オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

60vs3・・・

2019-05-09 | Weblog

5/9(木) 今日の弁当は牛肉炒め、胡瓜の酢物、ホウレン草のお浸し、ベーコンと卵のスクランブルとなった。 これらに加えて、昨夜の大根と椎茸&厚揚げの煮物も使った。

野菜系が多いと思うだろう?。実は昨日の昼前、長女が姿を見せ「私、今日からダイエットすることにしたから野菜だけにして」なんて、殊勝なことを言った。それじゃ今日の弁当は?と問うと「旦那に持ってくは」だった。

確かに肥満度300%ぐらいだからダイエットはしたほうがいい。問題は何時までつづくかだ。これまでも何度か、その言葉を聞いてきたが、持続したことがないのだから・・・。せめて、俺ぐらい続いてくれればいいのだが・・・。

と云うことで、家人は普通のお弁当、長女はご飯・糖分抜きの野菜弁当にした。ご飯は「豆ご飯」を炊いた。一昨日は「いちご煮ご飯」だったが、イチゴ煮なんて聞くと、エッ!。苺煮と思うだろうが、違う!。青森の名産で、ウニやアワビのスープ缶詰のことだ。この缶詰でご飯を炊いたのだが・・・滅茶美味しかった。

         

今日の「豆ご飯」は、冷蔵庫のなかでグリンピースが眠っていたので暖かくしてやったのだが、これはこれで美味しいのだ。

          

 

ついでに、BLOGを記さなかった昨日のお弁当は「鶏唐揚げ&午房唐揚げ」「メカジキのソテー」「春雨サラダ」に、卵焼きであった。

 

         

長女の弁当ご飯は「いちご煮の炊き込みご飯」にした。

  

さて、今日のタイトルだが「60vs3」って何のこと?と思うだろう。昨日の午後、五反田の病院で初旬に撮ったCTの結果を聴くことになっていた。腹部のCTで、3月の入院ドックで胆嚢に腫瘍のようなものがあると言われ、検査をすることになったのだ。こっちは高を括っていたが・・・・。

午後二時の予約で、早めに着いて順番を待った。待合室は年配者が大勢で順番待ちをしていた。こんなこともあろうと、売店で週刊誌を買ってそれを読みながら待った。呼び出し番号の表示を見ると、未だ十人も先にいた。

結局、私が呼ばれたのは予約した時間を一時間も経過する頃になった。診察室に入り、Drの説明を聞くと、CT検査結果からは問題なし。腫瘍マーカも全て基準値内なので当面心配なしとの説明。そしてデータを貰ったが、それでお仕舞い。要した時間は三分程度か?。

と云うことで、待ち時間60分と診察室にいた時間3分からこのテーマ、60と3にした次第。病院の待ち時間長さは何処でも半端じゃないそうだが、嫌になるよね!。

 

夕方からは人形町で、後輩のYOSHINO、佐賀から上京したばかりのNAKAMURAさんにマッチャン、HOYA兄と仲間内の懇談。いつもの「ちょっぷく」から始まり、最後は「セイジュ」でカラオケと云うパターンである。

          

「ローカーボ」が店仕舞いしたので、困っているのは我々だけじゃなかろう・・・。

学芸大学駅に着くと、時計の針が重なりあう直前であった。帰宅は零時を少し過ぎていたか。そんな時間になっていた。

 

 

 

 

 

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連休明けて・・・

2019-05-08 | Weblog

5/7(火)今夜も早や、零時を過ぎて曜日的には水曜と云う時間になった。連休明けの火曜日、昼前に郵便局や銀行を廻ったが、思いのほか静かであった。何処も休み明けの混雑を覚悟しての外出であったが、拍子抜けのスムーズさで驚いたくらいである。

この時間の電車は空いていたが、社内の人の顔つきに生気を感じなかったのは休み疲れかな?。久々の仕事でリズムに乗れていないのか?余計な心配であるが・・・。

弁当オヤジとしては、連休中も弁当作りをしていたが平日の弁当作りと今朝は気分を変えて取り組んだ。

この日の弁当は休日明けなので、メインは「スキ焼」でいくことにした。他には「ホウレン草の胡麻和え」と、前夜に残った刺身(カツオ&マグロ)を味付けしてフライパンでソテー、そして「絹さやの卵とじ「」を目論んだが単なる炒め物になっていた。

