1.はじめに
今までは都市づくり、まちづくりの新しい潮流について紹介しました。新しいというからには今までは何であったのかということになります。それは19世紀に近代産業の発展とともに起こった都市問題解決を目的とした近代的な都市計画ということになります。より正確に言うと、その近代的都市計画が20世紀を迎え理論的にも整理される中で、建築の「モダニズム」「機能主義」「インターナショナリズム」などと結びついた「機能主義都市計画」であるといえます。
では機能主義都市計画が何であったのかを直接勉強しようとするとそれだけで、半年間以上かかってしまうことになりますし、本講義の目的でもありません。そこでここでは機能主義都市計画についてはその代表的なイメージをスライドでいくつか紹介するだけにとどめたいと思います。それから機能主義都市計画を正面から批判した2つの代表的文献を取り上げて、そこから照射されるものとして近代都市計画、機能主義都市計画が何であったのかを考えていきたいと思います。
文献
クリストファーアレクサンダー「都市はツリーではない」
Christopher Alexander A city is not a tree, Architectural Forum,Vol 122,1965
ジェインジェイコブス著 黒川紀章訳 『アメリカ大都市の死と生』鹿島出版会、1969
2.近代都市計画の終焉を象徴するイメージなど
スライド
3.クリストファーアレクサンダーの視点
近代都市計画の中核にあるのは人々の暮らす環境は計画によってよきものとしてつくりうるという方法論上の前提です。これは新しい都市をどうつくるのかという場合にも、既存の都市をどのように作り変えるべきかという議論でも同じように考えられています。専門家、計画家の提示する理論、計画論にのっとれば都市は理想的に建設しうるということです。こうやって20世紀においても理想的な暮らしの環境のイメージが計画家、建築家によって提示されてきました。それらのいくつかのものは実現しています。また、近年においても東京の六本木ヒルズやミッドタウンなど機能主義都市計画の系譜上でたくさんのプロジェクトが実現しています。
これに対し、1960年代に方法論上の異議を唱えたのがクリストファーアレクサンダーです。骨格となる考えは、専門家が限定された人数で、限定された期間で計画案を作る場合には、社会や空間のシステムを極端に簡単に捕らえるツリー構造で理解することが前提となる。そこで専門家特に建築家や都市計画家による計画案は非常に単純な構造を持ったシステムとして都市をつくることが避けられない。それは人間の複雑な生活、社会に対応していない。実際にはセミラティス構造を持つ複雑な社会の実態と乖離しており、そのような計画案は人を幸せにすることがありえない。そこで計画の立て方から根本的に見直さないといけない、というのがアレクサンダーの意見です。彼の論文を紹介します。
前回の講義でも出てきたLevittown,シャンディガール、イギリスのニュータウンなど人工の都市はツリー構造。それに対して京都やシエナ、マンハッタンは自然発生的都市でありセミラティス構造であることを指摘しています。ツリー構造の都市には何か肝心なものが足りない。人間的な見方からして、人工都市は皆失敗作であると言い切っています。
ここでツリー構造、セミラティス構造というものを理解しておかなければなりません。計画者というのは人々の生活環境を考えるときに、もののエレメントの集合として捕らえます。人、葉っぱ、車などなどです。それらの中で一緒に機能するエレメントの集合したものをシステムと呼びます。都市のデザイナーはそのシステムの中でもものとして固定されているものを都市のユニットとよんでいるのです。
ここでアレクサンダーは、1から6までの数字からなる集合を考えます。その組み合わせには[1]や[25]、[345]など56通りのサブセット、くみあわせがありますが、彼はわかりやすい比喩も交えてその組み合わせの仕方がセミラティス構造になる場合とツリー構造の二通りあることを示してくれます。簡単に言うと前者は組み合わせの中にオーバーラッピングがある場合、後者はない場合といえます。
