オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

悲しい哉・・・御子柴さんの死を悼み

2023-01-19 | 弁当

令和五年1月18日(水)BLOGを記すのは帰郷以来となった。10日に田舎に戻り細々と畑遊びなどで過ごし、一週間が経過したことになるが、全て遅々として進まず。雨に三日も降られて田圃畑に入るのは泥んこになるせいでもある。

前夜も深夜に雨音がした・・・。だが、明けると晴天、今日の午後実験用に有機たい肥作りの実験畝を作っていたら資材置き場の屋根が強風ではがれた。夕方に広勝に見てもらい、明日修理をすることになった。一昨日、資材置き場の整理をし、屋根の雨漏り場所を補修したのが災いしたか。

骨折をして以来、長く次女の処に行っていた従姉のかっちゃんが、自宅に戻ったのが先週の土曜。その後も体調不良だったが、今日はデイサービスに行ってから戻ったので、体調を訊くと元気だった。夕食を一緒し、軽く燗酒など飲んだ。そんな一日が終わる頃にメールの着信音が・・・。

暫くしてメールを確認すると、JUNKOさんから。なんと訃報の連絡であった。

四半世紀以上も前、と云っても、ついこの前のような気がするが。サラリーマン時代に職場を一緒にした御子柴君が、独居自宅で倒れて亡くなったとの連絡であった。只々、残念というしかない。

当時、現場仕事のチームリーダー(課長)の一人だった彼は、理知的に物事を考え、やさしいタイプで異色とも思えた。海千山千の強者スタッフをまとめて成果を上げるために苦労をしていた。そんな彼らと、職場を別にしても交流がつづいたが、一人二人、三人と冥途に発っていく。生きとし生けえるものの宿命とはいえ、残念な思いである。

御子柴さんはサリーマンを退職した後、社会福祉や障害を持つかたのお手伝いをされていた。サラリーマン時代と違い、時には私に憎まれ口?をたたくような可愛げがあった。

数年前、私は函館に旅をして丁度桜が満開の松前城を歩いていた時、携帯が鳴った。御子柴さんからで「JUNKOさんとお付き合いをさせて頂くことになりました」との声が!。電話口で思わず大笑いをしたのであった。奥さんを亡くしてから長いし、JUNKOさんもひとり身(両親の世話をしていた)になっていたので何の問題もないが、JUNKOさんは皆のアイドル、象徴的な存在だった。皆から恨まれなければいいがと、少し心配もした。要らぬお節介ながら。

コロナの所為や私の田舎暮らしも相まって、御子柴さんに会った最後は一昨年の初夏、田辺さんの墓参に数人で行った時が最後である。蛇足ながら、その帰途、川越で鰻屋さんに寄って食事をした覚えがある。

当時の職場仲間、その後は友人達が一人、また一人と亡くなっていく。歳下の御子さんまで逝くとは・・・残念と云うしかない。

そんなメールがあったからか、先ほどうたた寝をしていると夢をみた。

私は死んでいた。その死後の世界のなかで、今までとちっとも変わらずに街を津川さんと歩きながら「死んでも何もかわらないね」と、喋りながら死後の世界はこんなものかと、なんにもかわらず未練心もないんだと、死んでいる自分に言っていた。

帰郷前、長女一家が食事に来て云うに「お父さんが死んじゃったと、ワアワア泣いている夢をみちゃった」と、長女の瑞希が言った。早晩死ぬさ・・・と応えたが、ワアワア泣いてくれるものが一人いるだけで十分だと思った。

生きとし生けるもの、みな成仏するのみか・・・。それでも若い人が逝くのは残念だ。御子柴んさんに合掌、ご冥福を祈ります。

 

そういえば、今日は大星さん(徳島県板野町の先輩)の三回忌だった。安らかにお眠り下さい。

 

 

 

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