雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

年賀状  雑感

2023-12-17 06:59:18 | 発想$感想

★今年も12月も半ばを過ぎた。
 年賀状を出してたころはこの時期にはもう出していたと思う。


   


 年賀状を出さなくなって、もう10年を過ぎたような気がする。
 母が亡くなる前までは年賀状は100枚以上、それも筆で自筆で書いて出していたから、
 年賀状は年末の大仕事の一つだったのである。
 なぜ出さなくなったのかと言うと、
 母が亡くなった翌年は喪中で印刷したもので「喪中はがき」を出したのだが、
 この年、自筆の年賀状を休んでしまって、気が抜けたというか、
 翌年から出さなくなってしまったのである。

★気になって、ちょっと調べてみたら、
 年賀状を出す人とださない人は、半々だと言っていい。
 出す人も40枚以下の枚数なのである。

  


 年賀状は、どうやら戦後に始まって、
 2003年あたりをピークに減少を続けている。


  



 日本のいい仕来りと言ってもいいのだが、
 昨今のようなネットの時代になってみると、
 減少していくのも解る気がする。
 多分、この傾向は今後さらに急激に落ちるような気がするので、
 「年賀状時代もあと10年かな」と思ったりする。


★ 若し、そのまま続けていたとしても、 
  出していたあて先は上司の方や仲間内が多かったから、
  だんだん出す相手先が減ってしまっていただろうと思う。
  そう言う意味では、10年ほど前に止めてしまったのは、
  そんな時期だったのかも知れない。

  極端に言えば、昭和時代の人の産物なのかも知れない。
  そう言う意味では、ホントに昭和も遠くなりつつあるなと思ったりする。


  
 
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私の日記から 昭和45年(1970)~昭和47(1972)

2023-12-16 06:17:03 | 発想$感想

★この3年間は、30代最後の3年間である。
 私にとっても、会社としても激動の3年間だったと言っていい。
 前年の4月に川崎重工業・川崎車両・川崎航空機3社合併があって川崎重工となるのだが、
 この合併で異質で且つ重荷であったのが実は二輪事業なのである。
 当時は船・車両・航空機に代表される大型受注産業が主力で、
 開発・生産・販売を自らの手で行う民需・大量商品などグループにとって異質の存在だったし、
 その業績が赤字と言うこともあって、『50㏄の中止』などが合併の条件になったし、
 シェア競争などは会社の方針としては全く異質で、
 二輪事業部の経営は台数などよりは黒字経営が最優先課題となったのである。

★そんなこともあって、当時のカワサキで台数ではTOP市場であった東北から、
当時最悪の市場と言われた大阪を中心とする近畿地区の担当に異動することになるのである。
 二輪市場もようやくスポーツ車が出始めた時代で、
 メグロとの合併もあって中大型車種のメーカーとしてスタートした年だと言ってもいい。

 当時の二輪販売は50㏄モペット全盛期で、その販売方式は自転車屋への託販売が主流で、
 大阪地区だけでも部品取引を含めて500店以上の自転車屋と取引があったのである。
 中大型車の販売には、このような販売網は全く機能しないので、
 そのスタートは大阪地区の25店の中大型を主力に売る店に絞って、
 500店の自転車屋との取引を中止するという粗っぽいことからスタートしているのである。


 このような動きは当時の二輪車業界では初めてとも言えることで、
 業界の注目を集めて、
 大阪母店長着任4か月目の昭和46年(1971)2月の二輪車新でもTOP記事で大々的に報道され、
 カワサキのこのような新しい動きは全国の注目を浴びることになるのである。






 その翌年の昭和47年(1972)1月には、東京地区を主力とする二輪専門店の約100店が当時のアメリカの二輪市場視察団として渡米しているのだが、
 この時期にアメリカなどに行った人は本当少ない時代で、
 二輪業界としても初めての海外渡航だったと言っていい。
 先進的なアメリカの二輪販売店を実際に見ての『意識改革』が行われたのである。
 私もこの調査団の副団長としてアメリカの二輪専門店を見て、びっくりしたのを覚えている。

★そんなことから、新しいカワサキの販売店政策は進行するのだが、
 その中心になってくれたのが、大阪の船場モータースの岡田博さんなのだが、
 初めて岡田さんに会ったときには、
 東北ではカワサキもよかったらしいが、
 大阪での評価は『ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカサキ』だよと言われたのが耳に残っている。
 そんな状態だったので、大阪での翌年の販売目標は台数ではなく、
 担当した大阪母店で、総売上高420百万・総利益60百万円という金額的な目標を掲げて、
 取引を始めた販売店にも年間1000万円の取引目標だったのである。
 この金額は当時の業界では全く異質で、こんな金額を売っている店は、
 ホンダさんでも少なかった時代なのである。

 然し、大阪で25店の店に絞り、京都に至っては10店しか取引契約を結ばなかったので、
 カワサキの契約店は殆どの店が目標を達成し、いずれも相当の利益を上げたのである。
 車ではW1Sが好調で当時の主力車種だったと言っていい。


  


★数少ない販売店と共に栄える『大阪共栄会』なるものを立ち上げて、
 先ずは参加す販売店の『利益優先』を目標にスタートしたのだが、
 各地区とも好調に推移したこともあって、
 私の担当地区は昭和47年(1967)1月には兵庫県が傘下となり、
 4月には中日本営業部長として名古屋・北陸・三重がテリトリーとなり、
 さらに10月には東京地区を含めて、
 東京から兵庫までをテリトリーとする直営部長と目まぐるしく担当地域が増えたのである。


★ カワサキの二輪事業はこんな時期だったのだが、
  当時の世の中は土地を買って家を建てるというのがブームの時代で、
  当時はまだ仙台にいたのだがたまたま明石に出張したら、
  面識のあった大和ハウスの人がいて
  『廣野の奥にいい土地を造成中』だからと連れていかれて、
  即座に土地の購入の予約書にサインしたのである。

