と同年配なのである。
 その年は明石高校も甲子園に出場していて直接対決したわけではないのだが、
 
この年に出来た『新豊岡市誕生』を記念した野球大会が豊岡市で開催されて、
 その夏、甲子園に出場した兵庫・京都・鳥取の3県明石高・山城高・米子東高の3校を招待されての野球大会が開催されたのである。

試合そのものは3者1勝1敗に収まったのだが、
その中で私の印象に残っている選手が『吉田義男』さんだった。
小さい体でショートを守り、守備もよかったが、
大物ぞろいの山城で3番を打ち、3安打を打った打撃の方が印象的だった。

その夜は城崎温泉の最高老舗旅館・西村屋本館に泊めて頂いて、
3校揃っての最高のおもてなしを頂いたのである。
まだ戦後の貧しい時代からの復興途上の時期だったから、
食い盛りの高校球児にとっては、
城崎温泉の最高旅館でのおもてなしは想い出に残る最高の出来』だったのである。
38年どころか73年も前の話である。
  

  



 私の高校時代の一番いい想い出だったと言ってもいい。
 多分吉田義男さんも、間違いなく
 この城崎温泉の西村屋本館も、この野球大会のことも覚えておられると思う。
 別に面識がある訳でもないのだが、そんな『想い出を共有する仲間として、私はいつも吉田義男さんを何となく親しく捉えているのである。
 

★私と同い年のはずだから、もう90になられたと思う。
 どうしておられるのか?
吉田義男さんの近況』と検索してみたら
 こんな写真が現れた。




 
  ごくごく最近の写真だが、お元気そうで何よりである。
  これは間違いなく『100歳が大丈』だと思う。
  私も、吉田さんにあやかって、頑張って生きたいと思っている。
  そう言えば、岡田監督もいい運をお持ちである。
  38年前のメンバーでもあるし、
  「阪神タイガースの2回の日本一』に関係されている唯一のメンバーなのである。

  改めて『阪神タイガース38年ぶり優勝』おめでとう。


  

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の日記から  昭和36年(1961)

2023-11-05 04:21:22 | 自分史

★ 昭和36年(1961)のほぼ1年間は、
 学生時代から罹っていた肺結核の治療
 三田市の当時の川崎重工系の結核療養所であった大原療養所入院していた期間なのである。

 肺浸潤だと言われたのは大学2年の秋だったのだが、
 別に痛くもない病気だし、自覚症状もないので、
 大人しくしていたのは半年ぐらいで、それ以降は寝ることもなく、
 野球も続けていたし、そのまま川崎航空機に入社していたのである。
 入社してからは診療所の先生からは「野球はダメ」と言われていたが、
 ユニフォーム姿を見つかって、「菌が出てる」から会社には置いておけないと入院させられてしまったのである。

 もともと菌などは出ていなくて、診療所の先生の入院させる口実だったのだが、
 結果的には非常によくて、空洞も消えてしまったし、
 全快して、12月には新しくスタートしたカワサキの単車営業課に異動することになった年である。

★ 当時は肺結核は多くて川重関係3社の人達のために三田市大原療養所があったのだが、
  いまの地図には載っていないようである。

  間違いなくこの立地で、ゴルフ場から左に折れて入った場所だった。
  1年間の療養期間は、昼寝の時間はあるのだが、
  自由時間もいっぱいあって、散歩勿論、近くの池では鯉や鮒が釣れたし、


 

 
  秋にはこの辺り『まつたけ山』でマツタケは幾らでも採れたのでる。
  昔の話で、今のような厳しい時代ではなかったから、
  寮にはいつもマツタケがバケツ一杯ほどあって
  見舞いに来た人に逆に差し上げたりしていたのである。


  

  
  マツタケだけではなくて、確か今では違法の『カスミ網』でヒヨドリ』を採る人もいて、
  私はもっぱら野池での釣り組だったのだが、
  お陰様で一般の方が一生食う以上のマツタケも食ったし、
  ヒヨドリのご馳走にも預かったのである。


★ 年齢は29歳の時だったのだが、
  家内と恋愛中で、見舞いにも来てくれたし、
  手紙もいっぱい貰ったのだが、こんなことがなければ手紙など貰う機会はなかったと思っている。
  この年の12月10日に退院して、
  約1年後、翌年の12月に結婚したのだが、
  正直、あまり長くは生きられないなと思って、20歳の時に書き始めた日記だが、
  90歳の今日まで無事生きられたのは、この1年で肺結核が全快したからだとも言えるだろう。
  そう言う意味では、貴重な1年だったのである。


