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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

人を自分より優れた者としなさい 第8回

2015年06月19日 | 日記

イエス様はどのようになさったでしょうか!私たちと一緒に住まれるために、人間の体を持って来られたのです。神様が人間と交わるために受肉されました。神様の存在は、滅ぼす火なので、罪は近づくことが出来ません。神様の姿のまま来られると人間が燃え尽きてしまいます。ですから受肉されました。

  私たちも受肉しなければなりません。何の話かわかりますね?ある時は、皆さんが持っている真理の光が強すぎて、人が皆さんの隣に住むことが出来ないんです。

 妥協しなさいという話ではありません。いつか機会があれば話しますが、私も律法主義者の生活を十数年も試みました。しかしそれが信仰ではありませんでした。自分の自我が死ねばいいのですが、他人も死にます。私も預言者のように何でも徹底してやってみた人です。その後、私は徹底的に悟ったことがあります。「私より他の人が優れている」。

神様がこの地に赤ちゃんとして来られました。人間が受け入れる事が出来るようになるために受肉されたのです。イエス様は、私たちの模範ですが、受肉についても私たちが模範にいなければならないのです。他の人にどのように接するかについて、イエス様の受肉から学ぶ事が出来ます。

  イエスはどのようにされたでしょうか。「これらを今すぐに止めなさい!」。そうではありませんでした。すべてのことを愛によってされました。「君は私が、1回、2回言ったこともやらないで、いったい何回言えば上手にやれるの?」。このようには言われませんでした。「君は安息日に昼寝するって?安息日に昼寝するのは豚肉を食べるよりも悪いじゃないか」でもなく、「主の聖なる安息日にそんな世俗的な話をするのですか?」「これじゃ、あなたたちとは話にならない」でもなく、「まだコーヒーを飲んでるの?そんな食生活で最後の残りの民になる事が出来ますか?いつやめるの?」。このように言われませんでした。     

そのように人を見る人を聖書は、パリサイ人といいます。パリサイ人は、人々が律法を守るために、限りなく規則を作り、重荷を負わせました。ですから、人々が滅んでいきました。

イエス様のように徹底した方が世の中にいるでしょうか。彼は真理そのものでした。そのような方が来られて、人々にどのように接されたでしょうか?貧しい人々に食事を与え、哀れな者を慰め、らい病人に触れ、謙虚に他の人々に仕えられたので、人々の心は開かれるほかありませんでした。そしてこう言ったのです。 「ああ、愛がここにある!このお方こそ、神様の戒めを守る方である」。


人を自分より優れた者としなさい 第7回

2015年06月18日 | 日記

これがあっているのに、これが神様の方法なのに、私の子供が、夫、妻、友人、兄弟、隣人が、すぐあなたについて来なくても、静かにしておいて下さい。それがイエス様の品性なんです。神様がその人を感動させて、連れて来られる時間があります。皆さんが解決しようとせずに、お待ち下さい。

  聖書を見れば、自分が解決者であるかのように行動しようとしていた人が出てきます。誰でしょうか?イスカリオテのユダは、自分の優れた資質のゆえに自分を高く評価し、彼の同僚たちの判断力と能力を非常に劣っていると見下していました。ユダは「愚かな弟子たちは自分に教えてもらおうとせず、どうしたらイエス様の活動が世の中で成功できるか方法も何も分かっていない」と考えました。「あんな男がどうして教会の指導者になる事が出来るだろうか?あんなに視野が狭くては、決して繁栄しない」などといつも心配していました。

ユダは熱心な人です。何とか自分が属しているコミュニティを発展させようと、いつも考えている人です。ところが、そのメンバーを見るとまったくなっていないんです。「こういう人々でどうやって新しい国を設立することが出来るだろうか?」。閣僚級の人材が一人もいません。このままでは新しい政府は全部失敗に終わるでしょう。ペテロは、気が短くてあとさき考えずに暴れ、ちょっとみっともない。ヨハネはいつも考え事ばかりしている小心者で、大事なことを任せるには力不足だし、マタイは珍しく正直者だが、適切な手腕とお世辞で政界に幅をきかせるには、あまりにももどかしくて、それでは成功できない。   

このように、ユダは、すべての弟子たちを一人ひとり計りにかけてみて、自分の手腕がなければ、教会は苦労するという考えを持ってうぬぼれていました。ユダは自分自身を、失敗を知らない有能な人だと思いました。自分はこの働きに必要不可欠な者だと評価し、いつもそのように自分自身を表していました。

  そこでユダは、自分が正しいと思うことを弟子たちに強要しました。先ほど話しましたね。すべての暴力は自分の正しさから始まると。私が正しいので、私の言葉通りでなければならないとこだわるんです。自分の考えが正しいことを相手が同意しなければ気がすまず、その正しさが自分のすべてになるので、その話をしなくては耐えられなくなります。自分の正しさを、すべての人が捨てることを願います。 

「それでは何の話もしてはいけないということでしょうか?」いいえ、話すべきですね。どのくらい話せばいいでしょうか?一度だけです!それ以上話をしてはいけません。兄弟がまだよく聞いていないと思うから、絶えず話しているんです。「その兄弟がまだ直さないんです。まだこの意見を受け入れないからなんです」。やめてください。忠告は一度でいいんです。その次からはしつこい小言になってしまいます。会社で何度も同じ忠告をする人は、家の中でも全く同じです。妻に、夫に、子供たちに自分の意志が行われるまで言い続けます。自分の考えがあっていて、それが正しくて・・・。やめて下さい。そんなのうんざりですね!