                  

弁当に詰める段になり、スキ焼を最後にしたらスペースがない。仕方ないのでご飯の上に載せることになった。スキ焼転じて、牛丼とは情けないが、これも致し方ない。何処ぞの牛丼屋の飯とは比べようもないしっかりした肉だ。美味いであろうよ、きっと?。

              

 

明日の午後は五反田の病院で、先日に撮ったCTの結果を聴くために受診する。どんな結果であるか愉しみにしている。そして夜には人形町に出掛ける。と云うのも、連休最後の昨夜、HOYA兄いから電話を貰ったが、なんと仕込みのために店を開いていた「ちょっぷく」からであった。一杯機嫌の兄いや、YMAちゃん店長の声を聞いた結果、参じることになった次第。

人形町と仲間が、俺を呼んでいる!。そんなとこかな・・・・。

 

 

 

 

 

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祭りの後の・・・

2019-05-07 | Weblog

5/6(月・祝日)長~い休暇も終わり、明日からは日常が戻ってくる!。そんな人々が眠りについている時間ですが、どんな気持ちで明日を迎えるのか・・・。既に明けた火曜日を迎える時間になっているが。

気力、体力を充満して夜が明けるのを待つ心情であればいいのだが・・・。如何であろうか?。よもや出勤するのが嫌になってはいないだろうね、若しそうならチコちゃんに叱られちゃうからね!ボーッとしてんじゃないよ!なんて。

日々ボーッと過ごしている素浪人の小生が云えたものじゃないが・・・。長~い勤め人暮らしをした者の老婆心さ!。

 

素浪人は連休最後の今朝も、仕事に出掛ける家人と長女の弁当を作った。簡単な代物で「鮭まぶしオムスビ」と定番の卵焼き、茄子みそ炒めに小松菜の煮びたし、明太子という代物だ。

            

そして、連休最後の今夕は長男の誕生日なので夫妻を招いて我が家で食事を共にした。連休中に子供達一家とBQをやったので、肉ではなく魚にしようということになり「手巻き寿司」になった。

昼に買い物に出て食材を買い込み、準備を整えた。写真は撮らなかったが、てんこ盛りの食材がテーブルに並び、義母も含め五人では食材は半分以上が残る羽目になった。長女一家も姿を見せるかと思っていたが・・・外出をしていた。

貧乏人は食べるものが沢山ないと気が済まない。並んだ料理、酒を飲めよ喰えよと、進めるのが習い性になってるのは土佐人の血の所為かも?。

 

閑話休題。BLOGやFBを始めて面白いなと思うことが多々ある。例えば、音信が途絶えていた学生時代の友達と偶然に繋がるとか・・・。実は今夜も、FBで友達リクエストがあり調べると古~い友人ともいえる方であった。後輩の恋人で、若い頃には皆で遊んでいた方であった。

その方が、四十年余も前の我が結婚披露宴に出席してくれた時の写真まで添付してメッセージをくれたのだ。時の流れを思いながら懐かしかった。現代のツールは、面白いことは間違いないようだ。使い方さえ間違わなければだが。

我が大型連休?(日々連休であるが)とやらは、そんな次第で幕を下ろしたのであります。

 

では、明日からも好き日々を過ごされますように・・・。

 

 

 

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休日経過報告・・・

2019-05-04 | Weblog

5/4(土) 大型連休も早や二日を残すのみとなった土曜日、昨日につづき平和島へと出かけて水遊びに興じた。水辺の遊びと夜遊び、どちらが健全かと問われれば答えに窮すが、水辺遊びには家族連れや車椅子と多様な人々が来ている。

               

天気が回復した昨日なんぞは、大勢の人で賑わっていた。小さな子供連れの姿も多く、若者のグループや萎びた爺さん婆さんと多彩であった。

レースの方は成果がななく、早めに切りあげて映画を見に行こうと検索すると、「運び屋」は8日からの上映と判明した。仕方がないので水辺で過ごす時間が長くなった。

               

「運び屋」はクリント・イーストウッドの監督&主演の映画だと、金曜日にYOSHIOから教えてもらい楽しみにしていたのだが・・・。然し、素浪人にとっては連休が終わってから観に行った方が楽か。

 

