図書館論争を書く切っ掛けとなった村上春樹氏の高校時代の図書カード。
図書カードを公開するにあたりご本人の許可を取るべきであったのは当然だが、このおかげで「ノルウェーの森」を読み直すことになり、若気の至りの諸々で村上ワールドを殊更に遠ざけていた自分を反省することにもなった。
「ノルウェーの森」(村上春樹)
主人公ワタナベと高校時代の友人(恋人関係にある直子とキズキ)の三人の心模様が物語の中心にある。
直子をおいてキズキは亡くなり、恋人を失い精神的に不安定になる直子。
そんな直子をワタナベは支えようと決意し、心の中でキズキに「自分達は生きていくのだ」と語りかける。
本書のなかで、本を読む場面は何度かあるが、そのうちの一冊が「車輪の下」(ヘルマン・ヘッセ)。
この設定には見覚えがある。
最近読んだ、あの作品である。
高校時代からの友人3人。後に片方が亡くなることになるカップルとそれを見守る男子一人の二十歳前後の物語。
登場人物はその年齢に似つかわしくないほど哲学的で、しかもそれを臆面もなく語るところや、物語の小物として使われる小説が「車輪の下」であることまで、瓜二つ。
だが、設定が酷似していても、「ノルウェーの森」に違和感が少ないのは、村上春樹氏が高校時代からケッセルを読み込むほどの読書家で、その年齢にしては早熟な思索が村上氏にはしっかり身についていたからかもしれないし、ここが後に毎年ノーベル賞候補となるだけあっての力量なのかもしれない。
あの作品が(高校~大学時代の)現在進行形であるため、思慮深い高校生の加地君がどこか浮世離れた印象になるのに対し、「ノルウェーの森」の大学生たちも小難しいことを語り合ってはいるが、それが37才のワタナベの回想という手法をとっているため、違和感が少ないのだ。
「ノルウェーの森」というと、直子の「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」という言葉だけが印象に残る作品であり、先にも書いた通り、本書をプレゼントしてくれた人との関係性のせいで村上ワールドを遠ざける切っ掛けとなってしまった作品でもあるが、この度読み返してみると、幾つか印象的な言葉に出会った。
まずは本との関係について
本書には、東大法学部の永沢という屁理屈こね男がいて、本の読み方についても屁理屈こね男は語っている。
『他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。
そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない。』
その永沢は、作者の死後30年を経た本しか読まない。30年たっても世に残っている本しか信用しないという。
作者の死後30年たっても残っているということは、それだけ多くの人が読んでいるということなので、そればかり読むということは、結局は他人と同じもの、しかも時間と他人の手垢のついたものばかり読むことになると思うのだが?
私にも「出版から10年たったものしか読まない」という友人がいるが、優秀な人間というのは似たような思考をするものなのか、それとも友人は永沢の言葉を知っていて真似ただけなのか、真似たばかりか30年待てない友人は更なる田舎者・俗物なのかと、新刊が出るたびソワソワする私は自分を棚に上げて思ったりしている。
(参照、「至福の時 至福の空間」 「読書の森」)
本書でも酷似本でも、友人の突然の死が残された者の人生に強く長く影を落とす様が書かれているが、先日のパリに続きロンドンの地下鉄でもテロが起こったことで、本書の言葉はより身近に感じられた。
『死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるだ』
ロンドン出張から帰国した家人から、ロンドン地下鉄の日本では考えられない話を、ちょうど聞いたばかりだったのだ。
ロンドンの地下鉄の時間がいい加減なのは周知のことだが、驚いたことに、走行中に行き先が突然変更になることまであるそうだ。
列車で、家人の近くにいた日本人の新婚夫婦が、この突然の行先変更のアナウンスに夫婦喧嘩を始めたそうだ。
飛行機の時間に間に合うかと焦る夫に、アナウンスの英語が理解できなかった妻は「走っている電車が突然行き先を変えること等あるはずがない。あなたは自分が乗り間違えたミスを電車のせいにするのか」と怒りをぶつけている。
ここは同じ日本人のよしみ、「いやいや本当に突然行き先が変更になったというアナウンスなのですよ。ロンドン地下鉄ではよくあることなのですよ」と助け船を出したが、釈然としない様子の新妻だったそうだ。
そんなロンドン地下鉄の話を聞いたばかりだったので、そこでテロが起こったことは、とても他人事には思えず、このご時世『死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるだ』という言葉はより確かなものとなってしまったという残念な思いで本書を読んでいた。
テロニュースとあわせて「ノルウェーの森」に書かれる癒えない哀しみを読むと、ロンドンの駅構内のテロで最愛の人マークを亡くしたDrケイ・スカーペッタの哀しみを思い出す。
『どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。
どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。
我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできな いし、
そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。』
~ノルウェーの森より~
スカーペッタは恋人マークの死から何年も立ち直れず、やっと新しい恋人と生きようと決意した矢先に再び事故で恋人を喪うにいたって、精神科医のドクターアナ・ゼナーに救いを求める。
どんな死も残された者に哀しみをおいていくが、突然の死は長く長く残された者の心から平穏を奪ってしまう。
本書でワタナベは、『僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ』という。
パリでロンドンで、哀しみは広がっているが、この哀しみを生んでしまった根っこにある哀しみもまた取り除かねば、哀しみの連鎖は止まらないのではないかと思う。
人影のない背景だけを抱きしめて生きていかねばならない人々を、これ以上増やしてはいけないと思っている。
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この物語はドイツの空港に着陸時にビートルズの「ノルウェーの森」を聴いたことで走馬灯のように浮かんだものを書いている。曲目や題名よりも、ドイツに着陸したばかりだったことに意味を見出そうとしてしまうほど、ナルチスとゴルドムントの国に惹かれるので・・・ドイツの森
