馬鹿な話しです・・・食い過ぎて具合が悪い、なんて。
しかし、食い過ぎて苦しいは我慢していればその内腹が空くけれども、空腹でひもじいのは、いくら我慢していても治らない。
まっ、極まって死んでしまえば楽になるのだろうか? 死んだ事が無いので分からないが。
キリスト様は言いました・・・今満腹している人々、あなた方は不幸である、あなた方は餓えるようになる。
と、宣っているけれども、満腹だから、あとは餓えるだけと言うのも意味が通らないんだが、そう言う事を聞くと納得してしまう人っているんだな・・・また喰えば良いじゃないか?。
序でに、キリスト様は言いました・・・今笑っている人々は不幸である、あなた方は悲しみに泣くようになる。
満腹の人(富める者か?)には戒めの言葉として言い、餓えている者には気休めの言葉として言っているのか?
キリスト様は、笑っている者も何れは泣く事になるとの戒めを言いたいのか? そして、泣きながらの暮らしをしている者へは・・・
一寸 脱線・・・年寄りが店に入って来て「飲み物売ってないの?」 「えっ?うちは写真屋なんでそう言うの無いんですけど」 「ナニすや、写真屋さんなのスカぁ~」「あらぁ~魂消た」と、ひとしきり騒いで婆様は去った・・・ドー見てもコンビニには見えないんだが・・・本日は真夏日になりましたから。
キリスト様は、笑っている者も何れは泣く事になるとの戒めを言いつつ、 そして、泣きながらの暮らしをしている者へは、あの者たちも何れは泣くのだから、と、慰めているのか?
分からなくは無い・・・あいだみつお、も、耳障りの良い事を言っては人を慰めたり戒めたりしているし。
でも、満腹は罪なのか? 笑って暮らすのも罪なのか?
こんな風に思うとしたら、お釈迦様も、お前は、仏教を齧るの止めちまえ、と、言うだろうと思う。
釈迦もキリストも同じことを言いたいんだろうな・・・満腹が悪いと言っているのでは無い。
満腹は、慢心とでも言い換えたら良いのか? 一度満たした腹は、また満腹を望み、美味い物を食ったなら、更なるご馳走を求めるだろう、と、言いたいのか?
餓鬼道だ。
最初から餓えている者はそれを望まない・・・だから幸せになれるのだ、と、考えると、幾らかは宗教的な考えになるのだが。
しかし、人として生まれたからには、自分の周りで美味い物を鱈腹食い、高笑いで楽しく暮らしている者が居たとしたら、一度くらいは喰ってみたいし、せめて、明日を憂いて泣かずに暮らしてみたい、と、思うのは人情・・・それが人じゃないか、と、思うが。
イエスはこうも言っている・・・貧しい人は幸いである、神の国はあなた方のものである。いま餓えている人は幸いである、あなた方は満たされる。
貧しい人が幸いになると言うのは、裕福になると言っているのではないし、餓えたものが満たされると言うのも、満腹になれる、とも、美味い物を食えると言っているのでもない。
宗教的に満たされ、空腹は現実に満腹するのではなく、空腹でも満たされると言うことを言うのだと思うのは簡単なのだが・・・。
実際に、餓えて死のうかと言う時に、言葉だけで満たされる覚悟は凡夫には無い。
日本列島に過疎地は多いが、この国の人口は山間部や田舎の村が栄えていた時代よりも多い。
人が増えているのに過疎地は拡大する一方と言うのは何故だろうか?
人がパンのみに生きるのでない事を実感できれば、たぶん過疎も、人の都市集中も起きないはずだが・・・現実はこうだ。
人は自分の脳内処理を都合よくこなす。
自然保護を声高に謳う人も車には乗るし、スーパーマケーットで買い物もする。
そうしなければ今の世の中を生きては行けないし。
エコ推進の人が車にも乗り、電気も使う生活で、エコカーですから、や、無駄に電気は使いませんからと言うのを、五十歩百歩・・・目糞鼻糞じゃないか、と言ってしまうか?
いいや、少しでもインパクトを減らしたいと思う気持ちが大事だと思うか?
本当は・・・ドーだっていいじゃネェかそんな事は、で、話しは終わる事なんだが、難しく考えるのが好きな人には、とても良い御提なんで、話しはつきません。
信じるものは済われる? 信じられないので浮かばれない?