昨夜も文庫本を読み、深夜になっていた。用事と云えば、朝の弁当作りがあるだけなので夜更かしをしても苦にならない。本を読むか、CDを聴いて過ごすか、もう一つ翌日のボートレースの検討と云うのがあるか?。そんな怠惰な日々を過ごしていると、流石に飽きてくるが・・・。

次の計画を立て直す時期が迫ってきたが、取り敢えずは8日の受診結果と、店舗の最終確認をしてからであろう。

郷里の姪からメールと写真が昨日と届いた。雨で伸びていた庭の改修が終わったとの報告であった。庭に敷いた木面が朽ちてボロボロになったので、草防止のシートを敷いた上に小石を入れることになっていた。その工事が終わったとの連絡だった。写真を見ると、庭はすっかりきれいになっていた。

姪の連れ合いのRYOが土建業なので、夏にやる母の初盆までに済ますように話していた。本来であれば、私も帰省して一緒に作業を手伝うのだが、この連休は病院などがあり帰省しなかった。RYOは休暇と云うことで、妹夫妻や助っ人と一緒にやってくれたのだ。有難いことだ

後、二日、勤労者諸君が有意義な休暇を過ごされるますように! 

 

 

 

 

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チャーハン弁当

2019-05-03 | Weblog

5/3(金) 目覚めると外の明かりがないようだった。時計を見ると未だ四時だ、どおりで暗いはずである。昨夜、布団に入ったのが23時と早かったせいで目覚めたようだ。眠れぬままに布団の中で夜明けを待った。

六時半に台所に入り、今日も仕事に出掛ける家人と長女の弁当を作る。冷凍のご飯が溜まっていたので、解凍して「炒飯」を作り弁当にすることにした。

                   

菜は簡略にして「ホウレン草のお浸し」と「卵焼き」、辛子明太子にした。ピーマンのソテーと、ほうれん草を巻いた卵焼きで、少し彩を添えたつもりだが・・・。

            

カツオの叩きは昨夜の帰りに、東急ストアで割引になっていたひと柵を買ったものだが、朝から刺身にして食すことにした。昨日までの天気と打って変わった上天気、陽光にひかれて缶ビールの一本もあけて摘みにするのである。暇な素浪人であればこその贅沢!。

                  

朝の遊びを終え、今日をどう過ごそうかと思案する。映画はイースドウッドの新作がかかっているとYOSHIOに昨日聞いた。或いは今日が初日の平和島で、水辺の遊びに興じるか?・・・・。

 

昨日は午後から、五反田の病院で腹部CTを撮った。雨模様の昼、折りたたみ傘を持って家を出た。処が、五反田に着くと青空が広がり、雨上がりの路面は熱を放出して急に暑くなったのである。カバンに入れた折りたたみ傘が急に重く感じた・・・・。

                  

この緩やかな坂道上がり、左手に入ると病院。真っすぐに上がっていくと高輪台になり、我らが料理の師匠、JIN先生のお宅がある。

一時半前に血液検査を終えたが、CTの撮影は三時になっていた。造影剤の注射で、下手な注射で液漏れか血管の辺りが痛くなった。そんなことがあったが、三時半にはすべて終えた。この結果は週明けの八日に聞くことになっている。胆嚢に小さなポリープがあるということでCTを撮ったが、どんな結果だっていいさ、あるがままにである。

 

四時過ぎに人形町に着き、YOSHIOに合流。しけた居酒屋で一杯やりながら、頼まれていた雇用契約書の保証人にサインをして印鑑を押した。『会社の銭を持って逃げるなよ!、その時は半分俺に置いとけよ』なんて、愚にもつかぬ冗談を言いながら、不味い摘みと🍺を飲む・・・。

用が済んで帰るYOSHIOと別れ、NUMATAちゃんを呼んで酒をつづけた。彼は、連休の初めに仕事で脚立から落ちて肋骨を骨折している。笑ってもクシャミをしても痛いと嘆きながらも付き合った。

人形町交差点のそばにある、寿司屋とも居酒屋ともつかぬ店の二階でタバコを吸い、薄いハイボールのお変わりを続けながら彼の来し方を聞いていた・・・。それぞれの人生、誰それの生き方、そんな話をしながら二時間半ほど過ごしたか。

地元に戻ったのは九時ま前であったろう。布団に入ったのが早かったのも頷ける。

さて、今日をどう過ごそうか・・・・。それが問題だ!。

 

 

 

 

 

 

