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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の力を体験せよ 56

2013年12月26日 | 日記

    

             (バラが3週間咲いてくれました)

   福音の力を体験せよ56

次に、香壇は何を意味しますか?キリストの義が皆さんの内に働き、麗しい行いと麗しい祈りが出るわけですが、そうするときに、「神に受け入れられる」と言われています。

ところがイエス様は、皆さんの内に住まわれるまでは、この働きをなさることができません。問題は、皆さんの内に罪が一つでもあるなら、キリストは皆さんの内に住むことがおできにならない点です。罪とキリストは決して共存できません。聖所は、そのことを正確に教えています。

ですから、血で私たちの良心を洗い、次に、水で新しく生まれる必要があります。イエス様は、「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない」と言われました(ヨハネ3:5)。

   新生への道 13 主にある喜び ⑪

イエスは泣かれたが、笑顔を見せられたことは一度もないということは、よく言われることです。私たちの救い主は、本当に、人類のあらゆる悲しみを心を開いて受け入れられたのですから、悲しみの人であって、悩みを知っておられたに違いありません。イエスの生涯は自己否定の生涯であって、悲痛の陰におおわれていましたが、その意気はくじけることはありませんでした。み顔には、苦しみや不平の色はなく、いつも変わらない平和な落ち着いた表情が漂っていました。また、イエスのみ心は命の泉であって、彼の行かれる所はどこにでも、休息と平和、楽しみ、また喜びがもたらされたのです。




福音の力を体験せよ 55

2013年12月25日 | 日記

  

                        (クリスマスのプレゼントにいただきました)

  福音の力を体験せよ 55

皆さん、聖所へ入る前に、完全に洗われる経験がなげればなりません。私たちがこれを理解するのは、極めて重要なことなのです。多くの人が聖霊を求めながら、いまだに洗われた経験がありません。今、聖霊の力が私たちに臨む前に、心の奥のすべてが空にされる経験がなければなりません。

皆さん、イエス様はご自身の生命を、罪やサタンと分け合うことはできません。罪深い私たちと一緒にみ座の上にすわることはできません。それゆえ、私たちは、罪と自分自身とを完全に空〔から〕にしていなければなりません。

その次に、私たちは、聖所で得られるすべての能力を受けることになります。その時こそ、聖霊に満たされることができます。そのように新しく生まれる経験をしたとき、いよいよ皆さんは、霊的な食物を感謝できるようになります。

  新生への道 13 主にある喜び ⑩

世の中には、試みによって激しく打ちひしがれ、自我や悪の権力との戦いに気を失うほどになっている勇敢な人々が多いのです。戦いがどれほど激しくても、失望せず、勇気と希望に満ちた言葉で励まし、前進させなければなりません。このようにしてキリストの光があなたから輝き出るのです。「わたしたちのうちには、だれひとり自分のためだけに生きる者」(ローマ14:7)はいません。私たちが意識しないで及ぼす感化が、人々を励まし強めることも、また失望させたり、キリストと真理から追い払うこともできるのです。 

 また、世には、キリストの生涯と品性を誤解している人が多く、キリストは暖かさも明るさも持っておられず、厳格、苛酷で、何の喜びも味わうことがなかったと考えています。そして、すべての宗教経験がこのような陰うつな色調を帯びていることが多いのです。


福音の力を体験せよ 54

2013年12月24日 | 日記

     

 福音の力を体験せよ 54

ところで皆さん、イエス様の脇腹から出たのは血だけではありませんでした。同時に、水も出ました。それでは、この水が何を象徴するのかを読みたいと思います。 

“十字架上のイエスの脇腹を兵卒が突き刺したときに、二つのはっきりしたものが流れ出た。その一つは血であり、もう一つは水であった。血は彼の名を信じる者の罪を洗い去るためであり、水は、信じる者が生命を得るためにイエスから受ける生ける水を代表していたのである。”(EW209)

私たちは、「キリストの血は、私たちのもろもろの罪を洗ってくれる」と言います。それでは、水は何をしてくれますか?水は、私たちに新しい生命と新しく生まれる経験を与えてくれます。私たちはしばしば、これらの過程を飛び越してしまいます。皆さん、聖所の制度を見てみると、水は、聖所の外庭にある洗盤を表します。もちろん、血は祭壇に注がれますが、水は洗盤の中にあります。祭司が祭壇でいけにえを捧げた後、洗盤で洗わずに聖所の中に入ると、どんな事が起こりましたか?そのような祭司には、死が待っていました。

