今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

十九山 達身寺(兵庫県丹波市氷上町清住259)

2024年08月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月27日

十九山 達身寺
平安時代前期から鎌倉時代の仏像が多数納められており、「丹波の正倉院」の別名をもつ
寺伝によれば開山は行基菩薩

曹洞宗の寺院

石柱
達身寺(たっしんじ)は丹波地方有数の千年以上の歴史を持つ古刹
「丹波古刹十五ヶ寺霊場」第六番霊場になっている



寺号の「達身寺」と彫られている
寺名についていは、十九山の「達身堂(たるみどう)」を本堂としてこの地に移した為
十九山 達身寺(じゅうくさん たっしんじ)と名付けられた



仏像拝観を目的で訪れたのだが、遠くに見える茅葺き屋根の本堂に魅了された



戦国の時代、達身寺は、僧兵を抱え山岳仏教の教権を張るような大寺院であった
織田信長が丹波平定を行った際、明智光秀が丹波の地を攻めた
寺院は、焼かれてしまい、僧侶たちは仏像を近くの谷へ運び出したが、長い年月置き去りにされた



元禄8年(1695年)当地に疫病が流行し、占った結果、仏像を放置した罪が原因だといわれた
明智光秀の来襲の際に山に隠したまま放置されていた仏像を村人たちが回収
その際に山中のお堂を麓に移転させて、現在の達身寺の前身としたとされる



昭和52年(1977年)松竹映画「八つ墓村」で、渥美清 演じる金田一耕助が、「デカンショ節」など口ずさみながら向かった先が「達身寺」だと他のブログで知った
八つ墓村にたどり着いた落ち武者たちの総大将・尼子義孝の奥方と子息が播磨三日月、但馬生野、丹波篠山と落ちのびていったことをお寺の過去帳などをたよりにたどついたという



達身寺には、丹波仏師がいて造仏していたのではないかという郷土史家の説がある
その理由として、未完成の仏像、本尊仏が多い、同名の仏像が多い等があげられる



奈良の東大寺の古文書の中に丹波講師快慶と記されており「私は丹波仏師である。もしくは丹波の地とつながりの深い仏師である。」と言っている
とすれば、鎌倉時代の有名な仏師快慶は、達身寺から出た仏師もしくは、達身寺とつながりの深い仏師であると言える

前日に、浄土寺を訪れ、仏師快慶の代表作「阿弥陀三尊像(国宝)」を拝観しているだけに
当日、それを知っていたら、仏像の見方が変わっていたかも知れない



歴史ある本堂の軋む戸を開けて堂内にはいる(拝観料:400円)
お目当ての仏像は「宝物殿」に安置されている
その内容が凄い
重要文化財(12躯)/ 兵庫県指定文化財(34躯)/ 丹波市指定文化財(33躯)/破片(134片)



「阿弥陀如来、薬師如来、十一面観音」の重要文化財が中心的な存在となるが、黒色の衣装を身につけている仏像を初めて観た
また、数多くの仏像を目の当たりにすると、丹波仏師がいて造仏していたのであろうという説に納得してしまう



自宅に戻り調べることによって奥の深い古刹であると再認識した



駐車場には私の車が一台
怪しい空模様の通り、この数時間後には線状降水帯による豪雨で避難することになった



撮影 令和6年5月27日
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柏原八幡宮(兵庫県丹波市柏原町柏原3625)

2024年08月15日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月27日

柏原八幡宮(かいばらはちまんぐう)
前日に訪れる予定が降雨により、1日延びた
いつもなら通り過ぎた場所に戻ることはしないのだが、何故か気になっていた

社号標



鳥居
額には寺号の「八幡宮」



神馬



厳島神社(表弁天)



猿田彦神社



先の見えない参道を進む



初めて訪れたということもあり、先に何があるかも分からず上るのは辛いものだ



先に建物が見えてきた



祓殿



ゴール地点と思っていたが甘かった
つづら折りの参道がまだ続く



若宮社



手水舎



鳥居



拝殿・本殿(重要文化財)
社伝によると、舒明天皇の御代(629~641)に出雲連が入船山に素戔鳴尊を奉祀したのが当宮の創始と伝えられている
境内には、三重塔と釣鐘が現存し、神仏習合当時の景観を今日に伝える神社



狛犬
文久元年(1861年)柏原大新屋の上山孝之進・柏原北山の田口金次の寄進
作者は丹波佐吉(村上照信)



この狛犬は佐吉の晩年の作品で、豪快で躍動感のある最高傑作
平成23年(2011年)老朽化に伴い修理され、創建当時の姿に



拝殿(重要文化財)
天正13年(1585年)に羽柴秀吉が堀尾吉晴を奉行として再建
入母屋造妻入、正面唐破風付き、檜皮葺



拝殿の彫刻



本殿(重要文化財)
創建当初の社殿は南北朝時代の貞和元年(1345年)荻野安芸守が足利氏とこの地で戦い、その兵火によって焼失
再建された社殿も戦国時代の天正7年(1579年)織田信長の命をうけた明智光秀の丹波攻略の戦火により焼失



その後天正10年(1582年)羽柴秀吉は黒井城主堀尾毛介吉晴を普請奉行に任じて武運長久の祈願所として社殿造営を開始
天正13年(1585年)に再々建したのが現存する社殿