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令和となりて・・・

2019-05-02 | Weblog

令和元年5月1日(水)新しい元号となった初日、普段と変わりなくスタートした。ここで劇的な変化でもあれば面白いのだが・・・。そんなことも生じず、穏やかに一日が過ぎて行った。

特に予定もない一日、何時も通りに弁当を作り平穏なスタートである。雨も上がったので近所を散歩しようかと思ったが、元号が変わった街の様子を見ることにして銀座まで出かけることにした。

              

日比谷線の銀座駅で降り、外に出たのは午後二時前であったろうか。思いもよらず銀座通りは歩行者天国になっており、観光客や街歩きを楽しむ同朋が穏やかな顔で闊歩していた。新天皇と新元号、お祝いムードであろうか。

                    

銀座に出ると各県のアンテナショップを覗くが常、この日も通りに面した店を幾つか覗いたが何処も盛況である。並木通りの並木の木々が生い茂るがごとくに青々とし、ツツジは花を咲かせている。陽光あふるる日であれば見応えがあろうが、生憎の曇天。

                

交通会館のエントランスに地場産の青果を売る店がよくでる。以前に、とても美味い椎茸を買ったことがある。そんな椎茸に出会えないかと寄った。平戸の地場産野菜が出ており、椎茸があったので買ってみたが・・・。北海道のシヨップでミルク&夕張メロンのソフトクリーム(390円)を買った。

そんな銀座から、日本橋まで歩くことにした。日本橋の西詰にある「とやま館」を覗き、ます寿司があれば買うつもりで。途中、八重洲を過ぎたあたり、地理的には京橋になるか。複合ビルの中に山口県のアンテナショップを見つけたので立ち寄る。

ここで、フグの冷凍唐揚げや、我が田舎でカチリと呼ぶチリメンジャコの干したやつなどを買った。食いしん坊オヤジは、食い物を見るとついつい手がでてしまう。貧乏人らしい性で、食い物に弱い!。

中央通りから日本橋へ、何処もスマホやカメラを手にして写真を撮る人々で賑わっている。こっちも負けずにスマホをかざしているのだから、お上りさんだよねぇ~。

                 

お目当ての「とやま館」に着いたが、マス寿司は完売されていた。これも想定内であったが・・・。雨粒が落ち始めたてきた。目の前の三越デパートの別館から本館につながっているので銀座線・三越前駅から渋谷に出ることにした。別館の地下で、食パンなどを。本館の地下ではミニクロワッサンなど買ってメトロの人となった。

                   

渋谷ではメトロから繋がっている東横デパートの地下の店で、夕食の食材に「魚」を買うつもりであった。肉がつづいているので魚をと云う次第で。相変わらず、食い物漁りであったが。

折角ここまで回り道をしながら、店内を歩くも美味しそうな魚が見当たらない。とはいいながらも何かをと、「明太子」「白いか」と「はまち」を買った。イカは姿を三杯、ハマチは柵である。

四時半、地元の学芸大学駅に着いたら雨が降り始めていた。小ぶりであったのは幸いである。

ひと休みしてから、夕食の準備に入った。イカを処理して刺身とゲソとエンペラはバターソテー、ハマチも一柵を刺身にした。椎茸はバター焼きに。味噌汁と大根&椎茸・油揚げの煮物。以上に、朝の残り物の焼肉、小松菜とシメジ炒め、サラダが令和の初夕食であった。飲み物はレモンサワー&缶ビールと仕上げにウイスキーを少々で、令和時代の幕開けを祝した。

令和元年、初日の買い物は総じて良くなかった。スタートからこれでは、先が思いやられるが・・・・。それとも、先は長いと気を取りなおして、食材漁りか・・・。

 

 

 

 

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平成最後の日に・・・

2019-04-30 | Weblog

平成31年4月30日(火) 今日、今上陛下が退位された。明日、新天皇の即位と新たな元号「令和」となる。その節目の日となるのでBLOGを記すことにした。

我が過ごしし平成の時代を振り返ると、サラリーマンとして管理職となり昭和天皇崩御と平成の時代を迎えた。そしてバブルとその終焉、日本経済の長い低迷を過ごしたことになる。

