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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

人を自分より優れた者としなさい 第3回

2015年06月14日 | 日記

私はA型の完璧主義スタイルでした。確認し、また確認して、ここはどう?こっちは出来ているか?私は血液型がA型であり、脳の構造がそのようなのだと思います。このような性格はどうでしょうか?ある記事を読んだことがありますが、コンピュータと宇宙船はA型がいなかったら、人類には紹介されていなかったという記事です。それほど徹底した完璧さ。小さな欠陥もよく見つけて、それを補完して・・・。何でも整理整頓しなければ気が済まず、他の人がすることは、見ていられないのです。これからどうするの?それで大丈夫?批判的な考えが出てきます。なぜあの人はそのようなの?なぜあのようにしかできないの?こういうかんがえのために、お互いが大変になり、お互いつぶれます。

私は結婚して12年になりました。私が弟子のヨハネなら、妻イヒョンの心はペテロのように非常に単純な人です。この完璧主義と単純な人が会ったので、結婚当初はどのように多くの葛藤があったでしょうか?歯磨き粉の絞り方が互いに異なって、離婚したという話を聞いたことがあります。それは何ですか?性格の違い。皆さんはそのような問題を持っていなかったでしょうか?

猫が小さかった頃、家の中で育てていたのですが、動物を飼うのは好きなんです。私たちの家に来るとぜいたくになります。満たされて生きているんですね。ところが、家の中を見ますと、この猫が足によじ登ろうとすると、ズボンの縫い目がビリっと破け、ソファの上に登ろうとしてひっかき、カーテンなど布製のものがボロボロになります。そのことばかりが目につくんです。それで、外で飼う必要があると訴えると、「猫の爪が元々そうなんだから、そりゃそうよ」って言うのです。返す言葉がありませんね。猫の爪が元々そうだと言われたら、どうしたら良いでしょうか。夜寝ていて、ゴソゴソ音がするので、見ると、いつ入ってきたのか布団の中で一緒に眠ているんですね。ちょっと外で飼えばいいのですが、妻と息子が家の中で育てるというので、いつも2対1で押し切られてしまうのですね。


人を自分より優れた者としなさい 第2回

2015年06月13日 | 日記

皆さんはどのような人でしょうか? 「私は生まれつきこうなんです。私の性格がこうです。私は、元々分析的で、哲学的、批判的、直接的で、否定的です。それは神が私に与えられた性質です。だから、私はその通りに生きています。」

  皆さんはそうでしょうか?そうではありません。生ける神様のみ言葉である聖書がどこにあるでしょうか?福音にはそのような、性質を変える力もないということでしょうか?性格が少し融通が利かないでしょうか?問題をそのままに済まさず、必ず是非を問わなければ気が済みませんでしょうか?でしたら、その性質を直してください。そのような人格、そのような品性では天の御国に行けません。そのような性質が問題ではなく、その性格を持って人を傷つけるので、そうなのです。考えてみてください。みなさんのそのような性質のためにどれほど多くの人々が傷ついて悲しい思いをしたでしょうか?子供、夫、妻、同僚...。習慣はまさに性格から出てきます。どのような性格かによって習慣が形成され、その習慣が培われて品性となり、まさにその品性が永遠の命を決定するのです。

 

人それぞれに多様な性格があります。ある人々は、性格がおっちょこちょいです。ミスをよくし、忘れるので仕事を任せると、まともに終わらないので後始末が必要になり、何度も確認する必要があります。そのような人と一緒に仕事をすると本当に大変ですね。ところが、その人は仕事以外では、側にいたくなるような楽しい人なのです。

  逆に緻密で繊細な人々、そのような人ですと、仕事を任せても安心ですね。几帳面な人は、完璧に仕事をしてくれます。一度任せると安心でき、再び確認する必要もありません。このような人は、一緒に仕事をするときはいいのですが、ちょっと気難しかったりします。

  良し悪しを言っているわけではありません。 すべての人に長所と短所があります。人間が持っている気質があります。性質です。人間は有限で、弱い存在ですので、不足している部分は埋めて満たし、はみ出しているところは削り、イエス様のみ姿に整える必要があります。


