トルストイはまことに不幸な人でした。自ら完全な人になろうとした彼の努力はこうした結末で終わってしまいました。トルストイは、イエス様を頼るよりも、戒めを見たのです。罪人を救ってくださる神様の働きに頼るよりも、人間がどうしたらキリストの完全に至るかだけを求めた人生でした。トルストイは神様に受け入れられる経験なしに、高い標準に向けて駆け出しました。失敗したら、さらに自分を鞭打って、清くなるために努力しました。神様の赦しを経験できないまま生きました。高い標準がトルストイには偶像になったのです。完全ということがトルストイの偶像でした。それで律法を守るためにそのように努力したのです。
このような話をすると、私がまるで律法廃止論者のようだと誤解されるかもしれません。それは全くちがいます。神様は私たちになぜ律法をくださいましたか? 律法は、私たちのために与えられたもので、私たちが律法のために存在するのではありません。これが反対になると、トルストイのような人生を生きることになります。トルストイは自分が律法のために存在しているかのように生きました。
ここには第2、第3のトルストイはいませんか? たぶん多くのクリスチャンがこのような信仰生活になっているのではないかと思います。
清く生きようとして焦らない人、清くなろうとして罪の事ばかり考えない人の方がむしろ平安があり清く生きるようになります。なぜなら清く生きるということは、自分の努力で得られるものではなく、神様の恵みだからです。神様は、私たちがどんなときにも平安を得られるように、愛と赦しというセーフティネットを与えられました。