  いまは立派な住宅地になっているが、
  当時はこの一帯すべて山だったのである。
  土地を購入したのは昭和45年(1970)のことなのだが、
  前述したように会社の異動があって
  昭和47年(1972)には明石勤務となったので、
  家を建てることにしてこの年の9月に着工し翌年3月に三木の住人となったのである。

  

  
 1973年のことだから、ちょうど50年間三木に住んだということで、
 人生で一番長住んだ町となっているのである。

 この時期は仙台から高槻、そして三木と目まぐるしく移転しているのだが、
 人生でこんなに異動があったのはこの時期だけかも知れない。
 子供たちも仙台・高槻・三木と小学校や幼稚園を変わったのだが、
 特に問題もなく新しくできた三木の小学校に落ち着いたのである。
 
 
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政治と金  雑感

2023-12-15 07:47:52 | 発想$感想

★昨今の政治のヒドサは目に余るものがある。
 政治家とは?
 ひょっとしたら政治家ほどわかりにくい職業はこの世にないかもしれない。
 治家とは本来どうあるべきなのだろう?
 政治と金の問題が言われているが、これは自民党だけの問題なのだろうか?

 兎に角、よく解らぬ世界である。
 なぜ、そんなに政治に金が要るのだろうか?
 国民のどれくらいの人がそのことを解っているのだろうか?
 少なくとも、私はよく解らない。


 これが『清和会
 所謂安部派の会合だが、
 異常という以外にない。

 どんな人たちが集まっているのだろうか?

 



 そんな安部派の4人が辞任し、
 さらに5人衆と言われた世耕さんも辞任した。





 ただ、辞任はしても議員を辞めるわけではない。

 
★ 安部派以外の自民党は金問題に大丈夫なのだろうか?

  野党も大丈夫なのか?
  問題があるのは自民党の安部派だけなのか?

  その辺がよく解らない。
  自民党の政治だけが膨大な金が要って
  ほかの派閥や野党は金が若し要らないとしたら、
  それはなぜなのだろう?

  兎に角、政治の世界はよく解らない。
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Z1会の忘年会だった

2023-12-14 07:03:24 | カワサキワールド

★昨日はZ1会の忘年会だった。
 Z1会とはゴルフコンペの名前なのだが、
 その名のとおり当初は川崎重工の技術部のメンバーを中心にスタートしたのだが、
 初代会長の大槻幸雄さんんが技術部や川重のメンバーだけでなく、
 『Z1をはじめバイクを愛する人』なら『どなたでもOK』と言うことにされたことから、
 今では川重のOBだけでなくライダーたち一般のバイクを愛するユーザーたち、さらには女性たちも加わった多彩なメンバーになっていて、
 総勢60名を超えるメンバーになっている。

 毎年4回のコンペが開催されているのだが、既に86回を数えているので、
 20年以上にもなるのである。
 初代会長の大槻幸雄さんは御年94歳にもおなりなので、
 いまは引退されて、名誉会長になられている。

 大槻幸雄さん、あの名車Z1の開発総責任者でもあり、
 カワサキのファクトリーチームの初代レース監督でもあり、
 私はそれ以来のお付き合いなのである。


 
 

 

★昨日の忘年会は明石で開催されたのだが、
 丹波会長以下有志が参加して、楽しく愉快な時間が過ごせたのである。

 スナップだが写真を撮て来たのでご紹介する。
 
 今年度のMVPには、最後のコンペの優勝者・多田喜代一さんに贈られて、
 丹波会長から記念の盾が送られた。

 


  写真がちょっとピンボケだが満面の笑顔である。

  実は、今年まで永年事務局長を務められた仲さんや事務局のメンバーが
  来年から新しくなるとの発表もあって
  新事務局長には塚本昭一さん、事務局に多田喜代一という有名ライダーコンビと、 
  それを支えるメンバーに女性の松田真弥の3人になるとか。
  これはまたまた来年からのZ1会が楽しみで、
  新しいメンバーも増えるかも知れない。
 
 
 

  2024年度のコンペもすでに決まっていて
  4月3日、6月5日、9月4日、11月6日の4回で、
  11月4日は記念すべき第90回コンペとなるようである。


  このZ1会のいいところの一つに、
  コンペの時もそうだが、出席者全員が何か喋ることで、
  昨日も全員が一言ずつ喋ったのだが、

  会員の一人、メーちゃんこと、山本信行さんはいつものことだが、
  「ひとこと」では終わらないのだが、
  そのトークはめちゃオモシロくて会の雰囲気を盛り上げるのである。


  


  

  メーちゃんはあの清原明彦さんの1年後輩で
  ゴルフも上手いがバイクに乗せても、相当なもので、
  現役当時はアメリカをテストで走り回ったようである。

 
  



  これは青木隆さん、豊岡からバイクでの参加である。
  マスクの御仁が今までの世話役・事務局長仲和俊さんである。

 




  青木さんから早速、何枚かの写真を送って下さった。
  キヨさんとの2ショット。





 塚本昭一さんとも




 幕開けの丹波会長のご挨拶






 ご自身の写真も上手く撮れれてる。






 
 丹波会長と多田喜代一さん、MVP授賞





  無事日暮れまでに、豊岡に帰られたようである。

 




 最後になったが、
 遠藤治一さん、元伊藤忠商事だが、現役時代はカワサキフランス社長だったし、
 あの世界を席巻した耐久レースチーム「カワサキフランス」オーナーなのである。
 




★ こんな楽しい会だった。
 私も最後の閉会の辞三本締めの音頭を取らせて頂いた。

 来年は私も91歳になるのだが、
 来年は頑張って、4回とも参加できたらいいなと思ている。
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家の前の道路工事

