イエス様はどのようになさったでしょうか!私たちと一緒に住まれるために、人間の体を持って来られたのです。神様が人間と交わるために受肉されました。神様の存在は、滅ぼす火なので、罪は近づくことが出来ません。神様の姿のまま来られると人間が燃え尽きてしまいます。ですから受肉されました。
私たちも受肉しなければなりません。何の話かわかりますね?ある時は、皆さんが持っている真理の光が強すぎて、人が皆さんの隣に住むことが出来ないんです。
妥協しなさいという話ではありません。いつか機会があれば話しますが、私も律法主義者の生活を十数年も試みました。しかしそれが信仰ではありませんでした。自分の自我が死ねばいいのですが、他人も死にます。私も預言者のように何でも徹底してやってみた人です。その後、私は徹底的に悟ったことがあります。「私より他の人が優れている」。
神様がこの地に赤ちゃんとして来られました。人間が受け入れる事が出来るようになるために受肉されたのです。イエス様は、私たちの模範ですが、受肉についても私たちが模範にいなければならないのです。他の人にどのように接するかについて、イエス様の受肉から学ぶ事が出来ます。
イエスはどのようにされたでしょうか。「これらを今すぐに止めなさい!」。そうではありませんでした。すべてのことを愛によってされました。「君は私が、1回、2回言ったこともやらないで、いったい何回言えば上手にやれるの?」。このようには言われませんでした。「君は安息日に昼寝するって?安息日に昼寝するのは豚肉を食べるよりも悪いじゃないか」でもなく、「主の聖なる安息日にそんな世俗的な話をするのですか?」「これじゃ、あなたたちとは話にならない」でもなく、「まだコーヒーを飲んでるの?そんな食生活で最後の残りの民になる事が出来ますか?いつやめるの?」。このように言われませんでした。
そのように人を見る人を聖書は、パリサイ人といいます。パリサイ人は、人々が律法を守るために、限りなく規則を作り、重荷を負わせました。ですから、人々が滅んでいきました。
イエス様のように徹底した方が世の中にいるでしょうか。彼は真理そのものでした。そのような方が来られて、人々にどのように接されたでしょうか?貧しい人々に食事を与え、哀れな者を慰め、らい病人に触れ、謙虚に他の人々に仕えられたので、人々の心は開かれるほかありませんでした。そしてこう言ったのです。 「ああ、愛がここにある!このお方こそ、神様の戒めを守る方である」。