「五郎治殿御始末」(浅田次郎)より
『五郎治は始末屋であった。
藩の始末をし、家の始末をし、最も苦慮したわし(孫)の始末もどうにか果たし、ついにはこのうえ望むべくもない形で、
おのれの身の始末もした。
男の始末とは、そういうものでなければならぬ。
けっして逃げず、後戻りもせず、能う限りの最善の方法で、すべての始末をつけねばならぬ。』
御一新とは、千年続いた武士という職業がこの世から消滅するという大転換であり、そこを生ききった侍の見事な御始末を、かってに他に投影してはお叱りを受けること間違いなしだが、その凛々しく毅然とした姿から、外国人に「Samurai Dog」と云われた我がワンコの意思ある御始末を記したい。
「ワンコ殿は始末屋であった。
散歩コースの始末をし、生理現象の始末をし、最も苦慮した家族の始末もどうにか果たし、
遂にはこのうえ望むべくもない形で、己の身の始末もした。
ワンコの始末とは、そういうものでなければならぬ。
けっして逃げず、後戻りもせず、能う限りの最善の方法で、すべての始末をつけねばならぬ。」
ワンコは僧房弁に問題を抱えていた。
早くから薬を服用していたおかげで、家族はそれと感じることはなかったし、きれいな毛艶とプリケツを保っていたので、ともすると散歩の距離を見誤るおそれがあったのだが、ある朝ワンコは決然と散歩コースを短縮した。
それは、ワンコ自身の意思によるものであり、家族に老いを知らせた最初の一歩だったかもしれない。
「めぐる季節にあさがくる」
最期のことを書くほどにはまだ立ち直れてはいないが、ワンコは生理現象の始末もつけていったと思っている。
最期の最後まで、恥ずかしそうに家族の腕に手をかけ独特の声をだし、チッチとウンチを知らせたワンコ。
食事は固形のものは受け付けなくなっていたワンコだが、水分は美味しそうに摂りカボチャスープはお気に入りだった。それが、あの日の前日は、そのスープすら摂ろうとしなかった、にもかかわらず、きちんとウンチをしたワンコ。(だから愚かな家族は消化機能が元気だと安心してしまったのだが)
人間でも動物でも最期の時は同じだというが、ワンコのそれは、今から思えば驚くほど少なくきれいなものだった。
我家には堅物偏屈意地っ張りな御大がいる。
前期高齢者とはいえ元気な御大は、「自分はそうと悟ると自身で棺桶に入って、その時を待つ」と言って憚らず、人様の手助けを受けねばならぬ老い方を恥とする一方で、誠実に親の介護をせぬ子を鬼畜にも劣ると考えている節があった。
老人ホーム入居どころかショートステイすら眼中になかった御大だが、ワンコの介護を通して、介護者と被介護者が一定の距離をおく必要性に気付いたようだ。
天才だったワンコに痴呆の症状が現れた時、御大は初めて、どんなものにも老いはくるのだと悟ったようだ。
夜鳴きをあやすため家族皆が寝不足になりだした頃、ワンコに長生きしてもらうためには家族が元気であることが必要だということから、夜の添い寝の当番制を検討した。これは結局ワンコが私と寝ることを選んだので、実施されなかったが、介護の分散の必要性は強く御大の心に刻み込まれたようだった。これが、いずれは御大の介護をすることになる私達には大きな大きな事であり、ワンコの教えだからこそ御大も素直に受け入れることができたのだと思っている。
「ワンコの愛 その2」
そして、痴呆。
何度となく本当に痴呆なのか?と疑問を書いてきたが、その痴呆すらワンコ自身の始末の付け方だったのだと、今なら思えるのだ。
ワンコは僧房弁に問題を抱えていた。
ワンコ先生によると、薬の服用し始めた頃から、いつ突然パタリといくことがあっても不思議ではなかった、らしい。
が、ワンコは散歩距離を減らした以外は心臓病を感じさせることはなく、毛艶も良くギリギリまでプリケツも保ち年相応以上に奇麗で、元気だった。
そんなワンコが突然去れば、私達家族はどうにもこうにも立ち直れなかったかもしれない。
ワンコ先生方はおっしゃる。
診察台の上では知性の欠片を見せつけるワンコが、それでも夜鳴き等の痴呆の症状を示したのは、家族がその時を受け入れる準備期間を与えていたようにも思えた、と。
最期まで美しいワンコらしい姿を家族に見せながら、それでも、ゆっくりと受け入れる時間をワンコは与えてくれていたのだろう、と。
ワンコ先生のそんな言葉を裏付けてくれるような記事を見つけた。
「社会問題としての認知乏しい「ペットロス」 早めの相談必要」 2016.02.12 07:00女性セブンより一部引用
