何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

神々の頂を 想え

2016-03-19 11:03:30 | 
「神々の頂への途上」より

マロリーは「山がそこにあるから」ばかりが有名だが、この言葉は、マロリーをよく知る人によれば実にマロリーらしからぬ言葉なのだそうだ。
ではマロリーは何と言っているのかというと、1914年「芸術家である登山家」という題のエッセイで『アルプスで過した良き一日は、優れた交響曲に似ている』と書いている。

山を少しばかり歩いたことがあるくらいの私では優れた交響曲になど出会えるはずもないが、深町が云う感覚の一端はよく分かる。
『上へゆくということは、下でのことを、次々と時の彼方に忘れてゆく作業なのかもしれないと、深町は思う。
 いや、そうではない。
 遠ざかれば遠ざかるほど忘れてゆくものもあるかわりに、逆に、見えてくるものもある。
 色々なものが遠くなり、疲労の中で消え去ってゆくかわりに、
 それでも消えないもの、残っているものが、いっそうはっきり見えてくるということだってある。』

これを、長谷川恒男氏ならぬ本書の長谷常雄は、「山と対話する」と表現している。
世界初のアルプス3大北壁冬季単独登攀者である長谷川恒男氏は、多くの作家によって描かれているが、自身も雄弁に山や人生を語っている。長谷川氏の「北壁に舞う 生き抜くことは冒険だ」「岩壁よ おはよう」は道徳の教材にもなりうる良書という印象があるので、「神々の山嶺」(夢枕獏)の長谷常雄の言葉と比較してみたいが、今手元にないので、本書の当該箇所を引用しておきたい。

『山へゆくというのは、あれは、山と対話をしにゆくのである。
 山と対話をしながら、山のどこかにいる自分自身を捜しにゆく。
 そのような行為が、僕にとっての山なのだろう。
 より危険で、より困難な壁に向きあえば向きあうほど、山とは濃密な対話ができるような気がする』
『独りの山は深い』

長谷常雄は「山へ対話しにゆく」と書くが、濃密な対話をするため困難な壁に挑めば、命の危険は増し、命や生き方についての考え方もシビアになってくる。

『単に、長く生きることが、生きることの目的ではないのだ。
 これは、はっきりしている。
 人間が生きてゆく時に問題にすべきは、その長さや量ではなく、質ではないか。
 どれだけ生きたかではなく、どのように生きたかが、重要なのだ。
 生は、長さではない。』 

長谷の山も「生は、長さではない」と言わねばならぬ厳しさだが、羽生の激しさは、それとは何かが違う感じがする。
「山を好きか なぜ山に登るのか」羽生は考える。
『そこに山があるからじゃない。ここに、おれがいるからだ。
 ここにおれがいるから山に登るんだよ』

英国ヴィクトリア十字勲章の元グルカ兵は、『何であれ、待っていても、誰かがそれを与えてくれはしないのです。深町さん。国家も、個人も、その意味では同じなのです』 『欲しいものがあれば、自らの手でそれを掴みとるしかないのですよ』と言う。その元グルカ兵の目にさえ、羽生の目指す「山」は壮絶に映る。
歴戦の戦士が語りかける。
『君(羽生)が、何をこれから手に入れようとしているのか、朧げには見当がつくよ』
『君がね、捨てたもの、捨てようとしているものの大きさを見れば、君が手に入れようとしているものの大きさがわかる』
『人間は、両手に荷物を抱えていたら、もうそれ以上の荷物は持てない。いったん、両手の荷物を捨てなければ、次の荷物は抱えられないからね』
『戦場へゆく兵士は、みんな君のような顔をしている。グッド・ラックと言ってあげたいが、君は、幸運も拒否するだろうね。いや、拒否はしないだろうが、あてにはしない。最後に、ひとつだけアドバイスさせてもらうなら、休息は必要だよ』

心と身体に巣喰らう獣のような何かを昇華させるために挑む羽生の山は、凄まじい。
エヴェレスト南西壁冬季無酸素単独登攀の最中、見えなくなった目で書いた最後のページ
『いいか。
やすむな。やすむなんておれはゆるさないぞ。
ゆるさない。
やすむときは死ぬときだ。
生きているあいだはやすまない。
やすまない。
おれが、おれにやくそくできるただひとつのこと。
やすまない。
あしが動かなければ手であるけ。
てがうごかなければゆびでゆけ。
ゆびがうごかなければはで雪をゆきをかみながらあるけ。
はもだめになったら、目であるけ。
目でゆけ。
目でゆくんだ。
めでにらみながらめであるけ。
めでもだめだったらそれでもなんでもかんでもどうしようもなくなったらほんとうにほんとうのほんとうにどうしようもなくなったらほんとうにほんとうにほんとうのほんとうにどうしようもなくほんとうにだめだったらほんとう にだめだったらほんとうに、もう、こんかぎりあるこうとしてもうだめだったらほんとうにだめだったらだめだったらほんとうにもううごけなくなってうごけなくなったら──
思え。
ありったけのこころでおもえ。

想え──』

羽生は、還らぬ人となる。
だが、羽生は最後の最後まで羽生らしさを貫き、その眼を開き前を睨むように見つめ、死の、その瞬間まで自分の意思を保ち続け、そして山と一体化するものとなり、オデルのいう「頂にたどりつこうとして、歩いている、歩き続けている、人」となった。
『よく考えてみれば、あれは、私の姿なのです。
 そして、あなたのね。
 この世に生きる人は、全て、あの二人の姿をしているのです。
 マロリーとアーヴィンは、今も歩き続けているのです。
 頂にたどりつこうとして、歩いている。
 歩き続けている。
 そして、いつも、死はその途上でその人に訪れるのです。
 軽々しく、人の人生に価値などつけられるものではありませんが、
 その人が死んだ時、いったい何の途上であったのか、
 たぶんそのことが重要なのだと思います。
 私にとっても、あなたにとっても。
 何かの途上であることー
 あの事件が、私に何らかの教訓をもたらしてくれたとすれば、たぶんそれでしょう。』
        N・Eオデルインタビュー 1987年1月 ロンドンにて

「神々の山嶺」 完



ところで、映画が出来上がってから配役をあれこれ考えても仕方がないが、俳優さんの顔を思い浮かべながら、読んでいた。
深町を演じる岡田准一氏と涼子を演じる尾野真知子氏にまったく違和感がないのに対して、羽生には森田勝氏という実在のモデルがいて、しかも森田氏にも羽生にも強烈な個性があるので、それを甘いマスクの阿部寛氏がどのように演じるのか訝しく思いながら、読んでいた。
だが、途中から阿部氏の顔が重なってきた。
エヴェレスト南西壁冬季無酸素単独登攀を目指す羽生を見届けたいがために、5400M地点のベースキャンプまで追ってくる深町に、「山は好きか、なぜ山に登るのか」と羽生は問い、同行を許す。その思いがけず優しい声に、阿部氏が重なったのだ。
この場面が映画にあるのかは分からない。そもそも、これだけ「神々の山嶺」について書きながら、当分の間は映画を観に行くつもりはない。
本の強烈な印象が少し薄らいだ頃、映画館で静かに感動に浸ろうと思っている。