日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その79)

2007-05-07 07:15:37 | Weblog
*タイムスリップして、翌年、翌々年、翌々々年、翌々々々年の日記を先に見てみると・・・
○研修1年目、昭和51年7月21日(水)晴。(県病)  僕の当番(当直ではないが、時間外の小児科患者さんに対しては、病院の当直医でなく、小児科当番が診ることになっていた)の日だった。(医者になって、まだ、2カ月も経っていない・・・)喘息が来た。この日に外来で薬をもらっているのに、咳で嘔吐して、飲んでいないのだ。あまりたいしたことはなかったが、やはりもたついてしまう。経験が少ない為に不安で不安でしょうがない。風呂に入っている時に又救急の電話があった。落ち着いてトイレにも行けない。
○研修医2年目、昭和52年7月21日(木)晴。(県病)  山元先生が新生児学会に行っているので、皆、忙しかったようだ。朝早く起きて回診をして、献血車に乗った。あまり冷房のきかない車の中で、夕方4時まで、1万円をもらう為に働いた。
○文部教官1年目、昭和53年7月21日(金)(宮医大)  今日も明日も当直(大学の小児科の当直を、5人でしていた)になった。今日は悲しいことが2つあった。僕が心カテをしたファ一四徴の子が、朝外科に行ったら亡くなっていた。肺動脈が小さかったのだ。下に行って合掌してきた。一人っ子だったので、とても悲しいだろうなあ。又、○○君(心室中隔欠損)がとうとう亡くなってしまった。○○君は、(自分は主治医でなかったが)僕にだけ「先生」と言っていた。
○文部教官2年目、昭和54年7月21日(土)晴(宮医大) ○○小児科に行って、代診した。100人以上来た。こんな感じで、1日200人まで、診れそうな気もした。しかし、一人2~3分で、患者さんと医者のコミュニケ一ション、本当にうまく取れているのかなあ?

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