じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

イカリ草と一茶

2021-04-12 15:46:54 | 日々の雑感
とある本を読んで小林一茶の「七番日記」の存在を知った訳ですが、私ゃ数ページ読んだだけで仰け反ってしまった次第であります。

中学で「名月をとってくれろと泣く子かな」や「すずめの子そこのけそこのけお馬が通る」などの句を習ったせいか自分が一茶に抱いたイメージは田舎の好々爺でありました。

しかし七番日記他に記された一茶の日常からは好々爺どころか、ほんわかした俳句からは窺い知れない姿が浮かび上がるのであります。

さて、一茶の前に植物の話を少しさせて頂きたいと思います。



イカリ草

イカリソウは本州東北地方以南の太平洋側、四国の丘陵や山麓に分布する多年草であります。
花の形が錨に似ているのでイカリソウと呼ばれるらしいのですが古来よりの名は淫羊霍(いんようかく)だそうであります。

淫羊霍の呼称は中国からの伝来ですがその由来が面白いのでWikiから引用させて頂きます。

古い中国の「本草綱目」(1500)によると、「四川の北部に淫羊と言う動物がいて、一日に百回も交尾する。それは霍と言う草を食うからと言うことだ。そこでこの草を淫羊霍と名付けた」とあるのが生薬名の由来ですが、霍とは、「豆の葉」のことで、イカリソウの葉が豆の葉に似ていることからです。

さて、ここからが一茶であります。

一茶は文化11年4月に52歳で28歳の菊を嫁にもらうわけですが江戸の頃の本百姓となると家督を授からなくては家が継げず、それは一大事なのであります。

七番日記によると菊を娶ったのが4月で、その年の8月から12月まで一茶は江戸に旅に出ている訳ですが、この時菊はまだ懐妊していないのであります。

さて、文化12年5月2日に淫羊霍を求めて山に入ったとの記述があるのは一茶が焦り始めたと見て良いと思うのであります。

その甲斐あってか菊は8月に子宝に恵まれたのですが、一茶は江戸の門人の元へと12月までの旅に出たわけであります。

こんな身も拾う神ありて花の春、は文化13年1月の句でありますがここでの一茶は妻に感謝し未だ見ぬ子を思う普通の男だったと思うのであります。

文化13年4月14日 長男千太郎 出生。

文化13年5月11日 千太郎 死去。

文化13年5月26日 淫羊霍を採りに紫山へ。

七番日記に表れる一茶の焦りは千太郎が亡くなった文化13年の8月から顕著であります。

一茶は菊との交わりを「交合」と記しているわけですが、8月8日夜に5回の交合から10日かそこらで30回も交合しているのであります。

これは絶倫といえばそうですけれども一茶の悲痛な叫びと自分は取る訳であります。

ここでイカリ草異聞を少し。

イカリ草の名は花の姿形に由来するという説で通っている訳ですが一茶は淫羊霍を「怒り草」と称していたとも言われる訳です。
一茶が淫羊霍を用いて怒らせるのは男根でして、言い換えれば怒張であります。

交合の回数や強精剤の件だけを見れば色好みかと笑える一茶の交合ではありますが、その実は怒りにも似た渇望の現われだったと思うのであります。

一茶と菊は4人の子を授かりながらも文政6年に1歳9ヶ月で逝った金三郎が一番の長命だったのであります。

しかも、菊は金三郎が亡くなる7ヶ月ほど前に他界しているわけであります。
そして一茶56歳で菊を失って後は淫羊霍を掘りに行った記述も無いと言うことから、一茶の交合は家督を得んが為の悲痛な行為であったと言えると思う訳であります。

一茶の交合の記録は壮絶なまでの後継者への執念からと思いたかったのですが、菊が亡くなって後に62歳で再婚してわずか三ヶ月で離婚し64歳で三度目の結婚をし65歳で亡くなるまで営みは続いたと言うことを鑑みると、やはり稀代の紅色絶倫男となるわけですが、まっ、いいでしょう。

いや、昨日のイカリソウの写真をどーにかして一茶の「怒り草」と絡めたくてやってみたんですが一茶の絶倫話は有名だそうでネット内にも沢山転がっていたのでありまして、お目汚しにもならない込みでありました、なんちゃって。






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