福音の力を体験せよ ⑲
まさにこれが、以前の私の状態でした。そして、父が訴えて来るまでは、誰も私にこのことを気づかせてくれませんでした。
“皆が明かり〔ランプ〕を持っていたが、それは外見の宗教形式に過ぎない。”(SD 118)
父は、11人の兄弟のなかで、私を一番良い子と呼んでいました。なぜなら、私はよく気が回る子供であったため、父が言葉を発する前に、父が望むことをやってしまっていました。私は素直に「はい」と従うのが好きな子供でした。教会や学校でも、従うことに何の抵抗もありませんでした。けれども私は、思慮の浅いおとめでした。 五人のおとめのように、私は、キリストの霊、聖霊の働きについて全く理解しておらず、内面的な敬虔さというものがなかったのです。
“もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない”(ロ-マ8:9)。
それでは皆さんの心の中に、キリストの霊が宿っているのかどうか、どのようにして分かるのでしょう?それにはまず、神様の愛の原則に従って生きているかどうかを振り返ってみてください。神様の愛の原則に従って歩むことは、キリストのみ霊なくしては、とうていできることではありません。
新生への道11 祈りの特権 ⑦
この保証は広大無辺なものですが、誠実な神の約束です。私たちが祈ったときに、求めた通りのものが与えられなかったとしても、主は私たちの祈りを聞き、答えてくださることを信じなければなりません。私たちは間違いが多く、先を見ることができませんので、自分の祝福にもならないことを願うことがよくあります。けれども天の父は、愛のうちにその祈りに答え、私たちのために最も良いものをお与えになるのです。それは、もし私たちが天からの光に目が開かれ、すべてのものの真実の姿をながめることができたなら、私たち自身も必ず求めるものです。私たちの祈りが聞かれないように見えるときも、約束にかたく頼らなければなりません。なぜなら、祈りが答えられるときが必ず来て、私たちが最も必要とする祝福を受けるようになるからです。けれども、祈りはいつもわたしたちが望んだように答えられ、または、望んだ通りのものが必ず与えられると考えるのは、独断にすぎません。知恵に満ちておられる神は、決して誤ることなく、また、正しく歩む者に良いものを拒まれることはありません。ですから、たとえ祈りがすぐ答えられなくても、恐れず神に頼り、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7)という神の確かな約束を信頼しなければなりません。