写真出展 ウィキペディア
図書カードを公開するにあたりご本人の許可を取るべきであったのは当然だが、このおかげで「ノルウェーの森」を読み直すことになり、若気の至りの諸々で村上ワールドを殊更に遠ざけていた自分を反省することにもなった。
「ノルウェーの森」(村上春樹)
主人公ワタナベと高校時代の友人(恋人関係にある直子とキズキ)の三人の心模様が物語の中心にある。
直子をおいてキズキは亡くなり、恋人を失い精神的に不安定になる直子。
そんな直子をワタナベは支えようと決意し、心の中でキズキに「自分達は生きていくのだ」と語りかける。
本書のなかで、本を読む場面は何度かあるが、そのうちの一冊が「車輪の下」(ヘルマン・ヘッセ)。
この設定には見覚えがある。
最近読んだ、あの作品である。
高校時代からの友人3人。後に片方が亡くなることになるカップルとそれを見守る男子一人の二十歳前後の物語。
登場人物はその年齢に似つかわしくないほど哲学的で、しかもそれを臆面もなく語るところや、物語の小物として使われる小説が「車輪の下」であることまで、瓜二つ。
だが、設定が酷似していても、「ノルウェーの森」に違和感が少ないのは、村上春樹氏が高校時代からケッセルを読み込むほどの読書家で、その年齢にしては早熟な思索が村上氏にはしっかり身についていたからかもしれないし、ここが後に毎年ノーベル賞候補となるだけあっての力量なのかもしれない。
あの作品が(高校~大学時代の)現在進行形であるため、思慮深い高校生の加地君がどこか浮世離れた印象になるのに対し、「ノルウェーの森」の大学生たちも小難しいことを語り合ってはいるが、それが37才のワタナベの回想という手法をとっているため、違和感が少ないのだ。
「ノルウェーの森」というと、直子の「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」という言葉だけが印象に残る作品であり、先にも書いた通り、本書をプレゼントしてくれた人との関係性のせいで村上ワールドを遠ざける切っ掛けとなってしまった作品でもあるが、この度読み返してみると、幾つか印象的な言葉に出会った。
まずは本との関係について
本書には、東大法学部の永沢という屁理屈こね男がいて、本の読み方についても屁理屈こね男は語っている。
『他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。
そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない。』
その永沢は、作者の死後30年を経た本しか読まない。30年たっても世に残っている本しか信用しないという。
作者の死後30年たっても残っているということは、それだけ多くの人が読んでいるということなので、そればかり読むということは、結局は他人と同じもの、しかも時間と他人の手垢のついたものばかり読むことになると思うのだが?
私にも「出版から10年たったものしか読まない」という友人がいるが、優秀な人間というのは似たような思考をするものなのか、それとも友人は永沢の言葉を知っていて真似ただけなのか、真似たばかりか30年待てない友人は更なる田舎者・俗物なのかと、新刊が出るたびソワソワする私は自分を棚に上げて思ったりしている。
(参照、「至福の時 至福の空間」 「読書の森」)
本書でも酷似本でも、友人の突然の死が残された者の人生に強く長く影を落とす様が書かれているが、先日のパリに続きロンドンの地下鉄でもテロが起こったことで、本書の言葉はより身近に感じられた。
『死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるだ』
ロンドン出張から帰国した家人から、ロンドン地下鉄の日本では考えられない話を、ちょうど聞いたばかりだったのだ。
ロンドンの地下鉄の時間がいい加減なのは周知のことだが、驚いたことに、走行中に行き先が突然変更になることまであるそうだ。
列車で、家人の近くにいた日本人の新婚夫婦が、この突然の行先変更のアナウンスに夫婦喧嘩を始めたそうだ。
飛行機の時間に間に合うかと焦る夫に、アナウンスの英語が理解できなかった妻は「走っている電車が突然行き先を変えること等あるはずがない。あなたは自分が乗り間違えたミスを電車のせいにするのか」と怒りをぶつけている。
ここは同じ日本人のよしみ、「いやいや本当に突然行き先が変更になったというアナウンスなのですよ。ロンドン地下鉄ではよくあることなのですよ」と助け船を出したが、釈然としない様子の新妻だったそうだ。
そんなロンドン地下鉄の話を聞いたばかりだったので、そこでテロが起こったことは、とても他人事には思えず、このご時世『死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるだ』という言葉はより確かなものとなってしまったという残念な思いで本書を読んでいた。
テロニュースとあわせて「ノルウェーの森」に書かれる癒えない哀しみを読むと、ロンドンの駅構内のテロで最愛の人マークを亡くしたDrケイ・スカーペッタの哀しみを思い出す。
『どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。
どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。
我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできな いし、
そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。』
~ノルウェーの森より~
スカーペッタは恋人マークの死から何年も立ち直れず、やっと新しい恋人と生きようと決意した矢先に再び事故で恋人を喪うにいたって、精神科医のドクターアナ・ゼナーに救いを求める。
どんな死も残された者に哀しみをおいていくが、突然の死は長く長く残された者の心から平穏を奪ってしまう。
本書でワタナベは、『僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ』という。
パリでロンドンで、哀しみは広がっているが、この哀しみを生んでしまった根っこにある哀しみもまた取り除かねば、哀しみの連鎖は止まらないのではないかと思う。
人影のない背景だけを抱きしめて生きていかねばならない人々を、これ以上増やしてはいけないと思っている。
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この物語はドイツの空港に着陸時にビートルズの「ノルウェーの森」を聴いたことで走馬灯のように浮かんだものを書いている。曲目や題名よりも、ドイツに着陸したばかりだったことに意味を見出そうとしてしまうほど、ナルチスとゴルドムントの国に惹かれるので・・・ドイツの森
写真出展 ウィキペディア