平成の世の半ば、サラリーマンを辞めて遅まきながらの転職。今上陛下の退位が決まった昨年末に、私も会社人生に終止符を打った。

三十年に渡る平成時代を振り返ると、自身にも様々なことがあるが、とりわけての出来事は平成元年、まだスタートした月に従弟の武本 章を失ったことである。クモ幕下出血で冬の朝に逝った。実の弟のようにしていた彼を亡くしたのが、平成最初の出来事であった。

それからの平成の御代三十年、過ぎてしまえばあっという間のことだが、経済的には興隆から低迷へと転変したこの国が戦もない時代を経たことは慶事と言わざるを得ない。自身にとっても、なんとか山谷を越えて勤め人としての人生を終えた。

そんな平成の時代が終焉したわけだが、そんなことの感慨に浸っていてはこれからの余命を生きるに情けない。さりとて、未だに先行きが定まらず。ただただ、日々の、目先の予定をこなしているのが実態である。

我、行かん。その気概だけは捨てずに「令和」となる明日から、新たに歩めれば好である。

余談ながら、たまたま今日は家族でBQを行う日であった。雨の予報のために屋外への遠出は避けて、結局は我が家に全員(13人)が集合して開催となった。雨を避けて玄関先に焼き台を置いてのBQ、にぎにぎしく一日を終えた。全員が揃うのは、年末のクリスマス会と正月二日ぐらいか。

例年であれば、その二回とも私は郷里で過ごしてきたが、両親が彼岸へと渡りその必要もなくなったことと、連休中に病院でCTを撮ることになった。また、店舗賃貸の行方が不透明なことなどで東京で過ごすことにした。

実家の庭の改修をこの連休でやってくれることになった。任せ放しで恐縮だが、妹夫妻に委ねた。来月の半ばには東京での諸々が見えるであろうから、一週間ばかり帰省の予定である。

 

 

 

 

 

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大型連休に入り・・・

2019-04-30 | Weblog

4/29(月) 世間で十連休と騒ぐ大型連休に入り、今日は三日目となるが素浪人にとっては何日であろうが関知するところではない。さりとて、家人や家族にとってはそうでない。そんなことで、素浪人も些かの関りを持たざるを得ないのだが・・・。

家人の方は日曜も休日もなく仕事に出ている。今日は、家人の処で働くようになった長女も出勤するとのことでサンドイッチの弁当を作ることになった。スタッフも一人、出勤するとのことなので簡単なものだが三人分のサンドを用意した。

貧乏オヤジは食パンの耳を落とさない・・・耳なしホウイチにはしないのだ(昔話を知らなきゃ意味不明、可笑しくないか)。

               

弁当のことはさて置き、夕食の準備も居候のような私が作ることが多い。金曜日や土曜日のように外出した日はに無理だが。昨夕は、筍や茄子を天婦羅にし、筍の土佐煮、筍ご飯と在庫の消費に努め、土曜日の蕎麦打ち会で打った蕎麦を茹で、夕食を用意した。

今朝は根菜の煮物を、今夕は親子丼と鶏唐揚げ焼き魚などを準備し達た。まるで飯屋のオヤジのようだが、こんなことでもしてなければ間が持たないのも事実・・・。

 

連休前夜の金曜日、YOSHIOから連絡があり意見を聞きたいとのことで人形町に行ったのが午後四時。話を聞いてから、五時半前に五反田の居酒屋「蔵や」でUSUI老と落合った。「蔵や」に入るのは何年ぶりか?、それほどの顔だしであった。

この店の店主が狭い厨房の中を動き回って作る摘みの数々が凄い、美味い。美味くて安いときているので狭い店内はすぐに満席となる。我らが席を取った後も、常連さんや予約で席は埋まった。女将さんの仲立ちで隣に座った常連とも会話がはずみ、味よし客よしで、楽しく愉快なひと時を過ごしたのであった。

              

店の手洗に入ると、壁の棚に飾った生花が瑞々しくて綺麗だった。思わず手を触れた、余りにもきれいで瑞々しかったので。女将さんの細やかな心遣いが伝わる。

                 

ほろ酔いで「蔵や」を後にし、二人して人形町に戻り「セイジュ」へ。月例のセイジュ会をママさんが入院して不在ながらも継続であった。何時ものメンバーが揃い、婆さんママの快気が何時のことやらと、勝手な談義をしてカラオケに興じてひと時を。

最後に閉店札の下がった「高松」に行って金魚割を飲み、仕上げの小蕎麦を食して帰宅した次第。

               

