何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

ワンコに背負われて読む本

2016-03-24 00:33:37 | 
「パトラッシュの国に祈りを捧げる」より

「神々の山嶺」(夢枕獏)にどっぷり浸かっていたので、当分は違うジャンルの本を読もうと思っていたのに、本仲間に勧められた南アルプスを舞台にした「ブロッケンの悪魔」(樋口明雄)を読んでしまったのは、登場人物に深町という名の山岳救助隊がいたからだ(笑)。
本の帯に「前篇クライマックス 超弩級のノンストップ・エンターテイメント」と書かれるほどの息もつかせないストーリー展開は映画化しやすい物語だと思われる。もし映画化されるなら、是非とも深町敬仁(誠ではない)を主要人物に据えたうえで岡田准一氏に演じてもらえれば、アクションという点からも面白味が増すこと間違いなしなどと思いながら読んだ「ブロッケンの悪魔」ではあるが、考えさせられることは多々あった。

本書のテロ首謀者がPKO活動と福島第一原発救援中に亡くなった隊員の殉職の公表を要求する心情を読むと、国家のまえには声なき声とならざるをえない者の掲げる大義にも共感を覚えてしまうが、ベルギーでの暴虐を知った後では当然のことながら、いかなる大義も暴力に訴える理由にはならないと強く思ってはいる。
ただ、安全保障であれエネルギー政策であれ、ニュースで知らされている以上の問題をはらんでおり、そこには知られざる犠牲があるかもしれないということを肝に銘じておくため、武力集団の首謀者の怒りの言葉を再度記しておく。

『無気力で無関心で刹那的に生きていて、自分で未来を選ぼうとしない愚かな日本人に、我々が見てきたものをわからせたかった。無責任という逃げ道を作りながら飽くなき暴走を続ける政府と、それをなし崩し的に容認する無自覚な日本人そのものが、我々の標的だった』

ところで、山頂で自分の影を見で「山が復讐を勧めている」と感じたというテロ首謀者に対し、山岳救助隊が云う『山は人の心を鏡のようにして見せるんです』という言葉から、「春を背負って」(笹本稜平)を思い出した。
「春を背負って」の主人公亨は、高集積度三次元半導体の優秀な研究者でありマスコミを賑わすほどの成果もあげていたが、研究者としても人としてもみっともない上司に代表される諸々に失望し、研究への熱意もプライドも失い、遂には自殺まで考えるほどに追い詰められていたところを、亡き父が残した山小屋を継ぎ自然の中で暮らすことで、「生き直す」。
この主人公亨の「生き直し」に大きな影響を与えるのが、豊かな自然だけでなく、それぞれに事情を抱えた小屋番と登山客であることが本書の魅力であるので、そこで交わされる会話は、読む者の心を温かくしてくれる。そんな会話の幾つかを、『山は人の心を鏡のようにして見せるんです』という言葉により思い出したのだ。

教職を擲って山小屋の主人になった亨の父の生き方を「あの人には欲はなかったけど、夢があった」 『欲しいものを楽して手に入れようとするのが欲だよ』『(夢は)それを手に入れるために労を厭わない、むしろそのための苦労そのものが人生の喜びであるような何かだな―』などと語りながら、小屋番ゴローちゃんの哲学的な会話は続いていく。
『人生で大事なのは、山登りと同じで、自分の二本の足でどこまで歩けるか、自分自身に問うことなんじゃないのかね。
 自分の足で歩いた距離だけが本物の宝になるんだよ。
 だから人と競争する必要はないし、勝った負けたの結果から得られるものなんて、束の間の幻にすぎないわけだ』 

半導体の研究者もサラリーマンも止め、勝った負けたの世界から足を洗い、山に暮らすようになった亨が 『たとえば敵がいなくなって味方が増えた』 『今思えば、そもそも敵なんていなかったような気がする。勝ち負けでしか自分の力を評価できないから、そのために自分で幻の敵をつくっていたんじゃないのかな』と言うと、すかさずゴローちゃんは応える。
『そんなもんかもしれないね。たぶんその敵というのは鏡に映った自分なんだよ。
 俺たちのような凡人はそうやって自分自身と喧嘩し続けて、人生を棒に振るのが落ちなんだ』