 新生への道 13 主にある喜び ⑨

天使たちは、あなたが世の人々に、天の神についてどんなあかしをするのか耳を傾けて聞いています。ですから、人と話すときには、今生きて父の前で執り成しをしておられるキリストについて語りましょう。友の手を握るときも、くちびると心をもって神をほめたたえましょう。そうすれば友人の思いをイエスに引きつけることができます。

 誰でも、試練、耐えがたい悲しみ、抵抗しがたい誘惑を持っています。自分の悩みを友に語るのではなく、何事も祈りによって神に訴えなければなりません。疑いや失望の言葉はひとことも言わないようにしましょう。希望と清い喜びに満ちた言葉を語ることによって、他の人をさらに明るく強く生きるように導くことができます。


福音の力を体験せよ 53

2013年12月23日 | 日記

  

  福音の力を体験せよ 53

皆さん、主には私たちを罪から清める力があります。皆さんのうちに、恨みや悪感情や嫉妬心があるならば、また、ある人が皆さんの心に深い傷を残しているならば、皆さんはイエス様に助けを求めることができます。これらの悪感情を正しくかつ適切に処理して下さるイエス様に心から祈るならば、ヨハネ第一の手紙1章9節のみ言葉が成就することでしょう。

“もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。”

皆さんが、どんなに多くの過ちを犯してきたとしても、どんなに邪悪な者であったとしても、誤りはほんの少ししかないと思っていたとしても、皆さんは相変わらずイエス・キリストの赦しが必要ではありませんか?イエス様が私たちを清めたいと願っておられることを信じるならば、「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」ことでしょう(Ⅰヨハネ1:7)。 

   新生への道 13 主にある喜び ⑧

こうしたことはすべて、あなたの魂に害を及ぼします。というのは、疑いの言葉を出せば、それはみな悪魔の誘惑を招くことになるからです。そして、ますます疑惑を深め、奉仕の天使を悲しませるのです。ですから、悪魔に試みられたときには、ひと言も疑いや暗い言葉を言ってはなりません。もし悪魔のささやきに耳を傾けるならば、心は不信と反抗的な疑問で満たされることでしょう。また、自分の感情を口に出したり、疑いの言葉を語るならば、それは自分に返ってくるばかりでなく、種のように他人の生涯にまかれて芽を出し、実を結び、あなたの言葉の影響を取り消すことができなくなってしまいます。あなた自身は一時の誘惑に打ち勝ち、悪魔の罠から逃れることができるかもしれませんが、その言葉に感化された人々は、その不信から逃れることができないかもしれません。ですから、霊的な力といのちを与える事柄だけを話すというのは、ほんとうに大切なことです。


福音の力を体験せよ51

2013年12月22日 | 日記

  

 福音の力を体験せよ51

人が真心からけん命に祈り、訴えるとき、神様がその人を助けずに見捨てることはありません。私が自分の罪の状態を理解するようになったとき、主のみ前にあらゆる罪を持って出て来ました。そして、イエス様にすべての罪をさし出したのでした。実は、さし出したくない罪が、心の奥にありました。それは、主人に対してたびたび良くない感情を抱いていたことでした。なぜなら、息子に対する主人の態度があまりにも間違っていると思っていたからです。

私は熱心に祈りました。「主よ、もうこれ以上このような感情を抱きたくありません。主人が何をしようとも、私が彼に悪感情を抱く権利は何ひとつありません。私には、私の敵をも愛する義務しかありません」と。私のすべての罪を洗い清めてくださるよう、主に祈り求めました。

それが現実のものとなることを信じたその瞬間、心の中の悪感情が消えてしまいました。とても信じることができませんでした。主人を許すことができるようになり、彼に対する穏やかで美しい感情が私の心の奥に生じました。

   新生への道 13 主にある喜び ⑦

 もし子供たちが母親の愛を疑ったとしたら、母親はどれほど悲しむことでしょう。どんな親でも、子供からそのように扱われるならば、どういう気持ちがするでしょう。それと同様に、天の父も、私たちに命を与えるために、ひとり子さえも賜ったその愛を私たちが信じないとしたら、私たちを尊重されるでしょうか。使徒は「ご自身のみ子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、み子のみならず万物までも賜らないことがあろうか」(ローマ8:32)と言っています。けれども、口では言わなくても、その行いで「神は私にこう言っておられるのではない。おそらく神は、他の人々は愛されたかもしれないが、私を愛しておられるのではない」と語っている人がたくさんいます。