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なぜ下田は開国の地になったか

2018-06-08 05:20:05 | 旅行
ブラタモリ、今から約160年前、黒船を率いたペリーの来航をきっかけに、日本で最初の開港地となった静岡県の下田へ。年間290万人もの観光客が。

世界へ開かれた窓になった下田は難所・天城峠の先にあり、決して便利ではない町が、どうしてそんな重要な場所に選ばれたのかを、まず黒船のキャビンを体験して、強風ですぐ降りて、開港前の地図を見ながら探索を始めた。

実はペリーがやってくる前から、下田は重要な港であった。江戸時代の海鮮問屋なまこ壁の建物で、クランクは開港前の下田と役人が住んだ新しい町との境であった。そして、江戸時代船着場の入江に江戸に入る船の監視場所関所があった跡を確かめた。

ペリー艦隊が行進したペリーロード、どんな人でも気安く受け入れる下田気質で、2か月も滞在した了仙寺では本尊まで取り払っての生活であったと住職から聞き、その時の様子の巻紙絵の餅つきや地引網を見て、下田住民との交流の様子から、2度目の来航で、ペリーが開港を望んだ浦賀は、幕府が江戸から離したかったからでもあり、非常時の捕鯨船の立ちより先が下田で良かった訳の一つでもある。また、帰国したペリーは衛生や健康面で、下田はアメリカよりより優れていると報告している。

勇壮な八幡神社の神輿は我が町の諏訪神社例大祭の担ぎ方と全く同じで、ペリーが気に入ったのも無理はない。黒潮の流れを変える2㎞も続く岩礁が航海の難所でもあり、恵比須島の縞模様が美しい凝灰岩砂岩の伊豆石を島ペリーが持ち帰りワシントン記念塔に使われていた。

その後横浜に地位を譲ったが、下田沖から約10kmにある無人島・神子元(みこもと)島には、150年にわたって下田から日本の海を照らし続けている伊豆石でできた最古の灯台は西から東京湾を目指す船は神子元島灯台を道しるべに方向を変える日本の玄関であることには変わりはなかった。


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