「死を待つ人の家より寂しい処」より
1979年ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサは1981年、国際会議出席のために日本を訪れた。
テレビ・ラジオ・雑誌がマザー・テレサを取り上げ、その行く先々にマスコミは着いてまわったが、彼女は日本の真実・現実を見たいと、マスコミの目から逃れて東京の山谷や大阪の愛隣地区を訪問した。そして、それらを訪問した後の講演でマザー・テレサが語ったことは、我々日本人にとって耳が痛いばかりではなく、人としても哀しい。
「マザー・テレサ」(写真・作 沖守弘)と、子供向け英語教材「Mather Teresa」より私なりの要約
『今朝、私はこの豊かで美しい日本で、孤独な人を見ました。この豊かで美しい国の、大きな心の貧困を見ました。
カルカッタやその他の土地に比べれば貧しさの度合いは異なり、日本には貧しい人は少ないでしょう。
でも、一人でもいるのなら、その人は何故(道端で)倒れたままで、救われないのでしょう?
手を差し伸べる日本人がいないことにビックリし、そして悲しくなりました。』
『貧しさとは、物質的なものに飢えていることだけを言うのではありません。
貧しい人とは、社会に見捨てられてしまっていると感じている人々、例えば高齢者、酔っ払い、病気の人。
貧しい人とは、自分自身を不必要だと感じてしまっている人々である。』
『あなた方が身近にいる、孤独や愛の不足で苦しんでいる人々を助けようとしないのは何故ですか?』
『もし、あなたが自分自身の家族にためらいなく微笑んだ顔を見せて彼らに尽くすなら、
あなたの家庭の外の世界の人々に生かせる愛を持つことが出来るでしょう』
『この豊かで恵まれた国で学ぶ若い人々は、自分達の社会を進歩させるために、たくさんの愛を持ち続けるべきです』
マザー・テレサが目にしたものが日本の全てではない、ということは声を大にして言いたいが、では一点の曇りもなく善良で心優しき者達ばかりかと云えば、そうでは無いとしか言いようがない。
残念だが近年では、倒れた人を放っておくだけならまだしもマシで、自分が優位に立つためなら、相手を倒れさせたうえで踏みつけ捻りつぶして、水底へ突き落としそうな冷酷な面が顕著にみられると考える今日という日は特に、15年以上にわたり苦しみ抜いてこられた皇太子御一家、とりわけ雅子妃殿下の孤独について思わざるをえない。
長年待ち望んだ待望の第一子を抱く枕辺で、「次こそは男児を」と責められた女性。
男子を産めなかったという一点で立場を軽んじられ、外交的重要場面で紹介すら飛ばされる屈辱に遭った女性。
ハーバードとオックスフォードで学んだことを活かして日本のために働きたいという高い理想は踏みにじられ、「そんなに海外に行きたいのか」と罵倒された女性。
世継ぎを産めない女性には存在価値がないのだと人格を否定され、倒れてしまった女性。
物質的には恵まれていようとも、男児を産めなかった自分を不必要な存在だと感じ、心を病んでしまわれた雅子妃殿下。
病んで尚、見るも悍ましいようなバッシングに晒され続けた雅子妃殿下。
苦しみの時を経て、今ご回復が顕著になっているのは、苦しむ雅子妃殿下の傍らでいつも変わりなく微笑んでおられた皇太子様の御存在があるからだと思う。
マザー・テレサは言っている。
『もし、あなたが自分自身の家族にためらいなく微笑んだ顔を見せて彼らに尽くすなら、
あなたの家庭の外の世界の人々に生かせる愛を持つことが出来るでしょう』
どのような奇麗ごとを並べようとも、隣で苦しみもがいている家族を支えることが出来ずして、外の世界の人々に''愛''をもつことが出来るだろうか。
皇太子様は、ただ微笑んで雅子妃殿下を支えてこられただけではない。
雅子妃殿下を支えることで、女の子である敬宮様を慈しみ育てることで、外界から恐ろしいほどの攻撃に遭ってこられた。
それでも、皇太子様が御家族を守られる姿勢は変わることはなかった。
この静かな強さに感嘆している。
