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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

人を自分より優れた者としなさい 第13回

2015年06月25日 | 日記

私たちは実際に謙遜な人、相手のために生きる人になる必要があります。ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に、このような話が出てきます。一人の旅人が村に入ってきました。旅人は、あまりにもみすぼらしい姿をして憎悪に満ちた目つきをしていたので、誰も彼を見向きもしませんでした。彼は寒い中終日その村をさまよいましたが、どこにも食べ物を得られず、旅館も彼にドアを開けてくれませんでした。彼は刑務所から出てきたという身分証明書を持っていたからでした。そのような時彼はあるおばさんの紹介で、ミリエル神父の家に来ました。

 (ノックの音)「私の名前はジャンバルジャン、19年間服役して出所したばかりの危険な者です」と身分証明書の内容を朗読ました。

ミリエル神父はジャンバルジャンに「寒いから中に入りなさい。あなたがどんな人なのか話す必要はありません。あなたの名前はすでに私が知っています。あなたの名前は私の兄弟です、他に何の名前が必要でしょうか」。「あなたは私の兄弟です。他に名前は必要ありません!」

温かい食事が終わって準備された寝室に入ったジャンバルジャンは、しばらく過ぎ去った日々を回想しました。ジャンバルジャンは幼い時に親を失いました。彼には姉が一人いましたが、姉の夫が死ぬとジャンバルジャンは姉の家族まで養うことになりました。姉の子供たちは、幼児から8歳まで7人もいました。彼は薪を割り、他人の家の農業も手伝って報酬を受けるなどして、休まないで熱心に仕事をしました。彼の姉も早朝から夜遅くまで労働しました。ですが、子供7人を養うのは大変でした。とりわけ寒い冬、ジャンバルジャンはついに仕事を失ってしまいました。家の中には、パン一切れもありませんでした。あまりにもお腹が空いた甥は、泣く力もありませんでした。その時ジャンバルジャンは、パンを盗んで懲役5年を言い渡されたのでした。服役中 4回脱獄を試みて、14年の追加刑を受け、合計19年の刑務所生活を終えて出てきたのでした。

 

姉さんや子供たちはどのようになっただろうか?パンを盗もうとしたことは、本当に愚かだった。しかし、一回の誤ちで、5年の懲役と追加刑はあまりにも過酷ではないか?怒りと憎しみに満ちたジャンバルジャンはそう言って眠りました。

 

翌朝、家政婦がミリエル神父を急いで呼びました。「神父、神父、銀食器がすべて消えてしまいました。なんてことでしょう。昨日あいつが恵みも知らずにすべて盗んだようです」。

 その時神父はこのように話しました。「その銀食器は私たちのものだったのですか?私は銀食器はずいぶん前から持っていませんでした。それは貧しい人々のものです。昨日の夜、彼は貧しい旅人でした」

  このような会話をしている時に、警察がジャンバルジャンを捕まえて神父の家に入ってきました。ミリエル神父はすぐにジャンバルジャンに近寄って、回りの人に聞こえるように大きな声で「また会えてうれしいです。しかし、なぜこの銀の燭台は置いていったのですか?他の銀食器と一緒にあげたではないですか?」

 

それとともに、ジャンバルジャンにだけ聞こえる声でこう話しました。「この銀食器は、善良な人になるために、使わなければならないということを忘れてはいけないよ」。

 


人を自分より優れた者としなさい 第12回

2015年06月23日 | 日記

人は他人の高ぶりはよく見えても、自分自身の高慢は見えないんですね。相手のことを言っているうちに、誰かが自分の過ちを指摘すると、毒蛇のように高慢の毒を噴出ながら相手を攻撃するんです。聖書は、人間の高慢を強く否定します。箴言6章を見れば、神様が憎まれる7つの中に、高慢が最初に挙げられています。このように神様は、人間の高慢を憎まれます。

  神様は永遠に存在するお方で、私たちは何者でもありません。神様が見られる時、ドングリの背比べで皆同じなんです。神様の前にお互いを比べあうようなギャグはやめましょう。滑稽なコメディをやめましょう。私はあなたより優れていて、奥深いものを持っているようなふりをしたとしても、神様の前にはコメディ―でしかないのです。兄弟より少しでもよりよい考えを持っているという考えを捨てなければなりません。神様はそういうことを嫌われます。尊敬はそのようにして得られるものではありません。

 

この高慢が、夫婦の心を支配するようになると夫婦間の親密さを失ってしまうことになります。お互いのプライドために「ごめん、間違いました」という一言をいうのが、あまりにも難しいのですね。他の人には、体裁のために、良好な関係を維持するために、すぐあやまるのですが(たいてい本心からではないですが)、夫婦の間で、親子の間ではそれができないんですね。公のことは公に、個人的なことは個人的に謝罪して悔い改めてください。自分の過ちを認め、許しを求めることを知ること、それが自分の品性です。私たちがイエス様の恵みで救われるのは事実です。ですが、変化がなければ、永遠の命はありません。


