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未来へ繋がる最後の武士道 その壱

2016-03-07 12:45:51 | 
「最後の武士道 その弐」より

価値観が一変した幕末維新を侍たちがいかに生きたかを書いた「五郎治殿御始末」(浅田次郎)には、『御一新の後、旧幕府の御家人たちが選ぶ道には三通りがあった。その一は無禄を覚悟で将軍家とともに駿河へと移り住むことであり、その二は武士を捨て農商に帰することであり、その三は新政府に出仕する道であった。』とある。
御家人にしてこれなのだから、下々の武士たちも路頭に迷った。車引きになる者、軍人になる者、役人や警察官になる者、そして死に場所を求めてさすらうしかなかった者と、その後の人生はさまざまである。
まして賊軍の誹りを受けた藩と藩士はその後、辛酸を舐めつくしていたのではないだろうか。

桑名藩や村上藩と同じく賊軍の汚名を着てしまった二本松藩砲術指南役の朝河家の明治初期の暮らしぶりに着いて、「最後の日本人」(安部善雄)は 『武士を離れた夫婦は、どん底の生活苦を味わわなければならなかった。傘張り・手習師匠や、よその洗濯仕事・針仕事などの内職に身を粉にして働いた』と書いている。
二本松城炎上とともに家屋敷が焼失した朝河家は、飢えを凌ぐ為に必死で内職しなければならなかったというが、その厳しさは村上藩も同じ、もしくは藩の混乱がより大きい分だけ一層厳しかったものと思われる。
明治維新前後、村上藩は奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と戦ったが、長岡藩が陥落し新政府の侵攻が迫ったことを悟った時の藩主内藤信民は村上城内で自害して果て、家老ら重臣は藩領を離れて新政府と戦い最終的には処刑され、前藩主が突然大阪から養子を迎えることで事態の収拾を図るという大混乱が村上藩を襲ったのだ。

一体このような事態にあって、藩士ひとりひとりの記録が正確に残っているのだろうか、残っていないことをもって責められ咎められねばならないのだろうか。
ネット上に跋扈する雅子妃殿下の御実家についての謂われないバッシングである。

二本松藩の朝河家も天狗党討伐と戊辰の役で大黒柱を相次いで亡くしているが、小和田家も雅子妃殿下の曽祖父・金吉氏は明治四年と七年に祖父・兵五郎と父・道蔵を相次いで亡くしている。
朝河貫一氏と小和田金吉氏はほぼ同世代だが、貫一氏の父が内職をしながら小学校三等授業生の教員資格をとり貫一の教育に心を砕いたのに対し、父と祖父を失った金吉氏は自力で努力し税務署に務め、旧家の熊倉家の次女・竹野さんを妻に迎え官舎住まいを始めるが、長男・毅夫(雅子妃殿下の祖父)の誕生後まもなくして病気にて亡くなってしまった。
その後、竹野さんは実家に帰り苦労して長男を育てるが、毅夫氏を育てる過程で、旧村上藩士の子孫のために設立された育英事業が関与してくるのだろう。

『享保五年に村上藩に入夫封して以来、内藤家や藩士たちは三面川の鮭に多大な関心を有していた。そういったなかで、藩士・青砥武平次は種川という方法を考案し、鮭の養殖を実現させた。~略~得られた運上金は藩の財政を大いに潤した』
『明治維新後、件の鮭の養殖は旧藩士の手で行われるようになった。明治一七年や大正一三年の村上藩の鮭の養殖関係の書類のなかには、雅子妃殿下の曽祖父の金吉氏、祖父の小和田毅夫氏の名前も見られる。鮭の養殖に関係した旧藩士や子孫のなかには小和田家も含まれていたのである。』  『 』「小和田家の歴史」(川口素生)より

この旧藩士やその子孫が関わることが許された鮭の養殖事業によって得られた財源をもとに育英事業が行われ、数多くの有為な人勢が世に出たが、その事業に雅子妃殿下の曽祖父と祖父の名が記されているのである。

毅夫氏は大変優秀で、旧制高田中学から広島高等師範学校(現在の広島大学)に進学し、卒業後の初めての赴任地として、福島県相馬市の旧相馬中学を選んでいる。
なぜ初めて教鞭をとる赴任地として相馬を選んだかという理由に、朝河貫一親子の語られはせずとも受け継がれた想いに重なるものがあると思うだ。
「村上藩と同く奥羽越列藩同盟に属し朝敵の汚名を着るこることとなった歴史的に縁のある地の若者の教育に関わりたかったから」 だという。

朝河貫一氏の父も小和田毅夫氏の父母も、御一新後まず家族を養うのが精一杯の日々だったかもしれないが、志高く子の教育に力を注いでいるのは、ともに賊軍の誹りを受けながらも武士の矜持を強く持っていたからかもしれない、そして苦労を多くは語らない武士道の精神を守っていたために、伝えられないものもあるのだろうが、子らが切り開いていく生き方や佇まいから受け継がれている大切なものは拝察できる。

つづく