★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

  
  

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の流行語大賞

2023-11-04 05:54:57 | 発想$感想

★ 今年も早いものでもう新語・流行語大賞の時期になって、
  その流行語大賞の候補がノミネートされて発表された。
  流行語なのだから、みんなが話したり使っている言葉なのに、
  その殆どが、どんな意味なのかもよく解らない。


  


  30もあるのだが、『アレ(A,R,E)』と『藤井八冠」以外は
  何のことなのかさっぱり分からないのである。
  流行語大賞の候補語だから、結構話題になったはずなのだが、
  それだけ世事に疎くなってしまっているということか。

  ほんとに皆さんは、殆どの言葉が解っているのだろうか?

  
 
  



  何となく、想像で解るのは『性被害』と『地球沸騰化』ぐらいだが、そんな言葉を使ったことは一度もない。

★そういう意味では『アレ』になって欲しい。

 若し阪神が38年ぶりに日本一になったりしたら、
 『アレ』に決まる可能性も高くなるだろう。

 



  あと1勝で阪神の優勝が決まるのだが、
  そう言う意味でも、阪神タイガースを応援することにする。
  今夜、決まればいいのだが、
  果たして、結果はどうなるだろう?


★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カワサキ単車の昔話   26   7万台への挑戦 1

2023-11-03 05:51:15 | カワサキ単車の昔話

1988年10月、3度目の国内担当となった。
目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。

 この7万台の販売目標は1983年当時大庭浩本部長が国内のカワサキオートバイ販売社長を兼務されていた時に建てられた目標なのだが、
 あまりにも大きな台数目標であったために、
 当時のカワ販では目標ではあったが、本気でそれに向かおうとはしてなかったぐらい高い目標だったのである。

★今年はカワサキモータースジャパンの創立70周年である。
 これは昭和28年(1953)明発工業が創立されてからの年数で、
 同じ年に戦後中断されていた川崎航空機工業が再スタートし、
 その明石工場は戦前から飛行機のエンジン工場であったことから、
 バイクのエンジンを開発生産し、明発工業に供給していたのである。
 私は昭和32年(1957)の入社だから私が入社する4年前の話なのである。

 ただカワサキが単車工場を造って単車の一貫生産をスタートさせたのは、昭和35年(1960)のことだから、
 スタートとされる昭和28年からは7年もあとの話で、
 カワサキの単車事業の歴史としては、
 この年から数える方が妥当かも知れない。

  
 
 
 私はこの1960年のカワサキの単車事業一貫生産の時期から
 単車営業課に異動したので、カワサキの単車事業スタートの時期からずっと一貫して単車事業とともに歩き、
 国内担当とメーカーの主として企画部門を交互に担当し、
 1988年から1999年までは最後の国内市場担当だったのである。


★この1988年からの国内担当は『7万台の販売目標』を達成すべくいろいろ頑張った私のマーケッテンぐ分野の集大成の時期なのだが、
 このムツカシイ7万台の販売目標は1991年6月1日に年間移動値で達成するのだが、
 その達成直前の3月に当時の二輪事業本部の課長以上を集めて
 『7万台への挑戦』と題して、当時の部下たちとともに行った講演があったのだが、
 それを当時のCP事業本部の営業部販売促進課が1冊の本に纏めてくれたのが、これである。

 この冊子は単に二輪事業本部の中だけに配られたものではなくて、
 当時の大庭浩社長以下役員全員にも広く配布されたものなのである。

 

  
 

 
  当時のCP事業本部は高橋鐵郎本部長時代で、
  高橋さんはカワサキオートバイ販売の社長を兼務されていて
  私が専務として実務を担当していた時代なのである。

    CPとはConsumer Prodct の略で、
  川重の他製品と異なり、末端ユーザーに直接届ける商品の二輪ジェットスキーを扱う事業本部ということで、
  高橋鐵郎本部長の命名だった。

 



 高橋鐵郎さんとは旧く、カワサキが単車事業をスタートした頃は
 製造部におられて私はレースを担当していたのだが、
 そのレース職場は当時は製造部所属で、
 私はライダー契約など担当していたので、そんな旧い時代から
 いろいろと一緒に仕事をしたのだが、
 1951年のカワサキのCKDの市場開発プロジェクト室以降は、
 ずっとコンビのような形で仕事を進めたし、
 1982年の二輪事業の危機的な状況の時には、
 私は企画部を担当するのだが、その時は川重TOPにお願いして
 高橋鐵郎さんをアメリカから戻って頂いたりしたのである。


