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今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

関ヶ原古戦場(岐阜県不破郡関ケ原町)

2017年12月20日 | 名所・旧跡
史跡 関ヶ原古戦場
この日予定していた観光を終え、滋賀県の道の駅に向かう途中「関ヶ原古戦場」の標識が見え、距離も近かったので立ち寄った
途中、道幅が狭い場所もあり注意をしながら駐車場へ向う

石田三成陣地跡
最近評価が変わってきているが、小説などでは嫌われ者として扱われている三成陣地跡の案内があった
NHK大河ドラマ「真田丸」を視て、私も三成に対する考え方が変わってきたところであった



笹尾山は北国街道を押さえるという位置にあり、高所で盆地を一望でき、防御に適している場所に三成は布陣した



日本史上重要な場所に行ってみることにした



見晴台があり、東軍・西軍の配置図に加え、音声により簡単な説明が加えられる



私も三成になった気分で周囲を眺めてみる
小説の世界でしか知らなかったが、思っていたより「狭い」が第一印象である
この場所で騎馬隊や歩兵が何万も対峙していたとは想像すらつかなかった



決戦地となった場所である
開戦から僅か6時間で勝敗が決したと云うがこの場所に立って、理解できたような気がした



三成陣地跡の馬防柵






「女城主直虎」では関ヶ原の場面はなかったが、井伊の赤鬼「直政」が活躍した戦いでもある



周辺には東西各武将の陣地跡がある



決戦地
今は農地となっているが、歴史の分岐点となった場所である



戦国の英雄であった信玄・謙信・信長・秀吉が去り、この後、大坂の陣を経て徳川の時代に入る
それぞれの天下人が願っていた戦のない時代になった



撮影 平成29年9月27日

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2 コメント

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素晴らしい大地ですね (@ OTETSUDAI)
2017-12-20 20:34:49
戦国時代は多くの戦地があり、今も語り継がれて残っていると思います。
ある小説の中に、戦で亡くなるのは両軍併せて数百人にも満たなかったと…
一度の戦いでどちらかの大将だけ残っていたら…と考えると次の戦は数十年に一度と言うことになるのでしょう。
武士といえども戦いのないときは農業に勤しんだりしていてかり出されたとか…。私はテレビドラマをみることは皆無ですので真実(に近いこと)は全く分かりません。
家人はいつも口にするのは「男は争いが好きだからこの世から戦争というものがいつも何処かで起きている。制服欲が強いからだろうか」と。
国内の政治的話題も拡大解釈したら「戦」ですよね。大相撲の問題も「戦」の一つとしかみえません。勢力争いというのか、ヒトを潰してのし上がろうとする男の根性なのか…。
このような大戦のあった跡地には亡くなられた人がいたはずです。それを知って家を建てて住んでいる人は度胸のある人と思います。
ブログに関係ないことを勝手に記して失礼しました。
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戦死者は… (2014kurumatabi)
2017-12-20 22:53:54
いつもありがとうございます。
関ヶ原の戦死者について調べてみました。当時は戦いに参加した総数の5%程度が戦死するという数字がでています。関ヶ原は東西合わせて16万人いたので単純に計算すると、8千人という数字になります。
各陣地で戦いがあるとしても、あの狭い空間でそれだけの戦死者が横たわっていたとすると、戦意も無くなっていくだろうと想像します。
(南京大虐殺が30万とか報道されていますが、現実的には考えられない数字だなと改めて思いました。)
小説や歴史ドラマなどによりますと、あの信長もそして家康も天下を統一し、戦のない国をつくるために戦っていたようです。この後、長く続いた徳川の時代には大きな戦がなかったので、家康の望みが叶ったことになります。
長い目でみて天下をとったのは信長の妹であるお市の方だという人もいます。娘三姉妹(茶々・初・江)の嫁ぎ先と考えるとなるほどと思います。特に「江」は三代将軍家光を産み、天皇家にも中宮として仕えるなどしています。当時も今も、天下は女が動かしている。これ、間違いないですね(笑)。
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