2023-12-13 06:38:02 | 発想$感想

★家の前の道路の舗装工事が行われることになっていた。
 こんな感じで、確かに水道管の工事をした後が目立ってはいたのだが、


 
 

 反対側もこの程度で、舗装をやり替えるほどでもないとは思ったのだが、
 この街の周辺の道路はみんな舗装をやり替えて、
 この道が最後と言う状態になっていた。





 工事車両が入って来て、




 舗装をめくることから始まった。
 器械でやるから至極簡単である。
 昨日、公園から戻ってきたら、ちょうど工事が始まっていた。




 こんな風にアスファルトをめくっていく。




 半日でこんなになった。





★ そして今朝から舗装工事が始まった。


 



 トラックで運んできたアスファルトの原料を器械で道に下ろしてゆく。





 こんな感じだが下ろしたら、すぐ表面は綺麗になり、





 器械だけではなくて、
 人が上手にさばいてゆく。




 めちゃくちゃ手際よくて、
 たちまちに新しい道が出来る。




 こんな綺麗な道に仕上がった。





  びっくりするほどの速さである。
  昨日と今日の2日で新しい道は完成した。
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飴にハマっている

2023-12-12 07:37:50 | 発想$感想

★ 別に今まで飴など買ったこともなかったのだが、
 半月ほど前だったか、スーパーで阪神の岡田監督が『ベンチで飴をなめてる』と言うので、ひとつ買ったのだが、
 その横に並んでいた『俺』も一袋買ってみた。

 岡田監督の『飴』はそうでもなかったのだが、
 ちょっとだけ高いが
 この『俺のミルク』には今ハマってしまっている。

 

 
 こんな飴は、兎に角食ったことがない旨さなのである。

 メロンや

 
  



 あずきなど3種類ほどあるのだが、
  
 
   以来、毎日口にしている。


★これは私が書いたのではないのだが、
 誰かがこの飴をこのように評価している。
 騙されたと思って、試されてはどうかなと思う。


濃い。実に濃い。その濃厚さは、口に入れた直後からガツンと来る。今まで食べてきたミルクキャンディと比べたら、スーパーで買う「低脂肪乳」と牧場で買う「しぼりたて牛乳」くらいの差がありそうだ……。
──初めて食べたときにそう感じてからというもの、私の中の “お菓子クイーン” の座に君臨し続けている『俺のミルク』。ちょっと変わったネーミングのため、中には敬遠している人もいるかもしれないが……「これこそ史上最強のミルクキャンディである」と私は断言したい。
ノーベル製菓株式会社が発売する『俺のミルク』。パッケージには「超濃厚」「これぞ最高傑作」という言葉が踊っており、ミルクキャンディっぽくない男臭さが漂っていることは否めない。なんと言っても、商品名が「俺の」である。スーパーの商品棚に並んでいるのを見たら、イヤでも目が行くだろう。

・飛び道具じゃない
しかしこの商品、ただインパクトのみを求めて作られた飛び道具的な商品ではないと、まず言っておきたい。パッと見は普通のミルクキャンディのように見えるものの、ひとつぶ頬張ると……口の中の全方向に濃厚なミルクロケットランチャーが発射されるのだ。

その衝撃を味わって以来、私は自宅に『俺のミルク』を常配備し、毎日のように舐めまくっているわけだが、最近は「バレンタインデーのお返しとしてもアリ」と感じている。この濃い甘さなら、女性ウケも良いに違いない。
折しもあと1カ月弱でホワイトデーだから、社内などで義理的に配るのにはピッタリなのではないだろうか。ちょっと変わったネーミングも、女性社員に渡す際はコミュニケーションのきっかけになるかもしれない。
とにかく、まだ『俺のミルク』を舐めたことがない人はぜひ一度お試しあれ。マジで濃いぞ!




 

 
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私の日記から   昭和42年(1967)~昭和44(1969)

2023-12-11 07:24:32 | 自分史

★昭和42年(1967)は34歳である。
 この年の1月に明石から仙台に異動になった。生涯ではじめての転勤である。
 当時のカワサキはまだ国内市場が中心で、アメリカ市場の開拓がはじまった時期である。
実用車のカワサキ』と言われていた時代で東北6県がカワサキの中でも最大の市場だった。
 当時はまだ全国各地に自前の代理店がありその下にサブ店と称する販売店、と言っても殆どが自転車屋だが、そこにバイクを委託する『委託販売』の時代だった。
 この委託販売方式は本田宗一郎さんの発案で、50㏄モペットを大量に売るために、当時の全国自転車屋、5万店以上にバイクを委託するという日本独特の販売方式だったのである。

 カワサキの場合は当時はモペットもあったが、販売の中心は125ccの実用車や90ccの中間車種に時代で、C2SSなどは東北が圧倒的に売っていたのである。

  

  
★東北6県だけでも広いのに、3年目からは北海道もテリトリーになって、
 その移動だけでも大変だった。
 この地域のカワサキのサブ店だけでも1000店以上もあって、そのサブ店訪問が仕事の一つだったから、
 お陰様で、東北・北海道の道はよく走ったし、
 東北以外の日本のいろんな町も訪問したところが多くて、
 最近テレビで日本国中のニュースが流れるのだが、
 いろんな町が懐かしく思い出されるのである。

 約40年間の現役生活のうち、3回、20年間国内市場を担当したので、会社の費用で全国を回らせて貰ったようなところがある。
日本の全都道府県を自分で車を運転して走ったから、大体どこでも解るような気がするのだが、
 特に東北と北海道は詳しいと言っていい。
 
  


 地図でご覧になっても、岩手県が日本で一番の大県なのだが、
 その他の県も大きさではベスト10に入っていて、
 移動はクルマだったが、当時は峠道など砂利道が多くて大変だった。
 英国の舗装率が100%などと聞いて、日本もいつになったらそんなことになるのかとよく思った。