人を自分より優れた者としなさい 第11回

2015年06月22日 | 日記

「本質的なものには一致を、非本質的なものには自由を、そしてすべてのものには、愛を」という言葉を知っていますか?多くの人が非本質的でないものに自由を与えません。他人の話でなく、私たちのことを言っています。常に本質を追求し、本質的に一致することを望むのですが、非本質的なことまで自由を与えず、非本質の問題にまで一致することを望むので、常に問題が生じるのです。問題は、真理ではなく、非本質の領域まで私の考えと同じであり、私の思い通りでなければならず、従って非本質の一致を人々に強要していないかということです。

  これだけではありません。 自分が正しいと思うと、その考えを相手に強要し、それに応じて来なければ相手との関係が悪化して壁が出来ます。兄弟関係、クリスチャン関係だけでなく、夫婦関係、子供との関係も同様です。非本質の方向まで一致を要求することがいかに邪悪で愚か、無謀であるかを悟る必要があります。

心の中の高慢を、魂のエイズと言う人がいます。エイズに感染すると、その人が持つ自己免疫機能が弱り、様々な病気が起きて倒れるように、高慢が心を支配するようになると、他人を受け入れる力が弱くなり、どのような勧告も受け入れられず、自分を守ることだけに全力を尽くすようになり、悔い改めの機会を失ったまま霊的な死に直面することになります。


人を自分より優れた者としなさい 第10回

2015年06月21日 | 日記

私たちの先のとがった性質、少し言われると気分を害し、すぐにくよくよする性格、簡単に誤解する性格、これらはいつなくなるのでしょうか?

「このような問題があります。あんな問題があります。誰かがこうなんです、こうなんです。兄弟同士で今、このようなことが起きました。「私に味方しない」と、まだこのようなもののために好きに傷ついて、どうでしょうか?今この時、この期に及んでそのような問題にくよくよして、つまずいて...。申し訳ありません。私ももどかしいです。

私たちの心の中にあるナイフを聖霊の火によって溶かし穀物を収穫する鎌とかえられなければなりません。人を傷つける私たちの性格が聖霊の火に燃やされて、神様の道具として再創造されなければなりません。私たちの先天的あるいは後天的な性格がどんな器で構成されているとしても、私たちは、主が用意された能力を通して十分に勝利することができます。

  私たちには不純物があります。私が持って生まれた、私の嫌な受け継い鋭い性質が人々に益を与える鎌に変わる必要があります。神様は創造主であられます。

 

周りにいる人に、どこの誰にも負担を与えないで下さい。負担になる人にならないで下さい。これがイエス様の性格です。私たちの生涯は、誰よりも柔和で謙遜である必要があります。だれであっても受け入れ、誰とでも私たちと一緒にいるとき楽に過ごすことができる人になる必要があります。これが実際の信心深さです。聖書について論じ、悟らせて、祈りを多くするからといってそのようなものが神性の力ではありません。柔和を求めることは、妥協するという意味ではありません。より広い世界を見てください。考えがなぜそのように狭いのでしょうか。一歩後ろに下がって広い視野で見てください。神様が人類をどのように扱われあるかを見る必要があります。


人をじぶんより優れた者としなさい 第9回

2015年06月20日 | 日記

人は自分の行為について反省するにはあまり敏感ではなく、他の人が間違ったり、誤ったと思われる場合には、他の人をどれほど厳しく扱うでしょうか。神様の働きをする仲間同士でもそのようなことがあります。相手が涙を目に浮かべればを心に満足を得るように思えるんですね。しかも、それは自分の利益のためにやっているのではないと思っています。「神様のためにです。神様の働きのために。福音伝道のために。私が好きでするのではありません。私がこのようしなければ、誰がするのですか?」

  大義名分をかざすんです。それとともに、他の人のミスを容認しません。自分の言うことは全部正解です。もちろん何でも完璧にすべきですね。間違いは責任を負うべきですね。責任を負う者がいないからいい加減になるんです。全部正しいでです。ところがそれを自分の肉の性質で解決しようとするから問題が生じるんです。

 

それは神様の働きではありません。非難や、問い詰めて誤りを修正しようとする欲求に勝利してください。そうやって相手が自分の過ちを悟るようになることはほとんどありません。むしろそのようにすると、心が頑なになって、かえって罪に陥る状況を数多く見てきました。今それを指摘しないで、口が何か言いたくてムズムズして耐えられないでしょうか?大変なことでしょうか?私も話してあげなければと思いますか?そのような欲求に終止符を打ってください。親切な精神で謙虚で寛大な態度が、過ちを犯した人を救うことができます。少し余裕を持ってください。