祭神:誉田別命(応神天皇)
   息長足姫命(神功皇后)
   比賣三柱命(多紀理比賣命・多紀都比賣命・市杵島比賣命)



香良神社



春日神社



西宮神社



祖霊社






三重塔(兵庫県指定文化財)



鐘楼



銅鐘(兵庫県指定文化財)
銅鐘には康応元年(1389年)と天文12年(1542年)の2つの年号が刻まれている
豊臣秀吉の寄進
神仏分離の際、棄却の対象となったが「時の鐘」として特別に存続を許されて、今日に至っている



八坂神社



三重塔(兵庫県指定文化財)
応仁2年(1469年)に創建されたが、本殿と同様に焼失・再建を繰り返す
現存する塔は江戸時代後期 文化12年(1815年)に彫刻師中井権治が中心となって再建された



三間三重塔婆、本瓦葺、檜皮葺、総高23m



神仏分離令の際に棄却されようとしたが、「八幡文庫」と称して存続を特別に認められ今日に至る






神社に塔が残っている事例は全国で18例のみであり極めて珍しい






住吉神社



厄除神社






社殿(本殿及び拝殿)は1913年(大正2年)に古社寺保存法により「特別保護建造物」に指定




西楽寺
駐車場前にある寺









撮影 令和6年5月27日
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御嶽山 清水寺<播州清水寺>(兵庫県加東市平木1194)

2024年08月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月26日

御嶽山 清水寺<別称:播州清水寺>
天台宗の寺院
京都市の音羽山清水寺と区別するため「播州清水寺」と呼ばれる
寺伝によると、天竺(古代インド)僧の「法道仙人」が創建したとされる

仁王門
この楼門は旧参道の頂上にあったが、昭和40年(1965年)の台風で全壊
昭和55年 (1980年)に場所をかえてこの地に再建した



金剛力士像
金剛力士像は、大正10年(1921年)に奈良の仏師 菅原大三郎が作成(遺作)






清水寺縁起



坂上田村麻呂佩刀奉納画



清水茶屋
参道は緩やかな坂道が続くが、疲れが出てくる場所に茶屋がある






手水舎



薬師堂
創建は、平安時代末期。平清盛の義母である「池禅尼」



現在の建物は、昭和59年(1984年)檜材にて再建



本尊:薬師如来






十二神将
平成13年(2001年)東京芸大・藪内佐斗司教授作



これまで観てきた「十二神将」との違いに驚く



大講堂<札所堂>(国登録有形文化財)
清水寺には2つの本堂がある
その一つが大講堂である(もう一つは根本中堂)



神亀2年(725年)の創建
聖武天皇の勅願所



大正2年(1913年)焼失、同6年(1917年)7月に再建された



扁額には寺号の「清水寺」



賓頭盧(びんずる)尊者



堂内外陣の様子



本尊:千手観音坐像(大正時代作)



地蔵堂
昭和57年(1982年)11月3日の再建



本尊:地蔵菩薩



昭和12年(1937年)、東京芸大 菅原安男 名誉教授の作



鐘楼(国登録有形文化財)
大正2年(1913年)焼失、同9年(1920年)の再建
梵鐘も鋳造された






梵鐘(開運の鐘)
この鐘の音は、播磨、丹波、摂津の国に響き渡り、開運の鐘として親しまれている



稲荷社
祭神:荼枳尼天尊



石造十三重塔



聖観世音菩薩
壇信徒の遺髪や分骨を納め祀る






根本中堂<本堂>(国登録有形文化財)
推古35年(627年)の創建
推古天皇勅願所



大正2年(1913年)焼失、同6年(1917年)の再建






本尊 :十一面観音立像(開山法道仙人一刀三礼の秘仏)
脇侍:毘沙門天立像・吉祥天立像(30年に一度の開帳の秘仏)



滾浄水(おかげの井戸)
開山法道仙人が水神に祈って湧水した霊泉



「清水寺」と称される由緒の地



この井戸をのぞきこんで自分の顔を写したら「寿命が3年延びる」と言い伝えられる
試してみたが、残念な結果に



大塔跡
明治40年( 1907年)に焼失、大正12年(1923年)に再建される
昭和40年(1965年)に台風で層輪が大きく傾く
さらに昭和48年(1973年)夏、落雷のため上層部が崩壊、その後撤去された



平清盛の武運長久を祈願して祇園御女により建立されたと言われている



撮影 令和6年5月26日
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鹿野山 朝光寺(兵庫県加東市畑609)

2024年08月13日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月26日

鹿野山(ろくやさん) 朝光寺
高野山真言宗
伝承によれば、白雉2年(651年)、「法道仙人」が権現山に開基したとされる
法道は天竺(インド)から紫の雲に乗って日本へやって来たと伝えられる、伝説上の人物
法道開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に多数ある

参道
令和2年10月に初めて訪れた時は、駐車場の場所が分からず苦労したことを思い出す
新緑に包まれた参道と川の流れる音が心地よい



山門



寺伝によると、文治年間の創建
三間一戸の八脚門形式は江戸初期から中期の様式



仁王像












本堂(国宝)
4年前(この時は2年前だと思っていた)に初めて訪れた時にボランティアガイドにお世話になった
この日は日曜日でガイドが待機していることを知っていたので訪れてみた



前回、お世話になったガイドの男性に声を掛け、以前お世話になったことを伝えた
勿論、私の記憶など無いのだが、再訪を喜んでくれた
と言うわけで、今回もガイドをお願いした



海老虹梁(えびこうりょう)
主に主柱から、低い位置にある向拝柱を結ぶ虹梁
湾曲している形から「海老」と名前が付けられている



この寺院の「海老虹梁」は、柱の曲線に注目すると、一つ一つが異なった造りになっている



本堂から山門を見る



本堂は、内陣に残されている旧壁板の墨書の内容により、応永20年(1413年)に建立されたことが判明
内部は外陣と内陣を敷居・格子戸で画し、内陣奥には須弥壇・厨子を設置し、本尊を安置している



本尊:十一面千手観世音菩薩 二躯

*写真はガイドさんの写真資料
京都・三十三間堂の十一面千手千眼観世音菩薩立像のうちの1躯を本尊(西本尊)として安置
三十三間堂の千体が「国宝」になったので、ここの仏像も「重要文化財」に格上げされたそうだ



内陣の須弥壇(左右に本尊を安置)



修復後の本堂柱



ここも普段は無視する場所だが説明を受けると面白い
足元の空間を広くしているのは、この場所が山中にあり湿気を防ぐために通気性を良くしているとのこと
本堂は斜面に建っているため柱の高さが違う
右側では立っていられたが、左側では膝を曲げなければ通ることができなかった



一本だけ形状の違う木があるのは何故か
創建当時からの未完成の柱
完成した時点から崩壊が始まるので完成させていないという(面白い)



多宝塔(兵庫県指定文化財)









鐘楼(重要文化財)
鎌倉後期、1275年~1332年頃の建立
桁行一間、梁間一間、袴腰付、寄棟造、とち葺形銅板葺



私の場合、建物だけに目がいくが、石の土台にのっている鐘楼というのも珍しい






屋根の形、ゴチャゴチャしている木組みも珍しいそうだ(確かに)



鎮守社、護法社



ツクバネ(加東市天然記念物)
羽子板で突く羽根に似ているので「衝羽根(つくばね)」と名付けられた



落下する時、羽根つきの羽根のようにクルクル回転するという



つくばねの滝






撮影 令和6年5月26日
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極楽山 浄土寺(兵庫県小野市浄谷町2094)

2024年08月12日 | 神社・仏閣
訪問日令和6年5月26日
極楽山 浄土寺
高野山真言宗の寺院
開山は重源で、建久5年(1194年)の創建

浄土堂<阿弥陀堂>(国宝)
治承4年(1180年)、平重衡の軍勢による南都焼討で、東大寺や興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた
この大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった



重源は大仏再興事業の拠点として、伊賀国(現・三重県)、周防国(現・山口県)など日本の7か所に東大寺の「別所」を創設した
七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である
この地は播磨国大部荘(おおべのしょう)といい、東大寺領であった



この地から西に約2kmのところに、奈良時代の僧・行基が建立したとされる浄土寺の前身寺院とされる「広渡寺」があった
建久5年(1194年)に広渡寺を現在地に移転して寺名を浄土寺へ改めた
建久8年(1197年)に本堂の薬師堂と浄土堂が大仏様で建立された



屋根は宝形造(四角錐状の屋根形)、本瓦葺きで平面の大きさの割に立ちが低い
屋根の形づくる線にほとんど反りがなく直線的であることが特色



堂内に入る(仏像拝観料:500円)



阿弥陀三尊像(国宝)
仏師快慶の代表作
巨大な三尊像で、阿弥陀如来は像高5m30cm(須弥壇を含めると7m50cm)
両脇侍、右・観音菩薩と左・勢至菩薩の像高は各々3m70cm



*写真の阿弥陀三尊像は駐車場案内板を撮影したもの
この阿弥陀三尊像を拝観するために、浄土寺を何度も訪れている

浄土堂は極楽浄土の位置する西側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ
堂の背後の蔀戸(しとみど、建物の内側または外側へ跳ね上げる形式の戸)を開け放つと背後からの西光が入る
晴れた日の夕刻には堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現す



浩宮徳仁親王殿下御参拝記念樹(今上天皇)









鐘楼堂(兵庫県指定文化財)






鎮守八幡神社






拝殿(重要文化財)
延応元年(1239年)創建
鎌倉時代後期の再建



本殿(重要文化財)
文暦2年(1235年)創建
室町時代中期の再建



不動堂






薬師堂(重要文化財)
浄土寺の本堂である
もとは建久8年(1197年)創建で、浄土堂と同じ大仏様であったとされる
現在のものは明応7年(1498年)に焼失後の永正14年(1517年)の再建



本尊:薬師如来






開山堂(兵庫県指定文化財)



経蔵



阿弥陀三尊像は何度観ても感動する
今度は晴れた日の夕刻に訪れ、来迎の風景を見たい



撮影令和6年5月26日
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法華山 一乗寺(兵庫県加西市坂本町821-17)