 久しぶりに『道路の舗装率』をみたが、
 世界ではイギリス・イタリアなどは100%なのである。


  


★そんな東北6県なのだが、当時はまだ事務所も何もなくて、
 土地を買って事務所を建てるところから始めたのである。
 日本中の土地の住宅化などが真っ最中の時代で、
 仙台に出来たバイパス沿いの土地を決めたのだが、
 「カワサキだから何千坪でも買えるから、大きく買ってあとで分譲すればいい」と不動産屋は言ったのだが、
 会社からは許可が出ずに300坪ほどの土地を買ったのである。
 当時の他社の大きなところはホントに大きく買って、
 あとで分譲して儲けていたそんな時代だったのである。
 「大きな土地を買う許可を取る」のが一般企業ではムツカシイのだが、
 カワサキならその理由が幾らでも言えるというのが、
 不動産屋が勧めてくれた理由なのである。


 今はこんなにぎっしり家が建っているが、
 当時は何千坪でも買える空き地だったのである。
 
  

 

★ この時期のカワサキで一番台数を売っていたのが「岩手カワサキ」で、
 私の担当時にも毎年金賞を受賞していたのである。
 当時の久保社長が南部の出身で、
 まだ伊達だとか南部・津軽などと昔の藩の呼び名で言われたりしていたが、
 岩手県でも南の方は「伊達だから」と販売の主力は南部の国が中心だった。

 

 
 青森県でも南部と津軽はかって戦ったということで、
 同席せずに南部カワサキ会津軽カワサキ会に分かれていたりした。

 そんな東北での販売経験だが、
 末端の販売状況がよく解ったのもいい経験になったし、
 代理店の経営では、メーカーの言うことを聞いて大量に販売した代理店は、
 「資金繰りが大変」でその借入金対策からメーカー系列に入ってしまったのは、
 カワサキだけではなく4社みな同じだったのである。
 現在は、自前の代理店などは消え失せてしまって、すべてメーカー直営となっているのである。
 この営業外と言うか、資金繰り・バランスシート関連の実地を勉強できたことは、
 その後のメーカーでの販売会社経営や事業部経営時に大いに役に立ったのである。
  
 
★家庭では、家賃も仙台は安かったので一戸建ての庭付の住宅に住めたので、
 犬も飼ったりしたし、家内も何となく結婚以来初めて主婦らしい暮らしになったのかも知れない。
 長男が小学校、長女が幼稚園にそれぞれ入学する時代で、
 休みには、子どもたちの相手もしたし、
 東北6県は十和田や八幡平、蔵王・松島、などなど名所も多いので、
 家族旅行も楽しめたのである。

  

  

 この仙台時代には、私の「人に対する考え方」が私なりに確立出来た時代だと言っていい。
 もともと『性善説』に立っていたが、『人を疑うこと』をしない東北人の良さを身に染みて感じたのである。
 家には雨戸が無くて、家内が家主に『不用心』だと言ったら、
 『泥棒はいない』と言うのが答えだったとか。
日本一の販売を続けた岩手カワサキの久保社長のサブ店の扱いなどを見ても、
 そのベースは『信頼』から成り立っていたのである。
 
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青野ヶ原モトクロス    雑感

2023-12-10 06:55:21 | M/Cレース

青野ヶ原モトクロスのあったのは昭和38年(1963)5月のことである。
 このレースが無かったら、ひょっとしたらカワサキの二輪事業もなかったかも知れない。
 カワサキが二輪の一貫生産を始めたのは昭和35年(1960)のことなのだが、最初に開発・生産した125B7がとんでもないクルマだったのである。
 車体に欠陥があって工場は返却車の山になった。
 昭和37年1月度の生産台数は返却車が出荷台数を上回ってマイナス17台の生産となったのである。

  

 
 こんな状態だったから、当時の川崎航空機の本社は日本能率協会に『この事業続けるべきかどうか』市場調査を依頼したのだが、
 その年にあった青野ヶ原モトクロスの1位から6位までの独占勝利で事業部の意気は上がったこともあって、
 日能は『この事業やるべし』との結論を出すのである。

 これがその時の記念写真なのだが、ここに写っているメンバーは製造部業部ばかりで、技術部は誰もいないのである。

  
   
 
 
 この青野ヶ原のモトクロスは会社の正規のイベントではなくて、
 製造部と営業部の有志で行われたプライベートなものだったのである。
 私は当時営業部の管理係にいて、このレースには直接には関わっていないのだが、
 上司の小野助治次長が『残業料も出ないのでパンでも買う金を都合してやれ』との指示があって、
 幾らかの金を都合したぐらいのことなのである。
 ただ、当時のメンバーも殆どが亡くなってしまわれて、
 『青野ヶ原のモトクロス』を語れる方もいなくなってしまわれたので、
 少し長くなるがその背景などを含めて纏めてみたいと思っている。

★まずはなぜこんなモトクロスをやることになったのか?
 それはその時代の二輪業界の背景と『仕掛け人』がいたのである。

 青野ヶ原モトクロスのあった前年昭和37年(1962)は、
 鈴鹿サーキッが誕生した年でもあり、
 同時にMFJがスタートした年でもあった。
 この年の11月には日本で初めての本格的なロードレース・MFJ全日本ロードレースが鈴鹿サーキットで開催されたのである。
 このレースの250㏄の優勝者が三橋実350ccの優勝者が片山義美で、
 この時は二人ともヤマハなのだが、
 このお二人はその後のカワサキのレー密接に関係されることになるのである。
 このレース観戦を仕掛けた方が、兵庫メグロの西海義治社長で、
 元プロのオートレーサーなのだが、
カワサキのレース」をスタートさせようと目論まれたようで、
 その第一弾が『鈴鹿のレース観戦』で、製造部の連中を鈴鹿サーキットに連れて行かれたのである。
 製造部のメンバーは二輪のロードレースを始めて観て、
 いたく感動し『カワサキもレースを』ということになって、
 青野ヶ原モトクロス出場になるのだが、
 当時のカワサキにはレースのマシンなど造るノウハウはないので、
 西海さんは、子飼いの松尾勇さんを製造部に入れてマシン製造に当たらせるのである。
 そしてこの青野ヶ原モトクロスが兵庫県のMFJの第1回モトクロスなのだが、
 このレースを開催された主宰者が当時のMFJの兵庫県支部長であった西海義治さんなのである。

