今から400年前、日本登山史上の壮挙とも言うべき厳寒の飛騨山脈(北アルプス)越えを成功させた戦国武将がいた。冬の飛騨山脈、それも立山、針ノ木岳という3000メートル級の雪山を横断したのだから驚くほかはない。
このルートは現在、一流の登山家でも二の足を踏む難ルートだという。その飛騨山脈越えに挑んだ武将こそ、越中富山城主・佐々成政(さっさなりまさ)である。一体、成政はなぜそんな危険を敢(あ)えて冒(おか)したのだろうか。
1584年11月23日、成政主従一行は浜松城を目指し、富山城を出発した。それは、切羽詰まった局面を打開するための苦汁の選択であった。この年、豊臣秀吉と徳川家康が天下の覇権を懸け、熾烈(しれつ)な争いを展開していた。世に言う「小牧・長久手の戦い」である。
秀吉とは同じ織田信長の家来であった成政は、秀吉の露骨な天下取りの野望に我慢がならず、徳川軍に呼応して兵を挙げた。
この年の9月、成政は秀吉に味方する加賀(石川県)の前田利家(としいえ)と激突した。その最中(さなか)に、秀吉の要請で出兵した越後(新潟)の上杉景勝(かげかつ)の侵攻を許してしまう。東西両面より敵に囲まれた成政は富山城で孤立状態に陥った。
しかも悪いことに、秀吉の術中にはまった家康が軍を引き、講和を受け入れるのではないかとの一報が飛び込んできたから、成政の焦りはひと通りではなかった。
悩んだあげく、「今の窮状を乗り切るには、家康に直談判して奮起を促し、さらに越中への加勢を求める一手しかない」と判断。家康にどうすれば会えるかを考え始めた。
家康はこの時、浜松城にいた。越中から浜松に向かうには、三通りのルートが考えられた。まず、加賀、越前を抜けるルートだが、これは前田軍が阻んでいる。東の越後を通っても上杉軍がいる。南進して飛騨から美濃に抜ける方法も考えたが、美濃は敵方に属していて、これも無理。
それ以外のルートがないものかと地図を凝視していた成政は、ハタと膝を打った。「飛騨山脈を越えて信州に出れば敵地を通らずに済むではないか」
それは、まさに奇想天外なアイデアであった。厳冬期の飛騨山脈を超えるなど、狂気の沙汰(さた)だったからだ。それでも、成政は一様に反対する周囲を説得し、準備万端整え、11月23日早朝、五十数人の家臣や道案内の猟師らと共に富山城を後にしたのである。
成政一行が深雪と凍傷に苦しみながら飛騨山脈を踏破し、浜松城に到着したのは12月25日のことだった。一ヶ月も要したのは、途中、猛吹雪のため温泉小屋で足留めを余儀なくされたからである。飛騨山脈では疲れと寒さから錯乱する者が続出、着物を脱いで素っ裸になって息絶えたり、幻覚で敵勢を見て仲間同士で斬り合う者もいたという。
それほど苦労した末の家康への面会であったが、家康の返事は冷たかった。成政の再挙の勧めに最後まで同意しなかったのである。失意のうちに来た道をもどる成政主従。
再び、飛騨山脈の猛吹雪に苦しみながら越中に引き返した時は、わずか六人に減っていたという。成政にとっては、まさにこれ以上ない骨折り損であった。
翌年8月、成政は秀吉の北陸攻めに剃髪(ていはつ)して降伏、昔のよしみで助命され、越中新川一郡のみを与えられる。
(佐々成政その後):by Wikipedia
天正15年(1587年)の九州征伐で功をあげたことを契機に、肥後一国を与えられた。秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる成政は、早速に検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。
このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、摂津国尼崎の法園寺にて切腹させられた。享年53。 戒名は成政寺庭月道閑大居士。
辞世は「この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」
「秀吉に肥後一揆の責任を問われ、召喚されて以来の(この頃の)災難災厄、それが『厄』だ。その厄によって悶々と悩みぬき、思ひめぐらした『妄想』、それを入れて置いた鉄鉢袋ともいふべき我が肉体を、今打ち破って死に赴くといふ悟達の心境を詠んだもの」
---owari---
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