福音の力を体験せよ 40
皆さん、どんな事が起こったと思いますか?一週間後、彼女が我が家に現れたのです。家に入ってくる姪を見ながら、心の中で思わず、「主よ、これは一体どういうことでしょう?」と叫びました。
19歳になった姪は、故意に罪の世界で過ごしていました。イエス様を求めていませんでした。そのような魂に、私たちはどうやって近づくことができるでしょうか?私は切に祈りました。私たちが会話を交わしていると、玄関の戸をたたく音がしました。開けて見ると、すぐ隣に住んでいる牧師夫人でした。
「マーガレット、あなたたち夫婦が最近、聖書から特別な真理を発見したと聞いたんだけど、それを私にも教えてもらえないかしら?」
私はその婦人を家に入れ、この福音について話をしました。私が彼女に福音を説明している間、姪がすぐそばにすわって、その話を聞いていたのです。婦人が帰った後、姪がこう切り出しました。
「おばさん、もし福音にそのような力があるとすれば、私にも望みがあるかしら?」
「どうしてそのように思ったの?」
「おばさん、私がどんなに頑固かは、おばさんが良く知っているでしょう?私は、クリスチャンである自分の親が、実生活において勝利できない姿を、ずっと見てきました。」
彼女の父親は、教会学校の先生でした。皆さん、職場では、勝利した生活を送っているかのように見せることができます。しかし、家庭で自分の家族と一緒に過ごすとき、勝利した生活を送ることができるでしょうか?
⑧
神は、人間が理性の力を働かせるように望まれます。聖書の研究は、他のどんな研究にもまさって知力を強め高尚にします。しかし、理性を絶対化しないように気をつけなければなりません。これは弱い人間にありがちなことです。聖書が難しくて理解できないとか、ごく明白な真理でさえも理解できないなどということがないようにするには、どうしても、幼な子のような単純な信仰を持ち、教えられる気持ちで聖霊の助けを求めなければなりません。神の力と知恵、神の偉大さなどはとうてい私たちには理解できないことを知れば、それは私たちを謙遜にし、ただ聖書を開くときであっても、神の前に出るかのような、うやうやしい気持ちにさせるのです。聖書を学ぶにあたっては、そこに私たちの理性以上の権威を認め、心も知性も「わたしはある」と言われた偉大な神のみ前にひざまずかなければなりません。