もし皆さんの所に過ちを犯した人が来て「私を赦してください」と言ったとしたら、「何を厚かましくやって来たの?あっちへ行きなさい」。そんなふうに話す人はここにいないと思います。皆さんにも、それぞれ苦しめる人がいるかもしれません。私もいます。私たちを苦しめる人たちがいます。しかしその人が赦しを求めるなら、皆さんはいつでもその人を赦し受け入れる準備ができているのではないでしょうか? 「私がこんなに痛かったのだからあなたも痛い目に会ってみなさい」。そう言いますか? いや、むしろその人が赦しを求める前に先に赦すべきなんですね。それがクリスチャンの精神ではありませんか? 人間でさえそのようにするのに、まして神様はそうされないでしょうか? 私たちは時々、神様を自分達より劣る存在にしてしまっています。「たとい、女がその乳のみ子を忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない!」
「私たちの救い主の事を考えましょう。あなたの罪を負われる方に重荷を下ろしなさい。あなたは、あなたが神様を愛していることを知っています。それなら心配しながら生きることはやめなさい。・・・イエス様があなたの罪を赦されたこと、赦されるということを信じなさい。その方は弱くて困り果てた魂がその方の前に来て、その方に頼ることをお望みになられる方です。単純な信仰をもって、神様の前に出て、『信じます。不信仰な私を助けてください』と言いましょう」(3SM 325p)。