★ 私のこの最後の国内担当の10年間は、
  私のマーケット分野の集大成のような期間で
  この講演会にはその具体的な内容を語っているので、
  『カワサキ単車の昔話』としてその内容がどんなことであったのか、
  ここで語られた内容を少し詳しくお伝えしてみたい。
  大げさに言えば、それはカワサキの二輪事業のコンセプトと言えなくもないと思っている。
 約2時間、本のページにして60ページと長いのだが、
 どんなことになるのか、『カワサキ単車の昔話』として
 連続してご紹介してみたいと思っている。

   ある意味、私の人生の生き方そのものだと言えなくもない。


★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

  

 
  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パソコンに写真が取り入れられなくなった

2023-11-02 06:53:46 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★今年で2回目だが、スマホで写した写真パソコンに取りいれられなくなった。
 なぜそうなったのかも、どうしたら治るのかも解らない。
 4月の時アメリカの孫に連絡したら、何をどうしたのかは忘れてしまったが、
 兎に角治ったのである。

 今回も一応はアメリカの孫にFacebook のメッセージは送ったが、
 いまのところ返事は来ていない。

 写真がパソコンに採り入れなくなると、
 『何が困るのか』というと
 このブログにスマホで写した写真が『使えない』ということなのである。


 すでにパソコンの中にある写真は、このように出てくるのだが、

  
   

 10月26日以降にスマホで撮った写真が出てこないので、
 このブログに使えないということなのである。

 別に『メチャ大変な』ことでもないのだが、
 使えないというのは、気分的にオモシロくないのである。

 今後、どうなるかよく解らぬが、
 アメリカの孫はこの年末には遊びに日本にやってくるので、
 2か月、我慢すればいいことなのだが、
 果たしてどうなるだろう?

 ひょっとしたら今日連絡があって治るかも知れない。
 と書いてたが、


★ 夜遅くになって『また電話します』とFacebook で返事があったから、今日は電話が掛かって来るだろう。
 そんなことで、朝の散歩にも行かずに家で待機することにする。

 便利な世の中になったものである。

★50万人フォロワーのいるツイッターです。

 雑感日記のEnglish Version です。

★NPO  The Good Times のホ―ムページです。

  
  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詐欺に掛るところだった

2023-11-01 05:27:56 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★昨日のことなのだが、パソコンにおかしな表示が出て動かなくなってしまった。
 私は器械などには詳しくないので、こんなことになるとお手上げなのである。

 あとでネット検索するとこんな表示が現れたが、
 その時点では、こんなことは解らないので、
 相手の言うままになってしまうのである。

  



  
 出ている表示を辿っていくと、
 修正するにはここに電話をするようにという表示が出て、
 電話をするといろんな事を指示してその通りにしていくと、
 何となく『治る』ような心境になったところで、
 これはハッカーが入ってしまったので、
 治すのには3万円かかって、それで3年間は大丈夫だというのである。

   
  
   

 その3万円は『コンビニに行ってアップルのギフトカード3万円を買ってくるように』ということで、
 電話は繋いだままで、コンビニに行ったのである。

 アップルのギフトカードは確かにコンビニに売っているのだが、
 店の人に経緯を話すと、
 A4ほどの説明カードがあって、
詐欺が流行っているので警察に連絡してください』と書いてあるので、店の人に警察に連絡してもらったのである。

 すぐに警察の方が来られて一緒に家に戻り、
 電話は繋がっていたので、その旨を話し、
 ギフトカードはそんなことで買ってこなかったが・・・
 警察の方に代わりましょうか? と言ったら電話は切れてしまって、
 おかしな画面も消えてしまった。
 

  そんなことでパソコンの画面も元に戻っているのだが、
  アップルの3万円のギフトカードを若し買ってきていたら、
  それからどうしようということだったのだろう?


  アップルのギフトカードと検索すると
  いろいろ出てくるのだが、
  これは私には『手に負えない』レベルである。




   多分、こんなコードを読み取って
   3万円が先方に渡ってしまうのだろうと思う。

   世の中、いろいろあるものだ。
   警察官の方は『この頃よくあるので、注意が必要』と言われてた。

   コンビニに若し、 A4ほどの説明カーがなかったら、
   多分3万円のギフトカードを買っただろうと思う。
   危ないところだった

   

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする