今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

長林山 称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎)

2019年04月20日 | 神社・仏閣
長林山 称念寺
丸岡城内で資料を読んでいたときに、この寺の存在を知った

山門
右には、「史跡 新田義貞公墓所」、左には「時宗 長林山 称念寺」の石柱



手水舎
寺には人の気配もなく、手水鉢にも水はない。雑草も伸びている



境内にある立派な石碑も最上部がない。「(近衛)中将新田義貞公贈位碑」と読める



境内には二つの建物がある。ここは庫裏か



本堂









養老5年(721年)泰澄により開山と伝えられ、正応3年(1290年)他阿真教によって時宗に改められたという



扁額には「忠誠殿」の文字が
戦乱の中で新田一族は最後まで南朝の後醍醐天皇を裏切ることなく戦い続けた武士だった



新田義貞公墓所(福井県指定史跡)



忠雀門
新田義貞が延元3年・暦応元年(1338年)に越前国藤島の燈明寺畷の戦いで戦死すると、遺骸が称念寺に運ばれたと『太平記』にある






遺骸は時宗のお坊さん8人に担がれて、手厚く葬られた
これにより、称念寺は新田義貞の菩提寺として知られるようになった



敵方であった足利義政もその武勇をたたえ、長禄2年(1458年)安堵状と寺領を寄進し、将軍家祈祷所として栄えた



この時代の歴史は知らないが、日本人的で実にいい話である



明智光秀と称念寺
弘治2年(1556年)に齊藤義龍に敗れ、妻の熈子や家族と伴に、越前大野を経て越前の称念寺へ
永禄5年(1562年)、貧しいながらも夫婦で、門前に寺子屋を開き、仲良く生活していた
永禄6年、二人の間に、後の細川ガラシャが生まれた



松尾芭蕉と光秀の夫婦愛
「夫婦愛の物語」を松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中に、取材
後に、才能がありながら、出世できないことに悩んでいた門弟の山田又玄に、『月さびよ明智が妻の咄せむ』の句を贈って励ました



芭蕉句碑
「月さびよ 明智が妻の咄せむ」が刻まれている



宝篋印塔



忠霊塔



この寺が大切にしているものが「忠」の精神なのか、振り返ってみると建物に「忠誠殿・忠雀門・忠霊塔」が記されている






十三重石塔



大好きな古い建築物も仏像も見当たらない寺であったが、新田義貞の忠誠心、明智光秀の夫婦愛、それに感激して詠んだ芭蕉の句
現代に生きる日本人の心の原点に触れたような心地よさを感じた寺であった

撮影 平成30年10月23日
コメント
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