2024年08月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月25日
法華山 一乗寺

寺号標
久し振りに国宝の三重塔を観たいと思い訪れた
何年ぶりかなと調べて見ると平成26年(2014年)10月に訪れていた



境内図



受付所で拝観料を払う
「ありがとうございます。よくお参りくださいました」と気持ちの良い挨拶をされる



石造笠塔婆(兵庫県指定文化財)
鎌倉時代末期、正和5年(1316年)12月21日造
銘文の奉献先には「金輪聖主」とある



山号の由来
一乗寺を開山した法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物
法道は日本へ飛来し、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁を持つハスの花)の形をした霊山を見出した
そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという



ここから急な階段が続くが、境内図によると違う道もあるようだ



今回は階段の無い道を選んだ



太子堂



放水池
写真の方が実際の風景より綺麗に見える






緑に囲まれた緩い坂道を進む



途中、階段につながる道もあるが、そのまま進むことにした
(体感的には階段の方が楽な感じもする)



階段の無い道は「本堂裏」につながっている
呼吸を整えながら、本堂裏を歩き、堂宇を確認する



護法堂(重要文化財)
鎌倉後期、1275年~1332年の建立
一間社隅木入春日造、檜皮葺









妙見堂(重要文化財)
室町後期、1467年~1572年の建立
三間社流造、檜皮葺






弁天堂(重要文化財)
妙見堂の左に並んで建つ
室町中期、1393年~1466年の建立
一間社隅木入春日造、檜皮葺






手水舎



本堂<大悲閣・金堂>(重要文化財)
江戸前期、寛永5年(1628年)に姫路藩主本多忠政の援助で再建された
懸造、桁行九間、梁間八間、一重、入母屋造、本瓦葺、背面閼伽棚附属



瓦葺の屋根の色が気になったので撮ってみた



本堂側面から堂内に入る



扁額には「大悲閣」
初代の本堂(金堂)は白雉元年(650年)孝徳天皇の勅願によって創建
二代目の本堂は建武2年(1335)後醍醐天皇の勅願で再建され大講堂と呼ばれた
三代目の本堂は兵火による焼失後、永禄5年(1562年)守護赤松義裕により建立
四代目の今の本堂は寛永5年(1628年)姫路藩主本多美濃守忠政により建立



堂内 外陣の様子
本尊:聖観音立像(重要文化財)









内陣は撮影禁止だが外陣は大丈夫のようだ



奉納額






格天井の板には江戸時代のものという木札(納め札)がびっしりと打ち付けられていて、綺麗な模様に見える
この木札や紙札を打ち付ける習慣から「札を打ち付ける所」=「札所」という由来になったそうだ






三重塔(国宝)
懸造の本堂欄干から国宝の三重塔を眺める



一乗寺の魅力はこの三重塔を上から下まで任意の高さから拝観できることだ



高さ21.8mの「相輪」を他ではこのように撮ることはできない



鐘楼(兵庫県指定文化財)
本堂と同じく、寛永5年(1628年)姫路藩主本多美濃守忠政により再建






本堂から梵鐘を撮る






三重塔(国宝)
塔を眺めながら階段を下りる



相輪の下部にある半球状の部材の銘から、承安元年(1171年)の建立と判明
塔身部の逓減率(初重から三重に向かって小さくなる率)の大きい点が特色である



日差しが強すぎデジカメには負担が大きい









常行堂(阿弥陀堂)
聖武天皇勅願建立
天文22年(1553)再建、明治初年度再々建着手









最後の急階段を慎下り下り、駐車場へ戻る



撮影 令和6年5月25日
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廣峯神社(兵庫県姫路市広嶺山52)

2024年08月10日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月25日
廣峯神社(別称:広峯牛頭天王)
奈良時代末、天平5年(733年)吉備真備が中国から帰国した際、広峯山系の白幣山に登臨して牛頭天王の信託を感受し、翌年に廣峯神社の大社殿を造営した



2年前に「斑鳩寺・姫路城・廣峯神社」を訪れる予定でいた
ところが斑鳩寺に車で向かう途中、事故回避のハンドル操作を誤り左側の前後輪のタイヤを破損、自走できなくなりレッカー車で運ばれた
応急処置をしたものの、不安もあり旅を終え自宅に戻った



社号標
廣峯神社のことが気になっていたこともあり訪れることにした
途中、国宝姫路城を横目で見ながら通り過ぎ、姫路競馬場は気持ちは揺れたが我慢し通過、広峰山山頂にある駐車場に着いた



城のような石垣だが、明治の神仏分離令までは天王山増福寺、広嶺山増福寺と称していた
江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の支配下にあった






手水舎



宝篋印塔(重要文化財)






随身門(姫路市指定文化財)









狛犬







社務所






地元の高校からの奉納絵馬



神馬



神木



拝殿(重要文化財)
江戸前期の寛永3年(1626年)の建立
桁行十間、梁間四間、一重、入母屋造、本瓦葺






拝殿内部






正殿
主祭神:素戔嗚尊・五十猛命



左殿
祭神:奇稲田姫尊・足摩乳命・手摩乳命



右殿
祭神:宗像三女神・天忍穂耳命・天穂日命ほか



本殿表側(重要文化財)
室町中期、文安元年(1444年)の再建
現在の社殿は長禄3年(1459年)ごろの造営
桁行十一間、梁間三間、一重、入母屋造、正面一間通り庇付、檜皮葺



