人類の宿痾(しゅくあ)=「前々からかかっていて,治らない病気。」か
今も世界のどこがで戦争、紛争が絶えません。
戦争を初めて、客観的に分析したのが、当時プロイセンと呼ばれていた
ドイツの"クラウゼヴィッ"とその大作"戦争論"です。
当時の強国は勿論、明治の日本にも多きな影響を与えました。今、キナ臭い
戦争・紛争の時代に読み返すべき古典の一つだと思います。
古典や歴史の教訓は、混迷、分裂する現代への指針に必ずなると思います。
主にwikipediaからの要約からですが、是非、"クラウゼヴィッ"と"戦争論"は、
サイトで詳しく読んで頂きたいと思います。
① クラウゼヴィッ
(1)カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ(独: Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz (Claußwitz)、1780年7月1日[2] - 1831年11月16日)は、プロイセン王国の軍人で軍事学者である。
ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校として参加しており、シャルンホルスト将軍およびグナイゼナウ将軍に師事。戦後は研究と著述に専念したが、彼の死後1832年に発表された『戦争論』で、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績を示した。
特記すべき業績としては絶対的戦争、政治的交渉の延長としての戦争概念、摩擦、戦場の霧、重心、軍事的天才、防御の優位性、攻勢極限点、勝敗分岐点などがある。
(2)1806年10月14日にプロイセン軍はイエナの戦いとアウエルシュタットの戦いでフランス軍に壊滅的な打撃を受ける。クラウゼヴィッツの大隊もこの戦闘に参加しており、アウエルシュタットでホーエンローエ軍の退却に巻き込まれて退却を行った。ホーエンローエ公は4万の兵力を保持していたもののフランス軍の追跡により包囲され、解囲を試みずに降伏した。
しかしクラウゼヴィッツが所属していた近衛大隊だけは降伏を拒否してバルト海沿岸を志向して解囲を試みている。両軍の騎兵部隊が交戦していたブレンツラウの町を避けながら北進中、町近郊のウッカー河でフランス軍の騎兵部隊と接触し、防御戦闘を繰り返しながら河岸の湿地帯を移動したが、沼地によって部隊が完全に行動不能になったため、ここで指揮官アウグストは降伏した。
1806年12月にアウグストとともにクラウゼヴィッツはフランス北東部のナンシーに捕虜として抑留されたが、それほど厳しい抑留ではなかったためにフランス語の学習とパリの見学、また著述活動を行うことができた。
(3)クラウゼヴィッツはバーレン将軍の下で3週間ほど参謀勤務につき、第1騎兵軍団長ウヴァロフ将軍の参謀次長として兵站を担当した。ロシア軍はボロジノの戦いに敗北してからモスクワに退却し、また9月14日にはモスクワを焼き捨ててカルーガへと後退した。
フランス軍はこの焦土作戦により弱体化し、10月24日にモスクワでロシアからの撤退を決断した。冬の到来が例年よりも早かったことや、後方連絡線が遮断されたこともあって、フランス軍では被服や食糧が欠乏状態にあった。
そのために44万名の兵力で侵攻したフランス軍は数千名にまで減っていた。ナポレオンは12月5日に指揮権をミューラー元帥にわたしてパリへと帰還した。
以上は 、クラウゼヴィッツの人生の前半です。