この14日に綴った小浜のバス停の近くに小浜宿の資料館や首地蔵の道標があったのを覚えていますか?一応探しに行こうと覚悟を決めていたので、小浜宿を求めて北の方角へと歩いて行きました。
5分ぐらい歩くとそれと分る看板がありました。ここを右に折れます。
傍には案内板も設置されていましたが、これでは何が何だか判りませんね。
小浜という所は、浜の字が付いているように、平安時代までは瀬戸内海に面していたようですが、小浜から真南の西宮の浜までは15kmぐらいあると思うので、随分埋まってしまったものだと感心してしまいます。しかし、武庫川はどのようにして武庫川として残っていったのか不思議さが残ります。
この宿場は武庫川に注ぐ大堀川という川に三方を囲まれた地域、戦国時代には信長の一向宗弾圧に備えて城砦を築いたこともあったそうです。
その弾圧の対象となるのがこの毫摂寺、15世紀の末に建てられたものらしい。結構大きなお寺です。
信長に背いた有岡城主・荒木村重の討伐の際には信長方につき、弾圧の難を逃れたといいます。
片隅には使われてなさそうな鐘楼が目を惹きます。
これは江戸時代の造り酒屋・井川家の住宅、清酒『菊仁』というお酒を造っていたらしいのですが、そんなお酒は聞いたことがありません。
軒に吊るしてあったもの、京伏見街道・寶塚小・菊仁と書かれています。一見旅籠のようですね。
向かいにあった資料館、確か行ったのは木曜日だったと思うのに、定休日でもないのに閉館となっていました。
5分ぐらい歩くとそれと分る看板がありました。ここを右に折れます。
傍には案内板も設置されていましたが、これでは何が何だか判りませんね。
小浜という所は、浜の字が付いているように、平安時代までは瀬戸内海に面していたようですが、小浜から真南の西宮の浜までは15kmぐらいあると思うので、随分埋まってしまったものだと感心してしまいます。しかし、武庫川はどのようにして武庫川として残っていったのか不思議さが残ります。
この宿場は武庫川に注ぐ大堀川という川に三方を囲まれた地域、戦国時代には信長の一向宗弾圧に備えて城砦を築いたこともあったそうです。
その弾圧の対象となるのがこの毫摂寺、15世紀の末に建てられたものらしい。結構大きなお寺です。
信長に背いた有岡城主・荒木村重の討伐の際には信長方につき、弾圧の難を逃れたといいます。
片隅には使われてなさそうな鐘楼が目を惹きます。
これは江戸時代の造り酒屋・井川家の住宅、清酒『菊仁』というお酒を造っていたらしいのですが、そんなお酒は聞いたことがありません。
軒に吊るしてあったもの、京伏見街道・寶塚小・菊仁と書かれています。一見旅籠のようですね。
向かいにあった資料館、確か行ったのは木曜日だったと思うのに、定休日でもないのに閉館となっていました。