京都八坂神社(祇園社)の本社ともいわれる神社
神社建築としてはめずらしい大規模な本殿



官兵衛神社
黒田孝高(官兵衛、如水)を祭神とする神社



御神体;黒田職隆廟所より発見された桂化木の一部(福岡市の「大長寺」から寄贈)



地養社(姫路市指定文化財)






蛭子社(姫路市指定文化財)



薬師堂




熊野権現社(姫路市指定文化財)



冠者殿社(姫路市指定文化財)



大鬼社(姫路市指定文化財)



天神社(姫路市指定文化財)



稲荷社(姫路市指定文化財)



庚申社(姫路市指定文化財)



山王権現社(姫路市指定文化財)



九星詣り



自分の生まれた年号(和暦)を確認する



「九星詣り」がここから始まるが、一度進んだ道は戻ることができないので事前に「穴」を確認する



本殿背面(重要文化財)
九つの穴の上には「運命星の額」が掛かっている
*この額の位置は、2月3日から2月4日の深夜に入れ替わる



自分の「運命星の額」を確認



昔は伊勢参りに行く前に無事を祈り、帰ってきたらお礼参りをしたようだ
現在は願い事を穴に向かって3回、小声で神様に伝えるという
私も「三碧木星」の穴に向かって願い事を……まだ、叶っていない



振り返ると、今回の旅でも記憶に残る神社の一つとなった



遠くに姫路市内の街並みが見える



撮影 令和6年5月25日
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斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町鵤709)

2024年08月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月24日
斑鳩寺
三重塔(重要文化財)拝観目的で、何度も訪れ発信しているので今回は写真のみ

仁王像












聖徳太子御二歳尊像



聖徳殿前殿(兵庫県指定文化財)



聖徳殿中殿・後殿(国登録有形文化財)



講堂(太子町指定文化財)






鐘楼(兵庫県指定文化財)



三重塔(重要文化財)









撮影 令和6年5月24日
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大滝山 福生寺(岡山県備前市大内999)

2024年08月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月24日
大滝山 福生寺(ふくしょうじ)
高野山真言宗の寺院
奈良時代創建の寺伝をもつ山陽地方でも有数の古寺
重要文化財の三重塔があることを知り、初めて訪れた
奥深い山にあり、上り坂の途中に山門らしき建物があったが、この場所まで走ってきた



現在、大滝山福生寺は宗教法人格を有せず、
寺は「実相院、西法院、福寿院」の3つの子院によって維持管理されていることを後に知った



鐘堂



本堂(岡山県指定文化財)
元禄14年(1701年)に書かれた縁起によれば、天平勝宝6年(754年)鑑真により創建されたとある



平安時代初期、菅原道真が編纂した『類聚国史』には
「天長5年(828年)6月備前国墾田四町六反為大滝寺田」とあり、法隆寺や唐招提寺と並んで記載されている



平安時代中期の万寿元年(1024年)に大火により焼亡した
その後、足利尊氏の発願により観応年間(1350年 - 1352年)再興されたとある
僧院は33房を数えたが、康正年間(1455年 - 1457年)の赤松氏・山名氏の争いにより山門と三重塔以外は全て戦火により焼亡した



岡山藩2代藩主・池田綱政が大願主となり天和2年(1682年)に再建された
江戸時代、岡山藩主により庇護され明治初期には13房が残っていた
なお、現在の僧院は実相院、西法院、福寿院の3房






経蔵
延享3年(1746年)の建立



内部の輪転式、八角形の書庫は全国希有なものなりとの記載
「一切経」を所蔵している



大師堂(備前市指定文化財)
弘法大師奉安の堂で、毎月21日には一山僧侶総出仕して法楽祈願を捧ぐ



蟇股の彫刻






三重塔(重要文化財)
三重塔拝観を目的で訪れたのだが、周辺を見渡してもその姿が見つからない
他に参拝者というより人の気配が無く、一瞬不安になった



近くの寺らしき建物(上記3房の1つ)を訪ね、場所を確認する
この道が急坂で足元が悪く苦労したが、何とかたどり着くことができた
山の尾根にぽつんと建っている塔は私の経験では初めてだ



寺伝では嘉吉元年(1441年)室町幕府6代将軍 足利義教の命によって建立された



塔周辺は狭くて足場も悪く、油断すると崖から落下する恐れもある
塔全体を撮るために、瓦礫が積まれている場所によじ登る



国宝・重要文化財の塔巡りは私の旅の大きな目的の一つ
今回の旅で新たに一つ加わった
写真から塔周辺の狭さと危険さを再認識(汗)






仁王門(岡山県指定文化財)
帰りに山門らしき建物に立ち寄った
嬉しいことに仁王門であった



応永4年(1398年)3代将軍 足利義満により仁王門が建立された



額には山号の「大瀧山」



仁王像
像の前に柵があるため、同じアングルになってしまう






仁王像シリーズに追加できる






撮影 令和6年5月24日
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和気神社(岡山県和気郡和気町藤野1385)

2024年08月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月24日
和気神社
昨年春に初めて訪れた時、残念ながら社殿の修復工事中
完成したことを確認しての参拝である