人を自分より優れたものとしなさい 第1回

2015年06月12日 | 日記

人を自分より優れたものとしなさい。

    1                   孫 継文

  私たちは、天の御国に行きたいと思っていれば、みんな行くことができるでしょうか?私は天国に行くことができると固く信じれば、行くのでしょうか?天にふさわしい人になるならば、行くことができます。私たちが天に持っていくことができるものが1つあります。それはなんでしょうか?お金?家?車?それは品性です。品性というと何か漠然としていますね。どのような品性でしょうか?キリストに似た品性でしょうか?まだ少し漠然としていますね。私たちが天の御国に持って行くことのできる性質・性格・品性がどういったものであるか具体的にこの時間共に考えてみたいと思います。 

 

 他の人があなたをどのように評価するでしょうか?みなさんは他の人々にとってどんな人でしょうか?親しみやすい人でしょうか?それとも避けたい人でしょうか?一人ひとり個性が異なっていますが、親しみやすくなければ、極力避けたい人となってはいないでしょうか?

 「あの人は、自分の思い通りにならないと腹を立てる。強引だ。あの人といると疲れる。あの人は、融通が利かない。あの人はいつも否定的だ。あの人は、あまりにもストレートなので返答が怖い。批判的な思考を持つことが、健全な考え方であるかのように長々と話はするが、それを聞いた後、恵まれない。神様の言葉であちこち物差しを引くので、その人の前にいるとなにか間違ったことを言わないか、気になってしょうがない。ムスッとしていて、いつも怒っているようで近づくのが困難」

皆さんは、このような人でしょうか?または、「あの人といれば心が落ち着く。相手のことをよく配慮してくれて、理解してくれて、自分の主張を貫いて押し付けず、過ちを心広く受け止めてくれるので、その人の前では緊張していなくてもすむ。しばしば会いたい」。皆さんはこのような人でしょうか?


エリコ陥落の現代的意味 最終回

2015年06月11日 | 日記

教会にとって最も恐ろしいことは、最も恐るべきことは、世俗的な人とか、反対するような、冒涜するような人ではないんです。神様の前に矛盾した性格を作る人が、最もこの教会を滅ぼしていくのです。恐れなければならないんです。神様に従うと公言している人の内にある矛盾こそが、私たちを、いろんな人たちをつまづかせてしまうですね。アカンは、どんどんくじがひかれていって、だんだんくじが自分に近づいて来るのを見ながら、自分の罪を告白しませんでした。くじが最後の最後に、自分に来るまで、彼は告白しようとしませんでした。自分の罪を認めようとしなかったのです。ごまかせるものなら、このまま黙っていようと決心していたのですね。アカンが持っていたむさぼりの心というのは本当に恐ろしいものです。

この「むさぼってはならない」と言うのは、目に見えるものではありません。心のものなんです。十戒の他のものは行為として見ることが出来るんです。ところがこのむさぼりの罪というのは、神様しか知らないんです。ですから本当に分らないんです。しかしこの罪、むさぼりの罪は、神様の教会に祝福をとざさせてしまうほど恐ろしいものなんですね。

このアカンの罪から、たった一人の罪によって、イスラエル全体は祝福を受けることができない、勝利する事ができないほどに神様の民を弱めてしまうんですね。アカンは、戦いの最初から、絶対してはならないと厳格に言われていたんですね。ところが彼は誘惑に負けてむさぼってしまいました。

皆さん、私はこのように信じているんです。私たちはやがて、神様の真のイスラエル、残りの教会として、バビロンの教会、その偽りの教えと戦わなければならない時が来るんです。その時に皆さんが、本当にこのエリコの経験を通って、神様の力によって勝利する人々、神様の側に立つ軍隊として献身していく人々であることを。このメッセージを聞かれたあなたが、その祝福された民に加わって下さる方であることを・・・。

 