この静かで強い''愛''がいずれ外の世界にも向けられるとき、いや既にあるその''愛''に気づく人が増えてきたとき、我々は良い方向に変わっていくと信じている。
そして、その時は近いと期待している。
ところで、5日「聖人」の列に加えられたマザー・テレサだが、その前段階である福音に認定(2003年)していたのは、当時のローマ法王ヨハネパウロ2世だ。
ヨハネパウロ二世は、「いのちの福音」で「神は小さな形のない胚芽であるときに人間を見つめ、そのような人間のうちにすでに将来の成長した姿を認めるかたです」との考えを示しておられる。それ故に(受精卵を壊して作る)ES細胞を認めなかったのに対して、山中教授が成功させたiPS細胞にバチカンは絶大なる賞賛を送ったのだが、より一般的な例としては、堕胎や受精卵の廃棄を禁じている事だろう。
「受精卵も命である」という考えは、生命の尊厳を重んじることであり、その帰結として命・性別の選別を許さないのだが、それは女性の命や働きを認めるということに繋がると思われる。この姿勢は徐々に実を結び、今年ついに※「女性聖職者復活」を検討するに至っている。
「受精卵も命である」「堕胎は許されない」というカトリック的姿勢にみられるような教義の全てが、現代の科学やライフスタイルに合致するかは議論の余地があるのかもしれないが、そのような精神が、人の生き方や科学や政治経済に生きているからこそ保たれている秩序があるのだと思う。
ご都合主義や自らを立てる欲得のために、科学の進歩を利用し政治を動かしていたのでは、いつか破綻をきたすに違いない。
愛のある夫婦として科学の進歩と共調しながらも、命の尊厳を守るために、踏み越えてはならないモノとは一線を画された皇太子ご夫妻を尊敬していると、今日この日に記しておきたい。
追記
マザー・テレサは「貧しい人とは、自分自身を不必要だと感じてしまっている人々である。」という。
貧しい、という語がもつ意味合いの理解は難しいが、自分自身を不必要だと感じてしまうことの哀しさなら、よく分かる。
だからこそ言いたい。
最も貧しく最も哀しい人間は、自分自身を不必要だと感じさせる処まで他人を追い詰めた人ではないかと、思っている。
そんな私なので、自分を棚に上げた上でいうと、悪人正機説など理解できないとも、思っている。
※「女性聖職者復活」のニュース、「復活」というところが興味深い。
現在は許されていない女性聖職者が過去には存在していたという事実は、旧弊な価値観にとらわれていたと思われがちな昔の方が、ある種の男女同権を有していたことを示している。
海の向こうのこの話、何かを思い出させるではないですか。
そう、日本にもかつておられた女性天皇の存在である。
世界も日本も変化の時、でもそれは廻りまわって、元の姿に戻るということ。
(参照、ローマ法王、女性聖職者復活を検討 委員会設置の考え http://www.asahi.com/articles/ASJ5F54KYJ5FUHBI018.html)
1979年ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサは1981年、国際会議出席のために日本を訪れた。
テレビ・ラジオ・雑誌がマザー・テレサを取り上げ、その行く先々にマスコミは着いてまわったが、彼女は日本の真実・現実を見たいと、マスコミの目から逃れて東京の山谷や大阪の愛隣地区を訪問した。そして、それらを訪問した後の講演でマザー・テレサが語ったことは、我々日本人にとって耳が痛いばかりではなく、人としても哀しい。
「マザー・テレサ」(写真・作 沖守弘)と、子供向け英語教材「Mather Teresa」より私なりの要約
『今朝、私はこの豊かで美しい日本で、孤独な人を見ました。この豊かで美しい国の、大きな心の貧困を見ました。
カルカッタやその他の土地に比べれば貧しさの度合いは異なり、日本には貧しい人は少ないでしょう。
でも、一人でもいるのなら、その人は何故(道端で)倒れたままで、救われないのでしょう?