石柱には「至誠」「精義」と刻まれている



鳥居1



霞(かすみ)橋
日笠川に架かる橋で「俗界と聖界の境にある橋」とされる



境内図



清麻呂公銅像
高さ4.63mの青銅製で、故 朝倉文夫氏の作品
昭和58年、清麻呂公御生誕1250年を記念して和気町に寄贈された



和気清麻呂といえば何と言っても「道鏡事件」だが……
女優・気象予報士の「半井小絵」さんが子孫であることにも興味を持っている



日本一の大絵馬






参道を進む



狛いのしし1
全国的にも珍しい狛犬がわりに「狛いのしし」



猪が清麻呂の宇佐神宮参拝の際に護衛を行ったり、足を患った際に霊泉に案内したとされることから、清麻呂の守護とされてきたことに由来する






鳥居2



随身門



本殿、拝殿に続き、明治28年(1895年)に造営された



随身像









和気清麻呂と道鏡事件
僧道鏡が、女帝の「称徳天皇」から特別深い寵愛を得て、太政大臣に次いで法王となり、最後には天皇の位を望むようになった
そこへ、九州大宰府の主神「習宜阿曽麻呂」が朝廷に「道鏡が天皇の位につけば天下は太平となる」という宇佐八幡の神託をもたらした
天皇は驚き、神意を確かめるために和気清麻呂を使いとした

宇佐に到着し、神前に額ずく清麻呂にもたらされた神託は
「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」
宇佐から帰京した清麻呂公は堂々と、この神託を言上したのである

当時の大部分の人が道鏡への譲位に疑問をもっていたにも関わらず、左大臣以下だれも声にあげて反対することができなかった
これに対し命をかけて抗議したのが清麻呂ただ一人だった



これにより、清麻呂は大隈国(現鹿児島県)に流罪となる
大隈国に流される途中、道鏡により放たれる刺客などに襲われるが、天変奇異に助けられ、また神の使いか「猪」に守護されながら、無事大隈国へと到着
2年後、称徳天皇の崩御により道鏡は失脚
清麻呂は許され、都に帰り本性本位に復する

*「古事談」の最初に「称徳天皇が道鏡を愛した事」に驚くような記載がある(内容は18禁)



祓所






三福かえる
「宝かえる・無事かえる・若かえる」



和気清麻呂像



和気広虫姫像
和気清麻呂の姉
宇佐八幡宮の神託を請うための勅使に任じられたが、病弱で長旅に耐えないことを理由に、弟の和気清麻呂に代行させた
神託の結果が道鏡及び天皇の意に反していたことから還俗させられた
和気広虫は、孤児の養育に励んだことが伝えられている



鶴亀石






手水舎



社務所



拝殿
現存の社殿は、明治18年(1885年)より順次建て替えられている
邑久大工の田淵耘煙斎勝義の手によるもので、本殿・幣殿・釣殿・拝殿・随神門が一連の作となっている






拝殿内部



狛いのしし2






撫で猪






稲荷神社



天神社(天満宮)



「名付け石」



天神社裏側に奉納



本殿(和気町指定文化財)
明治18年(1885年)造営



大型の屋根と「千鳥破風・軒唐破風」が見事に調和している



細部の彫刻も美しい






大神宮



猿田彦神社



絵馬殿



奉納額
















撮影 令和6年5月24日
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真木山 般若院 長福寺(岡山県美作市真神414)

2024年08月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月24日
真木山 般若院 長福寺
真言宗御室派の寺院
2年前に重要文化財の三重塔を拝観するために訪れたことがある



天平宝字元年(757年)に鑑真が孝謙天皇の勅命により開いたという
寺は現在の真木山麓ではなく、山上にあった






鐘楼門



梵鐘



本堂
弘安8年(1285年)円源が天台宗の寺院として再興した
再興後、僧坊は65坊を数え最盛期となった
天台宗と真言宗に宗派が頻繁に入れ替わったが、明徳年間(1390年 – 1393年)に真言宗の寺院になった
本尊:木造十一面観世音菩薩立像(重要文化財ー伝 行基作)









宝蔵庫
木造十一面観音立像、絹本著色十二天像図、絹本著色両界曼荼羅図、絹本著色動明王像図などの重要文化財を所蔵



本堂側から三重塔を眺める



三重塔(重要文化財)
棟札の銘から鎌倉時代の弘安8年(1285年)に大工棟梁・藤原国右衛門尉によって建立された
岡山県最古の木造塔建築物だという



昭和26年(1951年)真木山上から現在地に移築された
昭和55年(1980年)保存修理が完了



「うまく撮れますか」と塔の近くに住むという男性に声を掛けられた
幼い頃、祖父から、真木山上から解体された木材を手で運んだということを聞かされていたそうだ
平成27年6月、杮葺きの屋根が葺き替えられた際には、近くで進捗状況をスマホで撮り、記録していたと話してくれた



この三重塔は夕陽を背景に撮るといいそうだ
その後は、近くにある温泉に入ると最高の一日になるという
地元愛に溢れる男性との会話は弾み、楽しい時間となった









真木山鎮守堂(山王権現堂)、金比羅大権現
昭和3年(1928年)に長福寺は山上から現在の地に移転した



山上に残されていた三重塔、真木山鎮守堂(山王権現堂)、金比羅大権現なども
昭和26年(1951年)に現在地に解体移築された



撮影 令和6年5月24日
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中山神社(岡山県津山市一宮695)