 

連休に入った土曜日、NPO・日本橋粉の会が主催する「蕎麦打ち会」のある日であった。ちょっと遅めの11:30に行った。遅めに行くのは私の常だが、早めに行っても一斉に打てるわけじゃなく、最後の人が終わってから始まる懇談会にも参加するので遅く行く次第。

            

捏ねから延ばし、切りから茹で方まで師匠連が丁寧に指導してくれる。ここで作る蕎麦は二八蕎麦と呼ばれる、小麦粉二、蕎麦粉八の蕎麦である。この日は、師匠が打った桜蕎麦も懇談で頂いた。

たまに行っても上達しない!、回数をこなして慣れるしかないようだ。同じ蕎麦粉を使いながらも打ち手によってこれだけ味が違うかと、師匠連の打った蕎麦でも味が違うのが分る。蕎麦を食し、懇談のビールや焼酎を飲みながら、鎌倉から来てると言う隣に座った師匠の話を聞く・・・、これがまた楽しい。

この日は、午後四時半に後片付けを終えてお開きとなった。、丁度いい時間であった。と云うのも、この土曜日はUSUI老の誘いで焼肉を食べに行くことになっていた。五時半に堀切菖蒲園駅で待ち合わせだった。

人形町駅から都営浅草線の青砥駅で乗り換えて堀切菖蒲園駅に着いたのは、待ち合わせ時間の十五分前と頃合いであった。駅に老と、AOKI君が既に居た。彼らは一時間も早く着いたとのことで、駅から至近の菖蒲園に行ってきたとのこと。

             

駅前の通りを渡ってすぐの「牡丹峰」なる焼肉店が老のお勧めの店で、老の案内でこれまでに二度来ている。然し、わざわざここまで来るほどの意味は?ながらも、老の誘いならば如何ともしがたい。

他に二人、老が誘った五反田の整体店のオーナー姉妹が来るとのことだが遅れていた。私とAOKIは先に店に入り、始めた。カルビやハラミなどバンバンと注文し、マッコリを飲みながら・・・。全員が揃う前に満腹。蕎麦打ち会で飲み、摘み、蕎麦まで食し、さらに焼肉までだ。過食だねぇ~。

 

連休の初日から飲&食でスタートとなった。二日目、三日目も自分で作り食事量が増えている。おまけに明日は、家族のBQ会である。雨は間違いないので、我が家か長女の家でやることになったが・・・。明日の雨の状態でどっちにか決めるそうだ。どっちでもいいが、子供達を入れると十三人だぜ!煩いだろうね!。

こっちは、過食に気をつけることにしよう!。

 

 

 

 

 

 

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平成最後の週末・・・

2019-04-26 | Weblog

4/26(金) 四月最後の週末、金曜日。平成と云う年号では最後の金曜日&週末になるが、だからなんなんだ!と、言われりゃそのとうりで何んの意味もないか・・・。昨日は最後の木曜日、明日は最後の土曜日と云う次第だから・・・。

大方の勤め人は明日から大型連休に入り、日頃のプレッシャーや疲れから心身を解き放ちて英気を養うことであろうが、こっちは日々が連休だ。頭も体も解き放ちならぬ溶けたような状態だが、それでも十連休などと聞くと、中小零細の事業者の収支が他人事ながら心配する。零細会社の経営に携わってきた貧乏根性が未だ抜けない由にか!。

斯様なことはさて置き、今朝の貧乏オアヤジの弁当について紹介する。

今朝は牛ステーキ(豪華?じゃなくて安いオージービーフさ)と、ホタテ&ホウレン草・シメジのバターソテー、卵焼きに辛明太子と云う塩梅である。炊き立ての飯に明太子はよく合うが、昼にはどうかなと思いきや、弁当を食す家人と長女からは絶賛された。

          

この辛明太子、四月から取り始めた〒パックのふるさと便で届いたものだが、期待もしていなかったが好評でよかった。田舎の〒局長から勧められて初めて取り始めた次第だが。何しろ〒の局舎は、母が亡くなってからは、僅かな年金しかないであろう妹の名義にしたが賃料を頂いている。出来うる限りの協力は吝かでない。

余談が長くなったが、今日の弁当は旨そうだ!特にホタテ&ホウレン草が良い。ホタテが極上品(頂きものだが)の上に、バターソテーしたホウレン草とシメジにマッチしている。自画自賛!。