『「ペットは、飼い主の“心の準備”ができてから、旅立つもの」と話す。家族が揃ったのを見届けてから息を引き取るなど、死の瞬間にはよく、奇跡的なことが起こるという。
「これは、ペットたちの飼い主への“想い”がそうさせているんだと思います。ペットを失った悲しみは、たくさん泣くなどして充分に感じてください。ただし、悲しみを抱え込んで長く引きずらないこと。彼らは、自分の死で、飼い主が悲しむことを望んでいません。ペットロスで苦しんでいる人は、1日5分でもいいので、死を受け止めてみてください』
『ペットは自らの死を通して、私たちに心の成長を促してくれるのだ。』
皆で見送ることはできなかったが、前日は、初めて皆で枕を並べて寝た。
大寒の直前で、この冬一番の大寒気団に襲われるとの予報に、温かくしてあげる方法を考えていたが、それを話し合っている真ん中で、あまりに気持ちよさそうに寝ているので、いっそこのまま寝させてあげよう、ワンコを囲んで皆で寝ようということになり、初めて皆で寝たのだった。
その夜は夜鳴きすることもなく、気持ちよさそうな寝息すら聞こえ、ワンコも家族も久しぶりに熟睡できた夜だった。
その翌朝の悲しみ。
だが、前日ゆっくり眠れたおかげで、その夜は一晩中ワンコを真ん中に夜伽をして過ごすことができたのだ。
何も言葉を発することなく、静かに心の中でワンコと語り合った時間がどれほど貴重だったかを、今頃ひしひしと感じている。
これもワンコの御始末だったと、私達に最大の愛を示してくれる御始末だったと、思っている。
ワンコが与えてくれた愛を通じで、私たちがどれほど心の成長ができたかは心許ない。
が、毎日仏壇の写真のご飯と水を備えてワンコと語り合う時間は、忙しさにかまけて反省少なく恥多い人生を歩んでいる私にとって、大切な時間となっているよ ワンコ
ワンコの愛と御始末を胸に、少しでも心の成長をはかりたいと思ってるよ ワンコ
だから、時に叱咤激励のため声を聞かせてよ ワンコ
だから、電話なんて欲をかかないから、夢でもいいから発破を掛けに来てよ ワンコ
ワンコの立派な御始末を私たちが受け留め成長するまで見守り続けるのが、ワンコの御始末だよ
『五郎治は始末屋であった。
藩の始末をし、家の始末をし、最も苦慮したわし(孫)の始末もどうにか果たし、ついにはこのうえ望むべくもない形で、
おのれの身の始末もした。
男の始末とは、そういうものでなければならぬ。
けっして逃げず、後戻りもせず、能う限りの最善の方法で、すべての始末をつけねばならぬ。』
御一新とは、千年続いた武士という職業がこの世から消滅するという大転換であり、そこを生ききった侍の見事な御始末を、かってに他に投影してはお叱りを受けること間違いなしだが、その凛々しく毅然とした姿から、外国人に「Samurai Dog」と云われた我がワンコの意思ある御始末を記したい。
「ワンコ殿は始末屋であった。
散歩コースの始末をし、生理現象の始末をし、最も苦慮した家族の始末もどうにか果たし、
遂にはこのうえ望むべくもない形で、己の身の始末もした。
ワンコの始末とは、そういうものでなければならぬ。
けっして逃げず、後戻りもせず、能う限りの最善の方法で、すべての始末をつけねばならぬ。」
ワンコは僧房弁に問題を抱えていた。
早くから薬を服用していたおかげで、家族はそれと感じることはなかったし、きれいな毛艶とプリケツを保っていたので、ともすると散歩の距離を見誤るおそれがあったのだが、ある朝ワンコは決然と散歩コースを短縮した。
それは、ワンコ自身の意思によるものであり、家族に老いを知らせた最初の一歩だったかもしれない。
「めぐる季節にあさがくる」
最期のことを書くほどにはまだ立ち直れてはいないが、ワンコは生理現象の始末もつけていったと思っている。
最期の最後まで、恥ずかしそうに家族の腕に手をかけ独特の声をだし、チッチとウンチを知らせたワンコ。
食事は固形のものは受け付けなくなっていたワンコだが、水分は美味しそうに摂りカボチャスープはお気に入りだった。それが、あの日の前日は、そのスープすら摂ろうとしなかった、にもかかわらず、きちんとウンチをしたワンコ。(だから愚かな家族は消化機能が元気だと安心してしまったのだが)
人間でも動物でも最期の時は同じだというが、ワンコのそれは、今から思えば驚くほど少なくきれいなものだった。
我家には堅物偏屈意地っ張りな御大がいる。