例えば20の要素からなるツリー構造は19のサブセットを持ちます。一方セミラティスははるかに複雑でかつ微妙で手の込んだ構造であることを、20の要素からなるセットは100万のサブセットが可能であることから説明します。
彼はこれまでの都市モデル、コミュニティモデルがすべてツリー構造であったことを一つ一つ例示します。図1コロンビアのコミュニティ調査の例。5つの近隣住区→村→まちというツリー構造です。図2クラーレンススタインのガーデンシティ。学校と駐車場住区から構成されるスーパーブロック→ガーデンシティのツリー構造です。このほか都市計画上大変有名な計画案を列挙しています。アーバークロンビーのロンドン計画、パオロソレリのメサシティ、丹下健三の東京計画、コルビジェのシャンディガール、ルチオコスタのブラジリア、ポールグッドマンのコミュニタス、ヒルベルザイマーの理論書『都市の性質』などです。
これらは建築や都市計画を目指すものが必ず勉強してきたものですが、すべてあっさり切り捨てられます。私たちにもっと身近な例を挙げれば、鶴岡の行政区を考えてもよいのではないでしょうか。旧鶴岡と櫛引、温海、羽黒などを思い浮かべてください。それぞれに区とか町とかの単位がありますがそれらをエレメントと考えてください。現在の行政システムがツリー構造ということは明白でしょう。たとえば温海の●●地区と櫛引の△△地区、羽黒の□□地区がひとつの単位(エレメントのセット)として捕らえられることはありえません。見事なツリー構造です。実際の町には何千というサブセットがあり、セミラティスとして考えれば何百万の組み合わせが発生するのでしょうが、行政組織としては極端な単純化が図られていることがわかります。
アレクサンダーは人のつながりを例にしてツリー構造のリアリティのなさを訴えます。住区単位ごとに人の付き合いが限定されるということはありえません。さまざまなオーバーラップがあるはずです。近隣住区の中にすべてのコミュニティ活動が修練することは現実にはありえないのです。
ツリー構造というのはひとつのファミリーに属している人がもうひとつのファミリーに属せないということです。計画においては強迫観念的にこのツリー構造が守られようとすることを指摘しています。
反面、ツリー構造の理解を脱しようとした試みも紹介されています。ルースグラスのミドルスブラ計画ではツリー構造が実態を反映していないことをちゃんと指摘しています。ミドルスブラは建築形式、収入、勤労形式で29地域に分けることはできる。しかしこのように分けられたフィジカルな区分が実態のコミュミティと一致するのかという疑問から出発しています。人々の活動は圏域ではなく活動のノード、中心的な場所(複数、クラブや組織、お店の所在地)に支配されていることが多いことが明らかになっています。いわゆる区分された近隣単位は活動とはあわないのです。
ルースグラスとは反対にコルビジェやカーンという巨匠たちの計画案は批判の対象となっています。彼らの計画では車の速度にあわせた道路体系があり人のルートとは分離されているけど、実生活でタクシーに乗れるのは両者が出会うからに他なりません。マンハッタンでは両者が同じところを走っているすなわちシステムのオーバーラップが保障されていることが街らしい町となっていることを指摘します。
次にアレクサンダーはCIAMの理論を検証していきます。例としてリクリエーションの分離が取り上げられます。リクリエーションの場は具体的には町の中に囲われたプレイグラウンドとして整備されます。プレイグランドを分離するということは、私たちの心の中でプレイ遊びを分離しているのではないかと問題提起がなされます。
遊びはその日その日で場所も方法も違うものです。廃墟で遊んだり川端で遊んだり、人のいない建築現場で遊んだり。これらの遊びの行為とそれに必要な対象物はひとつのシステムを構成する。このシステムは都市の中のほかの部分と連続的なものなのです。決して切り分けられない。囲われたプレイグラウンドの中での遊び(他のものとオーバーラップしないという意味でツリー構造)は実態と隔絶したものなのです。