          

かくして、二人分の弁当を作り終えて今朝の遊びが終わった。

            

が、今夕は五反田の「蔵屋」なるご亭主と女将さんで切り盛りする居酒屋にてUSUI老と一杯やり、そこから「セイジュ会」のために人形町に行く。今夜は3~4軒廻ることになりそうだ・・・。

「蔵屋」は五反田・有楽街のはずれ角に在る、狭くて小さな古家の店ながら、ご亭主の作る肴が絶品ながら安い。以前は在籍した古巣で取引先でもある某社の面々とこの店でよく飲んだ。USUI老もこの店の常連だったが、先週に久しぶりに顔をだしたら女将から私の話が出たそうだ。となれば顔を出すしかないが、人気店なので予約をしないと危ないと、老が今夕と決めた次第。

明日から十連休みだ?今夜はゆっくりと遊ぼう!。 こんなに顔にならぬ程度に!。

 

 — 思い出酒場 ④ —

このテーマでは、お世話になったり社会人としての在り方を学んだ酒場の思ひでを記している。お店や経営者がなくなり、或るいは音信が途絶えた方との酒場での思い出である。前の三店は年若の頃からの順であったが、そういう点から、今回は、どの店の思い出を記すか迷った・・・。店・人との出会いは前後するが、今回は新橋に在った店「パンドラ」について・・・。

その店の女将(ママ)の名を、私はオタカさんと呼んでいた。未だ新橋・烏森口の西側に戦後まもなく建ったような間口1~2間の小さな居酒屋が林立する一角があった。当時の上司に連れられて、常連らしき一軒の店に行ったのが知り合うきっかけであった。

オタカさんは、その店のオーナーの知り合いとかで手伝いに入っていたと、後に知るが。この辺り一帯を区画整理(地上げ)する話が進んでおり、その保証金目当てで店は続いていた。未だバブル序章の頃であったろう。

当時の上司二人がお酒大好きな方で、飲みにでるのはいいが企画担当であった私は何度か付き合う運命にあった。飲んで帰ってくれればいいが、会社に戻って泊まることが間々。そんなときは私も会社に戻り、上司の布団を用意してから終電かタクシーで帰宅する。最後は馬鹿らしくなって付き合うのを止したが・・・。

初めてその店に行ってから2~3年経っても未だ店みせは残っていた。が、私は遠ざかったままであった。通信局で係長をやり本社に戻ってから辺り一帯の店が立ち退きはじめた頃、近場で飲んだ二次会に、久々に顔を出したら店はオタカさんが一人でYAやっていた。間もなく立ち退き、烏森口でスナックを始めるとのことだった。

その店が「パンドラ」という名のスナックだった。何故か分らぬがオタカさんは私を気に入ってくれていたようだ。当時の上司に私を連れてきてと言ってたそうだが、そんなことは聞いてないし、居酒屋で飲む習慣もなかった頃だ。

「パンドラ」には当時の部下や知り合いを連れて顔を出すようになった。何時も学割?にしてくれていたようだ。在籍した会社の株主総会後の打ち上げに、社長や取り巻きが使ったこともあったようだが、店は繁盛しなかった。結局、烏森小学校の裏手に店を小さくして移った。前の店の半分以下のスペースになっていた。

私の当時の勤務場所は日比谷、日比谷から新橋は指呼の間なので友人や部下を連れて飲みに行くことが多かった。当時の手下たちもお世話になったことだろう。すでにバブルが始まっていたのだろう、こっちは、銀座・赤坂・六本木と飲み歩くに忙しかった。お財布の方も忙しかった時代である。

私は品川に転勤となり、パンドラに顔出す機会が少なくなった。そして間もなく、パンドラは店の幕を下ろした。オタカさんは、店の常連だった客の紹介でデパートの派遣定員になったと連絡を貰い、一度だけそのデパート日本橋・高島屋に訪ねたことがある。元気そうにしていたが、その後、音信は途絶えたままになった 。

店をやるのは難しいものさ、そんな例を幾つもみているが・・・。随分と気にかけてもらい、よくしてもらった。なんの手助けも応援もできなかったことが残念である。元気にして生きていてほしいと願っている。