前期高齢者とはいえ元気な御大は、「自分はそうと悟ると自身で棺桶に入って、その時を待つ」と言って憚らず、人様の手助けを受けねばならぬ老い方を恥とする一方で、誠実に親の介護をせぬ子を鬼畜にも劣ると考えている節があった。
老人ホーム入居どころかショートステイすら眼中になかった御大だが、ワンコの介護を通して、介護者と被介護者が一定の距離をおく必要性に気付いたようだ。
天才だったワンコに痴呆の症状が現れた時、御大は初めて、どんなものにも老いはくるのだと悟ったようだ。
夜鳴きをあやすため家族皆が寝不足になりだした頃、ワンコに長生きしてもらうためには家族が元気であることが必要だということから、夜の添い寝の当番制を検討した。これは結局ワンコが私と寝ることを選んだので、実施されなかったが、介護の分散の必要性は強く御大の心に刻み込まれたようだった。これが、いずれは御大の介護をすることになる私達には大きな大きな事であり、ワンコの教えだからこそ御大も素直に受け入れることができたのだと思っている。
「ワンコの愛 その2」
そして、痴呆。
何度となく本当に痴呆なのか?と疑問を書いてきたが、その痴呆すらワンコ自身の始末の付け方だったのだと、今なら思えるのだ。
ワンコは僧房弁に問題を抱えていた。
ワンコ先生によると、薬の服用し始めた頃から、いつ突然パタリといくことがあっても不思議ではなかった、らしい。
が、ワンコは散歩距離を減らした以外は心臓病を感じさせることはなく、毛艶も良くギリギリまでプリケツも保ち年相応以上に奇麗で、元気だった。
そんなワンコが突然去れば、私達家族はどうにもこうにも立ち直れなかったかもしれない。
ワンコ先生方はおっしゃる。
診察台の上では知性の欠片を見せつけるワンコが、それでも夜鳴き等の痴呆の症状を示したのは、家族がその時を受け入れる準備期間を与えていたようにも思えた、と。
最期まで美しいワンコらしい姿を家族に見せながら、それでも、ゆっくりと受け入れる時間をワンコは与えてくれていたのだろう、と。
ワンコ先生のそんな言葉を裏付けてくれるような記事を見つけた。
「社会問題としての認知乏しい「ペットロス」 早めの相談必要」 2016.02.12 07:00女性セブンより一部引用
『「ペットは、飼い主の“心の準備”ができてから、旅立つもの」と話す。家族が揃ったのを見届けてから息を引き取るなど、死の瞬間にはよく、奇跡的なことが起こるという。
「これは、ペットたちの飼い主への“想い”がそうさせているんだと思います。ペットを失った悲しみは、たくさん泣くなどして充分に感じてください。ただし、悲しみを抱え込んで長く引きずらないこと。彼らは、自分の死で、飼い主が悲しむことを望んでいません。ペットロスで苦しんでいる人は、1日5分でもいいので、死を受け止めてみてください』
『ペットは自らの死を通して、私たちに心の成長を促してくれるのだ。』
皆で見送ることはできなかったが、前日は、初めて皆で枕を並べて寝た。
大寒の直前で、この冬一番の大寒気団に襲われるとの予報に、温かくしてあげる方法を考えていたが、それを話し合っている真ん中で、あまりに気持ちよさそうに寝ているので、いっそこのまま寝させてあげよう、ワンコを囲んで皆で寝ようということになり、初めて皆で寝たのだった。
その夜は夜鳴きすることもなく、気持ちよさそうな寝息すら聞こえ、ワンコも家族も久しぶりに熟睡できた夜だった。
その翌朝の悲しみ。
だが、前日ゆっくり眠れたおかげで、その夜は一晩中ワンコを真ん中に夜伽をして過ごすことができたのだ。
何も言葉を発することなく、静かに心の中でワンコと語り合った時間がどれほど貴重だったかを、今頃ひしひしと感じている。
これもワンコの御始末だったと、私達に最大の愛を示してくれる御始末だったと、思っている。
ワンコが与えてくれた愛を通じで、私たちがどれほど心の成長ができたかは心許ない。
が、毎日仏壇の写真のご飯と水を備えてワンコと語り合う時間は、忙しさにかまけて反省少なく恥多い人生を歩んでいる私にとって、大切な時間となっているよ ワンコ
ワンコの愛と御始末を胸に、少しでも心の成長をはかりたいと思ってるよ ワンコ
だから、時に叱咤激励のため声を聞かせてよ ワンコ
だから、電話なんて欲をかかないから、夢でもいいから発破を掛けに来てよ ワンコ
ワンコの立派な御始末を私たちが受け留め成長するまで見守り続けるのが、ワンコの御始末だよ