手を差し伸べる日本人がいないことにビックリし、そして悲しくなりました。』
『貧しさとは、物質的なものに飢えていることだけを言うのではありません。
貧しい人とは、社会に見捨てられてしまっていると感じている人々、例えば高齢者、酔っ払い、病気の人。
貧しい人とは、自分自身を不必要だと感じてしまっている人々である。』
『あなた方が身近にいる、孤独や愛の不足で苦しんでいる人々を助けようとしないのは何故ですか?』
『もし、あなたが自分自身の家族にためらいなく微笑んだ顔を見せて彼らに尽くすなら、
あなたの家庭の外の世界の人々に生かせる愛を持つことが出来るでしょう』
『この豊かで恵まれた国で学ぶ若い人々は、自分達の社会を進歩させるために、たくさんの愛を持ち続けるべきです』
マザー・テレサが目にしたものが日本の全てではない、ということは声を大にして言いたいが、では一点の曇りもなく善良で心優しき者達ばかりかと云えば、そうでは無いとしか言いようがない。
残念だが近年では、倒れた人を放っておくだけならまだしもマシで、自分が優位に立つためなら、相手を倒れさせたうえで踏みつけ捻りつぶして、水底へ突き落としそうな冷酷な面が顕著にみられると考える今日という日は特に、15年以上にわたり苦しみ抜いてこられた皇太子御一家、とりわけ雅子妃殿下の孤独について思わざるをえない。
長年待ち望んだ待望の第一子を抱く枕辺で、「次こそは男児を」と責められた女性。
男子を産めなかったという一点で立場を軽んじられ、外交的重要場面で紹介すら飛ばされる屈辱に遭った女性。
ハーバードとオックスフォードで学んだことを活かして日本のために働きたいという高い理想は踏みにじられ、「そんなに海外に行きたいのか」と罵倒された女性。
世継ぎを産めない女性には存在価値がないのだと人格を否定され、倒れてしまった女性。
物質的には恵まれていようとも、男児を産めなかった自分を不必要な存在だと感じ、心を病んでしまわれた雅子妃殿下。
病んで尚、見るも悍ましいようなバッシングに晒され続けた雅子妃殿下。
苦しみの時を経て、今ご回復が顕著になっているのは、苦しむ雅子妃殿下の傍らでいつも変わりなく微笑んでおられた皇太子様の御存在があるからだと思う。
マザー・テレサは言っている。
『もし、あなたが自分自身の家族にためらいなく微笑んだ顔を見せて彼らに尽くすなら、
あなたの家庭の外の世界の人々に生かせる愛を持つことが出来るでしょう』
どのような奇麗ごとを並べようとも、隣で苦しみもがいている家族を支えることが出来ずして、外の世界の人々に''愛''をもつことが出来るだろうか。
皇太子様は、ただ微笑んで雅子妃殿下を支えてこられただけではない。
雅子妃殿下を支えることで、女の子である敬宮様を慈しみ育てることで、外界から恐ろしいほどの攻撃に遭ってこられた。
それでも、皇太子様が御家族を守られる姿勢は変わることはなかった。
この静かな強さに感嘆している。
この静かで強い''愛''がいずれ外の世界にも向けられるとき、いや既にあるその''愛''に気づく人が増えてきたとき、我々は良い方向に変わっていくと信じている。
そして、その時は近いと期待している。
ところで、5日「聖人」の列に加えられたマザー・テレサだが、その前段階である福音に認定(2003年)していたのは、当時のローマ法王ヨハネパウロ2世だ。
ヨハネパウロ二世は、「いのちの福音」で「神は小さな形のない胚芽であるときに人間を見つめ、そのような人間のうちにすでに将来の成長した姿を認めるかたです」との考えを示しておられる。それ故に(受精卵を壊して作る)ES細胞を認めなかったのに対して、山中教授が成功させたiPS細胞にバチカンは絶大なる賞賛を送ったのだが、より一般的な例としては、堕胎や受精卵の廃棄を禁じている事だろう。
「受精卵も命である」という考えは、生命の尊厳を重んじることであり、その帰結として命・性別の選別を許さないのだが、それは女性の命や働きを認めるということに繋がると思われる。この姿勢は徐々に実を結び、今年ついに※「女性聖職者復活」を検討するに至っている。
「受精卵も命である」「堕胎は許されない」というカトリック的姿勢にみられるような教義の全てが、現代の科学やライフスタイルに合致するかは議論の余地があるのかもしれないが、そのような精神が、人の生き方や科学や政治経済に生きているからこそ保たれている秩序があるのだと思う。
ご都合主義や自らを立てる欲得のために、科学の進歩を利用し政治を動かしていたのでは、いつか破綻をきたすに違いない。
愛のある夫婦として科学の進歩と共調しながらも、命の尊厳を守るために、踏み越えてはならないモノとは一線を画された皇太子ご夫妻を尊敬していると、今日この日に記しておきたい。
追記
マザー・テレサは「貧しい人とは、自分自身を不必要だと感じてしまっている人々である。」という。
貧しい、という語がもつ意味合いの理解は難しいが、自分自身を不必要だと感じてしまうことの哀しさなら、よく分かる。
だからこそ言いたい。
最も貧しく最も哀しい人間は、自分自身を不必要だと感じさせる処まで他人を追い詰めた人ではないかと、思っている。
そんな私なので、自分を棚に上げた上でいうと、悪人正機説など理解できないとも、思っている。
※「女性聖職者復活」のニュース、「復活」というところが興味深い。
現在は許されていない女性聖職者が過去には存在していたという事実は、旧弊な価値観にとらわれていたと思われがちな昔の方が、ある種の男女同権を有していたことを示している。
海の向こうのこの話、何かを思い出させるではないですか。
そう、日本にもかつておられた女性天皇の存在である。
世界も日本も変化の時、でもそれは廻りまわって、元の姿に戻るということ。
(参照、ローマ法王、女性聖職者復活を検討 委員会設置の考え http://www.asahi.com/articles/ASJ5F54KYJ5FUHBI018.html)