 客の姿がない折に聞くのは「ARIさんはサラリーマンじゃない方がいいよ、自分で商売やった方がいいよ」の言葉が口癖のように出た。そんな言葉を聞いてから、随分と経って自分で会社をやってみたが大したことはなかった、出来なかったよ・・・。

『オタカさんの眼鏡違いじゃないかい』と、会えば云えるのに・・・。ついぞ、パンドラの箱を開けることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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豆ご飯

2019-04-25 | Weblog

4/25(木) 今日のご飯は「豆ご販」にした。昨日の午後、郷里の従姉から茹でた筍と茄子・ほうれん草・青豆などが届いた。先日は妹から筍が届き、ここ数日は「筍ご飯&煮」などがつづいている。そこで、今日は「豆ごはん」にした次第。

この時期、筍やグリーンピース、鯛と季節の食材を炊きこんだご飯や、菜を作るのが常である。季節の三部作、筍ご飯、鯛めし、そして豆ご飯の登場である。

食材の好き嫌いが激しい義母も、炊き込みご飯だけは何を作ってもよく食してくれる。

「豆ごはん」を仕掛け、胡瓜の酢物、ホウレン草の胡麻和え、などを作るが、メインの菜は「トンカツ」であった。フライついでに茄子もフライにしたが、義母は茄子もネギも(青魚も)苦手か箸を付けないけれど、そうそう気にもしてられない。食べないことには、頂いた食材を駄目にするだけだから。

           

昨日の夕、外出する前に「筍と若布煮」「茄子の煮びたし」を作ってから外出したが、茄子の方は家人が食しただけであった。

                   

豆ご飯の炊き込みように使った昆布は、砂糖醤油で佃煮風にして弁当に入れた。貧乏オヤジは、捨てることができない質なのだから。ビールの摘みにもするが、今朝はビールを飲むのは控えたから、弁当の口直し用になった。

            

 

昨夕、渋谷「奈加野」に行って生ビールを飲み店主と雑談、従弟が送っているコメ代金を回収してから人形町に向かった。茹でタケノコを食べきれないので、HOYA兄いにお裾分けと云う次第だった。

「ちょっぷく」で合流し、居合わせたマッチャン女史(セイジュのママが入院中で、店を頼まれている)からママさんのことや、店の状況などを聞きながら暫し歓談。ママの復帰は、早くても六月末か?或いは七月になりそうだ。然し、ボランティアで長期に渡り夜の仕事を引き受けるとは、見上げた性根である。『店仕舞いの時間をはやくしなよ。体がもたないよ』と言ったが・・・。

我らは「高松」へと向かったが、途中のラーメン店のカウンターに見かけた顔があった。TAGOッチが相客が居ないカウンターの奥でスマホを弄りながら飲んでいた。兄いと二人して、入り口のガラスドア越しに暫く眺めてると、漸く気付いて「イヤだ~」とか言いながら出てきた。

「俺たちはこれから高松へ行くんだよ。来なよ」と兄いが誘うと、「行きます」との返事が。高松で飲んでいると、TAGOッチは姿を見せた。然し元気がない。彼女はアニメソングの歌手を志し、レッスンなども受けていたが、最近は行けてなと言う。

かつて彼女は、ドトールでチーフをやりながら、夜は高松でバイトをしていた時期がある。が、すぐそばにある会社に転職したのを契機にアルバイトは禁止になった。聞くと、この頃、休日勤務や残業がなくなり、収入がへこんだそうだ。『俺なんか、年金暮らしだぜ!、元気出せよ』と励ますものの・・・・。

「高松」で終いまで飲み、店を出しなに「次は何処へ行くの?セイジュ?」と女将が問う。そうだね、と、応じると「後から行くから」とのこと。てな次第で客の姿がないセイジュで、マッチャンを相手に二人してカラオケ。水曜日は客足が遠いとのことだった。

実は前夜もが短時間ながらセイジュに寄っている(セイジュ会用に4ℓウィスキーを届けに)。ばかりか、高松で後輩のTAKAHASI君の放免祝い(無事に会社を完全退職できた)をUSUI老を交えてやり、ちょっぷくにも行ったのだ。連夜して同じパターンであった。

女将とタゴッチが連れだって姿を見せ、カラオケの続きとなった次第である。マッチャンに店を早く閉めるようにしたらと云った舌の根も乾かぬうちに・・・。帰宅は零時に数分前だった。駅を出ると小雨がつづいていた・・・。

                

 

 

 

 

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