(季節外れの河津桜と10月桜)
福音の力を体験せよ 22
ヨハネの黙示録3章は、残りの教会として、とても重要な意味を持ちます。イエス様は、ラオデキヤ教会に語られました。私たちは、ラオデキヤ教会を生ぬるい教会と呼んでいます。それは正しい名前ではありません。ラオデキヤとは、「生ぬるい」という意味ではなく、「民が裁きを受けている」という意味です。
神様は今、ご自身の民を裁いておられます。神様が裁きをなさるとき、教会の中で冷たい者、生ぬるい者、熱い者を発見されます。
冷たい者は、心を完全にイエス様に捧げていないということを知っている人です。彼らは、礼拝日ごとに、教会に来ているかもしれません。また、教会で奉仕活動をしているかもしれません。彼らは心で、主に屈服することを願うかもしれませんが、自分が全く屈服していない者であることを分かっている人です。しかし、どうしたらいいのか、なすべきことが分からないのです。そうでなければ、いつかはそうするかもしれないけれど、今すぐイエス様に心を捧げようという気持ちがない人、まさしく、それが冷たい人です。
新生への道 11 祈りの特権 ⑩
祈りは努めてしなければなりません。何ものにも邪魔されてはなりません。イエスとあなたの魂との交わりを、常に保つことができるよう、全力を尽くさなければなりません。そして祈りがささげられるところへは、努めて機会あるごとに行かなければなりません。神とほんとうに交わりたいと求める人は祈祷会に出席し、自分の義務を忠実に果たし、できる限りの利益を得ようと思って熱心です。彼らは、天からの光を受けられる所へはできるだけ機会を作って出かけます。また、家族と共に祈らなければなりません。わけても、密室の祈りをおろそかにしてはなりません。これは、魂の命であるからです。祈りをおろそかにしていながら、魂の健全を願うことはできません。家族の祈り、また、公の祈りだけでは不十分です。人のいないところに退いて、心を探られる神のみ前に心をすっかり開かなければなりません。密室の祈りは、祈りを聞かれる神にだけ聞かれるべきで、好奇心にかられて人が聞いたりすべきものではありません。密室の祈りでは、心は周囲の影響を受けたり、また、興奮したりすることもありません。静かにしかも熱心に、神に近づこうとします。そのとき、隠れたことを見ておられ、心からの祈りに耳を傾けられる神から、うるわしく、永久的な感化を受けられるのです。穏やかでしかも単純な信仰によって、魂は神との交わりを保ち、神から光を受けて、悪魔との戦いに立ち得るために心は強められ支えられるのです。神は、私たちの力の源です。