ブログ仙岩

各紙のコラムや報道番組、読書の感想、カメラ自然探索など。

御春(ON HARU)

2024-05-27 04:51:49 | エッセイ

福島県三春町の交流館「まほら」で2月末「石田智子展・御春」が行われ行ってきた。写真はgooglより。

三春在住の石田さんの作品は紙縒り芸術作品という。

ファイバーアートと呼ばれる彼女の作品は、海外のアメリカ、ポーランド、ドイツ、オランダ、アラブ首長国連邦等国際ビエンナーレ賞を二度も受賞。

会場入口ロビーに和服の石田さんがおり、ご主人は福聚寺住職芥川賞作家の玄侑宗久さんである。

お寺の嫁さんの仕事は多忙で、参拝者のお供えの包装紙から、紙縒り作りと日常を共存させ、芸術作品が出来たという。

展示会場のすべての空間に真白なメッシュ状の白雲のような、白波のような巨大な塊りが浮き、全て紙縒りで組み立てられと聞き、涙が出そうになった。

そこから、光と影の絶妙な変化で舞台全体が春色に覆われた。

サァ、春だ頑張ろう。

素晴らしい、世にこんな方がいたとは驚きである。


大石邦子「夜空に向って」

2024-04-28 05:04:18 | エッセイ

立春が過ぎて白木蓮の蕾も膨らみ始めた。

今年は久しぶりで一人で豆まきをした。恵方は東北東でピーナッツを。

鬼は~外、鬼は~外、福は~内、福は∼内、声を抑えたが突然涙が溢れた。

遠い日が一気に蘇ってきた。大豆が入った一升枡から父は各部屋に豆をまき、最後に柊の枝に鰯の頭を挿した玄関でまき鬼を追い払った。

豆まきが終わると、自分の年に一個足して豆を食べた。大人は一桁に一個足して食べた。

そんな遠い日を思い出しながら、涙を拭った。

どんなに会いたくても、父母兄弟には会えない。寂しくても会えるのは思い出だけ。

今日も夜空に向って父母を呼ぶ。

何故か故郷を思い出すと、父母の働いている姿が目に浮かぶ。

自然が好きだから、小さいときは山川での遊び、大人になっては登山で、飯豊山、燧ヶ岳、会津駒ヶ岳、吾妻・磐梯・安達太良は勿論、

気圧計から雷雨が来そうになったら、即引き返した。安達太良くろがね小屋の湯の想い出はいいね!

また、茶臼岳では、ガスに巻き込まれ、足元の石の案内矢印で下山したり、思い出は尽きないね。


大石邦子の「元日の地震」を読んで

2024-03-22 04:59:53 | エッセイ

友だちから頂いたおせちを夕食にと思っていた矢先、家が揺れ掛け軸がひらめき、3.11の恐怖が過った。

12年前より短い緊急速報メールが鳴り響き、能登半島を襲った元日の地震だった。

あれから2週間、死者は230人を超え、3万人超の避難者、インフラが人手不足、祖父母に合わせたくて里帰りで、子ども達が犠牲に。

母から子への手紙コンテスト審査員で、3.11の折の一文があった。

震災直後の電話で帰宅してもいいかという医師資格取りたての大学院生の福島の母への電話で、帰宅の息子を見て愕然とする母に、

僕は医師には向かない。僕は強くない。

死者のあふれる医療現場に、大学院生が駆り立てられ、検死の仕事で、死を判定しなければいけない。

母はしばらく仕事を休むように説得したが、翌朝彼は黙って被災地へ帰って行った。

その日の最初は、ランドセルを背負い、黄色い帽子をかぶった泥だらけの子供だった。彼は用具を用えず、自分の手で、顔の泥を拭き取り、髪の泥も、襟首の泥もふきとりながら、涙が止まらなくなっていた。あどけない可愛い女の子だった。

何故、こんなに幼くして死ななければならないのか、彼の涙は心を揺さぶり、その死に向って誓いを新たにしていた。

どんな人の命をも救う医師になる。犠牲になった人を番号や色分けせず、名前で家族に渡してやりたい。必ずそうした医師になる。

あれから12年、彼は立派な医師として福島の病院におられるという。

涙は力でもあることをしみじみ思う。ハイ!みんぽう3月号より。

地震列島に生を受けて、犠牲者は必ず出る。生死の境は運としか言いようがない。

トルコでも起きているが、できるだけ犠牲の少ない建造物にしたい。

津波は防波堤よりも、女川のように、逃げ道をしっかりと造ることである。写真はよつくら港道の駅、5:30撮影

 

 


大石邦子「夢のポストカプセル」を読んで

2024-02-20 04:39:21 | エッセイ

2025年大阪万博が開催、万博での思い出は若い友人のご主人が1985年つくば万博へ修学旅行の引率でいった。

そこには21世紀の夜明けに届けられる夢の郵便「ポストカプセル」なるものがあった。

彼には4歳2才の女の子と妻のお腹にまだ見ぬ赤ちゃんがいた。

16年後2001年の元日、長女は大学受験生、次女は高2、長男は中3になり、お父さんからの手紙だと大騒ぎに、まぎれもない夫の文字だった。

万博から帰って4年後進行性のがんで亡くなり、娘は9才、7才、長男は4才だった。

専業主婦が生きるために臨時の教員になった。定年まで1年契約継続で勤め、現在は美術店に勤めている。

3人の子は母となり、父となっていた。

彼女は何時も夫と一緒で、夫の33回忌を終えた。

電話の彼女は「もう私のしなければならないことほぼ終えたかなと思うの・・・」

彼女の子育ての頑張りに絶賛。写真は隣の家の紅梅2/13撮影。

がんは本当に嫌ですね。親子の別れより、夫婦の別れが辛いという。

何かのきっかけで思い出し涙ぐむことがある。しかし、別れは世の常である。

 


大石邦子「よいお年を」を読んで

2024-01-07 05:22:23 | エッセイ

落葉木から日差しを招き、裸木の向こうには冬の空が広がり、私の何よりの慰めである。写真は磐梯山。

不思議と食事の後に眠くなり、若いときにはなかったことで、老化現象であろう。

こんな時、テレビのニュースから「四季の国、日本も二季となる兆しなのでしょうかね」

気象庁がデータ分析を始めてから126年になるという。今年は最高の暑さで、冬は最高の寒さにならないことを祈るしかない。

年々、時の経つのが早くなった。

猪苗代のレストランでは、足の悪い女性から「会いたかった・・・」と、涙をこぼされた。御主人からは背をさすって頂いた。また、どこの方が知らないままに、声をかけられた方が沢山いた。

大阪や千葉の方から「エッセイを読んでいます」と微笑まれる。福島の母が毎月送付しているという。

読者の皆さん、本当にお世話になりました。

呉々もお元気で、良いお年をお迎えください。ご健康とご多幸を心からお祈り致しております。

孤独を強く感じ、大石さんは思い出を咀嚼していますね。そろそろ引退を考え出したのかな?