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川中島の合戦 天文二十一年(1552)~永禄七年(1564)

2021年10月05日 | 歴史
天文二十一年(1552)から翌年にかけ、林城を拠点とした信濃守護・小笠原長時、北信濃きっての名族の葛尾城主・村上義清ら北信地方の諸将は、武田信玄の侵入に相次いで上杉謙信のもとに逃亡し、救援を求めた。

謙信は彼らの失地回復に大義名分論の立場で応じ、川中島への出陣を決意する。これが川中島合戦の契機だった。

この戦いは、天文二十二年(1553)の第一回の対戦をはじめとして、弘治元年(1555)、同三年、永禄四年(1561)、同七年の計五回の対戦があったというのが通説である。だが永禄四年の対戦を除き、両軍による大規模な合戦はなく、また最終的な勝敗をつけることはできなかった。

川中島の合戦といえば、挟義には永禄四年九月十日に行われた八幡原(はちまんばら)での第四回目の対戦をさす。
この対戦については、江戸時代に書かれた武田方の『甲陽(こうよう)軍艦(ぐんかん)』と上杉方の『川中島五戦記』などの軍記に虚実織り交ぜて書かれている。

九月九日夜、信玄方が半分の兵力による「啄木鳥(きつつき)の戦法」で妻女山に布陣した謙信方に夜襲をかけた。だが、これは謙信によって事前に察知されており、謙信方は全軍下山し、密かに千曲川の雨宮の渡しを渡って八幡原へ出陣した。

これに対して信玄は、未明に広瀬の渡しを越え、敗北してくる謙信方を迎撃するために八幡原へ出ていた。夜が明け霧が晴れると両軍が八幡原で激突となったが、兵力半分の信玄方に対し、謙信は全軍による「車(くるま)懸(かか)りの陣」で奮戦した。信玄の本陣を襲った謙信方は、謙信みずから信玄に三(み)太刀(たち)斬り付け、信玄の軍配には七つの刀跡が残ったといわれるように、前半戦は謙信方有利の形勢であったようだ。

しかし妻女山へ向かった信玄方の別働隊が参加すると、形成が逆転し、謙信方を挟み込む「鶴(かく)翼(よく)の陣」で挟撃(きょうげき)し、四度目にしてかつてない激戦となった。この対戦では、両者とも多数の犠牲を出し、謙信方は善光寺へと敗走し、かろうじて壊滅をまぬがれたという。

合戦後には双方ともに自軍の勝利を宣言し、家臣には感状(かんじょう)が与えられている。しかしこれらの中には疑わしいものも多く、結局、ここでも両軍雌雄を決することはなかったというのが真相であろう。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

---owari---
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