同じような間違いはグッドマンのコミュニタスやパオロソレリのメサシティにもみられます。大学を都市のほかの部分から分離することです。都市の中で線を引いてここから内は大学外は非大学と区分する理由は何でしょうか。コンセプトとしては明快だが大学生活の実態とは離れています。自然発生的な都市ではそんな区分はないはずです。大学人もコーヒーを飲み、映画を見ます、移動もします。区域の切り分けに大きな意味はないはずです。
他にも例があります。ブラジリア、シャンディガール、最近の例としてパフォーミングアートの集合体であるリンカーンセンター。でもコンサートホールがオペラ劇場の横にないといけない理由は何でしょうか。一晩に二つの劇場をはしごすることがあるのでしょうか。自然発生的な場合にはそれぞれがあるべきところにある。
職住の分離はガルニエの計画に現れ、その後アテネ憲章に取り入れられましたが、現在では人工都市のすべてにとりいれられ、ゾーニングコードで堅く守られています。確かに20世紀の初頭にはあまりにも状態が悪かったので計画者が汚い工場を住宅から分離しようとしたことは理解できます。しかし、分離が多様性をなくしてしまっているのです。
最後に都市の中の住区を孤立したコミュニティに変えてしまったアーバークロンビーのロンドン計画が取り上げられています。実態はセミラティスなのに計画者の頭だけはツリー構造というわけです。
また、先ほど私も触れましたが実際の問題の起こり方や解決の仕方はセミラティス的にならざるを得ないにもかかわらず。行政組織はツリー構造だと指摘されています。
ではなぜ、デザイナーは都市をツリー構造として捕らえるのかということが疑問となります。じつは、セミラティスが複雑すぎてその複雑性を単純な思考では追いきれないために、わかりやすい理解可能なツリーにいってしまうのです。
わかりやすい例を挙げています。オレンジ、スイカ、サッカーボールとテニスボールの例です。色、形、大きさなどで分類可能ですがこのオーバーラップを心に浮かべるのは難しいですが、無理やりツリーにしてしまえば簡単です。グルーピングとカテゴライズは最も基本的な心理プロセスです。どうしても複雑なものあいまいなものを単純化して理解してしまう。都市のように複雑なものもツリーにして理解してしまうという傾向が避けられません。このことは図形認識の実験でも明らかにされている。複雑なセミラティス構造は単純でより理解しやすいツリー構造に置き換えられて理解されるのです。
ではいったい都市はどういうものなのかという根本的な問いです。この論文でアレクサンダーはきちんとした答えを用意しているわけではありません。
ただイメージに頼るとオーバーラップの効果を少しは理解しやすいということをサイモンニコルソンの作品で説明しています。この絵の魅力はまさに複雑なオーバーラップにあることを理解した上で、私たちが思考の手がかりにするのもこうした絵やイメージになることを示唆しています。また厳密な議論のためには現代数学の一部であるセミラティスも力になるようです。
最後にツリー構造の都市計画に厳しく警鐘を鳴らします。ツリー構造で考えるということは人間性や生きている都市の豊かさを、デザイナーや管理者の理解のしやすさのために犠牲にしているということになります。町の一部がなくなってツリー構造の町で置き換えられていくと都市の分裂(相互が無関係になること)が起こります。分裂は破壊の兆候です。社会的にはアナーキーです。一人の人間の中では分裂(dissociation)は分裂症や自殺の兆候ですが、同様に都市全体の分裂(dissociation)の不吉な前兆はリタイアーしたひとがアリゾナのサンシティのように都市生活と分離されることに見出せます。それは長く住んでいた人たちの仲間を若者から離すだけではない。一人の人間の中でも過去とのつながりが遮断されるということ。自分自身の人生が区分されることです。ツリー構造のまちを決してつくってはならないのです。
以上のように警鐘とともにアレクサンダーは新しい計画論の必要性を訴えているのです。
この主張はこの後にパターンランゲージなどの形で多くの人々の参加による時間とともに成長する計画論として提示されます。この方法は都市づくりだけでなく建築作りにも応用されます。今日に至るまで多くの人々の関心を呼ぶ方法論になっています。
高谷時彦記 Tokihiko Takatani
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