    
  
 
★このように見てくると、青野ヶ原モトクロスはまさに西海義治さんが綿密に仕組んだものなのだが、
1位から6位までの独占』と言うのはこれはまさに天祐で、
カワサキのマシンもライダーも速かった訳でもなく、
神様が雨を降らせて』カワサキを勝たせてくださったのである。
 この日のレースは雨でいたるところに水溜りが出来て、
 他メーカーのマシンはみんな水につかってエンジンが止まってしまったのだが、
 カワサキの実用車に近い125B8のマシンのみが、
 止まらずに走り切った結果なのだと思う。
 私もその後レースに関係することになるのだが、「1位から6位独占」という成績ははこのレースだけなのである。
 ライダーも別にモトクロス専門でもない製造部の若手たちなので、
 特に速かった訳でもないのだが、車が止まらずに最後まで走り切った結果なのだろう。
 後、カワサキの契約ライダーになりMFJの殿堂入りを果たす山本隆もこのレースにはヤマハで出場しているのだが、
 やはりマシンが止まってリタイヤしているのである。


このレースの中心になった人たちは、製造部の中村治高橋鐵郎川崎芳夫さんなどなのだが、
営業からは私の下にいた川合寿一さんがこのチームのマネージャーとして参画していたのである。
川合さんは明石工場の野球部のマネージャーなどもしていたことから、このレースチームでもマネージャーを務めたのである。


  


この青野が原のレースでは『1位から6位独占』とは言われるのだが、
レースで常に言われる『優勝者』が誰なのかがよく解っていないのは、不思議なことである。
当日現場監督をされた高橋鐵郎さんは海軍兵学校出身なので
カワサキが勝つこと』が最優先で
 個人的な優勝者などは関心がおありでなかったのかも知れない。


★こんなカワサキの初めてのレース・青野ヶ原モトクロスの成果も大いに関係して、
カワサキの二輪事業』は苦難の時代を乗り越えて再出発することになるのだが、
このとき日本能率協会が下した結論の条件の中に、
広告宣伝課を創るべし』と言うのがあって、
 その広告宣伝課を私が担当することになるのである。
 その広告予算は当時の金で1億2000万円を3年間本社開発費で出されることになったので、
 現在の金に直したら優に10億円を超える額で大変な額だったし、
 レースも正規にチームを創ることになったので、その費用も広告宣伝費の中で扱うことになり、レースとの関係が出来たのである。

 レースチームは川合寿一さんが担当して、
 関西では、神戸木の実クラブの歳森康師・山本隆の二人と契約するのだが、
 この神戸木の実の主宰者が鈴鹿の優勝者の一人片山義美さんだったのである。
 
 関東では当時のカワサキ自動車販売が、125B7の時代からレースを始めていたのだが、
このレースを担当していたのがカワサキ自販の広告宣伝課長の小野田滋郎さんで、
 ヤマハにいた三橋実を引っこ抜いて、カワサキコンバットというチームを厚木で立ち上げたのである。
 そんなことから鈴鹿サーキットでの初めてのレース優勝者のお二人がカワサキのレース立ち上げに関係するという不思議なご縁だったのである。

そんなことからカワサキのレースチームも、新しくできた広告宣伝課の中での運営となるのだが、
 当時の川崎航空機の明石工場の技術屋さんは、エンジンの専門家は沢山いたのだが、
 特に二輪車が詳しかった訳でもなくエンジンを除いたら『素人集』と言っていい状況だったのである。
 そんなことから、エンジンは技術部が担当したのだが、
 レーサーに仕上げるために製造部に『レース職場』を造って、
 ここでは兵庫メグロから来た松尾勇さん個人のノウハウでマシンに仕上げ、
 ライダー契約レース運営広告宣伝課と言う3者協力体制で、レース運営がなされたのである。


 最初にスタートした時は、
 カワサキコンバット三橋実・岡部能夫・梅津次郎
 神戸木の実クラブ歳森康師・山本隆の5人のライダーでのスタートだったのだが、
 その後、安良岡健や新人の星野一義も加わって、
 ロードレースでは、三橋実・安良岡健のほか金谷秀夫和田正宏とも契約し、
 創成期ながらなかなかの陣容となったのである。
 

 

 

 このような体制は、レースを正規にスタートさせた昭和39年(1964)から結構長く続いて、

松尾勇さんが『レース職場』で最後に仕上げたマシンは
 「F21M」でこれは日本のモトクロス界を席巻した結構なマシンだったが、


   
  
 このマシンまでは『赤タンク』で、『赤タンクのカワサキ』と称されていたのである。


★ 現在のように技術部がレース部門を統轄するようになったのは昭和48年(1973)からで、

 モトクロッサーでいえば『KX』と称されるマシンからで、
 マシンのカラーもライムグリーンに統一され、
 『チームグリーン』の活躍なども見られるようになるのである。

 ごく最近、この『KX50周年を祝う有志の会』が開催され、私も出席したのだが、
 かって星野一義の良きライバルだったスズキの吉村太一ちゃんも来てくれていた。

  
   

  
 
 

 

