何を見ても何かを思い出す

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読書の森

2015-12-03 18:55:55 | ニュース
「至福の時 至福の場所」からのつづき

「至福の時 至福の場所」で次回は「村上文学について考えてみる」などと大見得を切ったが、実は「ノルウェーの森」(村上春樹)一冊しか読んでいない。
村上ワールドは話題性も高く人様から勧められたりするのだが、「ノルウェーの森」との出会いが悪すぎたため村上ワールドに挑戦することがないままに、時間がたってしまった。
こう書くからといって、作品が特に悪かったわけではない。
私には、読んでいる最中にも話の本筋を離れて想いがあちこち飛んでいくという悪い癖があるが、更に悪いことに、その本を読んだときの状況や、その本を紹介してくれた人との関係性が、本への印象に大きな影響を与えてしまう癖がある。
そして、「ノルウェーの森」をプレゼントしてくれた人との関係性が破綻した時、村上文学は私には縁のないものとなったのだ。
以来、どれほどベストセラーの声を聞いても、ノーベル賞候補の呼び声が高いと聞いても手に取ることはなかったが、村上氏が高校の図書館で借りた本の報道をめぐるニュースを知り、村上文学というよりは、まず村上氏ご本人に興味をもったというのが正直なところだ。

<村上春樹氏が借りた本報道「プライバシー侵害」> 読売新聞 12月1日(火)7時26分配信より一部引用
作家の村上春樹さん(66)が兵庫県立神戸高校在学中に図書室で借りた本の書名を、神戸新聞が本人の承諾をとらずに報じ、日本図書館協会は30日、「利用者のプライバシーの侵害となる」とする調査報告をホームページ上で公表した。
同紙は10月5日付夕刊で、同校元教諭が図書室の蔵書整理中に村上さんの名前が書かれた帯出者カードを発見した、と報じた。村上さんを含む3人の生徒の氏名、学級、貸出日などが読み取れるカードの写真も掲載。
同協会は「何を読んだか、何に興味があるかは『内面の自由』として尊重されることが民主主義の基本原則」とし、「カード上に記載された本人の同意を得ずに報道することは是認できない」と の見解を示した。


この記事に村上氏のコメントはないが、異論が掲載されていないことをもって、日本図書館協会の見解に沿うものなのだと考える。そこで、図書館で借りた本の題名はプライバシーにあたるか考えてみる。
図書館で本を予約すると、「電話での『貸出可能』の連絡時に、予約者本人以外の人に題名を告げても良いですか?」と質問される。これは、「どのような本を読んでいるかは究極のプライバシーだ」と考えている私には当然の感覚でもあり有難い配慮でもあるが、頓着しない人もいるのだろうか。

何冊かの本を勧め合い、何冊かの本の感想を語り合えば、相手の思考や感情の機微が如実に分かることがある。まして半生を知り合った人間同士であれば、本を通じて、手に取るように腹の中が分かってしまうこともある。それが人間関係を深め心地よいこともあるが、日々顔を突き合わせる間柄では非常に決まりが悪い想いをすることにも繋がりかねない。
私には読書仲間といえる人もいるが、お互い読む本の全てを報告し合うわけではないし、読んだ本のどこに心動かされたかを探り合うわけでもない。それは究極のプライバシーの領域だという認識があるので、相手が自ら語る範囲で理解し、自分も自分で良しとする範囲で感想を述べる。この距離が私にはちょうど良い。私がこのブログで読書日記のようなものを書き付けているのも、どの本を読み、どの言葉に感動したかを、自分の意思で選んで書けるからだ。
とにかく私は、何を読むかは究極のプライバシーだと考えているので、この度の(村上氏も同意しているであろう)図書館協会の、「何を読んだか、何に興味があるかは『内面の自由』として尊重されることが民主主義の基本原則」という見解には賛成だが、一方の神戸新聞の言い分も分からなくもない。

「神戸高校旧蔵書貸出記録流出について(調査報告)」公益社団法人日本図書館協会 図書館の自由委員会を一部引用する。
神戸新聞社の説明要点
『「村上春樹氏は単なる私人にとどまる存在ではなく、その動静が社会的に注目を集めている上、村上春樹氏が若い時にどういう本を読んでいたかを、ノーベル文学賞発表前に伝えることは公益性が高いと考え報道した」と説明。図書カードの写真は本人直筆であるなど資料価値の高さからありのまま掲載しましたが、ほかの生徒の名前を隠さなかったたことについては「配慮を欠いた」と省みました。』
URL  http://www.jla.or.jp/portals/0/html/jiyu/toshocard2015.html

個人の思想の自由(憲19)は絶対に侵してはならないが、公益性という観点から表現の自由(憲21)と利益がぶつかることもある。
毎年ノーベル賞候補となりその言動が注目される作家の読書歴は、誰しも注目するものであり、公益性が認められる。事実、このニュースで高校生の村上青年がケッセルの全集を読んでいたと知り、私は初めて村上ワールドに自発的に関心をもったからだ。
まして、村上氏が在籍した当時の神戸高校はニューアーク式(借りるときは本の内側のポケットにある図書カードに氏名を記入する-貸出方式)を取っていたことからすれば、プライバシーを無意識に放棄していたと云えなくもない。
要は、高校側なり新聞社側なりが、村上氏に承諾さえとれば何の問題も生じなかったと思われる。

しかし、ここで承諾を得なければならないという考えに至らないところが、日本の出版言論界の驕りというか、人権感覚の乏しいところなのだと思われる。
そこへ一石を投じてくれたということで、村上氏と日本図書館協会に賛意を示したいと思っている。

ところで、皇族方のなかには読書を趣味とされる方もおられると思うが、なんと御不自由な思いをされていることかと拝察される。
何を読むかを究極のプライバシーと考える私からすれば、自由に本屋も図書館も訪問できず、何を購入するにしても人の手を介するしかないというのは、不自由なだけでなく、精神の自由を侵されているように感じられる。
読書を趣味とされる方として、雅子妃殿下がおられる。
御成婚前には趣味として読書が伝えられたが、御成婚にあたり大量の書籍を御所にお持ちになったという雅子妃殿下は、その後の誕生日のご会見でも読書について度々話しておられる。
平成7年には「私的な時間の過ごし方」という質問に対して、『公務の準備などに充てる時間以外は,読書を含め,世の中の事をなるべく広く知り,深く理解できるよう研鑽を積むことに努めて日々を過ごしていきたいと思っています。』と答えておられ、平成11年には「気分転換やリラックス法」という質問に対して、『一日の終わりに,夜,本を読んだりというようなことも休息になるような気がいたします。』と答えておられる。(『 』宮内庁ホームページより引用)

雅子妃殿下が御病気になられた理由の一つとして、「一種の情報遮断のような状態」を医師はあげていたが、読書の時間を大切にし、読書することが休息になるという人間にとって、自由に本を選ぶ楽しみが制限されることは、心の窓が塞がれるも同じで、それはある種の「情報遮断の状態」とも云えるかもしれない。もちろん問題の核心はここではないので、御病気についてはこれ以上は言及しないが、人の手を介さなければ好きな本一冊として手に取ることができない環境と云うのは、想像を絶する大変なものだというのは、共に読書を趣味とされる方々が心の病を抱えられたことからも拝察できると思っている。

この読書環境としては、なかなかに厳しい環境でありながら、想像の翼を大海の如く広げて文才を育んでおられるお姫様がいらっしゃる。
敬宮愛子内親王殿下だ。

そのあたりについては、つづく