山小屋で交錯するのは、小屋番たちの人生模様だけではない。
最終章の「荷揚げ日和」には、服役を終えた前科者が娘と山小屋を訪れる場面がある。
精神障害の妻と幼い娘・真奈美を抱えて人生の再出発を誓う前科者の明るい未来を祈りながら小屋番たちが交わす会話も、味がある。
『不幸ってのは人間を育てる肥やしなのかもしれないね』
『あの人(前科者)にすりゃ、奥さんと真奈美ちゃんは、損得抜きで背負う価値のある大事な荷物なんだろうね』
『周りからいくら幸福に見えても、その人が本当に幸福かどうかは本人にしか分からない。
 でも心のなかに自分の宝物を持っている人は、周りからどう見られようと幸福なんだよ』
『幸福を測る物差しなんてないからね。いくら容れ物が立派でも、中身がすかすかじゃどうしようもない。
 ところが世の中には、人から幸せそうに見えることが幸せだと勘違いしてるのが大勢いるんだよ』
『人間て、誰かのために生きようと思ったとき、本当に幸せになれるものかもしれないね。
 そう考えると、幸福の種子はそこにもここにもいくらでもあるものかもしれないね』

幸福の種子を心に播いて「春を背負って」は物語を終えるが、山が、自分の真の姿や自分にとって真に必要なものに気付かせてくれるという意味においては、「ブロッケンの悪魔」にも通じるものがあったと思われるし、それが「神々の山嶺」(夢枕獏)の深町の云うところの「(山で)見えてくるもの」であり、長谷常雄の云うところの「山と対話する」ということなのだと思っている。 「神々の頂を 想え」

今年は、もしかすると憧れの常念岳に登る機会があるかもしれない。
山にしっかり向き合えるよう、その日まで精進して過ごさなければならないと思っている。

ところで、「ブロッケンの悪魔」を読み進めた理由は、深町(敬仁or誠)以外にもある。
「ブロッケンの悪魔」には、山岳救助犬バロンが、谷底に落ちて気を失っているハンドラーを救うべく、大嵐のなか鳳凰小屋に駆けつけ救助の人を呼ぶ場面があるが、主人の急に立ち向かう救助犬バロン(シェパード)の姿に、我ワンコが重なったのも、その理由の一つだ。

1999年12月30日から31日にかけて、日本中に悲しいニュースが駆けめぐった。
皇太子ご夫妻の深い悲しみと雅子妃殿下の御体調に思いを寄せるだけでも胸が潰れる思いがしたが、カーテンを閉めた御車を禍々しいフラッシュが追いかける様はあまりにお気の毒で痛ましく、それ以上はニュースを見ておれず、ワンコと夜の散歩に出た。
呆然と悄然と歩いていて、アスファルトの窪みに気付かず、足をとられて横転し、そのまま数分間?気絶していた。
気が付いたのは、足首の激痛のせいではなく、ワンコが顔を一生懸命に舐めてくれていたおかげだった。
当時やっと一歳の誕生日を過ぎたばかりのワンコはやんちゃ盛りで、散歩でも絶対的な主導権を握り、私達を振り回し、隙あらばリードを振り切って走っていくほどだった。
そのワンコが、ひっくりかえって動かない私の元から離れず、覆い被さりながら顔を舐めてくれたおかげで、意識が戻ったのだ。
足を引きずりながら、這うような歩みの私に付き添い歩いてくれた ワンコ
やっと門に帰りつくなり、へたり込む私を見るや、アプローチを駆け上がり、家族に急を知らせてくれた ワンコ
あの時のワンコに救助犬バロンが重なり、ワンコの優しさを思い出しながら、「ブロッケンの悪魔」を読んだので、辛いけれども「おいで、一緒に行こう」(森絵都)も読まねばならないと思ったのだ。  「桜よりぼた餅かい ワンコ」
ワンコのおかげで読書ワールドが広がったよ ワンコ
これからも 読書の道も導いてよ ワンコ

ところで、あれ以来、雅子妃殿下の御懐妊の一報を告げた新聞が書くことは、一行たりとも信用して読んだことはない。
御懐妊報道を検証した他紙は「東宮大夫が流産を告げた時、報道はとんでもない間違いを犯したのではないかと、体が震えた」と書いていた。
御懐妊のスクープを受けて報道するテレビのキャスターのなかには、「このような早い段階での報道はいかがなものか、もし間違いなら取り返しがつかないし、皇太子ご夫妻に申し訳ない」と戸惑っている人もいた。
が、当の第一報を流した新聞は、その後も無反省に皇太子御一家を苦しめ続けた。
マスコミに携わる者ならスクープが欲しいのは当然だろうし、報道に携わる者であれば、事実をいち早く伝える使命もあるだろう。が、そこに国や人に対する愛がなければ、それは只の三文の価値すらない。

あれから、あの一報を告げた新聞は私にとって、相変わらず三文以下の存在だ。