 今年は『青野ヶ原モトクロス』からは60周年に当たるのである。
 私の現役時代だが、
 1988年に『カワサキファクトリーチーム結成25周年記念』の会合を開催している。

  

 
 これがその時の写真なのだが、
 当時のレース運営委員会のメンバーやライダーたちも揃っているのだが、
 この最前列の真ん中にお座りの方が西海義治さんで、
 左から2番目がメカニックの松尾勇さんなのである。

 ここには青野ヶ原の中村治道さんも、高橋鐵郎さんもおられるし、
 初代のレース監督大槻幸雄さんもおられる。
 ライダー諸君も安良岡・和田・山本・岡部・梅津・金谷・星野・清と顔を揃えていてOBライダーでは星野と清原が一番の若手だったのである。

 当時の現役ライダーなども出席していて、多田・杉本・宗和などの顔も見えるのである。

 この会合は芦屋の有名旅館『竹園』で全額費用持ちで1泊泊まりで行った豪勢な25周年記念で、
 この写真を撮ってくれたのは二輪車新聞の記者衛藤誠さんなのである。

 この会合自体が35年も前の話なのである。
 元川重社長の田崎雅元さんも、チームグリーンの平井稔男さんもいるし、
 私の後のファクトリーを纏めてくれた岩崎茂樹さんの顔も見える。

 創成期のカワサキのレースを支えたメンバーなのである。
 私自身はレースに関わったお陰で今もなお豊かな人生が送れたと
 レースに感謝する昨今なのである。


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12月8日は眞珠灣攻擊のあった日だが・・・

2023-12-09 05:51:35 | 発想$感想

★1941年のことだから、もう80年以上も前の話である。
 私は小学校の3年生だったから、意外にはっきりとその日のことを覚えている。
12月8日未明、日本海軍は、アメリカ合衆国のハワイ真珠湾のアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して奇襲攻撃を行った
と発表されたのである。


    





 同時にマレーシアにも侵攻し、シンガポールも直ぐ陥落したから、これは世界が日本になるとコドモ心にそう思った。
 そんな戦争をした相手のアメリカと今は一番仲がいい国になっているから不思議である。

★今は、そんなことも殆ど触れられない普通の1日になってしまった。
 そんな12月8日だが、いつもの通り防災公園を歩いてきた。

 このところ、ずっと1万歩が続いている。
 平均が8839歩になった。


 

 
 今朝も公園を一回りしたのだが、
 芝生広場では兵庫県警が警察犬の訓練をやっていた。


  


 ちょっと見ていたが、なかなか大変である。




 犬の訓練だが、こんなに広い場所がいるのだろうか?

 



★ ほんとに平和な年が長く続いている。
 いまは娘家族はアメリカに住んでいて、
 今月には次男が遊びにやってくる。

 ほんとに世の中も変わるものである。
 そのうちに『真珠湾攻撃』などと言っても解らない世の中になるのだろう。
 ひょっとしたら、今もそうかも知れない




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雨上がりの公園

2023-12-08 06:50:38 | 発想$感想

★ 昨夜は雨だったのか、
  今朝の公園にはいたるところに雨の名残が残っていた。

 こんな写真を撮ったのは初めてだが、なかなかこんな光景も珍しいのではなかろうか?
不思議に思えるいろんな形の水玉、大きいのも小さいのも、形がいろいろなのがいい。初めて見たような気がする。 

  

  
  
  樹の葉にも水玉がいっぱいだったし、






 散歩道も独特の風情だった。






  青空なのに、散歩道は濡れてるし








 陽は上がっているのに
 車道もこんなに濡れていたが
 あとどれくらいこんな感じで持つのだろうか?






  どうだんつつじの紅葉が綺麗だったし


  



  初冬の南天の赤い実も雨に洗われて、一際綺麗だった。


  

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NPO法人 Tke Good Times について

2023-12-06 17:57:50 | NPO The Good Times

NPO 法人The Good Times 2009年7月1日の設立だから
 もう13年にもなるのですが、
 設立当初の理事長は私で、
 2代目が山本隆さんでしたが、
 今回、新しく3代目の理事長・松島裕さんがスタートしました。


    

 

 クリックして頂くとそのホームページが現れます。
 


 


 
 このNPO The Good Times のホームぺージの制作者が
 実は松島裕さんなのです。
 このホームページの訪問者は延べ137000人以上にもなっていて
 毎日訪れる方がいるのです。
 
 

 松島裕さんは、このホームページの制作者でもあり、
 二輪文化を伝える会の理事長もされています。


 


  NPO法人 Tke Good Times基本コンセプト
 『みんな繋いで楽しくいい時を過ごそう』というもので、
  今後も異種・異質・異地域をみんな繋いで
  楽しくいい活動を続けて欲しいと願っています。


  


 世界の100を超す団体会員とその個人会員で構成されています。

  
 
 二輪文化を伝える会KAWASAKI Z1 FAN CLUB も団体会員さんですし、
 最近では神戸ベンチャー研究会が入会されました。
 
 従来は関西中心の活動でしたが、
 今回、松島裕さんが理事長になられたので
 その活動の主体も関東に移すことになるでしょう。


 これは 松島裕さん・村島邦彦さん・私トリオですが、
 従来も村島さんは松島さんを支えてこられました。
 今後もは、松島さんを支えて
 NPO The Good Times の活動を応援していこうと思っています。
 
  



 新しくスタートする『NPO The Good Times 』の今後の活動を
 皆さんも是非応援頂きたいと願うものです。

 松島裕さん、頑張ってください。


  
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来年の目標をどうするか?

