SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ ⑪

2013年11月11日 | 日記

    

                                     (大多喜町生け花クラブの作品)

    福音の力を体験せよ ⑪

 人が年をとって、夫婦だけの生活になると、もう子供のことで煩わされる必要はないですよね。落ち着いた、穏やかな日々を送ることができるようになると思います。しかしながら、私の父の場合は、そのようにはなりませんでした。

 私の父は10人の子供を育てた後、12年間子供がなく、60歳になってから、息子をもうけました。ところがこの子は、他の10人の子供よりも、はるかに多くの問題を父にもたらしました。私たちは田舎で生活していましたが、末の弟は都会で成長しました。父が78歳の時、その子は18歳でした。彼は父に数多くの問題をもたらしていたため、実家を訪ねた私に向かって、父は助けを求めて叫んだのでした。

 私たちクリスチャンは、このように考えているのではないでしょうか。「聖化とは一生涯続けなければならないことで、人生の最後の最後でどうにか完成するものだ」と。同じく「聖化とは、罪を一つひとつ解決していくことだ」と信じているのではないでしょうか。皆さん、それは欺瞞です。皆さんが神様によって義と認められたとき、罪が終わり、聖とされるのです。それはどのようなことかというと、私たちは、自我という神様に対する反逆の霊に支配されて生まれてくるのですが、その自我が屈服させられ、自我に死に、神様のみ言葉に完全に服従する心が与えられるということなのです。その後の人生は、罪の誘惑や、日々の失敗はありますが、本質的な神様への反逆の心がなくなっているので、すぐに悔い改め、喜んで神様のみ言葉に従った歩みをするのです。以前の私は、これらのことを知りませんでした。そのため「何とかなるさ」という気持ちで過ごしていました。

 

     新生への道 10 神についての知識 ⑨

 熱心に注意深く、たえず祈りながら学ばなければ、知恵を得ることはできません。聖書には、わかりやすく書かれていて間違う余地がないところもあれば、また表面に意味があらわれていなくて、ざっと見ただけでは少しもわからないところもあります。聖句と聖句とをよく比較して、注意深く研究し、祈りのうちによく考えなければなりません。そのような研究は豊かに報いられます。鉱夫が地下深く掘り下げて、隠れている価値ある鉱脈を発見するように、辛抱強く、神のみ言葉を隠れている宝のように探すならば、不注意な探究者の目にはとまらない価値ある真理を発見することができます。そして、心の中で熟考された霊感によるみ言葉は、いのちの泉からわき出る流れのようになるのです。

 聖書は、決して祈りをささげないで研究してはなりません。ページを開くときは、聖霊の導きを祈らなければなりません。この導きは必ず与えられます。ナタナエルがイエスのもとに来たとき、救い主は、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」と驚きの叫びをあげられました。ナタナエルが「どうしてわたしをご存じなのですか」と尋ねると、イエスは「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハネ1:47,48)と答えられました。イエスは、私たちが真理とは何かを知りたいと光を求めるなら、隠れた場所で祈っていたとしても必ず見ておられます。心を低くして神の導きを求める者には、天使が光の世界から送られるのです。