とにかく、もしかしたらそのバスにカバンがそのままあるのではないかと思って、そのバスはソウル清凉里(チョンリャンリ)まで行ってグリに戻る路線でした。それで私たちは降りたバス停の反対側でそのバスの帰りを待ちました。 まさに12月!その時は12月26日頃だったと思います。1時間、イヒョンと私は、妻と楽しい時間を過ごしました。イヒョンはママの気持ちを明るくさせようと、いろいろな話をして明るい雰囲気を作りました。カバンを失くしてひどく落ち込んでいるので「なんで大事なカバンを置いて降りたの?」などと言って責めることはできませんね。それでなくても絶望して「私のような人がどうして神様の働きをすることができるの?」と思っている人に何か言ったらもっと傷つきますね。それで私たちは寒い日でしたけど楽しい時間を過ごしました。そのうちにバスが戻って来ました。かばんを探したでしょうか。はい。ハッピーエンドでした。ちょうどそのバスが来て、私たちがカバンを探しに乗ろうとしたら、運転手さんがそのカバンを渡してくれました。カバンが見つかったのです!
これとは反対に、ある事実を忘れていてよかったことがありますか? 少し抽象的な話に聞こえるかもしれません。皆さんは忘却という事実がどれほど大きな感謝の条件なのか考えたことがありますか? いろいろありますが、もしここにいらっしゃる主婦の方々が最初の子どもを生んで、永遠にその出産の苦痛を覚えているなら、おそらく地球の人口はずっと減っているはずです。まあ、最近は痛みをなくす方法もありますけど、とにかく神様は忘却というプレゼントを私たちにくださいました。また私たちの人生には心の痛む記憶もたくさんあります。忘れたい記憶…そういうことを私たちがずっと覚えているなら、多分この世の中を生きるがとても苦しいはずです。しかし、神様は私たちに忘却という賜物をくださいました。よく「時間は薬である」と言います。それによって私たちは癒され、再び立ち直って生きていくことができるようになります。しかし、問題は私たちが全部忘れたようであっても、何かのきっかけでまたよみがえってきて私の心を苦しくすることがあるのです。「そんなこと忘れてあげよう。あの人を赦してあげよう」、そう誓い、決心してすべて解決されたようですが、ある日突然頭の中をさっとかすめると再び悔しくなり、また、苦しくなってしまう、そんな経験がたくさんあるでしょう。
そのことを考えているうちに、私たちが忘れないでいるということも、一種の傲慢だと思えるようになりました。私を傷つけた人たちについて「あの人がどうして私にあんなことができたのだろう、あの人はそんなことやってはいけないのに!」。悔しいですか? もし私たちにそんな気持ちがあるなら忘れてしまってください。それも傲慢です。皆さん、今はどんな時ですか? ローマ教皇が辞任しました! この話をすると長くなるので短くしますが、今回の教皇の事件を見ながら、一つ、あることを考えました。