2024年08月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月23日
中山神社(別名:仲山大明神・南宮)
美作国一宮と本殿が重要文化財ということで楽しみにしていた
鳥居と駐車場が近づくにつれ、記憶が蘇った(訪れたことがあると)

鳥居(中山鳥居)
額には社号の「中山神社」
社名は現在「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた
寛政3年(1791)の建設。高さ8.5m、幅は7m弱、花崗岩製で柱は2分割、笠木は3分割されている
角貫に木鼻がなく、笠木と島木に反りをもたせて壮大美を強調している
このような形は他県にあまり例がなく、特に中山鳥居として一形式をつくっている



調べて見ると2年前に訪れている
記憶力に自信がなくなっているので帰宅後訪問地を記録しているのだが……



2年前の写真を見ると、小牛の位置が今と違っていた



老人の旅人の心に響く言葉だ



狛犬1






手水舎



狛犬2
奥宮には『今昔物語』にも出てくる猿神社があるという
この狛犬だが猿という説もあるようだ






神門(津山市指定重要文化財)



同日の数時間前に訪れた、津山城二の丸にあった「四脚薬医門」を明治初頭に移築したもの



神楽殿






惣神殿(津山市指定重要文化財)
江戸時代、寛保元年(1741年)の造営



祭神:山上山下120社



中門より中に入る



中門



拝殿・幣殿(国登録有形文化財)



大正11年(1922年)本殿大修理にあわせて建てられた



岡山県建築技師の江川三郎八の設計による
彫り物の無い木鼻や2本で1組の垂木(吹寄垂木)が使用されている



本殿(重要文化財)
天文2年(1533年)尼子晴久の美作攻めの際、境内に陣を置く敵を攻略するために火が放たれ、社殿が焼失
美作平定後の永禄2年(1559年)、尼子晴久自身によって再建された



主祭神:鏡作神(かがみつくりのかみ)
   *古事記、日本書紀はおろか、どこの風土記にも出てこない謎の神様
相殿神:天糠戸神(あめのぬかどのかみ)・石凝姥神(いしこりどめのかみ)    



桃太郎物語の鬼のモデルとされてる「温羅(うら)」は鏡作りの高い技術を持っていた
吉備中山から勧請されたと書き残っている中山神社で、祀ってある神は温羅だという説がある
裏返しの語源も「温羅(うら)」で、裏切りの語源も「温羅」
温羅方の有力者が吉備津彦に味方し、温羅を闇討ちに切り殺したことで吉備津彦が勝利したことから、
信義を無視して敵に味方することを裏切りと言うようになったという



個性ある狛犬を撮り、駐車場に戻る






撮影 令和6年5月23日
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美作総社宮(岡山県津山市総社427)

2024年08月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年5月23日
美作総社宮(正式名称:総社)
カーナビでは案内された場所には何も無く、Googleナビでは不安になるような狭い道を案内された
何とか社殿の傍にある駐車スペースに駐めることができた

参道
遠くに鳥居が見えるので、こちらが参道になる
本殿が重要文化財に指定されているということで訪れた
初めて訪れる神社で駐車場を含め、何処に何があるのか全く分かっていない



手水舎



拝殿
「総社」という名の神社にはこれまで訪れたことがない
調べて見ると、古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた
これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した「総社」を設け、まとめて祭祀を行うようになった



当社はそのうちの美作国の総社にあたる
「中山神社・高野神社」と並ぶ美作三社の1つであり、美作65郷912社を合祀している



本殿(重要文化財)
社伝によれば、創建は、欽明天皇25年(564年)に現在地より約1km西にある本館に大己貴命を祀ったのが始まりという



奈良時代初期の和銅6年(713年)に備前国北部6郡を分割し美作国が設けられ、和銅7年(714年)には国府が置かれたと伝える



額には最初の二文字ははっきりしないが「一位総社大明神」と読める



主祭神:大巳貴命(おおなむちのみこと)=大国主命
相殿神:中山神社(美作国一宮)祭神:鏡作命 (かがみつくりのみこと)
    高野神社(美作国二宮)祭神:鵜茅葺不合命 (うがやふきあえずのみこと)
    美作国内の神



本殿は、戦国時代の永禄5年(1562年)毛利元就が戦勝の記念として再建
江戸時代前期の明暦3年(1657年)に津山藩主森長継により大改修が行われた



御崎神社



荒神社



稲荷神社



天満宮



社殿の造りは、入母屋妻入りで向拝に千鳥破風を配した「中山造」という独特な様式を持つ
規模も豪壮で華麗な彫刻を豊富に配置した桃山時代の優れた建造物
全国の総社の内で当社のみが大正3年に国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されている



拝殿側面






撮影 令和6年5月23日
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津山城(岡山県津山市山下135)

2024年08月03日 | 
訪問日 令和6年5月23日
津山城(別名:鶴山城)
津山盆地の中央部に位置する
城郭の形式は梯郭式平山城
日本三大平山城のひとつ(他は兵庫県の姫路城、愛媛県の松山城)