 


人を自分より優れた者としなさい 第6回

2015年06月17日 | 日記

私の考えと違う人、私より信仰が浅い人、程遠い人、霊的な深さを全く知らない人、私のレベルに合わない人をそのように扱って秘かに見下す。「あの人は、まだみ言葉の深さを理解していない」「いつになったら私について来れるのかな・・・」

 

真に残念です。自分の状態を全く知らずにいます。今そのように判断しているその人の状態が心配な状況なのに、自分は高い境地にいると思っています。 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」(黙示録3:17)。他人事ではありません。このみ言葉をご自身に当てはめて下さい。

  私たちは、どのような人になるべきでしょうか? 「人を自分よりすぐれた者としなさい」(ピリピ2:3)。あなたはこれを行うことができるでしょうか? 「いやあの人は私よりも足りないのに、私より優れた者とするのですか?」そうです!

 

神様のご性質の中で最も輝く性質は何でしょうか?キリストの円熟した御かたちにまで成長するという時に、その円熟した姿の最高地点は「忍耐」なのです。「待つこと」なんです。この反逆しもどかしい人間を、6千年以上待ち続けておられるのが神様なのです。もし誰かが「お前、再臨が目前なのに、なんですぐに準備が出来ないの?準備しなければ今日から関節を一つづつ外すぞ!」と言ったらどうでしょう。そうやって準備される魂はいません。

 

皆さんは、夫婦喧嘩した時に自分が嫌になって投げやりになったりしませんか?反対に、ねちっこく「忍耐せねば」と自分を押し殺して、それとともに何日もだんまりを決め込む人でしょうか。

  夫、妻、子供、近所の人、友人、親、兄弟に向かって、皆さんのせっかちな性格を押しつけてはいけません。神様の品性を持って下さい。今この話をしなければ、あの人はすぐに死んでしまうと思うかもしれません。それで早く話をするのです。兄弟姉妹の間に、聖徒たちの間になぜ問題が生じるのかご存知でしょうか。あなたのすることは正しいのです。ところが、それを神様の品性ではなく、生まれ持った性質でするため、問題が生じるのです。正しいことなのに性質がゆがんでいるために問題が生じるのです。


人を自分より優れた者としなさい 第5回

2015年06月16日 | 日記

皆さんは完璧主義ですか?でしたら、それを自分にだけ適用してください。他人もそうなるように要求しないようにしましょう。

  せっかちで争いやすくいつも急いでいるでしょうか?このような人がいれば速く仕事がはかどるでしょう。ところが、ついてこない人を無視するようになるのです。心を広げて下さい。些細なことに命をかけてはいけません。私たちの生活を見てみると、すべてのことが些細なんです。その些細なことのために、どれほど痛みと傷や涙が多いでしょうか?すべてのことは、些細なものです。ごく些細な事に命かけないでください。

 

批判的ですか?これにより、自分の不足を批判して悲しんで下さい。建設的な意見を述べるようにして、自分が悟っている羊であるかのように周囲を批判したり非難したり、否定的な悪の種をあちらこちらに撒き散らさないようにしましょう。

 

カッとよく腹を立てるでしょうか?すぐに烈火のごとく怒ったかと思うと、いつそうだったの?みたいに、すぐに元に戻るようなそのような気性でしょうか?怒ったら、自分もぎくしゃくして、自分の性格が悪いのはわかるがどうせ直せないと言って、またさらに言い訳を並べるでしょうか?勘違いしないで下さい。善良な人は、その心の倉から良いものを出し、悪人は、その積み上げた悪から悪を出すのです。言い訳するのを止め、自分自身を探って下さい。


人を自分より優れた者としなさい 第4回

2015年06月15日 | 日記

多くの人々が、離婚の根本的な原因として性格の違いを持ち出しますが、それは一部分で真の原因は、お互いの利己心のためです。性格の違いというのは、事実は、利己主義と罪の問題なんです。結婚当初は対立を避けるために譲り合う気持ちがありますが、時間がたつにつれ、相手の欠点を直してやると、意気込んで身構えるようになります。その結果、葛藤は極に達し、多くの夫婦がこの峠を越せないまま、つまずきます。

 

これは夫婦関係だけでなく、会議の中で、職場で、近隣関係のすべての人間関係に適用される話です。「あの人と私と合わない、何から何まで違う、性格の違いが多すぎる」。こんな人いませんか?朝出勤すると、朝からひどいことを言われたりします。寮で気の合わない人と一緒に住んでいると、なおさらですね。では、次はどうなるでしょうか?喧嘩別れでしょうか?その人が辞めて去ったとしたら、それによって解決されるでしょうか?

 

すべての暴力は自分の正しさから始まります。「私が正しいので、私の言った通りにしなさい!」。夫婦関係も家族関係も、近所の人、兄弟関係、仲間関係も、すべての暴力は自分の正しさを証明するために始まります。私の考えが正しいことを、相手が同意するまで続きます。その正しさに思いが圧倒されてしまい、その話をしなくては耐えられなくなります。私の正しさの前に、すべての人が屈服することを願います。正しさが多いところほどその正しさのための暴力が満ちるようになります。そんな義人が多いところほど、傷ついた魂が一杯になります。

  

「それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。すなわち、 『主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう』と書いてある。だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい」。(ローマ14:10~13)