2023-12-06 06:39:08 | 発想$感想

★今年ももう師走である。
 2023年は何とか元気に生きて終わることが出来そうである。
 来る2024年、来年をどのように生きればいいのか?
 何となくだが、いろいろ考えている。

 殆どの毎日が、ヒトと会うこともないので会話がない毎日が多いのである。
 毎日、日記は書いているし、ネットの世界にもこの雑感日記をアップするので、
 会話はないのだが、人との接触はあって、コメントなどは頂くので全く会話がないというわけでもない。
 
★来年は3月には91歳を迎える。
 90歳を迎えてから、特に感じたのは『物忘れのレベル』がひどくなったことである。
 体力のほうはあまり落ちたという実感はないのは、毎朝動いているからだと思う。

 来年の目標は端的に言うと
 ● 体力的には、今年と同じように頑張りたい
 ● 何か新しく『脳のトレーニング』でもあればやってみたいなとは思っている。

 ネットで調べたりはしているのだが、なかなか適当なのが見つからない。
 『色読み脳トレーニングシート』と言うこんなシートを見つけたが、
 これはやってみたら簡単にクリアできて、相当な早さでも大丈夫だから、
 人並みは維持できてるのだと思う。

 

 
 そう言う意味では世の中の90歳のレベルは、十分に超えていると思うので、
 「私独自の目標」をと思っている。

 11月になってから動いても汗をかかなくなったから、
 スロージョッギングの歩数を『1万歩』に上げたのだが
 歩いた日は大体クリアできている。
 だから、運動のほうは3月末までは『1万歩
 4月からは『6000~7000歩』と言う今年並みでいいと思っている。


 

 

 こんな下半身の強化や、ストレッチもやってるので、
 体力年令は70歳ぐらいだと思っているのだが、
 『体力測定会』などが無くなってしまったので
 来年、どかで実施したらそれに挑んでみたいと思っている。

 
 


★ネットのほうではFacebookに、この雑感日記を毎日転記しているのだが、
 ここでは『いいね』が来るので、これが励みになっていて、
 来年は『いいね』の数を「1日・100を維持」を目標に上げようと思っている。
 これも大体、今年の実績並みだから、
 91歳になっても、生活のレベルの質を今年並みを維持することを目標にしようかなと思っている。

 ざっとこんなことなのだが、
 今月末までに、さらにじっくり考えて決めようと思っている。
 ネット関連では、Instagramなどが今止まってしまってるのだが、
 これは、今月中にアメリカから孫がやってくるので、
 彼が来たら『具体的な方法』を教えて貰おうと思っている。
 
 91歳を迎える1年だが、何か一つぐらいは『新しいこと』が出来たらいい。
 その一つに、今思案中だが、ゴルフをもう一度『一生懸命』やってみるかと言うのがあるのだが、
 それは『91』になるので『エイジシュート』の可能性があるかも知れないので、
 これをホントに目標に加えるなら、毎日の素振りも復活しなければならないし、
 いま思案中ナノである。
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小春日和

2023-12-05 06:24:07 | 発想$感想

★朝8時、三木総合防災公園に行ったときは、天気は良かったのだが、
 気温は1℃林間広場には霜が降りていた。


 こんなに真っ白だったのだが、

 


  
 陽が上がった9時には霜もなくなってしまって
 気温は3℃ほどには上がったが、まだ寒いという感じだったが、
 写真を撮ろうと思うほど気持ちのいい朝だったのである。

 
 

 帰るときに、車の中から撮った写真だが、
 抜けるような青い空だった。
 



 昼からはどんどん気温も上がって、
 小春日和とは晩秋から初冬の頃の,穏やかで暖かな天気のことだが、
 昨日はまさに『小春日和』だったのである。


★久しぶりに庭に出ようかなという心境になった。
 まさに穏やかな陽だまりで、

 
 



 薔薇も綺麗に見えたし、
 万両の赤もよかった。





 紅い薔薇も、このような日和に見ると綺麗に見えるから不思議である。





 これは勝手に自生した、
 草花だが、1輪可愛い花を付けた。

 


 12月4日、まさに『小春日和』の1日だった。
 この冬、何日こんな日和の日があるのだろう?

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私の日記から   昭和41年(1966)

2023-12-04 05:57:13 | 自分史

★ 私の一生を振り返ってみてもこの年が一番いろいろなことがあった年だったように思う。
 それがよかったのか悪かったのかは別にして、
 こんなにいろいろ経験することはなかなかないと言っていい。
 
 1月の初出の日藤井敏雄がやって来た。
 カワサキがGPレースに初めて参戦する年なのだが、その契約にやって来たのである。
 スズキからの移籍だった。年末のMFJの運営委員会で鈴木さんから社内ライダーの引き抜きは困るというようなクレームが出たのだが、
 その時は私はホントに解っていなかったのだが、カワサキの技術部がいろいろ折衝していたようである。
 そんなことで彼の移籍には関係していないのだが、ライダー契は私の担当だったので、契約についてはいろいろと纏めたのである。
 先方の希望でその時はライダー契約とはせずに『マシンの貸与契』にして
 約半年ヨーロッパGPに参戦するので、ライダー契約はその成績を見て改めてして欲しいという希望だったのである。
 そんなことから始まった1年だったのだが、2月には山本隆からを頼まれるのである。
 私自身がまだ33歳で、結婚したばかりなので一応はお断りしたのだが、どうしてもと仰るので、結局は引き受けることになったのである。
世の中にこんな若さで仲人をした方などいないと思うのだが、当時は単なる若手ライダーだった山本隆だが、その後の活躍でMFJの殿堂入をするようなライダーに成長したので、そんな『山本隆の仲人』は私にとっていい実績となったのである。

★この年は私のレース担当の最後の年になったのだが、
 レース関連では本当にいろいろなことが起きたのである。
MFJの運営委員会では日本GPを鈴鹿からこの年に開幕するFISCOに移そうという議案が出るのだが、FISCOの第1コナーが危険だという理由で、ホンダさんは日本GP不参加を決めたのである。
 FISCOの第1コーナーがどれ位なものかをMFJの運営委員会で実地検証することになって、4輪車だったがFISCOを何周か走らせて貰ったのだが、確かにあのコーナーは吸い込まれていくようなものスゴイ下りのコーナーだったのを覚えている。
 