 お祈りいたします。

天におられる父なる神様、私たちはどうすればヨシュアのように、主の前に準備された戦士となることが出来るか、どうか教えてください。また、アカンのようにむさぼりの隠れた罪がないか、どうぞ各人がその確信を持つことが出来るようにして下さい。主の聖なることを認め、靴を脱ぐ経験を与えて下さい。主の戦いをどう戦い、進めていくのか、また、主の契約に従順になることを教えて下さい。心から従順になり、あなたのみ心を行う者とならせて下さい。聖なる天のカナンに入るために、私たちの心を備えさせて下さい。イエス様、本当に早く来て下さい。私たちが、イエス様が期待されたそのような軍隊となることができるように主の民を準備して、また守って下さい。生きておられる貴いイエス様の御名によって心からお祈りいたします。アーメン


エリコ陥落の現代的意味 第9回

2015年06月10日 | 日記

神に栄光を帰すとは

皆さん、外にある敵よりも内にある敵が怖いんですね。みなさん、アカンの物語をよく知っていますね。彼はむさぼりましたね。エリコの城壁をこんなにも驚くべき方法で滅ぼして大勝利をあげたのに、次の小さな町を攻め取るのに彼らは失敗してしまったのです。なぜこのようなことが書いてあるんでしょうか?この戦争は、自分たちの優位さ、武器とかそういったものによるのではないんですね。この戦いは神様に栄光を帰し、神様の名誉のためになされるものなのです。私たちは単なる道具であり、器で、私たちが自分の力でやるのなら、その結果として、何か自分にご褒美を得る必要があるかもしれません。ところがそうではないんですね。これは全て神様の戦いであったので、神様に栄光を帰して、すべてを神様に捧げて火で燃やしなさいとおっしゃったんですね。なぜなら、私たちはただの器ですから、自分たちの能力や努力によって戦ったのではないからです。

ですから、終わりの時代に、自分の力や能力に頼る人は、神様の最後の戦いに参加することはできないわけですね。自分の事を考え、自分の、何か評価とか自分の安心、そういった自分の事に捕らわれている人は、この戦いに加わることはできないですね。

 

エリシャのしもべだったゲハジの物語がありますね(Ⅱ列王記5章)。ゲハジはナアマンからの贈り物が届けられた時に、エリシャは断ったのですけど、ゲハジは後でナアマンに言いましたね。「今お客さんがやってきたので、さっきのを分けて下さい」、そしたら「どうぞ、どうぞ、あげます」と。ところがゲハジは戻って来た時にライ病にかかってしまいますね。なぜでしょうか?考えてみましょう。ナアマンが来てから、ゲハジはずーっと彼に仕えてきたんですね。食事を用意したり色々やってあげていたのです。ゲハジが失敗したのは、ゲハジは自分のした事に対する報いを得ようとしたことなんです。これだけやったんだから、そのために苦労したんだから、自分はこれくらい貰ってもいいんじゃないか、一生懸命仕えたから少しぐらい貰ってもいいんじゃないか、と思ったのです。

でもそうじゃないですよ。このナアマンが癒されたことは、神様にのみ栄光を帰さなければならない時だったのです。少しは自分に手がらがあるから、自分も少しは働いたから、そう思って衣服を取ろうとしました。そのことを神様は罰せられたんですね。

 

アカンのときも同じだったんです。アカンの罪によってイスラエルの民は負けたんですね。同じように終わりの時代にも、教会の中のたった一人の罪によって、全イスラエルに災いがもたらされることがあります。一人の人、一人の罪、残されている罪、こういったものによって、教会が大混乱におとされてしまうことがあるんですね。

でも、神様はこのアカンを見つけられる時に、本当に憐れみと義を尽くされたのです。くじの範囲が一つひとつせばめられていくたびに、アカンはいつでも悔い改めて告白出来るようにされたんです。ところが最後の最後まで、アカンは神様の勝利と力とそういったものを見ながらも、自分の罪を告白しなかったんですね。

皆さんよく考えてみて下さい。私たちにそのような罪はないでしょうか。いくら神様の力を見ても、み業を見ても、神様の前に断ち切られていない罪が私たちのうちに残されていないか、もう一度調べてみる時代なのです。