私たちの霊的な目が開かれて、自分が罪を犯すたびに、サタンが全宇宙の前で拍手しながら「見なさい!イエスの死は無駄だった」とイエス様をあざ笑う姿を見ることができるなら、早く罪を捨てるだけでなく、どれほど罪を憎み、罪を犯すよりは死ぬ方がましと思い、二度とキリストを笑いものにしたくないはずです。
このように嘲弄されるイエス様のことを思うと、心が痛くて罪を犯せなくなります、と言うと周りの人はこう言います。「そんなことにストレスを感じない方がいいよ。私たちは朝祈って一日を始めても、昼までには罪を犯すような者だよ。だからキリストが私たちのために死なれたのだよ」「いくら努力しても、人は罪人として生まれたのだから、罪を犯すのは仕方がないよ。そのためにイエス様が来られたのだよ」「罪を後悔して泣きながらお祈りしても、ドアを閉めて外に出たら罪を犯している。だからイエス様の赦しの恵みがなければ生きられないよ」
罪を犯すことが当たり前で、人生の一部になってしまった状況です。律法主義者と言われることを恐れて、神様の戒めについて説教しない間に、人々は罪に勝利させてくださる福音が何なのか知ることもできず、罪の奴隷になって死んでしまっています。もし全ての罪を克服することが不可能であれば、人が克服できないある罪は、神様が容認されるという論理が成立します。それなら神様はどの罪を容認されるでしょうか。
また、この罪は勝利が不可能だと考えるなら、あえてその罪を犯さないための努力も無意味になります。このように、ある罪は克服できないと判断することが、どれほど危険か気づかれました? 神様が罪から解放されなかった自分も、救ってくださるだろうと自分を騙してはなりません。
イエス様が再臨される時には、罪人を赦す救世主として来られません。その時は、十字架の血で罪を洗われ、その愛によって変えられ、神様の御心通りに歩んでいる、本当のクリスチャンを迎えに来られるのです。
皆さんは、この群れに含まれることを望みませんか? 私たちの姿を通して、神様の名が永遠に聖なる方として栄光を受けられることを願いませんか?
今回の時間と前回、この二つの講義ができて私は本当に嬉しいです。私がこの世に生まれ、必ず伝えなければならない、大切なメッセージを伝えたと思います。 本当にもう死んでも思い残すことはありません。この二つの講義は私の命より大切な真理です。
真理が皆さんを自由にすることを、本当に切に望みます。神学の教理の中の神様ではなく、私を罪から救ってくださるイエス様に会われることを切に祈ります。「神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている」(黙示録14:12)民として、最後の使命を果たす神様の証人として準備されことを望みます。そして、イエス様がまた来られるその時、喜びのうちに主を迎える席に、私たち皆がいることを願います。
次の時間にお目にかかります。 さようなら