上杉神社の摂社。米沢城二の丸世子御殿跡に建つ
松岬(まつがさき)神社
松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀る

手水舎
参拝者の姿もなく苦手な野良猫が居座っていた

上杉神社に合祀された米沢藩中興の大名・上杉鷹山は、明治35年(1902年)に上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、「松岬神社」へ遷されることとなった

米沢市制施行50周年にあたる昭和13年(1938年)には、景勝の家老である直江兼続、鷹山の師・細井平洲、鷹山の下で活躍した竹俣当綱・莅戸善政を合祀し、現在に至る

拝殿
上杉家は、借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積
初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れなかった

新藩主に就任した治憲は、産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用した
1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った

曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館として再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた
これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した
文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した

伝国の杜(米沢市上杉博物館)
公園内に立派な建物が。上杉景勝と書かれていたので近づいてみると博物館であった

時間が遅かったこともあり残念ながら入館することはできなかった
エントランス付近にあった「能舞台」

ブロンズ像も展示されていた


屋外の公園内にも

昼食も食べずにここまできたが、米沢牛の串焼きの匂いが公園内に…
名物と書かれたコロッケと「毘」と書かれた帽子を購入し公園を後にした

撮影 平成28年5月19日
松岬(まつがさき)神社
松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀る

手水舎
参拝者の姿もなく苦手な野良猫が居座っていた

上杉神社に合祀された米沢藩中興の大名・上杉鷹山は、明治35年(1902年)に上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、「松岬神社」へ遷されることとなった

米沢市制施行50周年にあたる昭和13年(1938年)には、景勝の家老である直江兼続、鷹山の師・細井平洲、鷹山の下で活躍した竹俣当綱・莅戸善政を合祀し、現在に至る

拝殿
上杉家は、借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積
初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れなかった

新藩主に就任した治憲は、産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用した
1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った

曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館として再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた
これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した
文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した

伝国の杜(米沢市上杉博物館)
公園内に立派な建物が。上杉景勝と書かれていたので近づいてみると博物館であった

時間が遅かったこともあり残念ながら入館することはできなかった
エントランス付近にあった「能舞台」

ブロンズ像も展示されていた


屋外の公園内にも

昼食も食べずにここまできたが、米沢牛の串焼きの匂いが公園内に…
名物と書かれたコロッケと「毘」と書かれた帽子を購入し公園を後にした

撮影 平成28年5月19日