モトクロス関係では、前年にスズキが本格的なモトクロッサーRHを開発し、久保和夫・小島松久の二人が乗ったので、カワサキもと238ccのエンジンで、クロモリのパイプのF21Mを新たに創ったのだが、これは2台などではなく全契約ライダーに当たる数を用意したのである。
 まだ当時はレーサーの開発は技術部ではなくレース職場の松尾勇さん個人のノウハウで創り上げていた時代で、ベニヤ板に釘を打ってその形にパイプを曲げていくのだが、そのパイプに詰める砂を海岸で採ってきたような想い出がある。
 7月のMCFAJの青森での全日本でデビューするのだが、明石から青森の弘前まで、2000kmを車で移動したのである。
 その時の練習時の写真で、真ん中にあるのがF21Mだが、当時はまだ赤タンクの時代なのである。

 


 この年の8月、GPレースでヨーロッパを転戦中の藤井敏雄がマン島のプラクテイスで転倒事故死してしまうのである。
 それからが大変でその遺体は、たまたまドイツに留学中の大槻幸雄さんがマン島の現地に行かれていて送って頂いたのだが、それを羽田で受け取ったのが私なので、お通夜・葬儀と続いて大変だったのである。
 葬儀もカワサキがいろいろとお手伝いをしたのだが、契約上は先述の通り、マシンの貸与契約なので『個人は関係ない』と言うようなことをいう社内の人もいてなかなか大変だったのだが、貸与契約と言ってもそれはGPマシンなのだからと押し切ったりしたのである。

 秋の日本GPには藤井と正規に契約して走ることになっていたのだが、
 こんなことになってしまって、改めて契約したのが鈴鹿サーキットに『デグナーカーブ』と名を残すあのデグナーなのである。
 カワサキにとっては初めての外人契約で、その契約書をどのように作るのか、社内には聞く人もいないので、
 ホンダのMFJの運営委員の前川さんに教えて貰いに鈴鹿まで行ったりしたのである。
 そんなことまでして契約したデグナーなのだが、GP前のFISCOでの練習中に転倒して、『カワサキのデグナー』は実現しなかったのである。

 この年のFISCOでの日本GPにはカワサキが初出場するのだが、
 安良岡健が7位になったのである
 ただジュニアの250ccには250A1のマシンが出場したのだが、
 このマシンが滅茶苦茶速くて、
 当時のヤマハさんは、日本人ライダーではダメだと、
 アメリカでの一流ライダーだったガリー・ニクソンを出場させ
 金谷秀夫との壮絶なトップ争いをしたのである。

 


 これがその時の写真だが
 文字通りの一騎打ちになった本番は凄まじかった。
 最高ラップ 2分14秒27 Gニクソン、金谷秀夫の二人で記録しているという珍しいレースで、もっとも印象に残ったレースだった。
 
 
 

 
 これが私の4年間の最後のレースとなって、
 11月には仙台事務所を創るべく仙台転勤の内示があったのである。


★ こんなことでこの年のレース関係では大変な1年だったが、
 年末には仙台転勤が決まって、12月からはその対策に掛りきりになったのである。
 私にとっては初めて明石を離れての生活となって、
 それも仙台と言う雪国だからと、会社の人達は家族は春になってからの移動にしたらと言って下さったのだが、
 私は1月の最初から家族同伴と決めて、まずは仙台での家探しから始まったのである。
 それも普通の転勤と言うのは、そこにすでに会社の支店とかがあるのが普通だが、
 私の場合は『新しく仙台事務所を創れ』と言う命題だけで、
 全くの白紙からのスタートなのである。
 会社自体も新しく事務所作るなども初めてだったし、今思うとよくやったなと思うのである。
 この年の4月に初めて「掛長任用」されたばかりなのだが、
 前年からカワサキオートバイ販売出向となっていたので、正規に掛長になる前から『課長』と言うことになっていたし、
 今回は『事務所長』と言う肩書を頂くことになって、気分的には非常によかったのである。
 そんなことで私は掛長などと呼ばれたことはなく、
 平の係員からいきなり課長になり、またすぐ事務所長になったりしたのである。
 ただ名前だけのことで、実質の給料などは上がったりはしていないのである。

 昭和41年(1966)はこんないろいろあった1年だったのである。


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「KX50周年を祝う有志の会」

2023-12-03 06:14:18 | カワサキワールド

★『KX50周年を祝う有志の会』に行ってきました。

 写真いっぱい撮ってきたのでご紹介します。
 その雰囲気で、どんな会だったのか、ご想像下さい。

 
 往年の名ライダー塚本昭一・多田喜代一・高橋芳延さん。


 



 KXの産みの親、百合草三佐雄さん
 まだまだ、お元気で何よりです。
 乾杯の音頭を!





  吉村太一ちゃんも来てくれました。

 



 お二人とは同じテーブでした。




 種子島径さんも、旧いカワサキの仲間の井上一美さんも同じテーブルでした。





  東京からはるばる来られた西郷善治さんと松島裕さん





 この会の主宰者かな?
 私を誘って頂いた、大津信さん





 これはTeam Green のメンバーだったかな、
 




 御大の平井稔男さんは写真で登場。



 

 壇上に上がった、ライダーたち。




 伊吹清孝さんも 
 



 森田優治さんも





 司会の腰山峰子さん・川崎由美子さん・松田真弥さんもおられたのに
 写真を撮るのを忘れてしまった。
 残念!

 ほんとに楽しかった『KX50周年を祝う有志の会」でした。
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