森忠政公像
元亀元年(1570年)美濃金山城で織田信長の家臣・森可成の六男(末子)として生まれる
天正10年(1582年)織田信長に小姓として兄らと共に召し抱えられる
兄にはあの有名な「森蘭丸」がいる
同僚の梁田河内守にちょっかいをかけられ、信長の前で梁田の頭を扇子で殴打したのを見咎られ親許に返された
これが幸いして本能寺の変に巻き込まれずに済んだ



天正12年(1584年)兄の長可が小牧・長久手の戦いで戦死後家督を継ぐ
豊臣秀吉に続き、徳川家康に仕え慶長5年(1600年)信濃川中島13万7千石を領す
慶長8年、美作国18万6500石を与えられ津山に入封
慶長9年より津山城の築城に着手、城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした
寛永11年(1634年)3代将軍徳川家光に随伴して上京するが、食傷により急死する 享年65歳



明治6年(1873年)の廃城令で、建造物は取り壊されたが、地上から45mに及ぶ立派な石垣が当時の面影を残している



往時は外郭を含めて、広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ77棟の櫓が建ち並んでいたという






備中櫓
天守の南東側の「備中櫓」が、築城400年の記念事業として復元され、平成17年春から一般公開されている






美しい石垣を眺めながら石段を上がるが先が見えないだけに辛い









欠損している石垣があった



石垣内はこのようになっていた



城跡は鶴山公園(かくざんこうえん)として整備されている
入園は有料で大人310円
桜の名所となっており、日本さくら名所100選にも選ばれている



備中櫓



復元された備中櫓内は総畳敷きになっている
初代津山藩主の森忠政が、13年の歳月をかけて完成させた天守閣も総畳敷きであった



各部屋の照明は古風でセンスがある
上部の「鶴の丸の家紋」は森家の家紋
下部の「葵の御紋」は森家の次に津山藩を統治した松平家の家紋



こちらは、津山市の市章「剣大」



柱のヒビ
備中櫓内に使用されているヒノキの柱は「芯持ち材」といって丸太から1本の柱を創りだしたもの
芯持ち材は乾燥が進むにつれどこかにヒビが入るのが避けられない
現在ではこのような木材には「背割り」といって、人工的に切り込みを入れて、それ以外の部分にヒビが入らないような処理を行う



便所の向きは
後ろに見える棒は手でつかむものではなく「衣掛(きぬかけ)」といって、着物の裾を掛けるためのもの



御上段
ここだけが立入禁止になっている



殿様専用ということになる



畳敷きの城内は他の城では経験できない貴重なものだ






ハートの石「愛の奇石」
城巡りをしているとこのような案内板をよく見る



普段は「つまらない」とスルーするのだが、周囲に誰もいなかったので探すことにした
直ぐ見つけることができると思っていたが、なかなかたどり着くことができない



案内板に戻り、真剣に探し始めた(←矢印の存在を無視していた)
見つけた時の喜びは想像以上だった(老乱)



鐘の音が聞こえていたので不思議に思っていた



城内に咲いていた紫陽花









撮影 令和6年5月23日
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すすきの祭り「花魁道中」(北海道札幌市中央区)

2024年08月02日 | 北海道
訪問日 令和6年8月1日
すすきの祭り「花魁道中」
すすきのの夏を彩る「第60回すすきの祭り」
今年は、8月1日(木)~3日(土)の開催
すすきの祭りの中でも最大のイベントが「花魁道中」だ



進行方向がこれまでと変更され、札幌駅前通の南5条から南7条の豊川稲荷になった
出発地点までの移動中の様子



太夫役の二人も移動する






新造役の二人



「夢千代太夫」役は、さっぽろ名妓連 こと代さん



足元には高さ約30cmの下駄 重さは7kg
花魁道中の歴史を調べると、衣装や髪飾りが豪華になるにつれ、バランスをとるために高くなっていったという



以前はススキノに勤務するホステスが選ばれていたが、最近は学生や会社員から選ばれている
今年は、第60回という記念すべき年で芸者衆の出演となった



午後8時15分開始の花魁道中だが、午後1時から太夫役の準備が始まったという
付き添いの手を借りて、高下駄を履く最終段階に入った



定刻に花魁道中が始まった
豊川稲荷までおよそ200mを1時間かけて進む









花魁役はつま先を外向きにして弧を描くようにゆっくりと歩みを進める「外八文字」と呼ばれる歩き方で進む



道路の左右には観光客の姿が重なり写真や動画を撮っている
海外からの観光客の姿も多い






次に準備をしているのが新造役の二人



かむろ役の二人の美少女



「佳津乃太夫」役は、さっぽろ名妓連 小梅さん



さすが現役の芸者だけに所作が美しい



衣装等で30kgほどの重量があるという
「外八文字」と呼ばれる歩き方も難なくこなしている



札幌の花魁道中の歴史について
第20回(昭和59年)に、記念行事として東京浅草から花魁役等9名を招き「花魁道中」を披露した
それが、予想以上の人気となり、翌年(昭和60年)から恒例の出し物となった
花魁は公募により2名が選ばれ「夢千代大夫」「佳津乃大夫」と命名された






後ろ姿も艶やか



撮影 令和6年8月1日
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