今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

2023年放浪の旅 思い出の情景 その5

2024年04月30日 | 旅日記
2023年放浪の旅 思い出の情景 その5

21 平戸城・亀岡神社(長崎県平戸市岩の上町)訪問日 令和5年5月24日
平戸城(別名:亀岡城)
初めて訪れる場所は駐車場探しに苦労する
困っていると、地元の親切な女性が城に一番近い場所を教えてくれた



天守閣
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃、徳川家康からの嫌疑を晴らすため、城の一部を破却したと伝わる
豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためともいわれている
元禄15年(1702年)松浦鎮信(隠居により改名)は幕府に平戸城の再築城を願い出て、翌元禄16年(1703年)に許可された
これは徳川家との姻戚関係と、東シナ海警備の必要性によるものといわれている



城からの景色が美しい
遠くに見える朱色の「平戸大橋」を渡り平戸城へやってきた
橋からの眺めは高所恐怖症ということも忘れるほどの絶景であった



亀岡神社
拝殿・幣殿・本殿(国登録有形文化財)



境内北端中央の高い石垣に本殿が建つ



社殿と平戸城が繋がっている



中川愛子像
肥前国平戸藩主松浦清の11女として平戸に生まれる
姉の夫である園基茂の養女として中山忠能に嫁し、3男2女(忠愛・忠光・公董・栄子・慶子)を産んだ
娘・慶子が孝明天皇に仕え、やがて愛子の孫にあたる皇子・祐宮睦仁親王(のちの明治天皇)を産むと4歳時までその養育を任された
のちに、曾孫・明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育にもあたっており、天皇2代の養育に関わったことになる



22 九十九島<西海国立公園>(長崎県佐世保市)訪問日 令和5年5月24日
車での九州への旅は今回が最後になると決めていた
九十九島の美しい景色は雑誌等で知ってはいたが、自分の目で一度確かめてみたかった



複雑に入り組んだリアス海岸と島々が織りなす美しい自然景観が広がっている
九十九(くじゅうく)とは数がたくさんあるという意味で使われる例え言葉で、実際の島の数は208ある
平戸藩主松浦静山が、出羽国(秋田県)の「象潟九十九島」に倣い名づけたとされる



佐世保市内には「九十九島八景」と呼ばれる8ヶ所の展望スポットがある
ここは、その一つで佐世保市下船越町にある展望公園「展海峰(てんかいほう)」という場所



写真を撮っていると、ある男性から「平戸城の駐車場でも一緒でしたよね」と声を掛けられた
私の車が札幌ナンバーだったので声を掛けてくれたようだ
現在は大阪に住み悠々自適の生活を送っているが、少し前まで北海道で競走馬の牧場を経営していたという
馬主でもあり武豊騎手や福永祐一騎手などにも騎乗してもらったという



競馬好きな私としては知り合いになりたかったが、あっさりと去って行った



現地では気付かなかったが写真をよく見ると佐世保湾に軍艦がいる
調べて見ると前日の23日まで、世界最大級のアメリカ海軍原子力空母「 ニミッツ」が停泊していたという
広島で開かれたG7サミットに合わせた寄港ともみられている



23 世界遺産 端島<通称:軍艦島>(長崎県長崎市)
平成27年(2015年)国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録された



長崎港から「軍艦島上陸ツアー」というのもあるが年金生活者には厳しい価格帯だった
軍艦島を一番近くから見えるという野母崎総合運動公園(軍艦島展望所)に車を走らせた

夫婦岩
長崎市内で渋滞はあったが海岸線を走る国道499号線は快適で軍艦島の姿を見ながらのドライブは楽しかった
途中、4億8000万年前にできた夫婦岩がある



近くに2階建ての展望室があり撮影スポットの一つになっている



遊び心で撮ってみた



野母崎総合運動公園の小高い場所に「軍艦島展望所」がある



大正5年(1916年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建設された
この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道
大正10年(1921年)に長崎日日新聞も、当時建造中だった戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる
「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる






人口が最盛期を迎えた昭和35年(1960年)には5,267人の人口があった
人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退



1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、昭和45年(1970年)に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表
その後数百万トンの石炭を残したまま昭和49年(1974年)1月15日に閉山した
4月20日の連絡船の「最終便」で退去した担当者らの離島をもって、端島は無人島となった



24 長崎山 清水寺(長崎県長崎市鍛冶屋町8-43)訪問日 令和5年5月25日
長崎市内で寺巡りをするには駐車場探しから始まる
最初に選んだのは大きな駐車場がある清水寺(大正解であった)

中門(石門)
明和8年(1771年)四方田慈輔の寄進により石段の最上段に建てられた
長崎の寺院ではいくつかみられるが、全国的には珍しいアーチ型の石門
受付の女性の話しによると今は埋め立てられ建物が多くあるが、昔は寺の前まで海だったそうだ
塩害から護るために石門になったのではないかと説明してくれた



本堂(重要文化財)
寛永4年(1627年)に現本堂の前身となる木造懸造の舞台をもつ二重屋根の瓦葺本堂が完成
寛文3年(1663年)の大火で境内の一部が被災した
寛文8年(1668年)本堂再建の造営に福建省出身の帰化唐人、何高材が息子の兆普、兆有とともに着手した
何高材の亡き妻は日本人で、その供養のために再建に尽力したのではないかといわれている



真言宗寺院の本堂であるが、開放的な構えや細部にみられる中国風の意匠などに黄檗寺院との共通性がみられる
長崎県内に残る密教寺院の本堂としては最も古い



本尊:千手観音菩薩
開祖である慶順僧都が京都清水寺より奉持してきた
清水型といわれる千ある手の一つが頭上で合掌する姿で、頭上には小如像を掲げている
本堂内陣の中央厨子内に秘仏として祀られる
御開帳は60年に一度と決められているという……まさかと思うが



清水寺の受付の女性には親切にして頂いた
車を駐車場に置き、寺巡りをするようにと地図と簡単な道案内もしていただいた

25 聖寿山 崇福寺(長崎県長崎市鍛冶屋町)訪問日 令和5年5月25日
黄檗宗の寺院
寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から「超然」を招聘して創建
中国様式の寺院としては日本最古のもの

三門(重要文化財)
嘉永2年(1849年)に再建された際、初めて「龍宮門」と呼ばれる様式で造られた



第一峰門(国宝)
第一峰門は、中国の寧波(ニンポー)で加工された材料を唐船で長崎に運び入れ、元禄8年(1695年)に完成した



軒下の組物は、「四手先三葉栱」と呼ばれる複雑巧緻な詰組は他には例がなく、華南地方にも稀という



建物のほとんどが国宝か重要文化財、堂内の仏像も撮影できて拝観料300円は驚く



大雄宝殿(国宝)
護法堂の前に位置するのが崇福寺の本堂「大雄宝殿」
正保3年(1646年)1月に唐商 何高材(がこうざい)の寄進によって創建された
長崎市に現存する最古の建物



本尊:釈迦如来坐像(長崎県指定文化財)
昭和10年頃の仏像修理の際、本尊の「釈迦如来坐像」の胎内から、銀製の五臓、布製の六腑等が発見された
金属の五臓があるのはこの釈迦如来が唯一のもの



退職の年に同僚4人と訪れた思い出の寺院の一つでもある

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