ある人の話をします。
トルストイはロシアの大文豪ですが、とても信仰的なクリスチャンでした。トルストイは山上の垂訓の言葉を文字通り従おうとしました。イエス様がお金持ちの青年に彼の全ての財産を売り払って従いなさいという言葉を読んで、トルストイは自分の全ての財産を売って貧しい者たちにあげ、自分の作品に対する著作権料を放棄して、使用人を自由にしてやりました。持っていた広大な土地を処分し、貧しい者に与えて、農夫たちと同じ靴を履き、農夫たちが着る服を着ました。また、最後の長編小説である<復活>の収益金のすべてをロシア皇帝から迫害されていた宗教団体が移住する費用として与えました。山上の垂訓から学んだトルストイの非暴力哲学は、彼が死亡した後も、ガンジーやマーチン・ルーサー・キングのような非暴力を主張する後世の人たちに影響を及ぼしました。
本当に立派ではありませんか。トルストイはそれほど完全に生きようと努力しました。そのように努力しましたが、心の平和は得られませんでした。死ぬ間際に書いた彼の日記と手紙は自分の失敗に対する悲観的な内容に満ちています。彼が聖書通りに生きようとした時、理想と現実との違いは彼を悪霊のように苦しめました。トルストイは自分が自分をだましているということを、知りすぎるほど知っていました。自分の本心がどんなものかを知っていたので、トルストイは決して良心の呵責から自由になることはできず、不幸でした。
彼はこのような文章を残しました。「キリストの言葉通り生きているかどうかは、私たちが完全さに到達するための過程で、自分自身の弱さを我々が知っているかどうかにかかっている。自分がどれほど完全なのか確認することができない。ただ、知ることができるのはその完全さからどれだけ離れているかだ」。
これは正しい言葉のように思えますね? しかし、この言葉は「あなたはキリストから100m離れている。あなたは50mでちょっとましだね。何だよあなたは1kmも離れているじゃない。もっと頑張ってやり続けなさい」。そんな意味になります。そうするとどうなりますか? 自分の足りなさを見れば見るほどさらに足りなさを感じて自信を失い、結局諦めてしまいます。でなければ逆に「私がどうやってイエス様のようになれるんだ!?」と怒ってしまうことになります。
トルストイは自殺しようとする衝動に勝つことができないと思って、家にある紐はすべて隠し、持っていた銃を捨てなければならなりませんでした。結局、トルストイは家族も、財産も、自分のアイデンティティもいずれも失ったまま放浪生活をしていましたが、ある田舎の駅で死んでしまいました。本当に残念な運命でした。