ドーだっていいじゃネェかそんな事は・・・で、俺が死んでも地球は回る、と。
しかし、食い過ぎて苦しいは我慢していればその内腹が空くけれども、空腹でひもじいのは、いくら我慢していても治らない。
まっ、極まって死んでしまえば楽になるのだろうか? 死んだ事が無いので分からないが。
キリスト様は言いました・・・今満腹している人々、あなた方は不幸である、あなた方は餓えるようになる。
と、宣っているけれども、満腹だから、あとは餓えるだけと言うのも意味が通らないんだが、そう言う事を聞くと納得してしまう人っているんだな・・・また喰えば良いじゃないか?。
序でに、キリスト様は言いました・・・今笑っている人々は不幸である、あなた方は悲しみに泣くようになる。
満腹の人(富める者か?)には戒めの言葉として言い、餓えている者には気休めの言葉として言っているのか?
キリスト様は、笑っている者も何れは泣く事になるとの戒めを言いたいのか? そして、泣きながらの暮らしをしている者へは・・・
一寸 脱線・・・年寄りが店に入って来て「飲み物売ってないの?」 「えっ?うちは写真屋なんでそう言うの無いんですけど」 「ナニすや、写真屋さんなのスカぁ~」「あらぁ~魂消た」と、ひとしきり騒いで婆様は去った・・・ドー見てもコンビニには見えないんだが・・・本日は真夏日になりましたから。
キリスト様は、笑っている者も何れは泣く事になるとの戒めを言いつつ、 そして、泣きながらの暮らしをしている者へは、あの者たちも何れは泣くのだから、と、慰めているのか?
分からなくは無い・・・あいだみつお、も、耳障りの良い事を言っては人を慰めたり戒めたりしているし。
でも、満腹は罪なのか? 笑って暮らすのも罪なのか?
こんな風に思うとしたら、お釈迦様も、お前は、仏教を齧るの止めちまえ、と、言うだろうと思う。
釈迦もキリストも同じことを言いたいんだろうな・・・満腹が悪いと言っているのでは無い。
満腹は、慢心とでも言い換えたら良いのか? 一度満たした腹は、また満腹を望み、美味い物を食ったなら、更なるご馳走を求めるだろう、と、言いたいのか?
餓鬼道だ。
最初から餓えている者はそれを望まない・・・だから幸せになれるのだ、と、考えると、幾らかは宗教的な考えになるのだが。
しかし、人として生まれたからには、自分の周りで美味い物を鱈腹食い、高笑いで楽しく暮らしている者が居たとしたら、一度くらいは喰ってみたいし、せめて、明日を憂いて泣かずに暮らしてみたい、と、思うのは人情・・・それが人じゃないか、と、思うが。
イエスはこうも言っている・・・貧しい人は幸いである、神の国はあなた方のものである。いま餓えている人は幸いである、あなた方は満たされる。
貧しい人が幸いになると言うのは、裕福になると言っているのではないし、餓えたものが満たされると言うのも、満腹になれる、とも、美味い物を食えると言っているのでもない。
宗教的に満たされ、空腹は現実に満腹するのではなく、空腹でも満たされると言うことを言うのだと思うのは簡単なのだが・・・。
実際に、餓えて死のうかと言う時に、言葉だけで満たされる覚悟は凡夫には無い。
日本列島に過疎地は多いが、この国の人口は山間部や田舎の村が栄えていた時代よりも多い。
人が増えているのに過疎地は拡大する一方と言うのは何故だろうか?
人がパンのみに生きるのでない事を実感できれば、たぶん過疎も、人の都市集中も起きないはずだが・・・現実はこうだ。
人は自分の脳内処理を都合よくこなす。
自然保護を声高に謳う人も車には乗るし、スーパーマケーットで買い物もする。
そうしなければ今の世の中を生きては行けないし。
エコ推進の人が車にも乗り、電気も使う生活で、エコカーですから、や、無駄に電気は使いませんからと言うのを、五十歩百歩・・・目糞鼻糞じゃないか、と言ってしまうか?
いいや、少しでもインパクトを減らしたいと思う気持ちが大事だと思うか?
本当は・・・ドーだっていいじゃネェかそんな事は、で、話しは終わる事なんだが、難しく考えるのが好きな人には、とても良い御提なんで、話しはつきません。
信じるものは済われる? 信じられないので浮かばれない?
ドーだっていいじゃネェかそんな事は・・・で、俺が死んでも地球は回る、と。