じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

昼飯は ごはん?

2014-10-04 13:09:27 | 日記的雑談
その昔、ライスをおかずにご飯を食って居た時代が長かったんだが、懐かしく無いな。

死んだ親父が言っていた・・・銭の有る時にはまず米と味噌を買っておけ、と。
米と味噌さえ有れば、野菜は拾ってくれば良い、と。

いや、今だとドロボーと言われるんだろうけれども、大根1本、ネギやキュウリ1本くらい引っこ抜いて来ても叱られなかった時代があったのだ。

ああ、本当はジックリ書きたくて温めているネタなんだけれども「貧乏物語」と言う本が有って、なかなか興味深い事が書いてある・・・この展開はそっちへ行く雰囲気だな。

共産党系の人には有名な人なのか?河上肇の著作なんだけれども、超要約して言うと、貧困対策は社会主義的方向に行く・・・まっ、乱暴だけど、そんな感じの流れが書いてある。

で、世界を見ると大なり小なり国や自治体が民百姓の上に有れば社会主義なんだけれども、程度の差に由ってそうとは言わなかったり、で、分かり難いんだけれども、内実はそう言う事だと思う。

ああ、今考えている大きなテーマを小ネタで使ってしまった・・・まっ、どうでも良い事ですが。

しかし、貧乏にもランクが有って、と言う行は面白い・・・本当の貧乏と比較し手の貧乏が有る訳で、本当の貧乏は飢餓と隣り合わせか抱き合っているか。

で、比較しての貧乏と言うのは、自分の位置の相対的なものであり、ひもじくは無い貧乏と言う感じだったと思う。

日本の貧乏はほとんどが相対的貧乏で、飢餓線上に居る貧乏は少ないと思う。
かく言う私も相対的貧乏であり、飢餓の伴う貧乏とは無縁である。
しかし、紛れも無く貧乏人であり、相対で言うならば暮らし向きはささやかで質素だ。

相対的貧乏となるとお釈迦様の話しまで出て来て「餓鬼道」に迄話しが及んでしまい切りがないので止めよう。

河上肇はイギリスでの見聞を元に貧乏人に関わるあれこれを書いたのだったが、貧困に対しての最終的な判断と解決策を得ないままにこの本は終わっている。
しかし、興味深いのは、河上肇が見たイギリスでの政治的な試みの幾つかは現代の日本に生きている事だ。

河上肇は、給食に由って餓えを逃れ得る環境を与えると学力が向上すると言うイギリスでの実験を知り興味を持った。

腹が減っては戦は出来ぬ、は道理だと思う。
だからと言って金持ちの施しを受けて満たされた腹と栄養では、精神的に違ったキズが残ると思うのだ。
ならば集めた税金から給食をし、子供の学業に専念出来る環境を整えると言うのは理に適う。

私の年代だと間違い無くお世話になった給食の脱脂粉乳は、アメリカでバターなどを造った残滓だった。
本来は家畜の飼料にされていた物を、栄養価が高いからと日本人の子供は飲まされていた。

しかし、自分を含め、給食が楽しみでそれを腹一杯喰っていた子供は、あまり勉強は得意ではなかったように思う。

腹一杯喰い、目一杯遊んで帰るのが学校だった。
しかし、戦後10年も過ぎて生まれた世代には飢餓線にぶら下がる子供は少なかったのか。
貧乏の度合いに由って給食の効き目が違うかも思う。
だとすれば、極度の貧乏の中からの方が特別な鷹が出る可能性は高いのかも知れない。

現代のぬるま湯の中で河上肇の貧乏物語を読んでいると、絶望的な貧困と相対的な貧困の温度差の違いを感じる。

さて、どうも風向きの良く無さそうな日本だが、また飢餓線当たりを彷徨う貧困まで落ちたとしたら、給食を頼りに学業に励む子供が出るのかどうか。

人は パンのみに生きるに在らずと言うけれども、人は パン無くしては生きられない。
どこら辺で折り合いがつくのかと言う話しは、相対的貧乏の迷路に成るのでこれでお終い、と。









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野良 山写真 (寂しい系?)

2014-10-04 10:35:35 | 写真

ろくなもんじゃねぇ~ です


咲いて 枯れた


枯れて きれい


枯れて 可憐


瑞々しい芽


固い芽


箱入り むす芽


バンザイ 芽が出た


柔らかな 芽


己を 知り


時を 知る


落ちて 還る


幕前

山に行くつもりで準備してあったんだが、止めた。
気が乗らなかった・・・最近痩せて来ているのにデブ症・・・もとい出不精になっている。

痩せて来ているのは飯を食わない練習をしているからで、それは、死ぬ練習と言っても良い。
飯を食わなくても平気で居られたら・・・多分、喰わないでいたら死ぬと思うんで、この手なら、身体の自由を失っても死ねる訳で・・・時々試してみると空腹よりも緊張感が楽しい。

いや、迂闊な事を書くと生きるのに前向きな人には申し訳無いし、不愉快にさせちまう事の方が多いと思うんでアレなんだが・・・私的な場所なので勘弁して下さい。

いや、ナニ不自由無く生きているからこそ、辛い思いをしてまで生き続けたく無いと言うのはダメですか?

生きる事に価値がある? それは、自分にとっては嘘だと思うし・・・普遍的な価値があって、耳障りの良い言葉で言う通りだとすれば・・・戦争で人なんか殺せないはずだし。
人間の世界だけ、命が特別な意味を持つはずは無い・・・有ると言い張るのは屁理屈だ。
土も木も水も、呼吸をしていない物も含めて「在る」のだから、別に動くから生きているとも思わなくなったし。

生きていないとする物らが無い事には生きて行けないと言うのが笑止なんだが・・・。

誰かの何かを基準に自分を見る事が無くなった今、それを突き詰めて行くと生き死にに辿り着く。
誰とも比べない生き方は形が無いので変幻自在・・・価値観、基準に囚われ無くなると存在さえ意味が無くなるし・・・私は私で俺は俺で自分でしか無い。

気を付ける事と言えば、自分とは相容れない社会に身を置き活かしてもらっている事は忘れては成らず、だから、生きている人の邪魔はしないし否定もしない。

おお、思いついた・・・生死なんて無いんだな・・・また悟っちまった。

死ぬんだと思うと気楽で良い・・・だって、無理して生きていなくて良いんだもの。

本日は・・・お写真を「詫び」「寂び」でまとめようと思ったんだけれども、秋も深まって新芽だけと言うのもなぁ~で、一緒にしちまった訳です。

ホントは枯れ葉だけで無常の世界を醸し出し、死生観を宣う予定でありましたが・・・半端に終わっちまいました。

いや、このエントリーの前にカブト虫の腐葉土の入れ替えやらやっていた訳なんですが、36匹入れたはずなのに名前を呼ぶと26匹しか返事が無い訳です。

溶けちまったかぁ~と、言う事は無い訳でして、共食いで喰われちまったんですね。

で、丸まると太った芋虫を見ていたら、命って、新鮮だなぁ・・・死ぬって、次へ譲ってことか? ナンテ事を考えちまった訳です。

まっ、取り留めない話しで・・・スンマセン。

あっ・・・昼飯だって呼んでるから お終い、と。


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