放蕩息子は父が死ぬ前に遺産をくださいと言いました。放蕩息子の話は何度も聞きましたね。テーマは何ですか? 父親の愛、神様の赦し、放蕩息子の悔い改め、全部合ってます。間違っていません。ところでもう一つ追加するなら「大胆さ」です。どういう大胆さでしょうか?
私たちは「ああ、私はもっときよくなるべきだ。もっと善良になるなら神様が受け入れてくださる」と思いがちです。それは、現在の状態ではとても神様の前に出られない、誰が見ても出てはいけないような姿で、「そんなあなたがどうして天のお父様の前に行けるの?」。たとえそう言われたとしても、神様の御前に出て行く大胆さ、その方の恵みを必死に求める大胆さを持たれることを願います。
「『まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した』(ルカ15:18-20)。これは実に優しく、人の心を動かさずにはおかない物語ですが、これだけでは、まだ天の父の限りないあわれみを十分にあらわしてはいません。・・・罪人がまだ父の家から遠く離れた異国で財産を浪費しているとき、父の心はその子の身の上を案じているのです。(新生への道61p)
皆さん、神様は罪を犯した私たちを愛されます。放蕩息子が父のもとに戻らず、豚を飼って結局は病気になって死ぬようになったと仮定します。その時彼は「自分がお父さんの言うこと聞かないで、家出したから神様の罰を受けてこのように死ぬんだ」。違います。神様を誤解しています。神様は、父は、依然として、涙を流しながら待っていてくださいます。神様を誤解しないでください。皆さん! 心に聖霊の訴えがあれば、聖霊の感動があれば、今立って「お父さん、私は神様に帰ります。悔い改めの心を持って御前に行けばいいのです。そうすればいいのです。
「哀れな罪人が帰りたいと思い、罪を捨てたいと願っているのに、主は彼が罪を悔いて主の足もとに来るのを拒むなどと考えられるでしょうか。決してそのようなことを考えてはなりません。天の父がそのような方であると考えることほど、魂を傷つけるものはありません。神は罪を憎まれますが罪人をお愛しになります。
神がキリストをお与えになったことは、ご自分をお与えになったことでした。そして望む者はだれでも救われ、栄光のみ国で限りない祝福にあずかることができるようにしてくださったのです。神が私たちに対する愛をあらわすためにお用いになった次の言葉ほど、強く優しい言葉はありません。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない」(イザヤ49:15)(新生への道63p)。